時計は八時を指していた。風呂は別々に入りご飯は食べ終わった。そして今。私は自分の部屋で勉強を教えていた。誰に?目の前の少女に。
数学を教える私とそれを聞いていた彼女。だんだん私の説明の相槌が減っていく。「え?」「え?」と彼女は疑問を繰り返す。
「ですから」、と私は何度も要点を繰り返し言う。大事なところを繰り返し何度も。彼女に伝わるように。それでも彼女の相槌はどんどん減っていく。そしてついに。
「あーもう。」
目の前の少女は突然、鉛筆を投げ飛ばした。それから宿題のプリントをぐちゃぐちゃに丸めて、それもまた放り投げた。私は困惑した。説明をする手を止めた。
「何しているんですの。」
私の言葉に彼女は耳を貸さなかった。おもむろに立ち上がると彼女はただ一つ、「帰る。」とそう言った。私は困惑に困惑を重ねた。開いた口は閉じなかった。
「あなたが教えてと言ったんですのよ。」
そんな言葉、彼女は聞かない。部屋を出る時、彼女は最後にこう言った。
「最悪。」
私は一人取り残された。
「…なんですのよ」
取り残された私は一人、正座をしたまま動けないでいた。机には私のプリントと彼女のぐしゃぐしゃになったプリント。床には彼女の鉛筆が転がっていた。
玄関扉が閉まる音がした。彼女は本当に帰ってしまった。
胸がチクリとした。
翌朝、私が登校すると、先生が誰かを叱っていた。手にはプリントを持って。怒られていたのは櫻子だった。彼女は今にも泣き出しそうであった。
私がその様子を戸惑いながら見ていると、先生の説教は終わりを告げた。
私がカバンを自席に掛けて、櫻子の元に近づこうとすると彼女は踵を返した。彼女は教室の外へ駆け出した。私が伸ばした腕は櫻子の腕を掴めなかった。
なんですのよ
彼女が教室に帰ってくることはなかった。
給食の時間になってもあの子は戻ってこなかった。私は赤座さんと吉川さんと机をくっ付ける。櫻子の席はそのままだ。今日の給食は磯辺揚げだった。妙な胸騒ぎがした。
けれども磯辺揚げは非常に美味で、私の箸は止まらなかった。私がもぐもぐ口を動かしていると赤座さんは言った。
「櫻子ちゃん来てないんだね。今日は磯辺揚げなのに。」
吉川さんは赤座さんの言葉にこう返した。
「向日葵ちゃんホントに何も知らないの?」
急に私に向けられた問いに私の口は止まった。目の焦点は吉川さんから逃げていた。吉川さんはふっと息を吐いて言った。
「あの向日葵ちゃんだよ、櫻子ちゃんのことならなんでも知ってるのにね。」
私は目を泳がせていた。吉川さんはそんな私を見ていた。
私は…私は…
胸の痛みが増していた。
放課後。終礼のチャイムが鳴ると私は一目散に教室を出た。赤座さんと古川さんは今日もごらく部で忙しい。私もまた行かなければならない所があるのだ。
教室を抜けて廊下を進む。足を動かすと、肩に引っ掛けた鞄が揺れる。鞄についたキーホルダーはジャラジャラと音を立てた。
そんな時、曲がり角で私はある女の子を見た。
私と同じキーホルダーをつけた女の子。櫻子くらいの身長に、櫻子くらいの歩幅。まさに櫻子。櫻子そのものだった。私は声をかけようと腕を伸ばした。そんな時、風が廊下を吹き抜けた。
私は思わず目を閉じた。慌てて伸ばしていた腕でスカートを押さえた。しばらくして風が止んだ後、私が再び曲がり角を見た時には櫻子の姿はすでになかった。
そこに櫻子はいなかったけれど、もしかしたら学校のどこかにいるかもしれない。家に帰らずにずっと学校のどこかで暇を潰していたのかもしれない。
トイレか体育館の裏か、それとも中庭で、ずっと朝から今の今まで一人で居たのかもしれない。
先生に怒られた櫻子はずっと一人で。
私は居てもたっても居られなかった。櫻子がいた曲がり角を抜けて走った。駆け足で駆け抜ける。私の前髪は靡いて鞄が揺れた。鞄をかけた肩は擦れて痛む。胸は揺れて足は重い。それでも私の足は止まらなかった。
櫻子だから。櫻子だもの。
足の速い櫻子に追いつくには私も走らないといけない。だから私は肺が痛くなっても転びそうになっても走る。誰に注意されても廊下を走る。
気づけば最上階に来ていた。目の前には屋上へつながる一本道。私の足は自然とそこへ向かった。
ここに櫻子はいる。
そう確信して呼吸の荒いまま私は屋上の扉に手をかけた。ガチャリと鈍い音がして重い扉を全力で押した。最後の力を振り絞って私は扉を開けて屋上へ身を乗り出した。
そこに櫻子はいなかった。
ただ傾く太陽が私の影を伸ばしているだけ。フェンスと私の他に見当たる物は何もない。
私はフェンスの方へ歩み寄った。屋上から見える景色は綺麗な物であった。初めて見た。屋上に初めて来た。屋上からの景色はひどく綺麗であった。
この街がこんなにも綺麗だなんて初めて知った。
フェンスの向こうには行けない。だから私の足はフェンスの前で止まった。私はフェンスの奥の街並みを眺めた。私の家が見えた。そのすぐそばに櫻子の家。二人でよく遊んだ公園。二人でよく通った土手道。二人で通った小学校。
ぼんやりと景色が滲み出す。私は袖で目を拭った。
赤座さんの家が見える。そして吉川さんの家。最近行くようになったカフェ。最近仲良くなった先輩の家。生徒会のみんなで遊びにいった海。
「櫻子と一緒に見たかった。」
風が吹いた。私の言葉は風に乗って空へ飛んでいく。太陽は今にも沈みそうだった。町の奥に消えていく太陽。その光は眩しくて私は思わず目を逸らした。それから私はそっとその場から離れた。
生徒会室には行かなかった。私の足がそこに向かうのを拒否していた。だって私は…
ポケットに入れた携帯が振動した。杉浦先輩からの通知だった。それからしばらくして携帯が鳴り出した。電話が掛かってきたのだ。私は携帯の画面を見ることなく電源を切った。そしてポケットから鞄の奥底へスマホを移動させた。
鞄につけたキーホルダーを代わりに掴んで私は走り出した。
私は走る。風は向かい風。まるで私の足を止めるように。だから私はもっと力を入れて踏み込んで走った。
土手道に辿り着くと茜色に染まった川面が見えた。走るのも悪くないと思った。
しばらく走った後、私の足は止まった。目の前には大きな家が聳えていた。私は一つ、息を吸ってから息を吐いた。ここまでくるのに時間がかかった。走るだけでない。私は迷いすぎた。
本当に迷って迷って。あの子の気持ちさえも忘れそうになっていた。一番忘れてはいけないあの子のことを。
やっとですわね。
私は口に手を当てた。
「あそぼーよー。」
恥ずかしかった。第一声は小さかった。だから今度は大きく息を吸ってから叫んだ。
「あそぼーよ。」
第二声は大きかった。カーテンがかかっていた窓はガラッと開かれた。女の子の顔が見えた。ついに見えた。私は言った。
「櫻子、あそぼーよー。」
彼女は私と同じように無邪気に口に手を当てて叫んだ。
「なんで?」
私は大きな声で言った。
「私が」
「遊びたいから」
とんでもなく遠い距離。外にいる私と2階の窓際に立つ彼女。でももうその距離は存在しない。
「遊んで」
「私が遊びたいから」
「外で?」と聞く彼女の顔は笑顔だった。私もまた笑みが溢れた。「とにかく来て」と言う私の言葉の後、彼女は窓から姿を消した。どたどたと音がして、それからすぐに玄関の扉が開かれた。彼女の全身がようやく見えた。
「どこで遊ぶの?向日葵。」
そう呼ぶ彼女に私は抱きついた。思わず彼女を抱きしめた。彼女は暖かかった。良い匂いがした。私の鼓動は波打っていた。彼女は戸惑っていた。それがまた可愛かった。
「公園で遊んで、土手道を一緒に歩いて、それからね。」
「それから、久しぶりに小学校を見にいきましょう。それに、櫻子の部屋でまた遊びたいですわ。それでそれで…あ、屋上にも行きましょう。」
「どうしたの急に。」
櫻子は抱きしめられながらもキョトンとした声を上げる。
困惑した櫻子の顔が面白くて思わず声を上げて笑ってしまう。
茜色に染まった町の中で、私は櫻子の手を引いて公園に向かった。
もう忘れないですわよ、櫻子のこと