気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントのアレックス! 親しみを込めて、どうぞ「美少女のアレックス」とでも呼んでくれたまえ。
さて、私の目の前にある巨大なモニター群には、マトリックス内の特定の座標——警察が厳重に警備するビルの中にある、外部から完全に遮蔽された薄暗い「取り調べ室」の映像が映し出されている。
私はゲーミングチェアに深く腰掛け、手元のグラスから冷たいオレンジジュースをストローで啜りながら、その息が詰まるようなやり取りを特等席で観測していた。
モニターの中央には、冷たい金属製の机を挟んで二人の男が対峙している。
一人は怯えと混乱で顔を強張らせ、パイプ椅子に縛り付けられるようにして座っているトーマス・アンダーソン。通称「ネオ」。
もう一人は、黒いスーツと黒いネクタイを隙なく着こなし、威圧的なサングラスをかけたエージェント・スミスだ。
『ご覧の通り、君は二つの生活を送っている』
スミスの低く、感情の一切こもっていない平坦な声が、冷え切った取り調べ室に響く。彼は机の上に分厚いファイルを開き、ネオの個人情報が記載された書類をペラペラと捲りながら、ネオの「二重生活」を容赦なく暴露し始めた。
『一つは、大手ソフト会社であるメタ・コーテックス社の有能なプログラマー、トーマス・アンダーソンとしての生活。君は社会保障番号を持ち、税金を払い、管理された社会の歯車として真っ当に生きている』
スミスはそこで言葉を切り、ネオの顔を覗き込んだ。
『だが、もう一つの生活がある。君はコンピューターのネットワーク上で「ネオ」という名で呼ばれるハッカーだ。あらゆる電脳犯罪に手を染め、違法なプログラムを売買している。法律など全く気にも留めていない』
ネオは息を呑み、必死に平静を装おうとしていたが、視線は泳ぎ、指先が微かに震えている。
「ふむふむ。見事なまでの身辺調査だな」
私はジュースの氷をカラカラと鳴らしながら、スミスの尋問テクニックに感心していた。対象の逃げ道を物理的にも精神的にも完全に塞ぎ、圧倒的な情報量でマウントを取る。エージェント・プログラムの基本にして究極のやり方だ。
『我々の目的はただ一つだ、アンダーソン君』
スミスはファイルを閉じ、机の上に身を乗り出した。
『我々が探している男がいる。名をモーフィアスという。君も聞いたことがあるはずだ。彼は世界で最も危険なテロリストだ。我々は彼を捕らえたい』
エージェントたちの真の目的。それは、この仮想現実システムを根底から揺るがすバグの象徴、「モーフィアス」の排除だ。彼らはネオ自身に興味があるわけではなく、ネオをモーフィアスへと繋がる情報源として利用しようとしているのだ。
『君の犯罪歴を全て帳消しにしてやろう。その代わり、我々に協力し、モーフィアスを我々に引き渡すのだ。悪い取引ではないだろう?』
スミスの提案は、一見すると極めて魅力的だ。普通の人間であれば、すべての罪を許され、平穏な日常に戻してもらえる代わりに、顔もよく知らないテロリストの情報を売るという取引に、あっさりと飛びつくだろう。
モニター越しのネオは、少しだけ俯き加減になり、皮肉めいた笑みを浮かべながら口を開いた。
『ああ、かなりイイ取引のようだな』
おっ、あっさりと乗るのか? いや、あの目付きは屈服した人間のそれじゃない。
ネオの答えを聞いたスミスは、ゆっくりと顔からサングラスを外し、机の上に置いた。その無機質な顔にプログラムらしからぬ、いかにも人間を小馬鹿にしたような柔和な微笑みを浮かべてネオを見つめ返す。
『賢明な判断だ。君なら、我々の意図を理解してくれると信じていたよ』
得意げに微笑むスミスだが、ネオは違った。ゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐにスミスを見据えて言ったのだ。
『だが協力するより、これはどうかな。きっとすっきりするぜ』
そう言い放つと同時に、彼は机の上に右手を突き出し、エージェント・スミスに向かって堂々と中指を立ててみせたのである。
「おおっ! やるじゃないかトーマス・アンダーソン!」
死んだ魚のような目をしている、しがない社畜プログラマーだと思っていた男の思わぬ反骨精神。私はジュースのストローから口を離し、思わずモニターに向かって拍手をしてしまった。システム内で神に等しい権限を持つエージェント相手にファックサインとは、なかなかにロックだ。
ネオの挑発を受け、スミスの顔から微笑みがスッと消え失せた。元の氷のような無表情に戻った彼は、ゆっくりと机の上のサングラスを手に取り、再び目元を隠す。
『そうかアンダーソン君、がっかりしたよ』
冷え切ったスミスの声に怯むことなく、ネオは震える声を振り絞って睨み返した。
『ゲシュタポみたいに脅すのはやめろ。俺には権利がある。電話を一本かけさせろ。弁護士を呼ぶ』
「あーあ、言っちゃった」
私は思わずモニターに向かって苦笑した。ゲシュタポ、つまり独裁国家の秘密警察の比喩か。確かに彼らのやり方は強引で陰湿だが、相手が悪すぎる。
弁護士を呼ぶ権利。それは現実の人間社会の法律で定められた、極めて正当な権利だ。しかし、彼が今いる場所は、人間社会のルールなど一切通用しない、機械が構築したシステムの内側なのだ。
エージェント相手に人間の法律を盾に取ろうとするなど、腹を空かせたライオンに向かって交通ルールを守れと説教するようなものである。
スミスのサングラスの奥で、システム的な冷たい怒りが閃いたのが見えた。
『電話をかけて、一体誰と話すというんだ? 君には口がないというのに』
スミスのその言葉と同時に、モニターの中のネオの顔に異変が起きた。ネオが何かを言い返そうと口を開いた瞬間、彼の上下の唇が、まるでロウソクが熱で溶け合うようにドロドロと融合し、完全に塞がってしまったのだ。
『ムグッ!? ウンガァァッ!』
自らの口を完全に失い、パニックに陥ったネオが椅子から転げ落ちて後ずさる。顔の下半分がのっぺらぼうのように塞がれ、呼吸もままならない。喉の奥から漏れるくぐもった悲鳴が、取り調べ室に不気味に響く。
私はその光景を見て、思わず顔をしかめた。
「うわぁ、エグい。視覚効果の使い方が生々しすぎるだろ」
マトリックス内では、すべての現象はデジタルコードによって制御されている。エージェントはシステムの管理者権限を持っているため、接続されている人間の仮想的な肉体のコードを直接書き換えることが出来るのだ。口を塞ぐなんて、彼らにとってはパラメータを少し弄る程度の、ごく簡単な作業に過ぎない。
口を塞がれ、激しい恐怖のあまり壁際で喘ぎながら暴れるネオ。その滑稽で無惨な姿を見下ろしながら、スミスは口角を嫌らしく歪め、実に楽しそうにニヤニヤと笑みを深めた。自らに逆らったバグが恐怖に歪む姿を観察して、エラー信号のような優越感に浸っているように見える。
『押さえろ』
ネオが協力を完全に拒絶したため、エージェントたちは強硬手段に出た。取り調べ室の隅に控えていたエージェント・ブラウンとエージェント・ジョーンズが無言で歩み寄り、パニック状態で暴れるネオを背後から無造作に掴み、冷たい床へと乱暴に押さえつける。
四肢の自由を奪われ、床で芋虫のように身をよじるネオを見下ろし、スミスは上着の内ポケットから小さな銀色のケースを取り出した。そして、何かの儀式でも行うかのように、ゆっくりと蓋を開けた。
「…出たな、最悪のアイテムが」
私はジュースを飲むのをやめ、モニターを凝視した。ケースの中に入っていたのは、金属質で構成された、エビや虫のようにうごめく不気味な機械だった。多数の鋭い足がカサカサと動き、先端には太い注射針のような触覚がついている。
『君は我々に協力することになる。必ずな』
スミスがその機械を摘み上げ、床で押さえつけられているネオの腹部へと落とした。金属の虫は、まるで自らの意志を持っているかのように、彼のおヘソの穴へと狙いを定めた。
『ウグゥゥゥッ!! ンンンンッ!!』
口を塞がれたネオが激痛と恐怖に悶え苦しむ中、虫の機械は鋭い触覚をおヘソに突き立て、ネオの皮膚の下、体内へとズブズブと潜り込んでいく。皮膚の下を虫が這い回るリアルな膨らみが、カメラに克明に映し出されていた。
「うげぇ…何度見ても気持ち悪い。見てるこっちまでお腹が痛くなってくる」
私は自分のお腹をさすりながら、ブルリと身震いした。人工ボディだから実際に痛むわけではないが、精神的ブラクラ映像としては特級品だ。
この「虫のような機械」の正体は、マトリックス内における「追跡プログラム」を視覚化したものだ。
ソフトウェアであるプログラムを、仮想世界内で対象の内部コードに強制的に書き込むためのインストーラー。それを、人間が最も本能的な恐怖を感じる「寄生虫」という形で物理的に表現しているのだ。システムの設計者は、よほど人間の嫌がることを熟知しているらしい。
彼らの目的は、ネオをモーフィアスへと繋がる情報源、あるいは彼をおびき出すための「囮」として利用することだ。この虫を体内に仕込んでおけば、ネオがマトリックス内のどこにいようと、彼の現在位置のコードを常に特定することができる。
エージェントたちは、ネオがモーフィアスと接触するその瞬間を待ち構え、一網打尽にするつもりなのだ。
「ネオの内部コードに追跡プログラムのインストール完了、と。これでエージェントたちの作業は終了だな」
私はコンソールを操作し、視点を切り替えた。ネオが取り調べ室で恐ろしい処置を受けた直後、マトリックスのシステムはネオの意識を強制的にリブートさせた。
パッとモニターの映像が切り替わる。場所は、薄暗く散らかったネオの自宅アパートのベッドの上だ。
『ハァッ! ハァッ…!』
ネオは、まるで深い水底から引き上げられたように、ベッドの上で激しく飛び起きた。全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、荒い呼吸を繰り返している。彼は慌てて自分のシャツを捲り上げ、おヘソの周りを確認した。
そこには、あの金属の虫が潜り込んだような傷跡も、出血も、一切残されていなかった。
「ゆ、夢だったのか…? ただの、悪夢…?」
ネオは信じられないというように自分のお腹を撫でながら、震える声で呟いた。あまりの恐怖と、起きた後にお腹に物理的な傷跡が残っていないという事実から、彼の脳は自己防衛のために、先程の取り調べ室での出来事を「非常に生々しい悪夢」だったと思い込むように処理したのだ。
「残念ながら、夢じゃないんだよなぁ。君のお腹の中のコードには、バッチリと追跡プログラムが居座っている」
私はモニター越しに、混乱するネオを見下ろしながら独りごちた。
マトリックス内では、ソフトウェアが物理的な物体として表現される。あの虫も、ネオの仮想世界における「身体」に直接組み込まれた、コードの一部だ。現実世界の肉体に傷がついているわけではないが、仮想世界での彼の存在は既にエージェントによってマーキングされている。
ベッドの上に座り込むネオの顔には、安堵よりもさらに深い疲労と混乱が刻まれていた。
現実への違和感。彼が日々の生活の中でずっと感じ続けていた、「この世界は何かがおかしい」「自分は夢を見ているのではないか」という現実に根ざした違和感が、この生々しい悪夢の体験を通して、さらに決定的なものとして彼の中に深く根を下ろしたのだ。
「これで、彼が真実を求める準備は整ったというわけだ」
私はオレンジジュースの最後の一口を飲み干し、ストローからズズッと音を立てた。ベッドの上で頭を抱え、自分の正気すら疑い始めているネオ。彼の顔に浮かぶ、現実と虚構の境界線が完全に崩壊したかのような絶望的な表情は、観測者としては最高にご飯が進む…もとい、ジュースが進む光景だ。
エージェントたちの手口は極めて狡猾だ。システム内で物理的な「傷」を残さないことで、対象の脳に「あれはただの悪夢だった」と強烈な自己暗示をかけさせる。そうすれば、対象は自ら進んで精神的な孤立を深め、外部の助けを求めることを躊躇するようになる。
その一方で、システムのコードレベルでは確実にマーキングを完了しており、対象が次に「危険分子」と接触した瞬間に、網を一気に引き絞る手筈が整っているのだ。
「さて、スミスたちのお手並み拝見といこうじゃないか」
私は空になったグラスをテーブルに置き、キーボードを叩いて監視システムのログを保存した。エージェントたちは、あの虫のプログラムを通じて、ネオの視覚、聴覚、そして位置情報を完全に掌握したはずだ。
彼が次にモーフィアスからのコンタクトを受けた時、一体どのようなトラップが発動するのか。そして、トリニティたちザイオンの反逆者は、完全にエージェントの監視下に置かれたこの「囮」を、どうやって救出するつもりなのか。
「まさか、腹を裂いて虫を引っこ抜くなんて野蛮な真似はしないだろうね? ハッカーなんだから、もっとスマートにコードをデバッグする方法を見せてほしいものだけど」
私は冷たい人工ボディの奥底で、好奇心が心地よく満たされるのを感じていた。
マトリックスという巨大なシステムの中で、一人のプログラマーの運命が大きく動き出している。エラーの象徴である彼が、これからどのようにして機械の思惑とハッカーたちの期待に挟まれ、踊らされていくのか。
「この壮大なシステムのバグ取り作業、観測者としてはこれ以上ない極上のエンターテインメントだよ」
アレックス「スミスさん…結婚してください!」
スミス「ふっ、すまない」
アレックス「信じられない程の破壊力! 私じゃなきゃ見逃しちゃうね!」
トリニティ「応援してるわ、スミス」