二年、という年月は長すぎた。
エミルスという鏡像体の考えを変える、充分すぎるほど長い年月だった。
◇
その朝、エミルスはまた夢を見た。
以前よりもはっきりとした景色だ。
遠くで黒く巨大なシルエットが姿を現したのが見える。竜が雄叫びを上げたと同時に、人間は言葉通りの塵と化した。黒く変色した狼の群れが死体を漁っている。血生臭い匂いが、狼の口にべっとり纏わりついていた。悪魔の誘惑に乗った人間が、半狂乱で自分の首を掻き切っている。一人、また一人と死を捧げて主の再誕を彩った。
人間達が我先にとこの国から逃げ出そうとする。火の粉が暴風に吹かれて舞い上がり、逃げ惑う人間に着火した。
業火に焼かれたゴミの煩わしい悲鳴と、蔓延する死臭。死体が焼かれたことで感じる独特な臭いが吐き気を誘う。
黒煙が立ち上り、空は灰色の雲に覆われている。不幸にも、周りは炎によって照らされて視界は良好だった。だからこそ、エミルスはこの光景を目を逸らさず見つめてることしかできない。
もし地獄があるとすれば、ここは生き地獄だ。
地獄で鬼が人間どもに裁きを与えている、そんな光景なのだろう。
積み上がる死体の山に誰かが座っている。
灰色にくすんだ銀髪が靡いている。黒く見えていたマントは、返り血が乾いて黒く染められたものだった。
前に見た悪夢では、死体で飾られた道の先に自分自身がいた。見覚えの無い記憶に困惑していたが、どうやら今回は『主役』が違うらしい。
エミルスが自分の姿を見ると、半透明で淡く光っている事に気づいた。周りの地獄から隔絶されているかのような感覚だ。
エミルスは前に踏み出し、その『主役』を睨みつける。
「お前は、誰だ?」
その声が届いていたのか、届いていないのか。
青髪はゆっくり振り返る。突然、暴風がエミルスを正面から吹き荒れる。猛々しい怒りがエミルスの身体を襲い、目を開けていられないほどの暴風が、エミルスをじりじり後退させていく。
こうなったら意地でもその顔拝んでやる。執念にも似た負けず嫌いから、エミルスは確固たる決意で目の前を睨みつける。足に力を込めて、ただその存在を視界に映すことを願った。
「————く、」
風の騒音と炎の轟音に埋めつくされる中、小さな声を拾う。
その声はあまりにも弱々しいものだったが、その言葉に込められた言霊は真っすぐだ。
「————」
まるでそれは、神に祈るかのような。
ただ、何かを切望する声音だった。
最後にエミルスが見た景色は、泥濘に淀む黄金の瞳。
息をするのを忘れ、ただ湧き出た言葉を形にしようとして。
そこで、意識がふっと落ちる。
◇
呼ぶ声が聞こえる。
「……ルス様」
真っ暗な空間から、意識がゆっくり浮上する。
先程とは違い、心地よい温かさを感じながら瞼を開いた。
ここは、執務室か?
状況を確認する為に身体を起こすと、視界に飛び込んできたのは真っ赤な服装だ。
「エミルス様、起きてください」
「……しばらく、お前の顔は見たくなかった」
「なっ……」
目の前にいたのは炎を操る鬼である。
炎から想起して、あの臭いを思い出してしまった。寝覚めが悪いにも程がある。
正直一番最初に見たくなかった。ベニマルには悪いが。
手で払う動作をすれば、俺の言葉に絶句してしまったベニマルをシュナが部屋の端っこに連れていく。慰めているのが視界の端に映った。
「どうしたんですか? エミルス」
不思議に思ったシオンが問いかけてくる。
「ちょっと、いや大分寝覚めが悪かっただけだ……」
「もしやベニマルがエミルスに対して暴言を? それは処罰対象ですね!」
「そんなわけあるか!!」
てか、夢の中の事で恨むような真似するかよ。
どんだけ心が狭いヤツだと思われてんだ。そう心の中で愚痴りつつ、先ほどの光景を振り返る。
以前よりも明確な悪夢。
炎で焼けそうな脳と、灼熱に晒された肌。
あまりにリアルすぎてあの光景が焼き付いて離れない。まるで呪いのようだ。
最後に見たあの存在。暴風に邪魔されて顔はほとんど見えなかったが、あの姿は、アイツは、恐らく……
「エミルス様、ご報告がございます」
俺の思考を遮り、感情の起伏が乏しい鬼の声が響く。
ソウエイは音もなく俺の傍にいた。隣にはソーカもいる。
「なんだ」
「完全武装の人間の集団が、この町に近づいています」
「ファルムス王国の騎士団であると推測されます。その数およそ100名」
「ファルムス王国……?」
ガゼル王が言っていた、いけ好かない王がいる国か。
このタイミング。しかも、リムルがいないこのタイミングでか。
ソーカが更に言葉を加える。
「ファルムスでは、戦争の準備が行われているもようです」
「戦争だと?」
戦争、テンペストに対してか?
ただの人間の集団が、ネームドの魔物に勝てると本気で思っているのか?
……いや、狡い人間どもなら、きっと俺達に対して何か策を講じている可能性がある。
俺が『魔力感知』を町全体に広げると、四方八方に陣を展開している集団を発見する。見た目からして、教会の奴等が何か仕掛けようとしているのか。
嫌な予感がする。じわじわと絞殺されるような苦痛が全身を這い回る。
冷静な判断を奪い、短絡的な思考が頭を巡る。
アイツの帰国を待っていたら、ダメだ。
すぐに連絡しないと。
俺は
「応答……す、応答願います」
その時、机の水晶玉から声が響いた。
————
ミュウランは魔王クレイマンの命令により、その日を待ち望む。全ては愛しい男を守る為に。但しそれはクレイマンに利用されるばかりであった。
(この願いが叶うならば、私は悪魔にでも魂を売るでしょう)
お人好しのバカな男、ヨウム。
ミュウランは彼に惚れてしまったのだから。
一方で、ファルムス王国は西方聖教会の大義名分を持って、テンペストに進軍する。全てはファルムス王国の更なる発展の為に。ただしそれは保身に走り、欲望に塗れた薄汚れた思想であった。
「この戦は、聖戦である!」
エドマリス王の号令の元、先遣隊が派遣される。
そして、〝呪言〟の力で無理やり服従させられていた異世界人達も、その先遣隊に加わった。
自分達の力を過信していた彼等彼女等は、ストレス発散、もしくは自分の自由の為に動き出す。
低脳な魔物だと、自分達の相手にならない。慢心を抱いたまま戦場へ身を投じる。
二つの邪悪な意思が偶然に、もしくは必然的に絡み合い、
「きゃあ~~! ア……アンタ、今、ウチのお尻を触ったっしょ? もしあかしてウチを襲おうとしたわけ?」
「おっ、オラは何もしてないだすよ!」
ファルムス王国の先遣隊として派遣された異世界人の一人——キララはワザと衛兵にぶつかり、騒ぎ立てる。その衛兵はゴブタ直属の配下、ゴブゾウだった。騒ぎを聞きつけて周りの人間が「なんだなんだ?」と二人を囲んでいく。
ゴブゾウは覚えのない冤罪に狼狽えてしまい、周りを見渡して挙動不審になる。それがかえって逆効果となっている。
「ちょっとしらばっくれないでほしいワケ。どういう目的でウチを襲ったのか、ちゃんと説明してほしいって言ってるの。わかる?」
キララが強引にゴブゾウに近づき、そしてワザとらしく後ろに吹き飛ばされたかのように転んだ。
「ああっ、痛~い!」
涙目になりながら、周囲を見渡すゴブゾウ。
しかし、周囲の目はホブゴブリンが女の子を襲ったと疑いの目を向けている。
それはキララのユニークスキル『
その様子を遠くから見ていた二人の異世界人が近づいてくる。
「おいおい、この町じゃ客人に暴行を働くのかよ?」
「そういう汚いマネをするのが魔物達の目的だったのか」
声高に叫び、周囲の疑心を煽る。
異世界人達が欲しがったのは、〝魔物が人間を害した〟という大義名分だ。短気な魔物が手を出してくれればそれでいい、例え謝られても上層部を引っ張り出してくれれば上々だった。
尤も、ショウゴにとってはストレス発散の為に暴れてほしいものだが。
「何すか? この騒ぎ」
そこに、暢気な顔してやってくるホブゴブリン。
ゴブタだった。彼は周囲の状況を即座に理解すると、「またなにかやらかしたっすか?ゴブゾウ」と声をかける。
ゴブゾウの額を軽く突くと、ショウゴ達に向き合って自分と一緒に頭を下げさせる。
「どうもスンマセン、よく教育しとくっすよ」
と軽い感じで言った。
「ゴブタさん、でもオラ……」
「やってないんすよね? でも、そんなの関係ないっすよ。疑われた時点で負けなんす。リムル様も『痴漢犯罪は恐ろしい』と言っておられたっすからね」
「ゴブタさんはオラを信じてくれるだすか?」
「そんなの聞かれるまでもないっすよ」
ゴブタさん一生ついていくっす~!と、異世界人達を放っておいて友情を分かち合うホブゴブリン達。彼らの様子に、周囲の人間も徐々に疑いが晴れていく。
「第一ゴブゾウの狙いはシオンさんなんすから、アンタみたいな小娘を触ろうとする訳がないっすよ!」
「ちょ、ゴブタさん、酷いダスよ!」
その友情はゴブタの空気の読めなさですぐに崩壊した。
周囲もその様子を見て、笑い声を上げた。
しかし、出鼻を挫かれた異世界人達が納得するわけもなく、叫び散らかした。
「ふ、ふざっけんなよクソ共がぁ!! ウチを舐めてんじゃねーぞ!! お前らみんな〝死んじまえ〟!」
『狂言師』のスキルを発動させる。
この場で笑いものにした奴等を全員皆殺しにしようとしたのだ。
作戦なんて無いにも等しかった。彼らにとって、魔物であるというだけで大義名分を得ていたも同然なのだから。
ただ、その呪いの言葉によって死んでいく者は誰もいない。
呪い殺されそうだったとは露知らず、周りは笑い続ける。
ゴブタとゴブゾウは、その言葉に茫然とするばかりだった。
「なるほど……。これは声を波長に変換して、脳波に干渉するスキルなのですね。とても恐ろしい力ですので、我が国での使用は禁止させていただきます」
優しげで、それでいてはっきりとした拒絶。
シュナはそう宣言すると、横に逸れて道をあける。護衛としてついてきたシオンも同様であった。
後ろには、冷たい殺意を漂わせる——この国の唯一の王の姿があった。
先程まで動いていた水晶玉と機能せず、首飾りも反応が帰ってくることはない。『念話』も『思念伝達』も使えない。
「リムルと連絡が繋がらない……」
前代未聞の危機だった。
俺達の国が狙われているのか、それともリムルが狙われているのか。
……あるいは、どちらもありえるだろう。常に最悪を想定して動く必要がある。
ちんたら会議してる場合じゃねぇな、こりゃ。俺は椅子から立ち上がって、窓を開ける。幸い、まだこの国は燃えていなかった。
「......リグルド。お前は町中の警備隊と協力し、住民の避難を最優先にしろ。屋内に入るよう指示するんだ。ソウエイはユーラザニアの避難民に状況を伝え、トレントの森に誘導して此方に来させるな。ソーカは封印の洞窟にいる
「はっ」
「御意」
「ベニマル、お前は兵を率いて四方にある陣を無力化してこい。できれば、発動者は生け捕りが望ましい」
「了解しました」
俺の指示を受けて、リムルの配下達が動き出す。
当然だ、リムルがいない今俺がこの国の強者を動かせるんだ。俺は——摂政だから。
指示を待つ鬼人達を見渡し、声を荒らげる。
「俺達は武装集団を待ち構えるぞ、ついてこい!」
「はっ!」
そして俺達は町の方へ向かい、例の現場を目撃した。
間一髪でシュナが『
明らかな敵対行動。容赦するつもりはない。
俺はリムルの姿に変化し、コイツらと対峙する。先程のスキル無効化に対する警戒はあるものの、俺の姿を見て警戒を変える仕草は無かった。
つまり、コイツらはテンペストの王が誰なのかすら把握していない駒というわけだ。
「今のはお前のスキルか?」
「ウチの力......『狂言師』を無効化してるワケ?」
「質問に質問で返すな。……とはいえ、その反応はそういうことなんだな」
ユニーク持ちか。面倒だな。
俺は『威圧』を発動させる。周りの人間達も事態を把握したのか、慌てふためいて逃げまどう。
正直人質にされるよりは勝手に逃げてくれたほうがありがたい。
静観している魔物達にも目で避難しろと指示し、俺達の後ろ側へと退避していく。
そこの女は自慢のスキルを無効化されて戦意を喪失したらしいが、男どもはむしろこちらへ歩を進めてくる。
「お前がこの国の主か?」
「そうだな」
「へぇ、こんなチビと戦うとは少々心が痛いが……恨まないでくれよ?」
目つきの悪い男は、舌なめずりをして俺を見下す。
気持ち悪い。アイツの周りに集まる人間はお人好しばかりで少々忘れかけていた。
コイツなら、何の躊躇いも無く殺せる。
ここで時間を稼がれるのもまずいし、『分身体』を出しておくか。そう冷静に状況把握に努めていれば、シオンが俺の前へと進む。
「貴様、我が主を愚弄したな? 余程死にたいと見える。……私がこの男を倒します」
「待ってくださいシオン、リムル様の命を忘れたのですか?」
シュナの見覚えのない言葉に、俺は首を傾げた。
「何の話だ?」
「……聞いていないのですか?」
そこで、漸く知ったのだ。
俺とリムルが、最初にすれ違っていたあのルールの制定。
——一つ、仲間内で争わない。
——二つ、他種族を見下さない。
——三つ、人間を襲わない。
そんな甘ったれた掟を、アイツは。
こんなもの、人間達に利用されるのがオチだ。国として発展した時点で、こんな掟は撤廃すべきだった。性善説なんてものを信じるべきではない。
人間は、環境によって生き方を変える種族だ。愚かな種族だ。欲に溺れる生き物だ。
……だから、
失笑しか出ないが、今は過ぎた事を考える時間ではない。
掟を破らせる事ができるのは、俺しかいないんだ。
「シオン、俺が——この俺が、許可する。コイツらはもう、国を乱す敵だ」
「っ、ですが、それは」
「お前は無力化してくれればいい、頼む」
お前達がリムルの事を心酔しているのは分かってる。
だから、その一線を越える最後の砦は、俺が壊す。
その思いを込めて、シオンに伝えれば彼女は頷いた。
「ゴブタ、ゴブゾウ。お前達はシュナの護衛を頼む。この人間は、俺がやる」
「了解っす!」
「んだ!」
「シュナ、巻き込まれない場所で俺達のサポートを頼む」
「分かりました」
俺の言葉に従い、ゴブゾウとゴブタは素早く移動してシュナの方へ。
そして俺はハクロウから教え込まれた瞬動法を使い、いまいち意図が読み切れていない糸目の人間の前に移動する。
シオンは大剣剛力丸を引き抜き、目の前の賊を見据えた。
「お前達は客ではない。我が国を滅ぼそうとする敵だ」
「面白ぇ! 邪魔するならつぶしてやる!」
「……下種が」
二人の男は最早取り繕う必要が無いと判断し、本性を表す。
一人は拳を構え、一人は剣を取る。スタイルから見るに戦闘系のスキルと仮定しよう。
クソ、『念話』や『思念伝達』が使えないせいで援軍を呼べないのは痛いな。仮にもユニーク持ちがほぼ確定しているというのに。
そうこうしている間に、シオンとあの男——ショウゴが激突を開始する。
攻撃の余波で地面が割れ、その衝撃波はこちらの戦場にも伝わってきた。
俺もこっちの戦いに集中しねぇと。
目の前の敵に目線を移動する。
「へぇ、君がわざわざ僕と戦ってくれるんだ。力試しにはちょうどいいな」
「お前もユニーク持ちだろうしな。アイツらには分が悪そうだ」
「そう……ショウゴには申し訳ないけど、王殺しの勲章は僕のものだ」
『胃袋』から剣を取り出し、構える。
この感じ、ブラフじゃなければ剣を使ったユニークスキルだろう。ハクロウのような
「さて、『
糸目が開いたかと思えば、その目が鋭く光り俺めがけて剣を振り下ろしてくる。
素早いがそれだけだ。軽く躱せば、斬撃が地面から壁へ移動して全てを断ち切っていく。
「っ!」
「良かった、これぐらいは避けてくれないとね」
「ハッ、全く。やり返されるとこうも胸糞悪いもんだな」
その傲慢、俺もやった事がある。
だからこそ、やりたい事が手に取るように分かる。だがこんな戯言に付き合っている暇はない。
国と掟、どちらを選択するかなんて俺には関係ない。最初から、お前達を殺すつもりでここにきた。戦う前から張っておいた血液の糸で、コイツの頭を刎ねようとした。
————その時だった。
『魔力感知』が二つの結界の展開を感知する。
同時に、身体の中の魔素が爆発したかのような衝撃が襲う。
「が……はっ、」
身体を保てなくなり、人間の姿が一気に暴発する。
リムル=テンペストの虚像も、エミルスとしての実像すらも掻き消される。残ったのは脆弱で、劣弱で、惰弱で、弱小なる
一気に地面へ叩き落とされ、方向感覚を見失う。
いや、実際見失っている。あの衝撃から、『魔力感知』で意味を成していない。『威圧』も、密かに放っていた『分身体』もだ。
あのベニマルが間に合わなかったのか? そんなはずはないだろう。
兵を動かしているの感づかれたのか?
他の事に頭を回している余裕はない。
体内の魔素を無理やり動かそうとするが、魔素は乾ききった砂のようだ。掴まえたとしてもすぐに間から零れ落ちていく。魔素が俺の体内から消滅しかかっている。『痛覚無効』のおかげで圧迫感だけで済ませられているものの、状況は芳しくない。
動けなかった。俺には、リムルみてぇにバカボコスキルを獲得なんて出来なかった。
だから、俺のスキルに結界の効果を防ぐことができる『多重結界』は存在しない。
「期待外れですよ。まさか本当にスライム如きが王の国だったなんて」
状況を上手く呑み込めないまま、僅かな視界で目の前の人間を見上げる。
絡まっていたはずの糸もすでに断ち切られ、剣先が向けられる。
「もしくは……ただの影武者だったと?」
——————。
沈黙は肯定と見做され、ソイツは俺に剣を振りかざした。