だが、返ってきたのは静寂だけだった。
そこにあるのは、シーツ一つ乱れていない、
無機質なほど整えられた「空」の寝台。
嫌な汗が背中を伝う。震える手でエトの枕の
下を弄ると、そこにはデジタルデータではない
時代遅れの「紙」が残されていた。
[ごめん、セブ。僕のために動いてくれてる
のはわかってた。でも、僕のP.A.C.T.が鳴り止まないんだ。
「君がいるとセブの幸福度が下がる。エラーになる」って。
僕のせいで、セブが幸せになれないなんて嫌だと思ったんだ。
僕が奉仕すれば、セブは幸せになれる。監督官もそう言ってた。
でも、奉仕者になると決めたのは僕の「決断」で、
君の幸せを願う僕の「意思」なんだ。
だから
……さよなら。本物の幸せを見つけてね。]
「……ああ、あああああああ!!」
俺は薬の瓶を床に叩きつけ、泣き崩れた。
砕け散ったガラスとともに、青い液体が
エトのいない冷たい床に虚しく広がっていく。
俺が命を懸けて奪ってきた「希望」は、
彼が「俺を守るため」に下した決断によって
「絶望」へと変わった。
ふと、左腕の重みに意識が戻る。
ツクヨミが網膜に警告を走らせていた。
『セブ、感知。寮の巡回ドローンがこの部屋
接近中。悲鳴と心拍数の異常を検知されました。
……直ちに偽装シークエンスへ移行します』
ツクヨミの外殻に仕込まれた光学迷彩素子が
微細に振動し、周囲の風景を透過させる。
無骨な金属の塊は、まるで幻影のように俺の腕から
「消え失せた」物理的な質量はそこにあるが
視覚的には完全に隠蔽されたのだ。
同時に、正規P.A.C.T.の上から、ツクヨミが俺の
網膜ディスプレイ(AR)へ「標準的な端末」
の映像を重ね書きする。
外部ドローンからの視覚スキャンに対しては光学迷彩で、
俺自身の視覚に対しては拡張ARで、あたかも
正規のP.A.C.T.だけを装着しているかのような
完璧な死角を作り出したのだ。
さらに、脳内に正規P.A.C.T.特有の、あの不自然に
心地よい「鎮静」のパルスが送り込まれる。
ツクヨミがアマテラスの信号をハッキングし
俺の絶望を「深い悲しみによる一時的な情動の昂ぶり」
という、システムが許容する範囲内のデータへと書き換えていく。
翌朝。世界は何事もなかったかのように動き出した。
『――おはよう、ジオ・TOKYO!
今日も最高に『幸せ』な一日が始まったよ!』
網膜に映る『けんご君』の笑顔は、昨日よりも
白々しく、悍ましい。
「Unit A-17。監督官室へ来なさい」
スピーカーから流れる、あの穏やかで冷徹な声。
重厚な扉の向こう、監督官は優雅に合成茶を啜りながら
バイザー越しの視線を俺に向けた。
「昨夜、君は持ち場を離れたね。同室者として
A-18の最期を見届ける『義務』を放棄した」
「……あいつは、なんて言ったんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
監督官は満足げに頷き、アマテラスのログを空中に投影する。
「彼は最期まで、君の幸せを願っていたよ。
承認ボタンを押す瞬間の彼の幸福度は、なんと
98%に達した。君という不純物を切り離し、
社会の礎になれる喜びに震えていた。
……素晴らしい『奉仕』だった。
君がしたことは無駄になったな」
「……喜び? 礎?」
あいつは、あんなに震えていた。
それを「幸福」と数値化し、処理した。
俺の中で、どす黒い感情がせり上がる。
同時に、一つの疑問が口を突いて出た。
「無駄だった...監督官は俺が何をしたか知ってるのか」
監督官は、慈父のような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「一つ指導しよう。『思ったことをすぐに
発言しない方が良い』...まぁそれも若さか
君のP.A.C.T.からは何の異常ログも出ていない。
アマテラス様の目には、君はただ『友の死に動揺
した哀れな少年』としか映っていないよ。」
ツクヨミの偽装のおかげか。一瞬の安堵。
だが、監督官の次の言葉がその希望を打ち砕いた。
「……だが、私の目は誤魔化せない。
君の昨夜の一時的なバイタル異常、そして専門
セクターで起きた不可解な備品紛失…… 。
さて、君は何を盗み、どこへ隠したのかな?」
監督官はバイザーを外し、その暗く深い目を俺に向けてきた。
「…………」
「まあ、いい。追求はしない。アマテラス様は、
17歳までの君たちの『幸福』を最大限に尊重している。
昨夜、君が犯したかもしれない『無謀な冒険』。
その瞬間の君の情動は、平坦な日常では得られ
ないほど激しく、君自身の幸福指数を一時的に
跳ね上げたはずだ。...ログには残っていないがね。」
そう言って監督官はバイザーを付け立ち上がった。
「……なんだって?」
「たとえ法を犯そうとも、それが君の心を震わせ、
より熟した『情動』を育むのであれば、
それは素晴らしい『成果』だ。実に見事なスパイスだ。
18歳の成人認証が楽しみだよ。」
監督官の手が、俺の肩を優しく叩く。
監督官は、俺がツクヨミを使い、アマテラスの
監視を潜り抜けたことさえ、「若者の身勝手な非行」
という枠に当てはめて、余裕たっぷりに楽しんでいるのだ。
「……ええ。よくわかりました、監督官」
俺は、教えられた通りの「幸福な笑顔」を作った。
アマテラスも、この監督官も、まだ何も見えていない。
成人認証まで、あと半年。
俺は完璧な国民を演じ、最も熟した
「幸福」を差し出すふりをして
――その喉元に、このガラクタ(牙)を突き立ててやる。