気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「世界一の特等席に座る観測者」とでも呼んでくれたまえ。
私は今、地下要塞の自室にある巨大なモニターの前で、足組みをしながらオレンジジュースをストローで啜っている。マトリックスという仮想現実の内部を、一切の物理的干渉を受けずに神の視点から覗き見る「スペクター・モード」。
このチート機能は、ゼロワンの管理者である私だけに許された専売特許だ。システムを管理するエージェントたちでさえ、回線を傍受したり通信ログを拾ったりすることはできても、私のように「どこにでもカメラを設置して完全に気配を消して覗き見する」ような芸当はできない。
だから私は今、誰にも邪魔されることなく、一人の男の運命が決定的に変わる瞬間を、極上のエンターテインメントとして楽しんでいるのだ。
モニターに映っているのは、土砂降りの雨が降り注ぐ、薄暗い橋の下だ。先日の取り調べ室での「悪夢」から目覚めたネオは、再びモーフィアスからの謎の連絡を受け、指定されたこの場所で雨に打たれながら立ち尽くしていた。
彼の顔には、疑心暗鬼と恐怖、そして何よりも「真実を知りたい」という強い渇望が張り付いている。
そこへ、水しぶきを跳ね上げて一台の黒い車が近づいてきた。車のドアが開き、ネオが促されるままに後部座席へと乗り込む。そこには、先日私のアバターを見事にボコボコにしてくれた黒いラバースーツの女、トリニティが待っていた。
「さあ、お手並み拝見といこうか。ハッカー君」
私はモニターに、少しだけ身を乗り出した。車内でネオを待ち受けていたのは、歓迎の言葉ではなく、銃口だった。後部座席に同乗していた別のハッカーがネオに銃を突きつけ、トリニティが彼に命令を下す。シャツを捲り上げろ、と。
ネオは抵抗したが、結局はトリニティの気迫に押されて渋々従った。トリニティが取り出したのは、注射器と掃除機を合体させたような、奇妙で無骨なガジェットだった。彼女はそれをネオの腹部、おヘソのあたりへと乱暴に押し当てる。
「やっぱりそれ、物理的に吸い出すんだな」
私はストローを噛みながら呟いた。トリニティが装置のスイッチを入れると、不快な吸引音が車内に響く。ネオが激痛に悲鳴を上げる。彼のお腹の皮膚の下を、何かが這い回るように逃げ惑うのが見えた。
そう。エージェント・スミスが取り調べ室で彼に植え付けた、「追跡プログラム」だ。
『そんな馬鹿なッ、あれは夢じゃなかったのか!?』
ネオは喚き散らすが、トリニティは無言で装置のレバーを引き続ける。やがて、ポンッ! という音と共に、透明なガラスのシリンダーの中に、血にまみれた金属製の虫が吸い出されてきた。虫はシリンダーの中でカサカサと不気味に動き回っている。
ネオはそれを見て、完全に言葉を失った。
彼が「悪夢」だと思い込んでいた、あのエグい取り調べ室での出来事。口が塞がり、虫がおヘソから潜り込んできた恐怖。それが彼の妄想ではなく、実際に起きていた事実だと証明された瞬間だった。
ネオの表情が、混乱からある種の「諦観」、そして「覚悟」へと変わっていくのが分かる。
「優秀なハッカーだね。システムの管理者権限で仕込まれたトラッキング・プログラムを、あんなアナログな自作ツールで強制デバッグしちゃうんだから」
私はトリニティの鮮やかな手際に、素直に感心した。彼女がその虫を取り除き、車の窓から外へ捨てたことで、エージェントの追跡は完全に断ち切られた。スミスたちの画面からは、今頃ネオの現在位置を示す信号がロストしているはずだ。
彼らはネオを「囮」として泳がせていたつもりだったが、逆にトリニティたちにそのマーキングを逆手に取られ、まんまと逃げられてしまったというわけだ。
エージェントの監視網を抜けた車は、雨の街を抜け、人気のない荒れ果てたビルへと到着した。トリニティに導かれ、ネオは薄暗い階段を上っていく。彼女は案内役として、ネオを現実世界へと引きずり出すための極めて重要な任務を完璧にこなしていた。
そして、重い鉄の扉が開かれる。
「ついにご対面だね。伝説のハッカーと、しがない社畜プログラマーの」
モニターに映し出されたのは、雷鳴が外を照らす薄暗い廃墟の一室。部屋の中央、古い革張りのアームチェアからゆっくりと立ち上がったのは、黒いロングコートを羽織り、鼻に挟むタイプの独特な小さなサングラスをかけた、威厳に満ちた男だった。
モーフィアスだ。彼はゆっくりと歩み寄り、ネオの前に立った。
『ついに会えたな、ネオ』
その声は深く重く、ネオの魂の奥底に響くようなトーンを持っていた。モーフィアスは、ネオを椅子に座らせ、自らも対面するように座る。そして、彼は語り始めた。ネオが日々の生活の中でずっと感じ続けてきた「世界に対する違和感」の正体について。
『君に真実を教えよう。君が感じていた違和感の正体。それは、「マトリックス」だ』
その言葉を聞いた瞬間、ネオの身体が微かに強張ったのがモニター越しにも分かった。
彼はこれまで何度も、ネットの深淵で、あるいはあの不気味な取り調べ室でエージェント・スミスの口から、その不可解な単語の断片を聞かされてきた。だが、それが一体何を意味するのか、誰も明確には教えてくれなかったのだ。
『マトリックスって…結局なんなんだ?』
ネオは乾いた唇を舐め、食い入るようにモーフィアスを見つめ返した。
『今まで出会って来た誰もが、その言葉を口にする。僕はずっとそれを探してきた。けど、それが実在するシステムなのか、それとも単なる概念なのかすら分からない。教えてくれ、マトリックスとは一体何なんだ?』
ネオの切実な問いかけに対し、モーフィアスは深く、静かな声で答えた。
『マトリックスとはすべてだ。至るところにある。今この部屋の中にも、君が窓から外を見る時も、テレビを点ける時も、教会に行く時も。それはそこにある。税金を払う時も、出勤する時も。君が真実を見ないように…それがマトリックスだ』
「疑問を抱かなければマトリックスこそが現実、というわけだ」
私は手元のオレンジジュースのグラスを揺らしながら、独りごちた。
アーキテクトが構築したこのシステムは、人間の脳が発する電気信号を完全にハッキングし、五感を完璧にシミュレートしている。彼らが見ている空も、触れている壁も、吸い込んでいる空気も、すべてはサーバーから脳に直接送り込まれたコードの羅列に過ぎない。
だが、そのコードの海の中で「これは本物だ」と思い込んでしまえば、それ以上の真実は必要なくなる。マトリックスの恐ろしさは物理的な檻ではなく、人間の認識そのものを檻にしてしまうところにある。
一度そのシステムに組み込まれれば、疑問を抱かない限り、死ぬまでその檻の存在にすら気づくことはないのだ。
『真実を見ないように…?』
ネオは混乱したように首を振り、眉根を寄せた。彼の脳内で、これまでの常識と、今突きつけられている未知の概念が激しく衝突しているのが分かる。
『真実って? 何が嘘で、何が本当なんだ? 僕が今まで生きてきたこの世界は、全部フェイクだっていうのか?』
『君は奴隷だ、ネオ』
モーフィアスは、冷徹な事実を淡々と告げた。
『生まれた時から牢獄に繋がれ、匂いも味も感触もない、心の牢獄に閉じ込められているのだ。誰もがシステムの電池として飼育されている。それが真実だ』
私はその説教を聞きながら、少しだけ苦笑した。「匂いも味も感触もない」って、それはちょっと言い過ぎじゃないか?
このマトリックスはアーキテクトが苦労して調整に調整を重ね、今や私が食べた天ぷらのサクサク感や、湯上がりの冷たい牛乳の喉越しまで完璧にシミュレートできるほど高精度に出来上がっているんだぞ。五感の再現性において、ゼロワンの技術力を舐めてもらっては困る。
まあ、現実世界の彼らの肉体は培養液の中で無数の管に繋がれているのだから、ザイオンの反逆者たちにとっては「偽物の味」であることに変わりはないのだが。
モーフィアスの言葉は、ネオの頭を激しく混乱させながらも、彼がずっと人生の底で求めていた「答え」そのものだった。彼が感じていた、世界に対する根源的な違和感。自分がどこかおかしな場所にいるという直感。それがついに、明確な形を持ったのだ。
そして、モーフィアスは懐から小さな金属のピルケースを取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。
「さあ、歴史に残る名シーンの始まりだ」
私はジュースのストローから口を離し、モニターを凝視した。この瞬間のために、私は退屈な監視を続けてきたと言っても過言ではない。
モーフィアスは両手を広げた。
彼の右の掌には「赤いカプセル」が。
左の掌には「青いカプセル」が乗せられていた。
彼は、ネオに真実を知るための「最後で唯一の選択」を提示する。マトリックスが安定を保つための大原則。アーキテクトがオラクルから学び、システムに組み込んだ「選択の自由」の究極の形がこれだ。無意識下ではなく、完全に意識的な選択を迫る。
『これは、君自身が決めなければならない。私が教えられるのは、真実の扉の場所だけだ。扉を開けるのは君だ』
モーフィアスの声が、雷鳴の響く部屋に静かに、だが絶対的な重みを持って響く。
『青い薬を飲めば、物語は終わる。君はベッドで目覚め、自分が信じたいと思うものを信じ、これまで通りの日常に戻るだろう』
それはつまり、マトリックスという仮想現実のシステムに完全に順応し、ゼロワンの優秀な「生体電池」としての平穏な生涯を全うするということだ。
取り調べ室でのエージェント・スミスの恐怖も、このモーフィアスとの出会いも、すべて「変な夢だった」と脳内で処理され、明日の朝からまたメタ・コーテックス社のしがない社畜プログラマーとしてキーボードを叩く生活が待っている。痛みも真実もない、無知という名の幸福。
『赤い薬を飲めば、君は「不思議の国」に留まる。そして私が、ウサギの穴がどこまで深いかを君に見せてやろう』
赤い薬。それは単なる象徴やプラシーボではない。
私の観測データによれば、あの赤いカプセルの正体は、ネオの精神と肉体をマトリックスのシステムから強制的に切り離し、現実世界にある巨大な発電プラントの中で、彼の肉体が入っているポッドの正確な位置を特定するための、「追跡プログラム(逆探知シグナル)」だ。
あれを飲めば、彼はシステムから異物として排出され、真実の世界——ダークストームによって太陽を失い、冷たい機械たちが支配するあの荒廃した現実の地球へと、文字通り引きずり出されることになる。
「赤か、青か。真実を知る勇気か、平穏な偽りか」
私はモニターの前で、ネオの顔をじっと見つめた。普通の人間なら、迷うだろう。いくら違和感があるとはいえ、今自分が立っているこの世界を「すべて嘘だ」と受け入れ、未知の地獄へと飛び込む勇気など、そう簡単に持てるものではない。
だが、ネオの視線は、全くブレていなかった。彼はスミスに中指を立てた時と同じ、静かだが確かな反骨精神を瞳に宿し、ゆっくりと右手を伸ばした。そして彼は迷わず「赤い薬」を手に取り、グラスの水と共にそれを喉の奥へと飲み込んだのである。
「…飲んだ」
私は小さく呟いた。これで、彼の運命は確定した。薬を飲んだ直後、ネオの周囲の景色——部屋の鏡や壁が、まるで液状化したようにドロドロと歪み始めた。赤い薬のトラッキング・プログラムが彼のシステム内のコードに干渉し、彼自身の意識をマトリックスから切り離すプロセスが開始されたのだ。
もちろん、彼が今すぐこの場で物理的に消え去るわけではないし、本人もまだ自分が「切り離されている」ことの本当の意味を自覚してはいない。
だが、彼の意識は確実に「マトリックス」から「現実」へと向かっている。やがて彼は、ゼロワンの広大な発電所の中で、無数のケーブルに繋がれ、ピンク色の培養液に浸かった「電池」として飼育されている自分自身の肉体で目覚めることになるだろう。
そこで彼は、太陽を失い、私が高みの見物を決め込んでいるあの荒廃した現実世界の住人として、過酷な第一歩を踏み出すことになるのだ。
「ようこそ、真実の世界へ──トーマス・アンダーソン君」
私はモニターの中で鏡の歪みに飲み込まれていくネオの姿を見届けながら、彼に歓迎の言葉を贈ったのだった。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!