やはり高いところで煌めく満月に、ぱっと手を伸ばした。
仮に、あれに手が届くのならば、きっと私はすぐさまに握りつぶしている。
……高揚のためだった。
私には嫌いな人が幾つかいる。
例えば、大通りの端っこにある床屋さんは嫌いだ。
彼は時々つまらない冗談を、真剣そのもので口にする。
例えば、古くからの同僚は嫌いだ。
彼らは私を少し侮っているところがある。
簡単に御せると思われるのは癪だった。
そして、ベズノフはその性根から嫌いな、嫌悪している、あるいは恐れている男であった。
しかし私は汚点を、その汚点こそを排除できるのだ。いま、この時にこそ。
一つ大きな声で笑ってしまおう。
そう思ったのだが、これを嗜めたのは記憶の奥の彼だった。
彼によると、はしたないということらしい。
……。確かに我ながら恥ずかしいようにも思える。
興奮をしすぎたのかもしれない。
冷静になろうか。
「あとで、この部屋も整理しましょうかね」
一つ呟きつつも、袖に手を通した。
窓を閉めると、埃っぽい室内に少しだけ咳をする。
幾つか昇進するだろう。どこまで上がれるかは知らないが、期待だけはしておこうか。
*
「首尾はどんなものですかね?」
現場指揮を任せた同僚に声をかけた。
彼は嫌そうに顔を顰めた。
なにか嫌われることをしただろうか?
……幾つかした記憶はあるが、ちょっとだけ仕事を増やしただけだろう。
そこまで嫌われる謂れはない。
「まあいい感じだ。あの家からは一人も出してない」
「地下通路なんかはないんです?」
「俺らの認識してる範囲ではな。っで、やっぱりあんたが出んの?」
「まあ、私に任せてくださいな。一応、私に任せられた仕事ですからね。しっかりやり遂げませんと、何とも不忠ってやつでしょう」
心にもないことを言う。
実際の所としては復讐心が三割と、純然たる楽しさが五割、あとはカレーニンさんとか昇進についてとかそのあたりだ。
クンクンと鼻を鳴らして、遠くの、じめっぽい、陰気な川の臭いが漂ってきた。
全く金があるのにこんなところに住むのは理解ができない。
私ならば、絶対に住みたいとは思わないだろう。
「さて、仕事を始めましょう」
ぱんぱんと二度手を叩いた。
大きな掃除を終わらせようか。
幸いにも生死は問われていない。
*
「ところで、これは復讐だと思いますか?」
もうちょっと悪趣味に泳がせてもよかったのだが、これは何とも趣味が悪いのでやめた。
三十分ばかり泳がせて、ちょっとした小川の辺りまで辿り着いた。
ヤウザ川。首都ヤウザの名前の由来となった小川だ。
「裏切ったな! やっぱりだ。あの男を信頼したのが間違いだった」
「いえ、あなたの間違いはそこじゃありませんよ。無能だったからです」
「ハハハ、随分なことを言うようになったじゃないか。お前みたいな思考のない人形が」
人形というようなことは時々言われることがある。
命令を待つだけの操り人形。
人を殺すだけの、単純化された機械人形だとか……。
「事実でしょう? 貴方は無能で、だからこういう結末を迎えるんですよ」
ベズノフは乾いたように笑う。
よく知った笑い方だった。
逮捕された人がする、どうしようもない笑いだった。
……滑稽だった。
笑えてきそうだった。
……いや、実際笑っていたかもしれない。
でも、しかたないよ。うん、だって面白かったのだ。
「さて、私は幾つか貴方に判断を委ねましょう。一つ、私を殺してみてくださいな。そうしたら、一瞬間に貴方は自由になれる可能性があります。もう一つは、さあここで自殺してくださいな」
たんに愉快さから始まった言葉だった。
しかし、気になったこともあった。
まあ、でも答えは分かり切っていた。
残念なことに、やっぱり彼は人間でしかなかった。
期待外れだった。もっとも期待通りに、期待外れだった。
掴みかかってきた小男に、一つ魔法というものを使ってみる。
確か彼も川で溺死したのだったろうか?
目くらましの魔法という奴だ。
「くそ、大人しくしろよ」
わめく声がどうにもうるさくって、耳を塞ぐ前に溜息が出た。
あまりに人間だった。
どうしようもない、人間的な、被害者のような、あるいは何も知らない一般人的な、……いずれにせよとるに足らない人間だった。
彼が新しい選択肢を見つけ出す可能性は期待しなかった。
ただ、彼がその命を自らの手で失うことは少し期待した。
彼が、この内務局の、その局長らしい、内務局的な機械であることを期待した。
「お前は、いや! お前らは後悔することになる。私はこの組織に、この国に必要不可欠だ。綻びが生まれる。そして、お前が、お前らが切り捨てられるんだ。その時に知るだろう! 私が、私こそが! この国そのものだったと!」
ヴァレンティノフさんに似た厄介な、そして傲慢の過ぎる言葉だった。
嘲笑。
まさに嘲りだろう。
小さな引き金を引いた。
*
暫く経ったことで、幾つか昇進をしたのだ!
国家保安少佐である! 佐官ですよ、佐官!
……もちろんコネである。
国家保安総委員に昇進したカレーニンさんが口をきいてくれたのだ!
現職のトップとのコネはやっぱり素晴らしいものだ。
というよりも、カレーニンさんが凄いのだ! 万歳!
さて、少佐になったということであるが、一応立場も少し変わることになった。
秘密政治部第三部長、ようは秘密警察の三番手である。
ようやく努力が実ったともいえるが、しかしこれからも頑張る必要が出たともいえるだろう。
カレーニンさんの期待に、成果で返さねばならないのだ。