この日、
全ては、俺の油断が招いたもの。リムルに託された国は、今、理不尽な憎悪の炎によって薪になろうとしていた。
俺の国と、同じように。
あの悪夢と、同じように。
形あるものが崩れるのは一瞬だ。
「エミルス様!」
ガキンッ!、と音が鳴った。
視界の端で、見飽きた緑色の存在が震えている事に気づく。
ゴブタが俺と敵の合間に滑り込んできていたのだ。弟子の姿は、いつも以上に頼りがいがあって、座り込んでいる俺がどうしようもなく情けなく感じた。
奥歯を噛み締め、自分の足を睨みつける。
……何、ボケッとしてんだ俺!!
弟子に任せきりの師匠なんて、情けないにも程がある。
俺を背にしていたゴブタは、余裕無く声を張り上げる。
「今のうちに逃げるっすよ!」
無理やり『鏡像者』を動かしてエミルスとしての姿を形作る。
ゴブタの判断は尤もだ。体勢を整え直さないと簡単に死ぬ。
こいつも、俺も。
おかげでなんとか脱出に成功した。けど、ゴブタの身体じゃ俺以上に結界の影響を受けてるはずだ。
すぐに前線復帰しないとまずい。
その予測はすぐに的中する。
なんとか凌ぎ切っていた連撃がバランスを崩させ、ゴブタの短剣はあっという間に弾き飛ばされる。重たい身体を動かすも、壁際に追い詰められた。
まずい、直ぐに動い
ドクンッ
何だ、今の、あるはずのない心臓が鳴って...?
一気に身体の重さが増し、手の震えが止まらない。身体が言う事を聞かない。仲間が蹂躙される様子を眺める事しか出来ない。
空気を震わせることしかできない声で叫ぶ。
……動け、動けよ。
動けっつってんだろ!!
ゴブタの上に影が出来る。
ただ呆然と見つめる事しかできない俺は、名前を必死に呼ぶ。
「ゴブタッ、ゴブタ!」
「ゴキブリ並みの体力だな、さっさと死ねよ!」
剣が振り下ろされそうになった瞬間、殺意が籠った重い剣を刀が横から受け止める。
ハクロウだった。
弟子を想う気持ちは、俺以上のものだろう。
死を目の前にして震えていたゴブタは、白い背中に呟いた。
「し……師匠」
「不肖の弟子に代わって、儂が相手をしてやろう」
鋭い視線を敵にぶつけながら、ハクロウが戦闘を開始する。
だが、弱体化の影響は大きく、あのハクロウでさえ人間如きに遅れを取る程度になってしまっていた。
「……『暴食者』」
捕虜とか、ルールとか。俺には関係ない。
そんなもの、アイツらが傷つけられるぐらいならいくらでも捨ててやる。
だから『暴食者』、さっさとコイツを——————
《告。》
言葉が響く。
《個体名:リムル=テンペストの消滅を確認。『
そう、告げられた途端、俺の右手で蠢いていた『暴食者』の力が霧散する。
あまりにあっけなく。
…………消えた?
アイツが?
理解に努めようとしても、頭が理解を拒む。
だって、おかしいだろ。元の世界でアイツは魔王になってたじゃないか。アイツが負けるはずが無いだろ。
なんで、なんで、なんで、なんで。
大賢者は何も答えない。
疑問の渦の中で、俺はある一つの結論に辿り着いた。
————俺が、いるから?
「巫山戯るな……」
俺が介入したせいで?俺が仲間になったせいで?俺がリムルの信頼を勝ち取ったせいで?
俺が……アイツに託されてしまったせいで?
ふつふつと内側から湧いてくる感情は、一体誰に対して向けられているのだろう。
——本物がいなくなって嬉しいかい?
抑えつけていた言葉が、俺の耳元で囁いた。傲慢で、怠惰で、強欲で、憤怒に似た嫉妬が俺の内側を暴れて食らう。リムルになりたいと願う欲望は、色欲のそれと似ていた。
鏡像体とは、本物以上に欲に塗れていたから。
「ふざけるんじゃねぇ!!」
身体が動かない。
当たり前だ。『大賢者』も『変質者』も無くなった今、身体を動かしているのはただの気力だ。だが、今の自分に残されたものは無い。
だから目の前でハクロウが斬られる瞬間を、ただ呆然と見つめることしか出来ない。
「やめろ……!」
シュナを守る為にゴブゾウが立ち塞がり、無慈悲に斬られた。
「クソ……!」
どうしてなんて問いは意味が無い。
人間と魔物は相容れない。それが俺の考えだったから。リムルを失った俺は、こんなにもちっぽけな存在だったのかと自嘲する。
「時間だ」
戦っていた男達が動きを止める。
遠くから武装集団が近づいてくるのが見えた。剣を持った男はつまらなそうに舌打ちした後、その場から離れていく。
馬に跨り、こちらにやってくる者達へ偽りの助けを乞う。
「魔物に襲われています。助けてください〜!」
「なッ……」
「では、さようなら」
表面上だけは取り繕うのが上手い下衆共は、そのまま迫り来る武装集団を盾にするように逃げ出した。欲に忠実な人間のクセに、生存本能だけは一丁前に優れている。
こんな、こんな茶番のせいで俺達の日常は踏みにじられるのか。
なんで、どうして。
浮かび上がる疑問に答える存在はもういない。
たった一言でも欲しかったのに、いなくなってしまった。
迫り来る集団を睨みつける事しかできない。
奴等の言葉が雑音にしか聞こえない。聞きたくもない。
そんな中、ある存在が目に付いた。
ぬいぐるみを抱えながら、震えている子供だ。
俺はその小さな背中に迫る奴等を見て、
やめろ
「あ……」
やめてくれよ
「た、たすけ……!」
なんで、なんで、なんで、なんで!!!!
「ママ……パパ……!!」
脳裏に、あの娘が浮かんだ。
————ッ
——気が付けば、身体が勝手に動いていた。
その子を覆うように抱きしめて、囁く。
「大丈夫、だいじょうぶ、だ」
顔を、肩を、右腕を、左足を。
鋭い刃が俺の身体を切り刻む。
斬られた部分からスライムの肌が露呈して、人間の形が剥がれていく。
スライムの固有スキルである『自己再生』は、例え魔素を上手く使えない状態でも通用するらしい。俺の身体は、確実にだが回復し続けている。頭や腕を切り落とされようとも、俺は子供を支えながら立ちあがった。
数多の剣に切り刻まれても、絶対に守り通す。
俺はお前を守る為に、ここにきた。
お前が希う、本物にはなれないが。
だとしても、この感情は、愛は、俺自身のものだ。
どんだけ斬っても再生する身体に、敵は恐怖から俺の周りを囲むようにして一定の距離を取った。
「化け物め……」
「俺からすれば、お前達の方が理性無きバケモノだよ」
リーダーらしき男が口にした言葉を煽るように言い返すと、分かりやすく表情を歪ませた。
「待ってください、フォルゲンさん」
背後から気色悪い男の声が聞こえ、振り返る。
先程ハクロウとゴブゾウを切り捨てた男が、ニヤニヤと悪寒が走る笑みを浮かべて近づいてきている。
「僕がこいつを殺します。なので皆さんは、取り逃がした魔物達の殲滅を——……」
頭がおかしいと思った。
こいつの言葉を聞けば聞く程、腹の底からぐつぐつと煮えたぎるような憎悪が溢れてくる。こいつらはかつて対峙したどんな奴等よりも醜い生物だ。自分の恐怖心と自尊心を棚に上げて、平穏に暮らしていた俺達を害そうとする。
男の言葉を聞いて、俺を囲んでいた人間達が町の奥へと駆けていく。
悪夢の中で聞いた悲鳴が思考を掻き乱し、足元がふらつきかける。現実と幻覚が混ざり合って、ぐちゃぐちゃだ。
目の前で剣を軽く振り回す男は、俺に対して呟いた。
「子供を守る為に戦うなんて、魔物なのにまるで人間のような事をするな」
そうか。
聞いてるか、リムル。
所詮大半の人間の価値観なんてこの程度だ。俺達の周りが上澄みだったんだ。
人間も……そんな欲望から生まれた俺自身も、嫌いだ。
そんな俺を嘲笑うかのように、足首に刀身が刺さる。目の前の男のスキルの効果か、引き抜くことができない。
目の前の男は、剣を振り上げて俺を睨みつける。
「さっさと僕の経験値になれ!」
そいつが吐き捨てた言葉に怨念は無い。
むしろ、早くこの作業が終わってほしいとそう退屈げな声音で。
俺はまた子供を守るように抱きしめる。
衝撃が来る。
来なかった。
俺と敵の間に入ったシオンが俺の盾になったから。
「…………は?」
代わりにシオンが背中から倒れてきてそのまま俺達を巻き込んだ。
勢いで俺の足が切断され、スライムの内側がシオンの身体にへばりついた。
シオンの体温を俺が奪っていく。血液が、血が、シオンの腹からどくどくと流れていく。
「庇ってるよ、仲間意識なんてあるんだ。魔物風情が、アッハハハハ!!」
敵は、あまりの可笑しさにけたたましい笑い声を響かせていた。
煩い。五月蠅い。うるさい。
頭の中で掻き混ぜられて、この状況を受け入れられずに。
疑問だけが、浮かんで。
なんで。
「なん、で」
頼りない自分の声。
迷子のようなその声は、リムルとそっくりだ。
自分でも信じられないぐらい、弱々しい声だ。
「なんで……!」
鮮血が彼女の紫紺色のダークスーツを染め上げていく。
目の前で命が尽きようとしている。あぁそうだ。彼女は生き返らない。
あの町にいたドドメキではない。
震えながら、俺の手は自然とシオンの腹を撫でていた。
血液を止めようとした。『血液操作』を使えば、できるはずだから。
だけど、精神状態が不安定なまま魔素を練り上げるのは不可能に近い。
そもそも、俺の『血液操作』は今まで戦闘用にしか使ってこなかった。
今更器用に傷を埋めるなんて無理だ。彼女の傷を抉っても、生命の源が俺の手を汚すだけ。
「エミルス……様」
俺に様付けするな、と心の中で呟く。
俺はお前達に顔向けできない。偽物の主なんだから。
お前だけだったんだ。リムルに忠誠を誓った後で、俺に対して武器を向けてくれたのは。
「シオン様、シオン様……!」
俺の腕の中にいた少女は傷だらけだった。
シオンの腕を掴んで泣き叫ぶ。もしかしたら、交流があったのかもしれない。
痛覚無効のはずなのに、全てが痛い。痛くて、苦しい。
シオンの角は折られ、髪はぼさぼさで。
ふと、血だらけの俺の手を弱々しく掴む。
今にも瞼を閉じそうになりながら、シオンは力強く言葉を紡ぐ。
「どうか、私の血を使いお逃げください」
「何言って……」
「生きてください、エミルス様」
どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。
俺の為に命を投げ出すなんて、どうかしてる。
偽物の為に、オリジナルが身を差し出すなんて。
いや、違う。
こいつらにとって、俺は本物だ。
否定する権利なんてない。
分かってる。
そんなことを思ってるのは、ずっと俺だけだ。
「……分かった」
血、借りるぜ。
絞り出した声は、震えていなかっただろうか。
俺は『魔血変換』を使って、シオンの血を俺の魔力に変換する。先程までの生温かったそれを、俺は冷たい魔力に変換していく。切断されていた足もすぐに回復していく。今なら多少は無茶ができる。
シオンはその様子を満足そうに見つめた後、ゆっくりと瞼を閉じた。
俺の手を掴んでいた手が、重力に逆らわず地面へ投げ出された。
俺が、シオンを、殺した。
その罪業が身体を重たくするが、止まってはいられない。
徐々に冷たくなっていくシオンを慣れない祈りを捧げ、俺は立ちあがった。助けられた命を無駄にはしない。
シオンの命を、無駄にするわけにはいかない。
「……絶対に、助けてやる」
泣きすぎて目元が腫れてしまっている少女をもう一度抱きかかえながら、俺は未だに高笑いを浮かべているそいつに向かって血液の刃を放った。
剣を持っていた右手があっさり切り捨てられる。血が滴り落ちて、地面を汚した。
首を狙ったはずだが、空間が捻じ曲がっていたのか。
「あ、ああああ!!!?」
「なんだ、自分が斬られるのは慣れてないらしいな」
発狂する男を横目にすぐその場を離れる。
今はとにかく逃げのびる。情けないが、最善の行動だ。
駆け出したはいいものの、武装集団が通った後は荒らされまくっていて安全な場所はどこにもない。
早く、どこか安全な場所を——
横に目を向けた瞬間、シオンと戦っていたあの暴力が襲い掛かってくるのが見えた。
「見いつけたぁ!!」
「なッ……!」
咄嗟に少女を抱える。
左から強い衝撃でそのまま吹っ飛ばされる。
木製のドアを突き破り、固い壁に叩きつけられる。スライムの身体になって腕の中の少女を衝撃から守りつつ、地面にずり落ちる。スライムでよかったと初めて思ったかもしれない。
「エミルス様……!!」
「大丈夫だ、生きてるから」
辺りを見渡して状況を把握する。
どうやらテンペストのよくある家の中だ。すでに荒らされたらしく物が散乱しているが、もしかしたら隠れる事も出来るだろう。
ふと、鏡が目についた。よくある姿見。俺が町の皆にお願いして置いてもらっていた物だった。その面は間違いなく俺達を映しているはずだったが、相変わらず俺の姿は見えない。少女の不安げな表情だけがあった。
ポータルが作れたらよかったが、俺の手は空を掴むばかりで何も出来ない。
空間属性がことごとく封じられているようだ。絶対にここから出してやらないってか。
ふざけるなよ。
この世界の鏡は俺を映さない。
俺は元々この世界に存在していない者なのだと実感させられる。
全てが本物の世界で、俺だけが浮いている。
この世界に俺を呼んだクソ野郎はこれが見たかったのか。
満足か? あぁ満足だろうな。俺があまりにも滑稽なんだから。
俺が不用意にリムルと仲良しこよしでやってたせいで、こんな惨状を引き起こしたとしたらな。
地獄だ。
あまりにも、暖かい地獄だ。
もうリムルはいない。だからもう、この世界は終わったんだ。
もし俺がいなかったらリムルは生きていたのだろうか。
可能性の話に合理性はない。空想は目の前の現実から逃避するための雑魚がやる行動だ。そう、頭では理解しているはずだったのに。
「……つまんねぇ存在になっちまったな」
知りたくなかった。
仲間が、大切な存在がいなくなる辛さなんて。
好きになりたくなかった。
ずっと独りでいた方が、誰にも期待せずに楽だった。
みっともなく鏡に縋りついて、零れ落ちた本音が酷く虚しかった。
「————」
後ろから抱きしめられた。
子供特有の温かさで、暖かい。
もし、シンシヤに抱きしめられたなら、きっとこんな感じだったのだろう。
偽物でしかない温かさだが、それでも心が溶かされていく感覚がした。
情けない、情けなくて、悔しくて、惨めで、
感情の奔流を制御することが出来なくなった。
俺の瞳から涙が落ちていく。スライムに涙を流す機能は無い。
それは血のように、真っ赤な涙だった。
俺は紅涙を流していた。
分かってる。
くだらねぇよ。本物とか、偽物とか。
物差しで測り、区別するのはいつだって自分自身だ。主観的思考でしかない。
俺が偽物であると決めているのは、諦めているのは俺だった。
それが
——生きてください、エミルス様。
偽物かどうかなんて関係ない。
俺は俺のやりたいように生きたい。生まれた理由も、使命もいらない。
奪い奪われの世界なんてクソくらえだ。
俺が愛してみたいこの世界を、どうにかする力が欲しい。
——諦めるなんて、もう二度としたくねぇんだよ!!!
『なら、そう願えばいい』
俺に似た声が響く。
声の元は、目の前の鏡からだ。いつの間にか鏡の中は真っ暗で、俺と同じ背丈の人物が佇んでいる。
じっと見つめていると、そいつは不意に口角を上げた。
『お前の理想は、既に受け継がれている。お前はもう理想に突き動かされることはない。後は、お前自身がやりたいことを決めるだけだ』
「お前は……」
——やり方は、もう分かっているはずだろ?
黄金に輝く瞳が俺を映している。
何かが割れる音と同時に、その人物は霧散していった。酷く安心したような笑みを浮かべて。
分からない事だらけだ。あいつの正体も。俺がこの世界に来た意味も。
俺自身のやりたい事も。
だから、今、決める。
「……ゴブエ、ちょっと下がっててくれないか?」
「え、わ、分かった……」
今からやる事に巻き込まないため、ゴブエを下がらせる。
暗闇しか映さなくなった鏡を見て、ニヤリと笑みを浮かべてみせる。
俺はその鏡に向けて、力任せに拳を叩きつけた。
鏡像体にとって、鏡とは何だ。考えた事すらなかった。あるのが当たり前だと思っていたから。
それは鏡というアイデンティティを無意識に守っていたに他ならない。
それが、
俺が俺であるために、必要だった。
鏡に映る者、それが俺だと定義づけて生きていた。
俺から、
……もしかしたら何も残らないかもしれない。
けど、もうンな事どうでもいい!!
鏡であろうとするのはやめだ。
例え虚ろな者であろうと、飾られた者であろうと関係ない。
俺は、
————エミルス=アゲンストだ!!!
鏡を、『
俺は拳に力を込めて、ソレを叩き割った。
甲高い音が立てて破片が飛び散っていく。それと同時に、俺の身体に重さが戻ってくる。
散らばった
《確認しました。》
冷徹な〝世界の言葉〟が告げる。
新しいユニークスキル……いや、俺の新しい門出を祝うように。
偽から生まれた者が、新生を遂げて〝虚飾〟を高らかに謳うのだ。
《個体名:エミルス=アゲンストが魂の解放を宣告。ユニークスキル『
俺がエミルス=アゲンストであることを世界の言葉が肯定する。
……ってか、魂の解放だと?
俺は自覚しないまま、ずっと鏡の中に籠っていたらしい。
なんだ、俺は普段威張り散らしておきながら鏡という盾で守ってもらっていた小物だったと。
ハッ、なさけねぇな。
それにしても、虚飾か。
皮肉たっぷりに内心呟くと、続いて世界の言葉によく似た声が俺の脳内に響いた。
《告。個体名:リムル=テンペストのユニークスキルが使用可能となりました》
まじか、色々と大盤振る舞いだな。
てかお前、『大賢者』か?
なんでいきなり流暢に喋り出すようになってんだ?
まぁ、今はそんなのどうでもいい。
使えるもんは遠慮なく使わせてもらおう。
俺達から奪ったモノを、取り返してやるよ。