ウーン ディストピア
『――おはよう、ジオ・TOKYO!
今日も最高に『幸せ』な一日が始まったよ!』
耳元で、弾けるような合成音声が響いた。
網膜に投影された視覚インターフェースの中
ジオ・TOKYOのマスコット『けんご君』が、
不自然なほど白い歯を見せて笑っている。
[ジオ・TOKYO、学園セクター男性寮舎]
「……ん、ああ。おはよう、けんご君」
隣の寝台から、眠そうな、でも穏やかな声が
返ってきた。
同室者のエトだ。
彼は俺より少しだけ早く起き上がり、
寝癖のついた頭をかきながら、網膜ディスプレイ
に映る今日の幸福予報を眺めている。
「セブ、見てよ。今日の僕の幸福指数
寝起きで『82%』だって。昨日
レクリエーションが効いてるのかな」
「ああ、エト。お前はいつも安定してるな。
俺は今『75%』だ。……さあ、行こうぜ。
遅れるとグラフが下がる」
俺たちは手際よく身支度を整え、肩を並べて
食堂へと向かった。
白い廊下を歩く俺たちの足音は、他の生徒たちの
それと完全に同調している。
エトは時折、廊下の窓から見える偽物の青空を
眩しそうに見上げ、小さく微笑んでいた。
その横顔は、この世界の「正解」そのものに見えた。
食堂に着き、俺たちは並んで用意された
朝食を手にする。
そこにあるのは無味無臭の、グレーの
栄養ペーストを固めたブロックに過ぎない。
だが、首筋に貼られた味覚コントロール・パッチが
「旨味」の電気信号を神経に叩き込む。
「……美味い」
エトが隣で、幸せそうに喉を鳴らす。
喉を通る感触は粘土のようだが、脳だけが
狂ったように歓喜の声を上げている。
俺の『朝食満足度』が、左腕のデバイスに
鮮やかな緑色のグラフで表示された。
『P.A.C.T.(Personal Assistance & Control Terminal)』
全国民の左腕に埋め込まれた、この都市で
最も重要な「命の証」だ。
脳内のナノマシンと連動し、心拍、バイタル
そして感情の揺らぎまでをリアルタイムで
監視・数値化する。
アマテラスはこの端末を通じて、俺たちが常に
「最適で幸福な状態」であるよう、神経系に
微弱なパルスを送って調整し続けているのだ。
『Unit A-17、君の今の幸福指数は「88%」!
社会全体の平均を上回っているね! 素晴らしい貢献だ!』
網膜ディスプレイの中で、けんご君が拍手をする。
エトのP.A.C.T.からも、小さなファンファーレが聞こえた。
俺は端末のホログラムを操作して、今日の
ニュースを網膜に表示する。
エトもそれを見ながら、時折「へぇ、すごいね」
と相槌を打つ。
この地下都市において、個人の欲望は社会の
不純物(エラー)と見なされる。
すべてのリソース、すべての時間、そして
すべての「命」は、『総幸福量最大化原則』
という巨大な数式に捧げられる。
一人の飛び抜けた幸せより、百万人の平均的な満足を。
かつて、地上が核の炎に包まれた日。
選ばれた俺たちの先祖は、この「聖域」へと導かれた。
統制AI『アマテラス』が管理する、完璧な揺籠。
ここでは飢えも、寒さも、理不尽な暴力も存在しない。
17歳までの「情動育成期」を、俺たちは何不自由なく
ただ「幸せ」であることだけを求められて過ごす。
『見て! 今朝の「専門」セクターからのニュースだよ!
新しい合成肉の開発に成功したんだ。
これで来月の栄養ブロックのカロリーは0.6%上昇だね!』
網膜に、笑顔で働く労働者たちの映像が流れる。
エトは「あと1年だね」と、俺の肩を軽く叩いた。
「18歳になったら、僕もあそこで働きたいな。
誰かの幸せの役に立てるなんて、最高じゃないか」
誰もが、自分が社会という巨大な生命体の
「一部」であることに、抗いがたい誇りと
喜びを感じている。
18歳になれば、誰もが「成人認証」を受け、
労働者、執行者、専門者……あるいは最も
名誉ある『奉仕者』として、この完璧な社会の礎になれる。
それこそが、国民としての最大の栄誉であり、17年間の
「自由」を与えてくれたアマテラス様への恩返しなのだ。
部屋に戻りながら、今日をどう過ごすか考える。
エトは「午後の講義、楽しみだね」と、
いつものように屈託のない笑顔を見せていた。
『さあ、今日も一日、みんなのために、
自分のために、最高に笑おう! アマテラス様は
いつも君を見守っているよ!』
けんご君の声に合わせて、俺は鏡の中の自分に
向かって、教えられた通りの「幸福な笑顔」を作った。
隣でエトも、鏡の中の自分に笑いかけている。
この世界は、完璧だ。
この幸せが、永遠に続く。
……あの日、俺のすぐ隣を歩いていたエトが
倒れるまで、俺も本気でそう信じていたんだ。
「アメリカのVaultは狂った実験場だったが、
日本のジオ・TOKYOは……狂ったほどに完璧な飼育場だった。」