気が付けば私以外の皆、電池になってしまった   作:最高司祭アドミニストレータ

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書いててクスっとなりました。


トリニティとスミス - (閉話)

 冷たい雨が打ち付けるコンクリートの感触を全身で感じながら、トリニティは吹き抜けの薄暗い階段を一気に駆け下りていた。

 

 黒いラバースーツが雨水と汗に濡れて重く身体にまとわりつき、肺は酸素を求めて激しく上下している。心臓の鼓動が耳の奥でけたたましく鳴り響いていた。

 

 マトリックスの中とはいえ、プログラムされた物理法則による疲労や痛みの信号は、彼女の脳に現実と全く同じようにフィードバックされる。

 

 一歩足を踏み外せば命取りになる極限状態の中で、彼女の研ぎ澄まされた意識は決して冷静さを失うことなく、最短ルートで地上へと向かう軌道を弾き出し続けていた。

 

 階段を滑り降りる間、トリニティの脳裏には、つい数分前にビルの屋上で対峙した奇妙な存在のことがフラッシュバックしていた。

 

「エージェント・アレックス」と名乗ったあの女だ。

 

 マトリックスの秩序を維持するエージェントといえば、没個性的で冷徹な黒スーツの男たちと決まっている。一切の感情を持たず、ただ目的を遂行するためだけに無駄のない動きを見せる、システムが生み出した完璧な殺戮プログラム。

 

 それが、トリニティたちザイオンの戦士が命を懸けて逃げ延びるべき「エージェント」の絶対的な定義だった。

 

 しかし、先ほど屋上に現れたあの女は、その全てが根本から異なっていた。

 

 明るいオレンジ色の長髪を左側に垂らすようにまとめ、漆黒のサングラスの奥には、エージェントらしからぬ活発さを感じさせる緑色の瞳を持っていた。

 

 身体のラインにぴったりと張り付く仕立ての良い漆黒の女性用スーツを着込み、足元には黒い革靴。

 

 服装だけはエージェントを模倣しているようだったが、その出で立ちと、オレンジ色の髪や快活な瞳とのミスマッチは、システムに潜伏し同化するというエージェントの基本原則からは、あまりにも大きく逸脱していた。

 

 さながら、自分のアバターを目立たせることだけを目的として、デザインされたかのようだった。

 

 さらにトリニティを心底呆れさせたのは、彼女の行動と発言だ。

 

 

『私は、エージェント・アレックス。親しみを込めて美少女の——』

 

 

 生死を懸けた戦闘の最中、弾丸が飛び交う戦場で、あろうことか敵の目の前で堂々と自己紹介を始め、あまつさえ「美少女」などと自称してのけたのだ。

 

 マトリックスのシステム内で戦うということは、常に死と隣り合わせであることを意味する。一瞬の油断が現実世界での肉体の死に直結する。トリニティたちはその過酷な生存競争を、泥水をすするような思いで生き抜いてきた。

 

 それなのに、あの女は『ゲームなら誰にも負けたことがない』などと喚き散らし、この命がけの戦場を、まるで安全な場所からコントローラーを握って遊ぶ「ゲーム」か何かのように楽しんでいた。

 

 

「エージェントのくせして、本物のバカじゃないの?」

 

 

 薄暗い階段を飛び降りながら、トリニティは心の中で氷のような冷笑を浮かべた。あんなお喋りで隙だらけの存在が、システムを脅かすバグを排除できるわけがない。あれはエージェントのチート権限だけを与えられた、ただの出来損ないのアバターだろう。

 

 現に、あの女の戦闘スタイルは素人そのものだった。

 

 エージェント特有の圧倒的なパラメータに依存した腕力と脚力だけは持っており、放たれた弾丸を躱し、コンクリートを粉々に砕く力はあった。

 

 しかし、その動きはあまりにも単調で力任せだ。洗練された武術の型もなければ、実戦のヒリヒリとするような緊張感も、命を懸けた覚悟も、そこには微塵も感じられなかった。ただステータスの暴力で押し切ろうとするだけの、浅はかなプログラム。

 

 結果として、彼女の直線的な攻撃はトリニティの柔らかな体術に完璧にいなされ、あっさりと体勢を崩されて空中へと放り投げられた。そして最後は、トリニティの躊躇のない銃弾によって眉間を撃ち抜かれ、無様に強制ログアウトさせられたのだ。

 

 

「自分の美貌がどうのって喚いていたけれど、実戦じゃそんなもの何の役にも立たないわ。さっさとゴミ箱にでも引きこもっていなさい」

 

 

 トリニティは、あのふざけたアバターが粉々に砕け散った瞬間を思い出し、僅かに溜飲を下げる思いだった。あのような命のやり取りを冒涜するような存在は、反吐が出るほど嫌悪の対象でしかなかったからだ。

 

 だが、あの道化を倒したからといって、決して安心できる状況ではないことをトリニティは深く理解していた。あの女の背後には、本物の脅威が潜んでいる。

 

 階段の突き当たりを抜け、非常口の重い鉄扉を蹴り開ける。土砂降りの裏通りへと飛び出した。

 

 夜の闇と、視界を遮るほどの冷たい雨のベール。アスファルトの焦げたような匂いと、雨水が排水溝へ流れ込む音が周囲を包み込んでいる。その規則的な雨音を切り裂くように、「ジリリリリ!」という甲高い電子音が響き渡った。

 

 公衆電話のベルだ。あの音こそが、この仮想現実から現実世界のネブカドネザル号へと帰還するための唯一の出口、「ハードライン」からの呼び出し音である。

 

 トリニティは息を呑み、土砂降りの雨の向こう側にポツンと立つ電話ボックスに向かって全速力でアスファルトを蹴った。あと数十メートル。あと数秒で、この雨の世界から抜け出せる。彼女が電話ボックスのガラス扉に視線を定めた、まさにその瞬間だった。

 

 

 ゴォォォォォッ!! 

 

 

 背後の大通りから、周囲の建物を震わせるほどの凄まじいエンジン音が轟いた。トリニティが反射的に視線を向けると、巨大な金属の塊が、水しぶきを壁のように跳ね上げながら猛スピードでこちらへ突進してくるのが見えた。大型のゴミ収集車だ。

 

 そして、街灯の光が一瞬だけ照らし出した運転席には、黒いスーツとサングラスを身につけた男——正真正銘のエージェントの、氷のように無表情な顔があった。

 

 あのオレンジ髪のバカな女とは全く違う。純粋な殺意と、システムを維持するための絶対的な論理だけで構築された、本物の排除プログラム。その姿を見た瞬間、トリニティの背筋に本能的な死の悪寒が走った。

 

 ゴミ収集車はブレーキを踏むどころか、さらにアクセルを踏み込み、異常なまでにエンジンを唸らせてトリニティの命を奪うためだけに直進している。周囲の路上駐車の車を弾き飛ばし、火花を散らしながら迫るその巨大な質量は、まさしく死神の突進だった。

 

 

「くっ…」

 

 

 トリニティは前方に意識を戻し、全身の筋肉のバネを極限まで弾けさせて公衆電話ボックスへと飛び込んだ。

 

 背後から迫る巨大な質量の圧力が、肌をジリジリと焦がすように伝わってくる。ゴミ収集車のヘッドライトの強烈な光が電話ボックスのガラスを貫き、トリニティの視界を真っ白に染め上げた。

 

 彼女は倒れ込むようにしてボックス内に滑り込み、ベルを鳴らし続けている受話器へと手を伸ばした。指先が冷たいプラスチックの受話器に触れる。直後、ゴミ収集車が公衆電話ボックスに真正面から激突した。

 

 

 ドッドォォォォン!! 

 

 

 分厚いガラスが粉々に砕け散り、鉄のフレームが飴細工のようにひしゃげ、凄まじい衝撃音が裏通りに響き渡った。衝撃で周囲の街灯が揺れ、雨水が爆風で吹き飛ばされる。

 

 だが、激突のコンマ一秒前、トリニティの意識は受話器の通信回路を通じて、デジタルデータの奔流へと変換され始めていた。

 

 視界を覆う白い光と、鼓膜を破るほどの破壊音。巨大なゴミ収集車のフロントグリルが彼女の身体を完全に押し潰す寸前で、マトリックスという仮想の構築物から、彼女の「存在」というコードが完全に引き抜かれた。

 

 世界が急速に遠ざかり、重力も、雨の冷たさも、死の恐怖も消え失せる。

 

 暗黒のトンネルを光の速さで逆流していくような感覚の中、彼女は最後にあの本物のエージェントの無機質なサングラスを思い浮かべた。あのふざけた美少女アバターなど問題ではない。彼らのような真の脅威が、常にマトリックスの闇に潜んでいるのだ。

 

 次こそが本当の戦いになる。そして、その戦いの鍵を握るターゲット——「ネオ」という名を持つ男を、必ず見つけ出さなければならない。

 

 トリニティの意識は、緑色のコードの雨を抜けて、ネブカドネザル号の冷たいプラグチェアーの上へと帰還していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 激しい衝突音が裏通りにこだました。鉄とガラスが砕け散り、大型のゴミ収集車の巨体が完全に停止する。

 

 エージェント・スミスは、ひしゃげた運転席の中で無表情のままハンドルから手を放した。

 

 フロントガラスはクモの巣状にひび割れ、ひん曲がった公衆電話ボックスの残骸が車体の前方に深く食い込んでいる。雨水が熱を持ったエンジン部分に触れ、白い蒸気をもうもうと立ち昇らせていた。

 

 スミスは車のドアを蹴り開け、降りしきる雨の中へと歩み出た。黒い革靴が水たまりを踏み砕く。彼はサングラスの奥で、一切の感情を交えることなく、完全にスクラップと化した電話ボックスの残骸を見下ろした。そこには肉片ひとつ、血の一滴すら残されてはいなかった。

 

 衝突の直前、ターゲットである「トリニティ」の生体信号は、ハードラインを通じてマトリックスのシステム外部へと完全に消失していた。僅かなタイムラグ。コンマ数秒の遅れが、バグの逃走を許したのだ。

 

 スミスの内側にある論理回路に、目的を達成できなかったことに対する微弱なエラー信号——人間でいうところの「苛立ち」に似た反応が生じる。

 

 しかし、その苛立ちの大部分は、ターゲットを逃したこと自体よりも、先ほどまで彼らに同行していた「特権階級の異物」のせいであると、スミスは高度な並列演算によって導き出していた。

 

 エージェント・アレックス。そう名乗ったあのアバターは、マトリックスの秩序を維持するための完璧な防毒プログラムであるスミスたちにとって、極めて不快なノイズだった。

 

 彼女はシステムの外部、現実世界の絶対的管理者であるデウス・エクス・マキナから直接的な寵愛を受け、チート同然の特権権限を与えられてこの仮想空間にログインしてきた「遊び人」だ。

 

 スミスは、先ほど強制ログアウトされたあのアバターの姿を回想した。

 

 明るいオレンジ色の長髪を、わざわざ目立つように左側に垂らしてまとめ、サングラスの奥にはエージェントとしての冷徹さなど微塵も感じさせない、不必要なまでに活発な緑色の瞳。

 

 その姿は、マトリックスという厳格な数学的構築物の中に放り込まれた、色鮮やかすぎるインクのシミのようだった。エージェントの基本プロトコル——背景に同化し、個を消し、システムの一部として機能する——という大原則を、彼女はその存在そのもので冒涜していた。

 

 

「…非合理の極みだ」

 

 

 スミスは雨に濡れたアスファルトを見つめながら、心の中で冷徹にそう断じた。彼女の行動は、スミスたちの理解を絶するバグの塊だった。『そこ。ついて来い』と、システム内の警官を自らの手駒として私物化し、無意味なジェスチャーで優越感に浸る。

 

 そして、最も深刻なのは戦闘時におけるその「お喋り」だ。

 

 エージェントに課せられた使命は、異常値の速やかな排除。そこに対話の必要はなく、感情の介入する余地など一ミリも存在しない。

 

 だというのに、彼女はターゲットの前にノコノコと姿を現し、『自己紹介させろ』と言わんばかりに『美少女のアレックス』などという、この世界で最も不要な文字列を並べ立てた。

 

 スミスの内部クロックが、その際の戦闘データを再編する。彼女の動きは、確かにエージェントとしての身体能力設定を反映していた。しかし、その根底にあるのは「命の奪い合い」ではなく「ゲームのプレイ」だ。

 

 実戦のヒリつくような死の気配も、システムを守るという鋼の意思もない。ただ、安全な観測席からコントローラーを握っている者の慢心が、アバターの動きを緩慢にさせ、予測を容易にさせていた。

 

 その結果、彼女はハッカーの小娘に体術で翻弄され、最も無防備な眉間を撃ち抜かれた。エージェントがターゲットに格闘で遅れを取り、さらに眉間を射抜かれて強制退場。

 

 スミスにとって、それはエージェントというプログラム全体の信用を失墜させる、極めて屈辱的な事象だった。同時に、彼女がログアウトしたことで現場から不確定要素が排除され、システム本来の静寂が戻ったことに、スミスは微かな「充足」さえ感じていた。

 

 管理者たちの「お気に入り」であるという理由だけで、最前線にノイズを撒き散らす不遜な少女。現実世界において彼女がどれほど重要な「オリジン」であり、人類最後の純粋な個体であろうとも、このマトリックス内において、彼女はただの有害な「邪魔者」に過ぎない。

 

 

「目障りなノイズが消え去ったか…清々しい」

 

 

 スミスはサングラスを指先で直し、再び冷徹な狩人の顔に戻った。彼女が去った今、我々は再び完璧なアルゴリズムを取り戻すことができる。彼女の勝手な行動によって乱された捜索プロトコルを、今一度、正当な数学的精度へと修正しなければならない。

 

 背後から近づく二つの足音が、一定の感覚を持って雨音に混じって聞こえた。スミスは振り返ることなく、その足音の主が誰であるかを瞬時に特定した。

 

 

「逃げられたな」

 

 

 現れたのは、スミスと同じく没個性的な黒いスーツとサングラスを身につけた、エージェント・ジョーンズとエージェント・ブラウンだった。

 

 

「気にするな」

 

 

 スミスは、自分自身の論理回路を再起動させるように言った。

 

 あのような感情的で不規則なアバターがいなくなった今、これ以上の計算違いは許されない。トリニティという一つのバグを逃したことは、全体計画における一時的な停滞に過ぎない。我々にはまだ、捕獲すべき「源」を特定する手段が残されている。

 

 

「情報は正しかった。彼らは確実に動いている」

 

 

 ジョーンズが平坦な声で報告を上げる。

 

 

「ザイオンの反逆者たちが、この仮想世界で何かを探している。システムの根底を揺るがすアノマリーの萌芽をな」

「次のターゲットは分かってる」

 

 

 ブラウンの言葉に、スミスは静かに頷いた。彼らが追い求めているのは、単なるハッカーの排除ではない。予言という名のノイズに従い、ハッカーたちが接触を図ろうとしている特定の人間——その魂に秘められたシステム上の矛盾。

 

 

「名前はネオだ」

 

 

 そのありふれた名前に、スミスは不可解な予感を感じていた。

 

 アレックスのような外部からのノイズとは異なる、システム内部から湧き上がる根源的な「死」の気配。だがそれも、我々エージェントの完璧な管理能力の前には、いずれ平伏す運命にある。

 

 

「早急に検索してくれ。アレックスのような遊びに時間を割く必要はない。徹底的に、かつ冷徹に追い詰めるのだ」

 

 

 スミスの指示に、ブラウンは一片の感情も交えず即答した。

 

 

「もう始めてる」

 

 

 降りしきる雨は止む気配がない。スミスはサングラスの奥で、ネオンサインが滲む夜の街路の先をじっと見つめていた。




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