「君、名前は何というのかね?」
初老が似合わない口髭を撫でて問いかけてきた。
彼は先程から一貫して手元の書類を眺めている。
「アンナ・ヴロンスキー国家保安少尉です」
「なるほど。君の話はよくカレーニンから聞いているよ」
彼は書類を綴じると、たばこに火を点けた。
口に含んだ紫煙をこちらへと吹きかけてくる。
少し臭いが鼻についた。
「さて、君は私のことを知っているかね」
「勿論です、同志。いまより小さい頃から新聞やポスターなどで見ていました」
「そうか、随分と知れ渡ったものだな」
再び煙草を口にくわえた男の名前は、ヤーコフ・ヴァレンティノフ、党書記長であり、そして国家そのものと言っても良い。
朕は国家なり、という言葉があるが、まさに彼こそがこの国家そのものだった。
「茶でも入れてはくれないかね。君は随分と上手いと聞いている」
「承知いたしました。すぐに」
どうして私が彼と対談しているのかと言えば、正直なところその理由は分からなかった。
カレーニンさんに党本部に連れられたと思えば、ヴァレンティノフさんと顔を会わせることになったのである。
そして、これ幸いと言った様子で、カレーニンさんは私を置いてまた別の仕事に行ってしまった。
うわー、恐ろしい!
心中そのように嘆いたところで、やはり現実は変わらない。
私はあんまり権力者と関わるのが得意ではないのだ。
慰めてくれるのは記憶の彼ばかりである。
「お待たせしました」
急いで準備を進めて、ヴァレンティノフさんの前にカップを置いた。
彼はそれを一瞥すると、私に目を向けて言う。
「これを飲め」
「私が、ですか?」
「ああ、その通りだとも」
「承知しました」
……暗殺対策だろうか? 私は彼の前でこれを淹れたというのに、全く用心深いものだ。
……彼の偏屈症がおそらくそうさせるのだろう。
落とさないように気を付けつつも口をつけた。
そして、ソーサーに戻した。
彼、ヴァレンティノフさんと目があう。
「さて、君はその茶をどう思うかね」
「高いお茶だと思いました。あんまり茶葉にたいする造形はありませんが」
「そうか、実際それは外の方から輸入していてね。君たち内務局にも手伝いを貰っているのだよ」
「……我々ですか」
「私の飲むものに万が一が起こり得る。これが君は何を意味するか分かるかね?」
「何を意味するのでしょうか」
「民族的崩壊だ。この国に私は必要不可欠なのだよ」
何とも傲慢な話である。
彼は国家のようなものだが、しかしこれは彼が国家であることを意味しない。
仮に彼が死んだところで、次の指導者が現れることだろう。
いずれにせよ、崩壊はさせないとも。
我々も、内務局も舐められたものだ。
「ところで君、君から見てカレーニンはどんな人間かね」
「天才です。他に類を見ない、内務局にとって必要不可欠な存在です」
「それでは今の局長はどうかね」
「彼は……これは内密な話でしょうか?」
「……それは私の判断による」
「そうですか。すると、彼は全くの無能です。司法を腐敗させる、忌むべき、人民の敵です」
この間に、できる限り目線を泳がせないことにした。
悩みというのは、他者の礼賛にも信用の毀損にも、どちらにとっても全く必要のない感情だ。
これは情報の精度を疑わせる。
「私はだね、同志ベズノフの仕事についてはある一定の評価をしている。彼は進んで仕事をしてくれるのでね」
置かれた紅茶を手に取った。
ある程度ぬるくなったであろうそれはソーサーにぶちまけられる。
「しかしだね、同時に彼の保身には私にとって、いや我々にとって全くの害であった。そして、忘れてはならない事実がある。彼は反革命なのだよ」
「……反革命ですか」
「彼は人民の敵を匿う、忌むべき敵であるのだ。汚れた血の流れる貴族趣味、国家最低のテロリストだ」
彼は罵りの声を挙げ続けて、最終的に言ったことは全くシンプルなことだった。
単に「殺せ」という一言である。
そして、これは妄言にはならないだろう。なんたって、彼はまさに国家なのだから。