◇
少女は夜更けに目を覚ます。眠ってばっかりのこの身体は、目覚める時間が不規則で嫌になる。透明な白いカーテンを開けようと身体を起こそうとするが、どうにも力が入らない。どうせなら、お月様が見たかったな。そう思っても、身体は思うように動かすことができなかった。
しかし、その思いに応えるかのように独りでにカーテンが揺れ始め、隙間から月の光が差し込んだ。
「わぁ……」
幻想的な光景に少女は目を奪われる。カーテンが開いて、月の光がさらに大きくなっていく。少女の瞳の中に、真ん丸なお月様が映し出された。夜の静かな闇を照らすかのように、お月様は少女の心の闇を晴らしてくれたようだ。
「気に入ったか?」
月と少女の対話の時間に割り込んでくる者がいた。そちらに目をやると、自分と同じくらいの身長の黒い仮面をつけた子供がいた。少女は怖がることなく、キラキラと目を輝かせながら勇敢にも子供に問いかけた。
「貴方が開けてくれたの?」
「そう、俺の力でな」
「ありがとう! 魔法使いさん!」
少女はそこまで口にしたところで、ようやく目覚めたばかりの思考が回り始めた。魔法使いがこんな辺鄙な所にやってくるとは思えない。だとすると、パパが前に教えてくれた怖い存在なのかもしれない。勇気ある少女は、再び問いかけた。
「もしかして、魔法使いじゃなくて死神さん?」
「違う、その逆だ。俺はお医者様だ」
「え、私の病気治してくれるの!」
少女の声が期待で大きくなると、仮面の子供は人差し指を口元に持ってきて静かにするように言った。疲れ果てている両親を起こさないように、と囁かれれば少女は頷いて口を閉ざした。少女がこんなに大きな声を出したのは久しぶりかもしれない。
お医者様を自称した仮面の子供は、ベッドの傍に近づいて少女に囁いた。
「目を閉じてゆっくり10秒数えろ、多少痛むかもしれないが我慢しろよ」
「そうしたら元気になれる?」
「あぁ、お日様の下で駆け回れるぞ」
「じゃあ我慢する!」
少女にとって仮面の子供がどんな存在かは気にしなかった。何故ならその言葉に嘘を感じなかったからだ。出会ったばかりだというのに、子供は父親のような温かさを感じ取っていた。
素直に目を閉じて、わざとらしくゆっくり数え始めた。まだ元気だった幼い自分が、同年代の子供達とかくれんぼをする時のように。
「いーち、にーい」
目を閉じていても、何かが蠢く気配は分かった。
肌寒さを感じたと思ったら、夜の闇よりも暗い霧に包まれて腹部に鈍痛が走る。注射に刺された時のような痛みをグッとこらえ、さーん、しーいと続きを数えた。
ごーお、ろーくと喋り終わった時、先程の鈍痛が綺麗さっぱり消え失せているのに気づいた。なーな、はーちと続けば今度は全身を青い光が包み込み、溢れ出る充足感に満たされる。やがてその光も段々消えていき、きゅう、じゅう!と元気よく呟いて少女は目を開けた。
「おう、終わったぞ」
「ほんと……?」
「動かしてみろ」
右手を視界の前に持っていき、握ったり開いたりを繰り返す。自分の思い通りに動く身体が信じられなくて、大きく目を見開いた。少女を蝕んでいた病は綺麗さっぱりいなくなっていたのだ。
「今すぐ起き上がるなよ、今日はゆっくり眠って母親か父親に起こされるのを待て。出来るか?」
「うん、出来るよ」
「じゃあ、俺は帰るぞ」
「待って」
健康状態を確認した仮面の子供が足早に帰ろうとすると、上半身を起き上がらせ右手を掴んだ。いきなり動いたせいで身体が驚いたように軽く咳き込んだ。驚いた子供は眠らせようとしてくるが、大丈夫と言って少女は制止した。
「最後に一つだけお願いしていい?」
「難しいのは出来ないぞ」
「仮面を外して顔を見せてほしいの。面と向かってお礼を言えないのは嫌だ」
「……」
仮面の子供は暫く考え込み、ポツリと呟いた。
「仮面の裏にいたのが、化け物だったとしてもか」
「うん、だって助けてくれたのには変わりないから。おじいちゃん……パパのパパにも自慢したいの。優しい人が助けてくれたんだって」
仮面の子供はその言葉に呆気にとられたようだった。そして、仮面の裏で薄く笑った気配を少女は感じ取る。黒い画面をそっと外して、少女の瞳を真っ直ぐ見つめる。
少女の予想に反して、美しい紅い瞳が彼女を魅了した。月の光だけで照らされた暗闇の中で、紅い瞳は生き生きと輝いているように見えた。どんな赤い果物よりも、その瞳は綺麗だと思った。
「俺の名前はエミルス。これは、俺とお前だけの秘密にしろよ」
――約束を破ったらお前の心臓を食べに来るかもしれないからな。
エミルスと名乗った存在は、悪魔、吸血鬼、それとも死神? 少女にとってはどうでもいい問題だった。暗闇の中にエミルスと名乗った子供が溶け込んでいった後でも、少女――スミレの脳内にはエミルスの紅い瞳が焼き付いて離れないのだった。
翌日、スミレの体調が回復して太陽の下を歩けるようになったのを遠目で確認しながら、エミルスはその場を離れた。スミレの身体をしっかり抱きしめ、涙を流すスロウドと同じく涙を流すグラゴの姿を見てエミルスの心は確かに温かくなった。
◆
「リムルに呼ばれたから帰る」
「……分かりました。ちなみに、帰る時はどうするおつもりで?」
「教える義理はないな」
フューズに報告した後、仮面を付け直して執務室を出る。最後まで我儘放題だった俺の所業に、後ろで溜息を吐く気配がした。ある程度召喚の記録は漁れたから当初の目標は達成しただろう。さっさと『鏡像者』で帰ろう。
急いでいたせいで
人気のない路地裏に移動して、『水操作』で水溜まりを生み出す。もう一度、『魔力感知』も併用して念入りに確認しつつスキルを発動した。
水面にワープポータルを作り出してブルムンド王国を後にする。一度触れたことがある鏡面なら何処でも転移することができる。つまり、ブルムンド王国も何時でも戻ってこれるようになったからな。
近いうちにまた来るかもしれないし、堅苦しい挨拶は要らなかった。
ブルムンド王国の短い旅は区切りがついたのだった。
バレないように自分のテントの鏡に戻ってきたはずだが、様子がおかしい。何やらリムルの執務室的な場所に移動されているような気がする。鏡面転移の弱点として、記録した鏡面があるモノが壊されたら移動できない点と、そもそも物体自体が移動されている可能性があるという点が存在する。
今回は後者で、俺のテントにあったはずの鏡はリムルとシオンとシュナが待ち構えるトラップダンジョンに早変わりしていたのだ。
「……」
もう一度鏡面転移を使おうとすると、リムルの素早い『粘鋼糸』によって鏡の中から引きずり出される。クソッ、中途半端に身体を出していたのが仇になっちまった。
「おかえりエミルス、休暇は楽しめたか?」
「……まぁ、それなりに」
「そうか、ところでシオンがここ1ヶ月頑張ってエミルスのためにお茶を練習していたようだから食べてやってくれないか?」
「はい、渾身の出来ですよ!」
シオンの手元を見れば、何コップの上からブクブクと紫色の煙が吹き出ているおぞましい光景を目撃した。例えるなら、腐敗した食材が変化して毒物になったような見た目だ。地獄に落ちた罪人でもこんなの見ねぇだろ。
というか、なんで休暇に言ったぐらいでこんなにコイツらは怒ってるんだ?
疑問に思った俺は抗議する。
「何怒ってるんだよ。別に俺がいようがいまいが関係ないだろ。俺達の関係は
「それなんだけどさ、もうそろそろやめにしないか」
「……あぁ、そうか」
俺はお役御免か。まぁそうだろうな。ジュラの森大同盟によって事実上この森全てを管理する権限を持っているお前が、俺に利を見出す意味が無い。もし俺が裏切ったとしても、リムルのお仲間どもに囲まれでもしたら勝てるかどうか怪しいしな。
やはり、予想通りここが限界だったか。
「分かった、ゴブタやランガ達によろしく言っといてくれ」
「ちげぇよ! なんでこういう時だけ鈍いんだよ」
「何が違うんだよ。利害の一致じゃなかったら、お前は俺と組むメリットなんてねぇだろ」
俺がそう言えば、リムルは珍しく傷ついた顔をしてこちらを見た。間違ったことは言っていないはずだ。最初から、俺とお前が出会った時からこれが正しかった。今更異を唱えるなんて、どんな心境の変化だ。
「エミルス様」とシュナがリムルの代わりに俺へ問いかけてきた。
「私達は、仲間じゃないんですか?」
仲間……? そうか、コイツらの頭が平和ボケしていることをすっかり忘れてたな。
俺とお前達の関係は、互いに利用して利用されるだけの薄っぺらいものだとずっと言っているだろう。
それに、俺の仲間は……
――お前達のせいで、消えちまったじゃないか。
ぶつけるべき存在は、ここにいないと分かっている。それでも、ずっとずっと心の中に巣食うどす黒いものが暴れたくて仕方がねぇと叫んでやがる。俺達の関係も終わりと言うならば、ぶつけたって文句は出ないだろう。
だから俺は、リムルとその仲間達に抑えつけていた本音を言い放ってやった。
「あぁ、そうだよ。今までも、そしてこれからも俺はお前達の仲間じゃねぇ」
言葉を発した途端、リムルの傍にいたシオンが剛力丸を構えながら警告する。
「一旦冷静になれ、エミルス。その言葉、捉え方次第では主の反逆と見做すぞ」
俺は元々リムルの下にいたつもりはねぇんだけどな。
『暴食者』でリムルの糸を喰らって拘束を振り払った後、見せしめのために『血液操作』でシュナとシオンの身体を拘束する。奇しくも、お前達と戦った時とやり方が似ているな。振り払おうとシオンが動くが、『威圧』を発動させて動くことを許さない。そして全てを見ていたリムルは、椅子から立ち上がって俺を睨みつけた。魔王種を手に入れたリムルの威圧は、僅かに俺の身体を震わせる。
「本気で言ってるのか?」
「嘘だと思ってんなら、ずいぶんと都合のいい頭してるぜ」
「……『
シオンとシュナを縛り付ける糸を喰らおうとして、リムルがスキルを発動する。同じく『暴食者』を発動させて、リムルのスキルとぶつからせれば相互消滅に至った。どうやら、能力に差はあれど威力は同じらしい。これは予想外の収穫だ。
「ほら、かかってこいよ。お得意の『大賢者』にでも聞いてみたらどうだ? 俺の倒し方をさ」
「本当に、戦うしかないのか?」
「魔物に共通する絶対のルールは弱肉強食。思えば、俺達は一度も本気で戦ったことはなかったじゃねぇか。しかも、この姿を手に入れてからはそもそも戦ってすらない。俺を本当に従わせたいなら、本気の俺に勝ってから言えよ」
「……分かった。でもここじゃ狭すぎるから移動しないか?」
「同感だ。本気を出すならもっと広い場所がいい」
指を鳴らし、シオンとシュナを縛っていた血液の糸を消滅させる。シオンは苛立った表情を隠そうともせず俺に剛力丸の切先を見せながら、リムルに進言する。
「リムル様、私がエミルスを倒してみせます!」
「いや、お前じゃエミルスに勝てない。それに、俺が倒さないとコイツは納得しないだろう」
「よく分かってんじゃねぇか」
「だけど、1つだけ分からないことがある」
リムルは俺を一瞥して小さく呟いた。
「お前、何を恐れてるんだ?」
……さぁな、自分でもよく分からない。
分かることは、存在を否定されなかった側が、否定された方を慮るその無意識の傲慢が憎いということだけ。だからお前は俺が元の世界に帰るその日まで、俺を利用し俺に利用されればそれでいい。俺にとってこの偽物の世界は、生まれてからずっと居心地が悪くて仕方が無かった。
その鬱憤が、僅かにでも発散できたらそれでいい。勝てないと分かっていても、どうしても藻掻いてしまうのは俺が鏡像体だから、それとも――。
あの少女の笑みが俺の脳裏に過る。そいつの笑みは確かに、シンシヤと似ていた。