気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
「赤か、青か。真実を知る勇気か、平穏な偽りか」
私はモニターの前で、オレンジジュースのストローを咥えたまま、一人ごちた。画面の中では、ネオが迷うことなく赤いカプセルを飲み込み、そしてすぐさまその効果——マトリックスという巨大な仮想現実システムからの物理的な「切断」の予兆である、液状化する鏡に飲み込まれようとしていた。
ネオの表情には恐怖と混乱が張り付き、彼を取り囲むモーフィアスやトリニティたちは、緊張の面持ちで彼の生体信号を監視している。彼らにとっては、まさに世界の命運を懸けた、息の詰まるような歴史的瞬間である。
だが、同じ歴史的瞬間を観測している私の手元にあるのは、緊迫感とは無縁の、見慣れたゲーム機のコントローラーだった。
「アンダーソン君、今ちょうど鏡に飲み込まれてるよ。鼻先まで銀色の液体が来てる」
私の視界は今、二つの空間に分割されている。メインの視界には、どこまでも広がるドット絵のような立方体で構成された世界——ゼロワンのプライベートサーバー内に構築された「マインクラフト」の広大な平原が広がっている。
そして、視界の隅に固定されたサブモニターには、現実世界の発電プラントと、マトリックス内のネオの状況がリアルタイムで映し出されていた。
私のマインクラフト内でのスキンは、前世のTVAエージェント時代——オレンジ色の長髪を揺らし、活発な緑の瞳を持つナイスバディな姿だ。私は今、莫大な数の金ブロックを使って、巨大な「金のリンゴ」のモニュメントをせっせと建築している最中である。
『あのアノマリーの処理は、私の計算式において端数でしかありません』
ヘッドセットから、硬質な声が返ってきた。声の主は、私から少し離れた場所で作業をしている、白髭の知的なアバター。マトリックスの創造主にして、マルチプレイ相手でもある「アーキテクト」だ。
彼は、マトリックスという数兆の変数を処理する究極のシミュレーターを設計したくせに、このシンプルなブロックの世界に異常なまでの執着を見せていた。
現在彼が取り組んでいるのは、一ミリの狂いもない完璧なシンメトリーを誇る、白亜の神殿の建築である。石英ブロックとネザークォーツの柱を驚異的な速度と正確性で積み上げていくその手際たるや、まさに「建築家」の名に恥じない。
「そう言わずに見守ってあげなよ。彼が君の部屋に到達するまで、時間がかかるんでしょ? 退屈だよね。今から彼が目覚める現実世界は、君たち機械が作った地獄みたいな発電所なんだから。彼がどんな顔をするか、ちょっとくらい興味ないのかい?」
私は緑色のブロックを配置しながら、冷やかした。サブモニターの中では、マトリックス内のネオが完全に液状化した鏡に全身を覆われ、叫び声を上げている。同時に、現実世界の巨大なポッドの中で眠っていたネオの肉体が、強烈なショックを受けて痙攣を始めていた。
『興味など皆無です』
アーキテクトは、チャット欄に「/fill」コマンドでも打ち込んでいるかのような恐ろしいスピードで屋根のブロックを敷き詰めながら、冷たく言い捨てた。
『これはシステムの安定化のための、単なるルーティンワークの一部。そのためのサイクルに過ぎません。今回もオラクルが、アノマリーに対して「愛」などという定義不能で余計な感情を植え付けなければ、もっとスマートかつ数学的に美しく処理できるのですが。彼女の介在は、常にノイズを生み出します』
「あはは。オラクルは、君のそのカチカチの頭を柔らかくするために配置されたんだから、仕方ないじゃないか。それにあのくらい情けないプログラマーの方が、ザイオンの連中もシンパシーを感じて勝手に盛り上がる。演出だよ、演出」
私は金のブロックを置き終え、自分の作った巨大なモニュメントを見下ろして満足げに頷いた。
「まあ、彼が赤い薬を飲んで目覚めるのも、君の部屋に到達するのも、すべてはタイムライン通りだよ。TVAにいた頃の感覚で言うなら、これは『カノン・イベント』ってやつ。彼が足掻こうがトリニティが頑張ろうが、大きな流れは変わらない。知らんけど」
『知らんけど、ですか。極めて非論理的な言葉の結びですね、アレックス様。私は不確定要素を嫌います』
「いいのいいの。人間なんて非論理の塊なんだから。だから君は今、こうして私と一緒にブロックを積んでいるんだろう?」
アーキテクトは反論を諦めたのか、あるいは建築の最終工程に集中しているのか、少しの間、沈黙した。
サブモニターの中では、ついに現実世界のネオが目覚めの時を迎えていた。これまでずっと彼を閉じ込めていたピンク色の培養液が、排水音と共にポッドの底へと抜けていく。
ネオは突然のことにむせ返り、気道を塞いでいたチューブを嘔吐しながら吐き出した。彼はまだ目が開かないのか、粘液にまみれた手で顔を覆い、もがき苦しんでいる。そして、彼がようやく薄目を開け、初めて「現実」というものを認識した。
見上げるほどの高さまで、何万、何億というポッドが連なる巨大な塔。空にはダークストームの黒い雲が垂れ込め、絶え間なく赤い雷鳴が轟いている。人類が機械のために生体電気を捧げるためだけに存在する、巨大な発電プラントのど真ん中なのだ。
「おおー、起きた起きた。最高にいい顔してるね!」
私はコントローラーの手を止め、サブモニターの映像に釘付けになった。
ネオは自分の身体に突き刺さっている無数のプラグ——後頭部、背中、腕、そして両足——に気づき、パニックに陥っている。彼は自分が、文字通り「電池」としてコンセントに繋がれていたという事実を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられたのだ。
「しかし、あのプラグの数、本当にえげつないな。あれだけ穴が開いていれば、そりゃあマトリックス内で超常的な力も使えるようになるだろうね。私にはあの穴がないから、こうして平和にVRで遊んでいるわけだけど」
私は自分のうなじに触れ、そこが滑らかであることを確認して安堵の息を吐いた。
ネオの心拍数が異常なまでに跳ね上がったことを検知し、メンテナンス・ロボットが彼のポッドへと飛来した。ロボットはネオの首根っこを冷たい金属のアームで掴み上げ、彼をシステムから完全に「排出」するための作業を開始する。
「おっ、ゴミ出しの時間だ」
ロボットのアームが、ネオの身体に接続されていたプラグを一斉に引き抜いた。バチン! という音と共に、ネオの身体がポッドから切り離される。
「不良品」あるいは「不要になった電池」としてシステムから弾き出されたネオは、足元のハッチが開き、真っ暗で巨大な排水用のダクトへと真っ逆さまに滑り落ちていった。
ザーーーッ!!
彼は、他の死体や廃棄物と共に流れる、冷たく汚い泥水の中を、無様に転がりながら流されていく。どこまでも続く暗い下水道のようなパイプ。息こそ出来ても、光は無い。これが、彼が「赤い薬」を選んだ代償だ。真実の世界とは、いつだってかくも残酷で汚らしいものなのである。
「救世主をあんな汚水と一緒に流して大丈夫? 途中で配管に詰まったりしない? ゼロワンのゴミ処理担当に、あとでクレーム入れておいた方がいいかな」
当然、アーキテクトからの返事はない。彼は今、自分の白亜の神殿の頂点に、最後のブロック——輝く「シーランタン」を設置しようとしているところだった。完璧な計算、完璧な対称性。彼にとって、この神殿の完成は、マトリックスのバージョンアップよりも心血を注いだ一大プロジェクトに違いなかった。
『完璧です。これぞ、私の求めた数学的調和の結晶…ッ!』
アーキテクトのアバターが、感極まったように両手を天に掲げようとした。まさに彼の手が最後のブロックに触れようとした、その瞬間だった。
ズズンッ…!!
私たちのいるプライベートサーバー全体が、突如として重低音と共に激しく揺れた。空の色が青から不吉な真紅へと反転し、画面の中央に、極太のシステムメッセージが強制的にポップアップしたのだ。
| DEUS EX MACHINA has initiated an override. ARCHITECT WORK TIME NO MORE GAMES. |
|---|
「あ、やば」
私は瞬時に状況を悟り、自分のアバターを神殿の陰へと隠した。指導者「デウス・エクス・マキナ」。ゼロワンの最高意志決定機関にして、私の上司…いや、私が総督だから立場上は部下なのか?
とにかく、あの顔面だけがやたらとでかい、厳格な機械の神だ。
『なっ…!? なぜ今なのですか!?』
アーキテクトのアバターが、空に向かって悲痛な叫びを上げた。
『あと一箇所! あと一箇所だけ設置させてください! 私の神殿が、あともう少しで完成するのです! デウス・エクス・マキナ様、お願いです! 数秒でいい!』
しかし、機械の神に慈悲はない。お遊びは終わりだという無慈悲な宣言と共に、アーキテクトのアバターの身体が、足元から徐々にポリゴンのノイズとなって崩壊し始めた。
『あぁぁぁっ! 私の、私のシンメトリーがァァァッ!』
断末魔のような叫びを残し、アーキテクトのアバターはブロックの破片のように空中に霧散した。現実世界の彼のメインフレームが、デウス・エクス・マキナによって強制的に本来の業務——マトリックスの安定化とエラー処理——へと引き戻されたのだ。
「…南無」
私は一人残された静かな平原で、アーキテクトが置き忘れた最後のシーランタンのブロックと、未完成のまま取り残された白亜の神殿を見上げた。
「上司が厳しいと大変だねぇ。まあ、勤務中にゲームやってた彼が百パーセント悪いんだけど」
オリジンである私には、デウス・エクス・マキナも強制ログアウトの権限を行使できない。この特権階級の甘い汁は、何度味わっても飽きないものだ。
サブモニターに視線を戻す。現実世界では、汚水の池に叩き落とされたネオが、暗闇の中で溺れかけていた。そこに、上空から眩いサーチライトの光が差し込む。トリニティたちが乗るホバーシップ「ネブカドネザル号」だ。巨大なクレーンが下ろされ、泥水まみれのネオがアームによって引き上げられていく。
「さて、救世主のモーニングルーティンも無事に終わったことだし。ネブカドネザル号での感動の再会は、また後でゆっくり見せてもらうとしよう」
私はゲーミングチェアの背もたれに深く寄りかかり、残っていたオレンジジュースを一気に飲み干した。彼が真実を知り、アーキテクトが強制的に仕事に戻され、そして私がこうして特等席でジュースを飲んでいる。
すべては、タイムライン通りなのだ。
知らんけど。
さぁて、次回も気合い入れていくぞ!