「なるほどです」
眼下に並んだパンを見ながら適当に返答する。
買い食いはあんまりよろしくはないのだが、しかしどうしても食欲はあるものだ。
それにあんまり甘いパンというのも普段は食べられないものだし……。
「これ一つください」
折角外出許可を取ったのだから、と買うことにした。
ところで、外出許可である。
ヤウザ士官学校に入学して何ヶ月経っただろうか?
やっとの思いで外出が認められたのである。
久しぶりに甘いパンを食べれる、と少し浮足立って公園に歩いた。
噴水の目立つ公園には人が疎らにいた。
「やあ、お嬢さん」
ふわふわの髭を蓄えた老人が、隣に腰を掛ける。
広いベンチだというのに、本当にすぐ隣だった。
「えっと、どうしましたかね」
少し戸惑ってしまった。
制服を着ているのだ。全く理由を想像できなかったのである。
「お嬢さん、この老人に恵みをくれないだろうか」
老人は手をすり合わせながら言った。
どうやら物乞いらしかった。
彼は私のパンを見ていた。
食うに困っているのならば分け与えるべきかもしれない。
ただ、私もやっと食べられる甘いパンを、そう易々と渡そうとは思えない。
「そうですね……」
困っているぞ、と見せつけるように表情を変える。
それに老人はあからさまに不機嫌になる。
「最近の奴は全く不親切なものだ。特にお前は軍学校のものだろう。だから私は嫌いなんだ。そもそもあんな現場を知らない奴が」
もごもごと老人は言葉を続けている。
あはは、と苦笑いした。
「ところであなたも軍人ですか?」
何となくそう思って問いかける。
老人は呆気にとられたような表情をして、そして胸を張った。
「如何にも。ドネプルの狼とは正に私だよ」
全く知らない二つ名に頬を掻いた。
周囲を見渡してみても、やはり内務局員は見られない。
彼の発言が真実かは計り知れなかった。
「君も知っているだろう。この国で唯一あのじゃがいもしか知らない田舎者の地を踏んだ男だよ」
老人はやはり胸を張っている。
しかし、すぐに下を向いて文句を口にした。
これは赤軍に対する文句、あるいは他の将軍の無能を嘆くものだった。
なるほど、私は全く彼の功績を知らないが、どうやら優秀な自覚のある人の様だ。
ふと思い立って会話を続けることにした。
「前の大戦ですかね? 私あんまり学がなくって」
「そうだとも。私はかのツァーリとも面識があったのだよ。期待して貰っていたのだがね。私は嫉妬を受けていたに違いないのだ。でなければ打通など容易かった」
どうにもこの言葉が真実かは分からなかった。
真偽の有無を問わず、反革命的なのだがこの種の老人は逮捕したところで面倒になる。
ただの妄執に囚われたこれらは大抵、何の身寄りもないものだ。
そして、変にこれらを極東に送っても無駄な仕事が増えるばかり。しかし政治犯として逮捕するのもやはり無駄だ。
これは全く掃除すべき汚れに違いないのだが、いずれ埋もれるこれを先んじて掃除するべき理由もない。
あるいはもっと言うと、妄執に囚われたままにどうせ彼は何もできそうにない。
「ところでだ。今君らはどんなことをやっているのか? まだ馬には乗っているか。私はだね、馬が上手かったのだよ。あの駿馬を乗りこなせたのは私ばかりだよ。あれも時のツァーリから下賜されたものでね。帝軍学校の一番の思い出だよ」
「軍学校に通っていたんですか?」
どうやら彼は貴族の血を引いてる気がした。
昔、党の指示で何人かそういった人を逮捕したことがあるのだが、どれもがかなり独特な人物だった。
端的に言えば倒錯的な人らだった。死体を愛する理由が私には分からない。
しかし、何やら魔法ばかりは出来たらしい。
「勿論だとも。士官になるために当然あそこを出た」
「それじゃあ、魔法は出来ますかね?」
老人は興奮が冷めた様子で首を横に振った。
その目は冷めきっていた。
「魔法が戦争の華の時代は、私よりも随分と昔のことだ。ジェールの田舎者どもが、国を統一するのにも使っていない」
「そうですか」
少し肩を落とした。
偶然の巡り合わせで対格差を覆す手段を手に入れることができたものだと思っていた。
「私の時代で教えられてたのは目くらましくらいだ。全く卑怯で私は使ったことがないのだがね」
「目くらまし、ですか?」
……人間は予想外にどの程度対応が遅れるものだろうか?
……なるほど。いい考えが浮かんだ。
全く便利な魔法があったものだ。
*
ところで、ドネプルの狼と名乗った老人は、一応上に報告を挙げておいた。
それからしばらくして、簡単に顛末を聞いた。
どうやら酒に酔ってヤウザ川で溺死をしたらしい。
この一連において、まあ全く勘は鈍ってないことは確かだった。
あの老人が残したのは溺死の記録と、少しばかりの魔法だけである。
……しかし、全く妄執とは恐ろしいものだ。
栄華に囚われた老人であるとか。
……あるいは帝政名残の貴族だ。彼らは彼らの皇女に昏い欲望を抱いていた。
この妄執こそが彼らに彼女の死体を愛させたのだろう。
ああ、全く理解が出来ないものだ。