傀儡国ジスターヴ。
フレイは無意識に詰めていた息を吐き出し、クレイマンがいる部屋に重たい足を進めた。
眼前に飛び込んできたのは、クレイマンがミリムを殴る光景だ。反撃すらせず、ミリムはただ拳の衝撃で体を揺らすだけ。クレイマンの笑い声がけたたましく響いて、不快で眉間に皺を寄せた。ワルプルギスが近づくほど、クレイマンの凶行は激しさを増していた。自分の策を過信して、欲に目が眩む憐れな男。それが、フレイが抱いていたクレイマンへの印象だった。
ワルプルギスの前日でさえも、一時的な偽りの快感に酔いしれている。
フレイは己に与えられた役割を果たすため、この景色を傍観するばかりであった。
その時、フレイは後ろから背中を軽く叩かれる。
フレイは目を見開いた。感じた気配が目の前で殴られているはずの魔王と酷似していたのだ。
取り繕っていた余裕が消え、汗を滲ませて後ろを振り返る。そこにいたのはミリムだ。
ニヤニヤと無邪気な笑みを浮かべ、瞳に生気を宿したいつものミリムがそこにいた。ありえない。
なら、目の前にいたミリムは一体誰なのか。汗を滲ませながら、意を決して前を向く。場面はミリムらしき存在がクレイマンの蹴りを掴んで受け止めていたところだった。
(……あれは)
幻覚の類でも掛けられていたのか?自分がこの部屋に入った瞬間、認識を歪まされていた。
「よぉ、初めまして。クレイマン」
「……お、前は」
中性的な声、しかしその声は確かな威圧感を持ってクレイマンに圧を掛けている。フレイの後ろにいるミリムはその様子を嬉しそうに目を輝かせている。
その悠然とした立ち姿、それはまるで——
(魔王、だというの?)
だが、貰っていた情報と相違点がある。
事前の情報ではスライムだと聞いていたはず。しかしフレイが感じているのは、スライムというよりあの
「改めて自己紹介させてもらおう。俺はエミルス=アゲンスト、魔王リムルを憎んだ者だ」
クレイマンの足を離してやると、クレイマンは漸く拍動を許されたように大袈裟な呼吸を繰り返した。エミルスと名乗ったその存在は振り返り、フレイとミリムを視界に捉えた。鮮血のように赤い瞳が細められる。フレイは声を出すことができず、行く末を見守るしか無かった。
クレイマンの呼吸が整うと、「エミルス……なるほど」と、目の前の状況を分析しているようだった。
「生きていたのですか」
「暴風竜ヴェルドラの騒動で何とかな。ついでにアイツが魔王を名乗ったことで繋がりが切れたから、お前の元にやってきたってわけだ」
「……」
「ワルプルギスに参加するんだろ?俺も連れていけよ」
クレイマンはエミルスの姿を観察する。
だがそんなことよりも、エミルスはどうやってこの城まで入り込んだのか。魔王リムルの元から逃げ出した具体的な方法は。穴だらけの根拠と言葉。エミルスを信じ切れる材料などありはしなかった。ならば、やるべき事はただ一つ。
——ミリムと同じように、操り人形にしてやればいい。
そのミリムが今どうなっているのか、クレイマンは考えることすらしなかった。
「えぇ、ありがたく戦力として利用してあげますよ。——
クレイマンの糸が、エミルスの身体に巻き付く。
フレイは万が一エミルスが操られてしまうのではないかと危惧したが、クレイマンの糸が巻き付くその瞬間、小さく何かを呟いた。
クレイマンの糸がゆっくりエミルスの身体に浸透して消えていく。クレイマンは勝ち誇った笑みを浮かべ、思わず高笑いを発していた。
「ハハハハ!なんとも無様な姿だなぁエミルス!」
所詮は邪竜の威を借るスライムの偽物、操ることなど造作もない。魔王を名乗っただけあって無駄に魔素量は多かったが、クレイマンの前に姿を現せば皆掌の上で転がされる。なんて憐れな存在だろうか。
クレイマンは勝利の宣言の代わりにエミルスを叩こうとした。
叩こうとした、叩こうとして——思考が白に塗り潰される。違和感を抱く暇すらなかった。奥底に眠る、かつて主の姿が突如浮かび上がる。
そして、新しく主として認めたあの方も。
(私は——)
自分という土台が揺らぐ感覚。
気が付けば、クレイマンはソファの上で座り込んでいた。向かいのソファに、フレイとミリム、そしてエミルスがいて、穏やかに会話している。
クレイマンはただ呆然とその光景を見つめる。咎める気が起きなかったのだ。というより、ずっと腹の底から湧き出ていた焦燥と苛立ちが収まってきているのを自覚し始めた。
(一体何が起きている……?)
目の前で普通にお菓子を食べているミリムを見ても、その異様さを指摘する気力がない。思考もまともに働かない。自身の身体がボロボロになっていることすら気づかない。
一先ず冷静になる必要がある。そう考えたクレイマンはフラフラと立ち上がり、豪華な部屋を後にすることにした。
(ミリムがクレイマンの城に移動したのも、そういうことだったのね)
突然ミリムがフルプロシアから移動した時は驚いたが、事前にこのエミルスという存在と繋がっていたからこその行動だったのだろう。
フレイの予想では、クレイマンが技を発動した時、エミルスが逆に支配をクレイマンに施した。彼の
クレイマンを何らかの力で無力化している間、エミルスは本当の所属をフレイに明かした。ミリムがお前を信じている。だから俺も、お前の事を信じてやる——エミルスはそう伝えた。そもそも、ここで反抗したとしてもエミルスに勝つことは出来ない。
最初からフレイに残された選択肢は一つだったのだ。そして、これから起きる結末も理解する。
(傀儡国の魔王が傀儡化するなんて皮肉なものね)
エミルスとミリムがテンペストの現在について話している最中、フレイはタイミングを図って切り込んだ。
「……あの様子では、作戦が変わってしまうんじゃない?」
「今一時的に暗示を強化しているだけだ、夜になればいつものクレイマンに元通りってこった」
「ボコボコにやり返すのは気分が良かったのだ!ところでエミルス、今晩に向けてワタシと勝負しないか?」
「
「へぇ、一体何をしようというの?」
「単純な
そう言うと、エミルスは部屋を出たクレイマンの後を追う。と、その前にエミルスがフレイを見返した。黒を基調としたコートの胸元には、赤色の竜の左翼が飾られている。
「カリオンによろしく言っといてくれ」
一言だけ言い残して、立ち去った。
ミリムの態度とフレイの立ち回りを見て察せられてしまったらしい。言葉が無くとも伝わるのは助かるが、全てを見透かされているようでなんとも歯痒いものがある。だからといって行動を起こしてもなんの意味もない。
残されたフレイは、ミリムの遊びに付き合いながら急速に変わっていく状況に傍観を決め込むことにした。
◇
耳飾りに魔力反応。続いて別の魔力も送られてくる。
ミリムは無事だ。という合図だった。
クレイマンに万が一でもバレたらまずいから、安全が完全に確保されたと確信したら、耳飾りに信号で送ってほしいと頼んでおいたのだ。
どうやら成功したらしい。俺の心配は杞憂だったようで一先ず安心した。まだ出発してから一時間ぐらいしか経ってないのに。仕事の速さに思わず唸る。
「エミルスから連絡が来た。……作戦は成功した」
『さすがはエミルス様。といっても、確信していましたけどね』
「ベニマル、やれそうか?」
『もちろん、エミルス様が内部から攻め込んでいるのなら、俺達は外部から攻め込んでやりましょう』
「メンバーはハクロウとソウエイだっけ?」
『えぇ、アイツらなら大丈——』
「お待ちを、兄様!」
水晶玉を通しての通信に割り込んできたのはシュナだ。
あれ、さっきまで俺の服をせっせと作ってた気がするんだけど……
『おぉ、どうしたシュナ?』
「どうしたではありませんよ。エミルス様が最前線で戦っているのですから、秘書候補兼
「おいおい!」
ちょっと待て、いきなりとんでもない事言い出したぞ!?
確かに言い出したのは俺だし、指揮官として任命するならそりゃシュナだろうとは言ったけど!まだ正式に決まってないんだぞ!
俺の驚きを余所に、ベニマルとシュナの言い合いは続き——結果的にベニマルが折れる形で幕を閉じた。
妹に勝てる兄はいない——とは、前世の友人の言葉だったか。
「という訳ですのでリムル様、私に出撃許可をくださいませ!」
「うーん」
シュナを危険な所に行かせたくないというのが本音だが、エミルスがクレイマンの注意を逸らしている今がチャンスではあるんだよな。それに、エミルスはクレイマンのワルプルギス参加に同席するだろうし、もぬけの殻になった城を攻め込むのは定石ではあった。
「リムル様、ご心配には及びません」
「うおっ!」
いきなり足元に現れたソウエイに思わず驚いてしまったが、ソウエイは何事もなく話を続ける。
「自分がシュナ様をお守りしますので」
『わしもおりますれば、敵本丸にはカリオン様が捕らわれておるやもしれぬし、やはり調査は必要でしょうぞ』
いつの間にかハクロウも通信に混ざっている。
確かにな。
エミルスもクレイマンの動きを封じるのに手一杯かもしれないし、こちらに余裕があるなら援軍を送った方がいい。
「リムル様、私とて怒っているのです。クレイマンを許せぬこの気持ちを、抑えるのが難しいのです!」
あぁ……、その気持ちはわかるよ。俺だけじゃなく皆も、やるせない思いを抱いたのだ。留守番が嫌だ、というシュナの気持ちもわからなくはない。
「分かった、シュナの参加を認めよう」
「ありがとうございます」
「ただし、ソウエイとハクロウはシュナの安全を第一に考えるように」
『シュナの我儘を認めてくれて助かります』
「私は転移できますので、万が一の場合でも大丈夫です」
『そうじゃな、ワシの方が逃げ遅れそうじゃ』
逃げる気などないだろうに、ハクロウがそう言って場を和ませた。いざとなったらエミルスがカバーすることも出来るだろうし、心配しすぎかもしれない。
カリオンに関しては、内部で動いているエミルスが見つけた時に暗号を送ってくる手筈になっている。見つけられてないのか、そもそも囚われていないのか。今気にしても仕方ない。
「作戦開始は
『『『了解しました!』』』
こうして、シュナ、ソウエイ、ハクロウの三名が、クレイマンの本拠地の探索することになったのだった。
そういえば、竜を祀る民もクレイマン軍に参加してたんだっけ。あの三人組に亀裂が入ってしまわないか不安だが、俺が介入できるものじゃない。当人達が納得する方法を探すしかないのだ。
シュナは話が終わったところで裁縫作業を再開した。新しいコートの胸元に、青色の竜の右翼を象ったバッジが飾られていた。
ちょっとこっぱずかしいけど、悪くない。翼は二つなければ飛べないからな。
◇
雲一つない夜。
岩肌が露出した枯れた地で、月光だけが地面を照らしている。
クレイマンの軍勢は、獣人達を追いかけてゲルドの罠に誘い込まれていく。それが囮だと疑いもせず。
全てはベニマルの計算通りだった。
「負ける方が難しいくらいだ」
谷の中を進んでいく敵軍を上から見下ろす。
三獣士とベニマルは、反撃の機会を伺っていた。
ベニマルが予測した通り、クレイマンの軍勢は自分達が数で勝っていると信じ込んでおり、面白いように油断していた。避難民に扮した足の速い獣人戦士達を、追い詰めているつもりで罠に向かって進んでいく。
アルビスはベニマルの下につくと宣言し、この連合軍の総大将は名実ともにベニマルに決定した。弱肉強食、魔物のルールに則り、総大将の言葉に反論は許されない。
アルビスはこの戦いに限り、副官を拝命した。
「ですが、まだ数名強者の気配が残っていますわ」
「あぁ、趨勢を見極めたらゲルド達を向かわせる」
ベニマルの言葉に「待ってくれ」とスフィアとフォビオが前に躍り出る。
「その役目、俺達に譲ってくれ」
「頼む、総大将殿」
「ここは獣達の国。あんたたちに全部任せっきりじゃあカリオン様に怒られちまう」
二人の抗議を聞いて、アルビスは困ったように笑うとベニマルの前に移動する。
「ベニマル様、軍の指揮はお任せしますので、我ら3名に敵軍首魁どもの討伐を御命じくださいませ」
「お願いします」
チッ、とベニマルは舌打ちする。
「それが狙いで俺に総大将を譲ったのか」
「あら、何の事でしょう?」
怒るベニマルに、惚けるアルビス。
折れたのはベニマルだった。
「わかった。お前達にも参戦してもらう予定だったし、問題あるまい。ただし、勝てぬと思ったらすぐに退け。敵の中には、油断ならぬ者がまじっているようだぞ」
そう告げて、ベニマルの視線が移る。
罠に気づかぬまま進軍し続ける軍勢。
その中で一際目立つ、小太りの仮面の魔人と小柄な仮面の魔人。ベニマルは鼻筋に皺を寄せ、その魔人達を睨みつけた。
軍勢が目標の地点まで辿り着いた時、ソーカがベニマルに合図を送る。
ベニマルがそれを受けて状況を把握し、頷いた。
「時間だ」
ベニマルの冷静な声が響く。
開戦の始まりを告げるというのに、その声は酷く無感情だった。
『ゲルド、始めろ』
『承知!』
ベニマルの命令を受け、ゲルドが号令を発する。
「作戦開始!」
「「「応ッ!!」」」
次の瞬間、クレイマン軍のほとんどは大穴に飲み込まれた。
空を飛べる魔人達も、ガビル率いる〝
落とし穴から逃げ出しても、ソーカ達やホブゴブリンが逃亡を許さない。それを繰り返せば、やがて抵抗する気力を失って従順な捕虜になる。その循環を作り出すために用意された舞台装置だった。
戦術次第で圧倒的な差を生み出せる。
獣人達は戦況が変わる様を目の当たりにして、驚きを隠せないでいた。
ベニマルは勝利を確信し、次の行動に移る。
「俺は俺の仕事を全うする。アルビス、スフィア、フォビオ——三獣士よ、お前達に自由行動を許す。敵軍の首魁を討ってこい!」
「待ってたぜ、大将!」
「ようやく暴れられるってもんだぜ」
「後はお任せしますわね、ベニマル様」
ベニマルは三獣士を一瞥し、頷いた。
「行け!」
「「「ハハッ!」」」
そうして、三獣士は行動を開始したのだった。
ベニマルはその背中を見送ると、ここまでずっと黙り込んでいた者達に目を向ける。
エミルスの配下となった、ダビッドとカブ。彼等は機が熟すのを待ち続けているようだった。
「お前達はいいのか?」
「ふむ、そろそろ動くとしますかな。このままだと乗り遅れてしまいそうですぞ」
「ぞ……? とりあえず、お前達は好きに動くといい」
「畏まりました、総大将殿」
「……っす」
ダビッドが丁寧にお辞儀をすると、カブはそれに合わせて浅くお辞儀する。
そして、それぞれ主から与えられた仕事を果たすため、その場からいなくなった。悪魔は自由気ままだというが、ベニマルの『大元帥』をもってしても、彼等を統べることは難しいようだ。
「協調性を説くだけ無駄かもしれんが……一応、エミルス様に報告しておくか」
戦争というのは、上層と兵士の間で戦況の見え方が違うことがある。
しかし今回は、特にその摩擦のズレが顕著に出ている戦いだった。後方に配属されたクレイマン軍……彼等はカザリームという魔王の配下であり、クレイマンはカザリームが亡き後引き継ぐようにして生まれた魔王だった。だが、クレイマンに信用されていないのかどんな戦いにおいても彼等が日の目を浴びることはない。加えて、新参者であるヤムザや魔人達が横暴な性格だったために、軍自体の在り方が変わってしまったのだという。
そんな話を、竜を祀る民として連合軍に参加していたステラは前もって聞いていた。
だからこそ、だろうか。
クレイマンの作戦に協力する気なぞさらさらなかったステラが、後方部隊が危機に陥ったとき参戦を決意した。全体ではなく個として、個人的に彼等のことを気に入ったのだ。
——たとえそれが、友達であるフォスと敵対する行為だったとしても。
「あんたがこの人達に手を出すなら、あたしが相手になるわ!」
そう言い放ち、ステラは拳を握ってフォスの顔面を狙いに行く。
躊躇すらしなかったステラに、フォスは動揺を隠せない。だが、持ち前の反射力で咄嗟に防御を取ることに成功した。
「本気です!?ステラ!」
「当たり前でしょフォス!」
防御されたことに臆せず、追撃を入れる。
ステラはむしろ、友と本気で戦えることに沸き立っていた。
「あんたも本気出しなさいよ、つまんないじゃない。正々堂々勝負しようじゃないの!」
つまらない、と言われた。
フォスの耳がピクリと反応する。そう言われて引き下がる
向けられた拳を拳で受け止めると、衝撃波で地面が抉れた。
「この勝負、受けて立つです!」
「そうっこなくっちゃね!」
周りの戦いなど関係なく、二人の肉弾戦が始まった。
手を緩めない彼女達に介入する隙は無い。その余波に気づいた周りの魔人達が手を止め、熱い戦いを食い入るように眺めていた。
攻防一体の戦いに、どちらが勝つか分からない緊張感が走る。
フォスが一撃を入れようとすれば、ステラは習得した気闘法で回避する。フォスの体勢が崩れた瞬間を狙い、ステラが隙だらけの背中に蹴りを入れようとすれば、獣人特有の身軽さで瞬時に距離を取った。ステラの顔が歪むが、また連撃を入れ始めた。
熱い戦いに魅せられ、敵味方関係なく歓声を上げる。
最早ここは戦場ではなく、一種の闘技場と化していた。
二人の戦いに感化され、闘争心が湧きたてられた両軍は、互いに笑みを浮かべて熱闘に身を投じ始めた。
ステラとフォスは息が上がり、すでに満身創痍。
軋む身体に比例するように燃え滾る闘志。友だからこそ、興奮しているのが伝わってくる。躊躇う理由なんてどこにもない。
呼吸を整え、笑う。次の攻撃が互いの全力で、最後だと分かった。
「「はああああああ!!!!」」
フォスは『獣人化』により、狐の姿に近い荒々しい姿へ。
ステラは『
「やっとその姿になったですね」
「あんたもね」
次で決める。各々の言葉で意志を表明し、構える。
地面から跳び上がり、姿を捉える。
真っすぐ拳を振りかざす。
……しかし、拳がぶつかるコンマ0.2秒。
空から舞い降りたもう一人の友達が勝負のトドメを遮った。
「ネム!?」
「二人とも喧嘩してる場合じゃないのぉ」
ステラはその後ろから、不気味な黒い大男が近づいてくるのが見えた。
すでに身体はボロボロだが、友達を守るため立ち塞がろうとすればネムとフォスがそれを押しとどめる。
「悪い人じゃないです。こちらはエミルス様の配下のダビッド様です」
「ドフフ、怖がらせてしまったのですかな? 拙者、健気な女児をいたぶる趣味はござらんので安心するでござる」
「……えっと、何言ってるか分かんないわね」
ステラが口調に戸惑っていると、突如轟音が鳴り響く。
音の出所はクレイマン軍の本隊が進んでいた場所、そこから現れていたのは氷風を纏ったカリュブディスだ。
しかも二体。このままでは戦争どころではないと悟り、後方部隊の指揮官であるアルヴァロが宣言する。
「戦闘中止だ! 全員退避! 動けない者には手を貸せ!」
獣人戦士団や、フォス達もただちに行動を開始する。
慌ただしく動く戦場の中で、ダビッドはカリュブディスを見つめていた。
「おい、何してんだ!」
クレイマン軍の兵士が叫ぶ。
しかしダビッドは平然と呟いた。
「ん? 我が主の予測は正しかったと感動に浸っているだけな故、気になさらず」
「そ、うなのか……」
「では、そろそろ仕事に戻るので失礼致します。またお会いしましょうぞ」
「拙者はこれにて」、そう言い終えると、放心状態の兵士を置き去りにしてダビッドは消滅する。
兵士は漸く気づいた。これまでこの場にいた悪魔はただの『分身体』であったことを。
ダビッドに与えられた使命は二つ。
フォス、ステラ、ネムの監視。必要なら手助けをする。
そしてもう一つ、それが今から始まることだ。
◆
フォビオは戦場から離れ、暗い森の中を走り去る。
前に騙されてから、一時たりともその臭いを忘れたことはない。
復讐すべき敵の存在を知覚すると、思わず笑みを浮かべて跳躍する。
フォビオの着地音に気づいて、怪しい二人組は振り返る。
怪しい二人組——〝
中庸道化連である二人は、今回はクレイマンの頼みを聞いて戦場を監視していた。
「よぉ、この前は世話になったな」
フォビオは怒りを押し殺し、静かに語り掛けた。
「おやおや? これはこれは、フォビオ様ではありませんか?」
「魔王になり損なったフォビオ様。魔王ミリムに負けちゃったフォビオ様! あの時はアタイ達の役に立ってくれてありがとう!」
涙目の道化の少女は、フォビオをからかい馬鹿にするように、クルクルと回りながら歌うように挨拶した。
「へッ、俺を覚えていてくれたようで何よりだ。理由も分からなく殺されたんじゃ、可哀想だからな!」
フォビオはこれ以上の会話は不要だと考え、鋭い爪を伸ばして腹を掻き切ろうと動く。
高速で踏み込み、一瞬にして間合いを詰められたことに気づいた道化達は跳躍して攻撃を避けた。
更に状況は動く。
空間が歪み、そこから猪の頭部を持つ男——ゲルドが現れ、フットマンの頭部を割ろうと大剣を振り下ろす。
フットマンがそれを受け止めるが、その両手は震えていた。
「久しいなフットマン、俺を覚えているか?」
「確か
軽々しく言葉を返しながら、確かな重みがある拳でゲルドを吹き飛ばす。
一時的に間合いをとる形となった両者は、睨み合いながらも冷静に状況を分析した。
しかしそこで、フットマンが背後に忍び寄る存在に気づく。
「……はて、どなたですかな? 我々悪魔と縁を結んだ記憶はないのですが」
「キョキョキョ、初めましてっす。けど、我が主と縁を結ばれておられたので」
ティアと同程度の大きさをした白髪の悪魔、黒い双眸が二人を射抜くと丁寧にお辞儀した。
挟まれているこの状況、実力が未知数な悪魔を前に油断すれば一気に刈り取られる。
フットマンとティアは五感を極限にまで高め、次の一手を読み切ろうとする。
だからこそ、言葉が脳髄に刻み込まれる。
「我が主——エミルス様から二人へ伝言です。————。」
カブが嗤いながら言い放ったその内容は、確かにティアとフットマンの逆鱗を撫でた。
悲しみと怒りを上回る憎悪が二人を掻き立てたのだ。
「そう……アタイ達とよほど戦いたいみたいだね!」
「その言葉、後悔させてあげますよ!」
道化達の地雷を的確に踏み抜いた悪魔は、踊るようにして攻撃を回避する。
道化は心から笑えないが、悪魔は心から笑って生きるのだ。
カブはゲルドとフォビオがいる側へ移動すると、パンパンと手を叩く。
「攻撃は任せたっす」
「あぁ、申し分ない!」
ゲルドとフォビオは武器を構え、迫る道化達と相対する——
ダビッドはカリュブディスが出現する寸前、アルビスとヤムザの戦いを上空から観察していた。
エミルスの予測は正しかった。アイツなら、部下すら切り捨ててその死すらも最大限に利用するだろうと。
だからこそ、クレイマンが部下を捨てる瞬間を見逃してはならなかった。
五指のヤムザがカリュブディスの欠片を飲み込み、膨張した瞬間だった。
ダビッドは自身の物質体を媒体とし、名付けという繋がりを持ってエミルスの精神体を呼び出す。
主の為なら魂すら捧げるダビッドのユニークスキル『
主のスキルを一部代行することが可能という強力なスキルだが、今回は用途が違う。
エミルスのあらゆるものを侵食する『
「〝
エミルスの精神体がダビッドの身体を侵食し、この地に降臨する。
時刻はすでに、
とはいえ、クレイマンの慎重さ故なのかまだ扉をくぐっててはいない。
エミルスの精神体に身体を馴染ませるため、身体が急速に変化する。
姿形こそエミルスの姿そっくりだったが、紅色の悪魔の翼と禍々しく変貌したサークレットがその異質さを表している。
「……さっさと終わらせるぞ」
カリュブディスとして変異しつつある肉塊を睨みつけると、肉塊に向けて手を伸ばした。
「崩れ落とせ、
エミルスの掌から赤黒い霧が顕現し、カリュブディスの内部に侵入する。
抵抗する意志すらないまま、エミルスは目標の核に到達する。
ヤムザの魂に暴風の牙が届く前に————『侵食之王《ニーズヘッグ》』の口腔へ吞み込まれた。
リムルのように、外側から丸ごと飲み込むような技ではない。
その本質は崩壊。攻撃された本人ですら知覚できない不可視のダメージを負わせ、エミルスが関与したことすら知らぬまま自壊する究極のアンチウイルス。
自己矛盾を抱えたエミルスだからこそ、辿り着いた敵の躍らせ方だった。
とはいえ、これも侵食の一側面に過ぎない。
ヤムザの魂を回収したエミルスは、ダビッドの意識に語り掛ける。
「回収は完了した。よくやった……目が良いヤツに気づかれたみたいだが、上手く対処しろよ」
『畏まりました、エミルス様』
「俺はクレイマンのところに戻る。もう呼ぶんじゃねぇぞ」
エミルスはそう言い残すと、ダビッドに身体を返した。
悪魔の身体に精神を移すなど、一つ間違えれば精神ごと破壊されてもおかしくない。
だというのに、エミルスは何の躊躇いもなく憑依してみせた。
(面白い主に出会えた奇跡に感謝ですな……)
ダビッドは魂を食えなかった負け犬が煉獄の炎によって燃え尽きる様を見届けながら、改めて歓喜に浸るのだった。
◆
ティアとフットマンは思ったより苦戦していた。
ゲルドとフォビオ程度ならば遊ぶことすら可能であったのに対し、あの悪魔の参戦が選択を狭めている。とはいえ、悪魔が今回サポートに徹していることが幸いだろう。
もしそうでないならば——今頃生き埋めになっていたかもしれない。
ティアがゲルドに攻撃しようとしても、蔦に足が絡めとられる。ゲルドが立つ地面がいきなり盛り上がる。フットマンが遠距離から攻撃しようとすれば、いきなり土壁が出現し、砂埃が視界を奪う。ティアとフットマンは予想以上に苦戦していた。
カブのユニークスキル『
それは活動領域の構築であり、即ち全体の把握である。味方が動きやすい戦場を、敵が動きにくい地形を自由自在に動かすことができる。逃げようと転移魔法を展開しても、妨害工作を瞬時に作られる。
攻撃と防御、更に補助もできる万能型スキル。
敵に回れば厄介なことこの上ない。ティアとフットマンはそれを実感していた。
とはいえ、だ。
道化は危機になればなるほど笑うのだ。
「カリュブディスも倒されてしまいましたし、あの方に報告しなければなりませんので……!」
「……っ!」
遠くから援護していたカブの後ろにティアが入り込む。
蔦を絡めとられていたのはよくできた分身体だった。フットマンの周りの土埃が舞う一瞬の隙を突き、分身体と入れ替わることに成功した。
カブの意識が背後のティアに向いた。
「それでは皆さんさようなら!」
「また会いましょう~!」
ティアは攻撃するフリをして、瞬間移動。
フットマンもまた同じタイミングでこの場から消えた。
残されたのは、満身創痍のゲルドとフォビオ。
そして不貞腐れたカブだ。
「……してやられたっす」
しかし、カブの役目は果たした。
中庸道化連と接触し、主の言葉を伝えること。
結果として、彼等はエミルスの事を
この情報を持ち帰れることが喜ばしい。カブは心からそう感じたのだった。
次回 ワルプルギス