ラーゼンは全力で気配を殺し、隠れていた。
アレは人の身で勝てる相手ではない、と。
魔物の国の主は、スライムではなかったのか?と。思えば、異世界人達が二人生還できなかった事をあまりに軽く見すぎていた。そう判断したのは、盟友であるフォルゲンの進言があったからだ。
だが、あの最期のフォルゲンの言動は完全に常軌を逸している。盟友はすでに、先の宣戦布告の時に死んでいた。フォルゲンを通して
最早、人間は彼の者にとってただ虫けら以下の存在であると。
心が折れなかったのは、ひとえに王を救うのだという忠誠心からである。
そんなラーゼンを嘲笑うかのように、三体の悪魔が姿を現した。
「クフフフフ……貴方を拘束させていただきます。本当は食後の運動に貴方と遊んでみようと思っていましたが、貴方よりも面白い者がいますので」
歪な笑顔を浮かべる悪魔は、本当に残念だと言わんばかりの声色でラーゼンに喋りかける。悪魔は軽く手を振ると、背後に控えていた二体の悪魔がラーゼンを取り囲んだ。
ラーゼンは内心安堵の息を吐く。
幸い悪魔召喚の為に
しかし、そこまで考えたところで先程の悪魔から聞き捨てならない情報が出たのを思い出す。
鵜呑みにするのであれば、ラーゼンが感知できなかった存在がここにいる。
だが、どれだけ気配を探ってみても、目の前の悪魔達以外の生命反応は無い。
悪魔は楽し気に口角を上げると、視線を横に移動させて言葉を何者かに投げかけた。
「逃げなかったのは情報が欲しかったからですか? それとも、観念したのですか?」
悪魔の囁きに沈黙が帰ってくる。
ラーゼンが状況を把握しきれない中、テントの陰から気の抜けた女の声が聞こえてきた。
「そのどちらでもないさ。強いて言えば、逃げたらつまらないからだね」
そう言い捨てて、姿を現した。
容姿端麗、眉目秀麗。褐色肌の素肌に、ウェーブがかった髪。一言で表すなら、妖艶と評される雰囲気を醸し出す美女が悪魔を見つめる。
そして、最大の特徴たる長耳がラーゼンの脳内に一つの種族名を浮かび上がらせた。
(
精霊が変質した妖精と交わった者達の末裔が
だが、それは数百年前のダークエルフの話であり現在は普通のエルフと変わらない。
だからこそ不思議だった。魔人と名高い自分が今の今までこのエルフの存在を感知することが出来なかったことに。
悪魔は彼女を一目観察した後、ほう……と興味深そうに呟いた。
「中々見どころがありますね。それこそ、私の正体を看破しているくらいには」
「伊達に長生きしてないからねぇ。まさか、かの有名な
ダークエルフの言葉に、ラーゼンは信じられないといった目で悪魔を見つめる。
ノワールと言われた悪魔は、何も動じずむしろ嬉しそうに顔を綻ばせた。ラーゼンは賢かった。だからこそ、目の前の真実を拒否する。
口にするだけで災いが齎されるというその名前をダークエルフは難なく言霊に乗せ、悪魔は微笑みながらそれを受け止めた。その異様な光景を受け入れられなかったのだ。
「ありえん、ありえんぞぉ!!」
目の前で顕現した絶望に、恐怖に塗りつぶされた思考で反射的に核撃魔法を放つ。事前に詠唱し強力な魔法を不意打ちで放つという荒業を、ラーゼンは究極の恐怖の中で発動させた。
放たれた核撃魔法は真っ直ぐ悪魔の方へ飛んだが、黒い悪魔は軽く息を吹きかけるだけで反転させる。魔法の向かう先はダークエルフ。彼女は薄く微笑むと、右手で軽く払って核撃魔法を上へ弾き飛ばした。
空中で爆発する魔法に、ダークエルフは感嘆を漏らす。
「人間にしては中々芸があるじゃないか」
素直な賞賛の言葉がラーゼンの耳に届くことはない。すでに精神が崩壊し、虚ろに原初の悪魔の名を口走っているだけだ。配下の悪魔達がラーゼンを捕縛すると、主の邪魔をしないよう隅へ移動する。ダークエルフはその事をつまらなさそうに見送って、対戦相手に目を向けた。
悪魔は準備ができるのを待っているようで、舐めるような視線を送りながら空いた時間を埋めるように問いかける。
「貴女の事は何と呼べばよろしいですか? 種族名で呼ぶのは、些か趣に欠けますので」
「そうだねぇ」
ダークエルフは自身の髪を弄りつつ、悪魔からの質問に答えた。
「私の事は、ネクロとでも呼んで」
ネクロと名乗ったダークエルフに、
「ありがとうございます。ではネクロ殿。私のお遊びに付き合っていただけますか?」
「この質問に答えてくれるなら、いくらでも付き合ってあげる」
ネクロはおちゃらけた雰囲気を切り替え、周囲の温度が下がる。飄々とした態度の原初に、単刀直入に問いかける。
「お前、エミルスという存在を知ってるかい?」
悪魔は表情を変えず、淡々と告げた。
「知っていますよ」
ネクロは目を細める。悪魔はただ不敵な笑みを湛えるばかりで、心意を読み取ることができない。答えたのはただのきまぐれなのだろうか。悪魔に対して答えを求める事自体が間違いと言われたらそれまでだが、少なくとも『反応』という情報は得られた。
ネクロにとって、それで十分であった。
「それじゃあ、お遊戯会を始めましょう」
ネクロは軽く指を鳴らすと、周囲の景色が歪み始める。透明な幕で覆われた場所は風も魔素も通さず、世界から断絶された感覚があった。悪魔がその幕に触れようとすると、電撃が走って跳ね除けられる。
手から煙が出るのを観察すると、悪魔はネクロに向き合った。
「独自の法則で作られた結界。しかもここまで整えられているのは久しぶりです。賞賛に値しますよ」
「そう、これはお前の為に作った新しい結界。原初のお前が解析して解除するまでの時間稼ぎさ」
「時間稼ぎ? 面白いですね」
幸い、目の前の悪魔は本気を出していない。
出していれば、一瞬で屠られていただろうから。
「実験と研究、これは悪魔だって同じことだろう?……〝ヒレフシナサイ〟」
「!」
ネクロの〝
悪魔は目を見開いて光景を焼き付けた。そして、不気味な笑い声と共に何事もなく立ち上がった。
「クフフフフ……見事な術式です。今まで私が認識すらできていなかった事が惜しいですね」
「皮肉だね。生まれ持った強者なのに下等な存在に呼び出されないと未知を味わえないなんて。まぁ、褒められて嫌な気分じゃないけど」
ネクロはオリジナルの魔法を使うのを止め、既存の属性魔法で悪魔を攻撃する。
無詠唱の魔法行使。ラーゼンのように事前に準備していたわけでもない。魔法に長けたものは呼吸をするのと同じで無意識に技を発動することができた。
悪魔は踊るように攻撃を避け、動きを模倣する子供のように属性魔法をネクロに返した。ネクロは咄嗟に結界で身を守るが、最初の一発で破壊されて回避を余儀なくされる。魔法の練度の違いに思わず顔を歪ませた。
距離を取り、相手の出方を伺う。
悪魔はつまらないと言いたげに首を振る。
「既存の玩具では私を満足させることは出来ません。新鮮さが足りないのです。貴女の魔法はこんなものではないでしょう?」
「生憎、そんな安い挑発に乗る女じゃない。それより、そろそろ愛しい主様が心配になってきたんじゃない?」
「私如きが心配するようなお方ではございません」
「へぇ、たかがスライムに原初であるお前が何を期待してるんだか」
ネクロがそう発言した瞬間、右腕が切り落とされる。
光速を超えた攻撃は視界に映すことすらできなかった。ネクロは冷静に悪魔を観察する。その顔から笑みは失われていた。
「……まぁ、そろそろいいでしょう。貴女が魔法を披露してくれたように、こちらも見せてあげますよ」
腕を前に伸ばし、指を鳴らす。
ネクロが張った不可視の結界は破壊され、その破片がネクロの身体を次々に貫いた。相手の法則を上書きし、攻撃に転ずる。
ネクロの足元に悪魔の魔法陣が展開され、黒い肌を照らした。数刻後には、身体の霊子ごと消滅させられるだろう。
倒れそうになる身体を支えながら、彼女は小さく呟いた。
「なるほど、参考になった。——さようなら、二度と私の前に現れないことを願うよ」
ネクロが別離の言葉を告げた途端、空間が歪められて身体が跡形もなく消滅する。余韻は無い。最初からそこに誰もいなかったと錯覚しそうな一瞬の出来事だった。
彼女は死んでいない。そんなことは分かっていた。この程度で死んでしまう者にかの原初が本気を出すわけがないのだから。
悪魔は再度嗤い、誰もいない空間に囁く。
「またお会いしたいものです」
黒い悪魔と黒い魔女が邂逅した。
その出来事を知っているのは今のところ当事者のみである。
ラーゼンを連れ、指定された町へと向かう。
初仕事は満足できない成果だったことだけが悪魔を悔しがらせた。
◇
リムル=テンペストの
安堵の息を吐く仲間達へ突然強い眠気が襲う。
リムルの進化を見守っていた仲間達が、
人間やドワーフ達は魔素が少ない場所へと避難していて、リムルに名付けられた配下ではないミュウランとグルーシスだけが目の前の存在を目撃する。神々しい光を纏ったリムルの姿は、どうしてもいつもの彼とは結び付かなかった。
代行者
エミルスの願いも、きっと。
リムルとエミルスに魂の繋がりは存在しない。
だがそれでも、この祝祭の主役はリムルだけではないのだ。
〝世界の言葉〟は認識した。
エミルス=アゲンストというスライムは、この世界に存在しえる者である。
ヴェルドラの承認を得て、世界との繋がりを認識し、個を確固たるものとした。
理の視線は、確かにエミルスに降り注いだのだ。
《告。個体名:エミルス=アゲンストに個体名:リムル=テンペストとの〝魂の回廊〟を接続……成功しました》
本物の影から生まれ、自我を持たなかった
魂の構成情報を読み取り、エミルスすら自覚していなかった根源を正確に反映し始める。
黒の玉座に置かれたスライム体が輝きを帯びる。赤き光は生命の灯となり、眠る仲間達を照らし始めた。
〝世界の言葉〟が続けて告げる。
繋がれた回廊から、エミルスに進化を促す
リムルの進化に反応し、エミルスも同じ高みへと這い上がる。
テンペストの王として相応しくあるために。
《確認しました。種族:
スライム体から迸っていた明るい赤色が、黒の絵具が混じったように暗くなる。
ラファエルは新しい情報を取得し、その変化に気づく。それは妖魔族ではなく、はたまた吸血鬼でもない。歪な生命体だった。
進化は終了したかと思われたが、復元された『鏡像者』のスキルが〝魂の回廊〟を通じて自身の目的を果たそうとする。主の手を離れたスキルは、条件反射の如くかつての幻影を追いかけ始めた。
《告。ユニークスキル『鏡像者』の効果により、個体名:リムル=テンペストのスキルを模倣……失敗しました。代替措置として、ユニークスキル『暴食者、大賢者、変質者、心無者』を獲得……成功しました》
しかし、リムルのスキルを獲得したことによって、闇に沈んでいたエミルスの願いが呼応する。
それは水面に落ちた水滴のように、エミルスの心に波紋を呼び込んだ。
——アイツと同じじゃ、意味がねぇだろ。エミルス=アゲンストとして、この俺にふさわしい力を…………さっさと、よこしやがれ…………
微睡む意識の中、エミルスの願いは〝世界の言葉〟に届く。
神から齎された祝福は、飾り気のないエミルスの真の願いを叶える為にその力を発揮する。
それはラファエルにも予想できなかった。エミルスの強い意志に〝世界の言葉〟もまた呼応したのだ。
元の世界へ帰る方法が失われようとも————世界に風穴を空けてでも、あの娘の元へ。
《……確認しました。ユニークスキル『暴食者、大賢者、変質者、心無者、鏡像者』を消費し、新しいスキルの獲得に挑戦…………成功しました。
世界を食い、世界を知り、世界を変え……秩序と混沌をもたらす者。相反する二つの願いを併せ持つエミルスにもたらされた祝福。世界の根幹を揺るがす者がこの地へ降臨する。
エミルスの願いと目的のために、それらに最適なスキルがエミルスの魂に宿る。
世界の最高峰——エミルスの強靭な意志が、世界の理を自己破壊へ誘った。
あるいは、其の興味を引いたということなのだろうか。
いずれも彼等はまだ眠ったままな故に、その到来を感知することはない。
代行者は
ミュウランとグルーシスは困惑しつつも、その行く末を見守る。
目の前で起きている光景は歴史に刻み込まれるものだと理解し、目を離す事を身体が許さなかった。
《告。
エミルスと共同で行ったあの奇跡を再現する。
因果関係で言えばこちらの方が先であったが、それを知る者はエミルス唯一人だけだ。やがて魂の輝きが集まって拡散し、元の身体の上空で整然と浮かんだ。
代行者はシオンの前に移動し、〝魂の回廊〟を通じてエミルスの『
単なる回復ではなく、復元。その違いに気づく者は唯一人だけ。
見守るミュウランとグルーシスの隣に、悪魔三体が出現する。グルーシスは咄嗟にミュウランを庇うように前に出ると、悪魔は顔を振って誤解を解いた。
悪魔の視線には、リムルとエミルスの繋がりがくっきりと見えた。そして、神聖なる行為の美しさに目を奪われる。
演算されゆく儀式の中、黒はエミルスに宿る懐かしい気配を感じ取った。
(なるほど、あの者には見えていなかったのですね……)
一方的な観測の証と、感知のカモフラージュ。余程誰かに取られるのを嫌がったのが分かる。その気持ちは分かるが、ああ見えて慎重になりすぎるのが欠点だ。悪魔はひっそりとエミルスへの期待値を高めていく。
悪魔という種族は自己の研鑽を喜びとし、他者に依存しない。そんな悪魔達が崇拝する主と、期待する例外はその本能を塗り替えるに値する存在である。
〝反魂の秘術〟は問題なく行われる。
究極の魂の秘術を、百名近く同時に行う。莫大な
ミュウランは追い求めていた秘術を目の当たりにして魅了され、グルーシスは自分達ではこのような神業は不可能であると悟り、悪魔はただ見惚れている。
最早クレイマンなど、霞んで見える所業であった。
奇跡は再び起こる。
ただしこれは、演算によって導き出された最適解による秘技であり、必然である。ラファエルの中に喜びはない。
エミルスという自我が希薄な魂が個を確立したように、
こうして、願いは成就する。
作業の終了と同時に、
目覚めた時、人格がどうなっているから知る由もないが……リムルとエミルスを中心にして起きた波乱の一週間は、穏やかに終わりを告げたのである。