気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントにして、現在はゼロワンの地下要塞で優雅に隠遁生活を送る美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「在り続けるアレックス」とでも呼んでくれたまえ。
今日の私は、実に機嫌が良い。なぜなら、私の目の前には、ゼロワンのバイオ・プラントで丹精込めて育てられた最高級の牛肉を、センチネルの匠の技で焼き上げた極上のレアステーキが鎮座しているからだ。
外側は香ばしく焼き色がつき、ナイフを入れると内側からはルビーのような美しい赤身と、溢れんばかりの肉汁が顔を覗かせる。岩塩と粗挽きの黒胡椒だけのシンプルな味付けが、肉本来の旨味を極限まで引き出している。
「いただきます」
私は無表情のまま肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。…美味い。細胞の一つ一つに染み渡るような、濃厚で野性的な脂の甘み。人工ボディの味覚が歓喜のサインを出し、心の中ではSDキャラの私がスタンディングオベーションをしている。
これだ。これぞ「本物」の味。タンパク質とアミノ酸が物理的に結合した、現実世界の確かな質量。仮想の電気信号では絶対に真似できない、命の味がする。
私はステーキを堪能しながら、手元のタブレットでマトリックス内の特定の座標の監視映像を開いた。面白いことに、私と同じようにステーキを食べている男がいるのだ。仮想世界内の高級レストラン。重厚なインテリアと、耳に心地よいクラシックの生演奏。
そこに、二人の男が向かい合って座っていた。
一人は、黒いスーツに身を包み、常に不機嫌そうな顔をしたエージェント・スミス。そしてもう一人は、黒い革のコートを着た、頭の薄い男。ザイオンの反乱軍、モーフィアスの船「ネブカドネザル号」の乗組員である、ハッカーのサイファー。本名はレーガンだ。
「さあて、裏切りの宴の始まりだ」
私はワイングラスに注がれた葡萄ジュースを傾けながら、彼らの会話の音量を上げた。
『取引成立か? レーガン君』
スミスの低く、感情の一切こもっていない声がレストランの喧騒を切り裂く。サイファーはスミスの言葉にはすぐには答えず、自分の皿に乗った見事なレアステーキをナイフで切り分けた。フォークで肉片を突き刺し、うっとりとした目でそれを見つめる。
『ここにステーキは存在しない』
サイファーは、まるで哲学者のような口調でポツリと言った。
『俺がこれを食べると、マトリックスが脳に信号を伝えるだけだ。ジューシーで、美味いってね』
彼はそう言って、肉片を口に放り込んだ。そして目を閉じ、まるでこの世のすべての苦しみから解放されたかのように、恍惚とした表情でそれを咀嚼した。
「…かわいそうに」
私は手元の本物のステーキを切り分けながら、小さく呟いた。彼は知っているのだ。今自分が口にしている極上の肉が、ただのプログラムのコードである「1」と「0」の羅列に過ぎないということを。
どんなに美味しく感じても、それはサーバーが彼の脳に送り込んだ幻覚であり、現実世界では味気ないドロドロのお粥を食べるしかない、という現実。
『9年が過ぎて、どう思ったか』
サイファーは、ワイングラスを傾けながらスミスを見た。その瞳の奥には、長年の疲労と、現実世界に対する深い絶望が澱のように沈殿していた。
『無知は至福』
歴史に残る、あまりにも有名で、そして残酷な名台詞。真実を知ってしまったが故に苦しみ続けるよりも、嘘の中で何も知らずに心地よく生きたいという、究極の敗北宣言。
『取引は成立だな』
スミスはサイファーのポエムには一切の興味を示さず、事務的に確認した。
『記憶を消してくれ、全てだ。分かるな? 何も覚えたくないんだ』
『望みのままだ。レーガン君』
『金持ちになりたい。そう、有名人がいいかな。俳優とか』
『…』
『俺の体を発電所に戻して、マトリックスに繋いでくれ。そっちの要求は?』
サイファーがステーキを平らげ、本題を切り出す。
『ザイオンへアクセスするコードだ』
『だから言ったろ。俺は知らないんだ。知ってる奴を引き渡す』
『モーフィアスか?』
『ああ。ヤツをあんたらに売る』
交渉は成立した。サイファーは仲間の命と引き換えに、自分の記憶を消去し、甘い嘘の世界で「有名な俳優」として生き直す切符を手に入れたのだ。
「…ふむ。やっぱり、私はこっちの本物のステーキの方が好きだな」
私は残っていた肉片を口に放り込み、満足げに頷いた。電気信号のステーキよりも、センチネルが揚げてくれた天ぷらやステーキの方が、血肉になる感覚がしてよっぽどいい。
さて、取引が終われば、スミスもさっさと席を立つのかと思いきや、彼はワイングラスを弄りながら、不意にサイファーに向かって奇妙なことを口走り始めた。
『…ところでレーガン君。君はハッカーとして、システム内の様々なアノマリーを見てきたはずだな』
『あ? まあな。俺を誰だと思ってる? ネブカドネザル号のオペレーターだぜ…それがどうした?』
スミスはサングラスを微かに押し上げ、不快そうに顔をしかめた。プログラムが明らかに「私情」を挟んでいる顔だ。
『最近、極めて不快なノイズがシステムに干渉してきた。あれはザイオンの人間ではない。「エージェント・アレックス」と名乗った』
『ブッ!』
私は飲んでいた葡萄ジュースを吹き出しそうになった。なんだ!? なんで私の名前が出てるの!?
サイファーも呆気にとられた顔をしている。
『エージェント・アレックス? 知らねえな。モーフィアスもそんな名前は言ってなかった。なんだ、あんたらの仲間じゃないのか?』
『違う。あれは我々のプロトコルから完全に逸脱した、エラーの塊だ。自己紹介をし、無駄口を叩き、挙句の果てにトリニティに格闘戦を挑み、顔面を撃ち抜かれて消滅した』
「ぐっ…!!」
私は心の中で血の涙を流した。わざわざ私の黒歴史を、しかもこれから裏切ろうとしている人間に暴露するな! スミス、お前絶対に性格悪いだろ!
『なんだそりゃ。エージェントがハッカーに撃ち負けたのか? 傑作だな!』
サイファーが下品に笑う。スミスの顔がさらに険しくなる。
『笑い事ではない。私が不快なのは、あれが「エージェント」の姿と権限を騙りながら、エージェントとしての任務を放棄し、まるでゲームでも楽しむかのような非合理的な振る舞いをしたことだ』
スミスはナイフでテーブルをコツコツと叩きながら、苛立ちを隠せない様子で続けた。
『あれはウイルスだ。いや、ウイルス以下のゴミだ。もし再びあのノイズがシステム内に現れた場合、私は正規のエージェントとして、あのアノマリーを完全にデリートしたいと考えている。だが、管理者権限に保護されているため、通常の手順では排除できない。…君なら、ハッカーとしての君の視点から見て、ああいう「遊び半分のチート女」を確実に葬る方法に心当たりはないか?』
「はぁ!?」
私はモニターの前で立ち上がった。スミスめ、本気で私を排除するつもりか! しかも自分より見下しているはずの「人間」であるサイファーに、私を倒すためのアドバイスを求めている。エージェントとしてのプライドを捨ててでも、私というノイズを消し去りたいという彼の異常な執着。
『チート野郎の倒し方ねぇ…』
サイファーはステーキの余韻を楽しみながら、顎に手を当てて考え込んだ。
『簡単なことさ。そいつが「人間」の感覚を持ったままログインしてるなら、チート設定なんて関係ない。現実の肉体にダメージがフィードバックされるくらい、強烈な恐怖と苦痛を仮想空間内で与えてやればいいのさ。痛覚をオフにしてようが、システムが「死」と錯覚するくらいのトラウマを脳に直接叩き込むんだよ。例えば…目の前で大事なものがぶっ壊されるとか、絶対に逃げられない絶望的な状況に追い込むとかさ。そうすりゃ、チート女とやらはビビって二度とログインしてこれなくなる』
「このハゲ!!」
私はサイファーの的確すぎるアドバイスに、背筋が凍るのを感じた。確かに、前回のトリニティとの戦闘で撃ち抜かれた時、痛覚はオフだったにも関わらず、現実世界の私は激しい心拍数の上昇と恐怖を感じていた。
スミスがもし、本気で私を「トラウマを植え付ける」方向で狙ってきたら…。
『…なるほど。有益な情報だ。レーガン君、感謝する』
スミスはサイファーのアドバイスに満足げに頷き、サングラスの奥で不気味に目を細めた。
『アレックス。次に現れた時が、お前の最後だ』
「…」
私は無言で席に座り直し、冷え切ったステーキの残りを口に運んだ。先程までの極上の味が、今は砂を噛むようにパサパサとしている。スペクター・モードにしておいて、本当に良かった。
「絶対安全! スペクター・モード観測大作戦」の重要性が、これほどまでに証明された瞬間はなかった。
「スミスを見てると、Ms.ミニッツを思い出すなァ」
私はもう二度と、あんな危ない世界にアバターでログインしたりしないぞと、固く心に誓うのであった。
スミス、アレックスに対して殺意を抱く。