気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「在り続けるアレックス」とでも呼んでくれたまえ。
前回の屈辱的な強制ログアウトから一夜明け、私の精神的なダメージもようやく回復しつつあった。
あの後、ゼロワンの地下要塞にあるふかふかのベッドで一晩中クッションを殴り続け、アバターの顔面を蹴り抜いたトリニティと、生意気なスミスへの恨み言を並べ立てたものだ。
しかし、TVAエージェントとしての経験が、私に冷静さを取り戻させた。「感情に振り回されて歴史の観測を怠るべからず」。これは鉄則だ。
それに私は学んだ。マトリックスという仮想現実の中に直接アバターでログインし、調子に乗って格闘戦を挑むのは、リスクとリターンが見合っていないと。痛覚センサーを切っていても、あんな風に眉間を撃ち抜かれればシステムエラーで不快な思いをするのだ。
だから、これからは方針を変更することにした。名付けて、「絶対安全! スペクター・モード観測大作戦」だ!
これはゼロワンの管理者権限をフル活用し、マトリックス内のあらゆる監視カメラ、電話線、そしてプログラムのバックドアから、システムのアノマリーであるターゲットの動向を、神の視点で眺めるというものだ。
私の姿は誰にも見えないし、誰も私に触れることはできない。高みの見物を決め込みながら、ポップコーンでも食べていればいいのだ。これぞ、真の美少女の戦い方である。
さて、私の目の前にある巨大なモニター群には、マトリックス内の様々な情報が緑色のデジタルコードと共にリアルタイムで表示されている。
その中で、スミスたちが血眼になって探していた「次なるターゲット」——つまり、システムが救世主の候補として弾き出した男の生活パターンを、私は完璧に特定し、追跡していた。
「トーマス・アンダーソン、ねぇ」
私はストローで冷たいオレンジジュースを啜りながら、メインモニターに映し出された一人の男の姿を観察した。
場所は、マトリックス内にある巨大な高層ビル。大手ソフトウェア会社「メタ・コーテックス社」のオフィスだ。男はスーツを着て、薄暗いパーティションで区切られた小さなデスクに座り、死んだ魚のような目でパソコンのキーボードを叩いていた。
青白い顔色に、目の下には濃いクマ。猫背で、いかにも覇気がない。彼が、トリニティたちザイオンの反逆者が探し求めている「救世主」?
正直、拍子抜けだ。もっとこう筋骨隆々で、最初からスーパーマンみたいなオーラを放っている男かと思っていた。だが、モニターに映っているのは、絵に描いたような「しがない社畜のプログラマー」でしかない。
しかし、私の持つデータは、彼の別の顔を雄弁に物語っていた。彼は表向きはただの会社員だが、裏では「ネオ」というハッカー名で活動するクラッカーなのだ。夜な夜な違法なプログラムの売買を行い、あらゆるシステムのセキュリティを突破する天才。
そして何より、彼自身も気づいていないが、このマトリックスという世界そのものに対する根源的な「違和感」を抱え込んでいる。まるで、自分が夢を見続けているかのような、現実の手触りのなさを。
「おや、お呼び出しだ」
モニターの中のネオが、びくっとして立ち上がった。彼が向かった先は、ガラス張りの立派な個室。上司であるラインハートのオフィスだ。私は音声傍受のボリュームを上げた。
『遅刻もいい加減にしたまえ、アンダーソン君』
ラインハートは、いかにも権力に固執する小役人といった風情で、ネオを冷たく見下ろしていた。
『君は自分が特別な人間で、会社のルールに従う必要はないと思っているようだが、それは大きな間違いだ。この会社は君の趣味の場ではない。メタ・コーテックス社の一部として協力して歩むか、それとも別の道を選ぶか。その「選択」は君次第だがね』
うわぁ、耳が痛い。私自身、TVA時代に上司から似たような小言を言われたことがある。「君は自由すぎる。もう少し、組織の歯車としての自覚を持ちたまえ」とか何とか。その時は「歯車になるくらいなら、歯車をぶっ壊す側になりますよ」と言い返して、怒られたものだが。
ラインハートの言う『選択』という言葉。私は思わず、あの白髭のプログラム——アーキテクトの顔を思い浮かべた。
マトリックスは人間に「選択」を与えることで、安定を保っている。ラインハートという人間を通して、ネオという異常値に「社会への順応」か「逸脱」かの選択を迫っているのだ。
ネオは何も言い返さず、ただ俯いて説教を聞き流しているだけだった。彼はまだ、自分がどれほど重要な存在なのかを全く理解していない。
「まあ、社畜生活も悪くないと思うけどね。給料をもらって、適当に生きていくのも一つの道だ」
私がそんな呑気な感想を漏らした直後だった。ネオが自分の小さなデスクに戻った時、監視カメラの映像にノイズが走った。
「ん? 外部からの不正アクセス?」
私はコンソールのキーを叩き、通信の暗号化を解除する。
ネオのデスクに、いつの間にか小さな小包が置かれていた。差出人は不明。彼が不審そうにその包みを開けると、中から出てきたのは、ピカピカの携帯電話だった。そして、彼がそれを手に取った瞬間、着信音がけたたましく鳴り響いたのだ。
「来たか…!」
私は身を乗り出した。ネオが恐る恐る電話に出る。
『やあネオ。私だ』
通信回路から聞こえてきたのは、深く威厳のある男の声だった。伝説的ハッカー、そしてザイオンの重要人物。モーフィアスだ。
『私の言うことを聞け。彼らが君を追ってきている』
『彼らって…誰だ?』
『エージェントだ。立ち上がり、自分の目で確かめてみろ』
モーフィアスの指示に従い、ネオがゆっくりと立ち上がってパーティション越しにフロアを見渡す。その瞬間、私のモニターにも、彼らの姿がはっきりと映し出された。
オフィスビルの入り口から、三人の男が迷うことなく歩み入ってくる。黒いスーツ、黒いネクタイ、そして決して外されることのないサングラス。エージェント・スミス、エージェント・ブラウン、エージェント・ジョーンズの三人だ。
「うげっ、スミスだ」
昨日、私のアバターを冷酷に分析し、「目障りなバグ」扱いした憎きスミス。彼らは政府の人間という設定で、警察や軍よりも上位の権限をこのマトリックス内で持っている。
彼らが現れたということは、ネオが「排除」あるいは「利用」すべき対象として、完全にシステムにロックオンされたことを意味していた。
『どうすればいい!?』
『パニックになるな。私の指示通りに動けば、ここから逃げ出せる』
ここから、私という観測者も舌を巻くような、見事な遠隔誘導の逃走劇が始まった。モーフィアスは、まるでメタ・コーテックス社の見取り図と、エージェントたちの動線を完全に把握しているかのように、ネオに的確な指示を出していく。
『空いているキュービクルに入れ。…今だ、隣の通路へ移動しろ』
ネオは心臓をバクバクさせながら、生体モニターの数値が跳ね上がっている。スミスたちの視線をすんでのところで躱し、オフィスの中を這うようにして進んでいく。
エージェントたちは、プログラム特有の無駄のない動きでネオのデスクへと向かい、彼がいないことに気づくと即座にフロアの封鎖を開始した。
「すごいな、モーフィアス。完全にスミスたちの裏をかいている」
私は素直に感心した。だが、その逃走劇も、やがて限界を迎える。モーフィアスがネオを導いた最終地点は、オフィスの最奥にある窓際だった。
『外へ出ろ』
『なんだって!?』
『窓を開け、外壁の足場を伝って屋上へ向かうんだ』
ネオは絶句し、窓の外を見下ろした。高層ビルの遥か下、ミニチュアのように小さな車が行き交っている。私はモニター越しにその高度を見て、「うわぁ…」と顔を引きつらせた。いくら仮想現実だと分かっていても、これは怖い。
ネオは震える手で窓を開け、冷たい風が吹き込む外壁の足場へと一歩を踏み出そうとした。が、彼の中の「人間の本能」が、それを強烈に拒絶した。
『無理だ…! こんなの狂ってる! 落ちたら死ぬんだぞ!?』
『ネオ、選択するんだ。私を信じて進むか、彼らに捕まるかだ』
ネオはまだ「救世主」ではなく、ただの高所恐怖症のプログラマーでしかなかった。彼が足をすくませ、手すりにしがみつこうとしたその瞬間、手から滑り落ちた携帯電話が、遥か下方の路上へと吸い込まれるように落ちていった。
「あーあ、やっちまった」
私はストローを噛みながら呟いた。通信手段を失い、逃げ道を絶たれたネオ。彼は窓を閉め、両手を挙げてオフィスの中へと戻ることを選んだ。自力での逃走を断念し、システムへの投降を選択したのだ。
すぐに、黒スーツの男たちが彼を取り囲んだ。エージェント・スミスがネオを見下ろし、冷徹な口調で告げる。
『トーマス・アンダーソン君。我々は君を待っていた』
ネオは両脇を、エージェント・ブラウンとジョーンズに固められ、有無を言わさず連行されていく。彼らがネオを捕らえた理由は、単なる違法ハッキングの罪を問うためではない。
ネオがモーフィアスという「最大のバグ」に近づこうとしていたからこそ、エージェントたちは彼を「追跡プログラム」を仕込むための最高の囮として利用しようと企んでいるのだ。
「さてさて、ここからがいよいよ本番だね」
私はメインモニターの映像を、メタ・コーテックス社から、警察が厳重に警備するビルの中にある、外部から完全に遮蔽された薄暗い「取り調べ室」へと切り替えた。
そこには、パイプ椅子に座らされ、怯えきった表情のネオと、彼の前に立ち、書類の入ったファイルを開くエージェント・スミスの姿があった。
「スミスによる、伝説の取り調べの開始だ。ポップコーンの用意はできているぞ」
次回は、「スミス、アンダーソン君の混乱ぶりにご満悦」。さぁて、次回もサービスサービスゥ!