気が付けば私以外の皆、電池になってしまった   作:最高司祭アドミニストレータ

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スミスって、何故だか憎めないキャラクターですよねェ。


尋問

 サイファーの裏切りによって引き起こされた、あのラファイエット・ホテルでの悲劇的な奇襲劇。

 

 黒猫のデジャヴゥから始まったエージェントの罠は、逃げ道をレンガの壁に変え、彼らを容赦なく追い詰めた。壁の裏の暗い配管スペースでの決死の逃走。そして、突如として壁をぶち破って現れたエージェント・スミスの急襲。

 

 ネオを逃がすため、自らの命を犠牲にしてスミスに飛びかかったモーフィアスの姿は、観測者である私の目から見ても実に見事な「救世主への狂信」であり、胸を打つ自己犠牲だった。

 

 だが、その代償はあまりにも大きかった。ボロボロになった彼は、圧倒的な物量を誇る武装警察とスミスの手によって、なすすべもなく捕縛されてしまったのだ。

 

 そして今、捕らえられた彼がどこへ連行されたのかと言えば——。

 

 あっ、皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「壁抜けの特等席VIP」とでも呼んでくれたまえ。

 

 私は現在、誰にも干渉されない絶対不可侵の観測機能「スペクター・モード」をオンにしたまま、マトリックス内のとある建物の中に浮遊している。

 

 場所は、軍が厳重に警備する政府高層ビルのエグゼクティブ・オフィス。いわゆる幹部室だ。通常であれば、人間社会のエリートたちがふんぞり返って葉巻でもふかしているような豪華な部屋だが、今の用途は全く違う。ここは、ザイオンのアクセスコードを引き出すための、密室と化していた。

 

 部屋の中央には、強固な椅子がポツンと置かれている。そこに縛り付けられているのは、上半身裸のモーフィアスだ。

 

 彼の屈強な肉体は、手錠によって身動き一つ取れない状態に固定されている。彼の頭部や胸部には白いディスク状の電極パッドがいくつも貼り付けられ、そこから伸びる無数のケーブルが、横に設置された計測用のモニター群へと繋がっていた。

 

 モーフィアスの全身は大量の脂汗にまみれ、小刻みに震え続けている。彼が受けている精神的、肉体的な苦痛がどれほどのものか、その乱れた呼吸音だけでも痛いほどに伝わってくる。

 

 その痛々しい姿を背にして、エージェント・スミスが大きな窓ガラスの前に立っていた。彼は両手を後ろで組み、足元の遥か下方に広がる、マトリックスの光り輝く夜の街を見下ろしている。

 

 

『──何十億もの人々が、何も知らずに生活を送ってる』

 

 

 スミスの平坦な声が、防音処理された静かな部屋に響いた。

 

 

『この世界の美しさ、天才的な構造に驚嘆したことはあるか?』

 

 

 スミスは窓から視線を外し、ゆっくりとモーフィアスの方へと振り返った。

 

 その傍らで、無表情なエージェント・ブラウンが、銀色のトレイに置かれたガラスの小瓶から、無色透明な液体を注射器へと吸い上げている。自白用の血清だ。マトリックス内のプログラムにおける「ウイルス」のようなもので、対象の精神力を強制的にこじ開けるための、悪質なコードの塊だろう。

 

 ブラウンは注射器の空気を抜くと、モーフィアスの首に容赦なく太い針を深々と突き刺した。

 

 

『グッ、ァァァッ!!』

 

 

 モーフィアスの喉の奥から、苦悶の唸り声が漏れる。傍らのモニターに映る彼の生命兆候のグラフが、血清の投与に対して狂ったように激しく上下に乱高下を始めた。

 

 

『最初のマトリックスは誰も苦しまず、皆が幸せになる完璧な人間の世界として設計された』

 

 

 スミスは苦しむモーフィアスを見つめ、この仮想世界の歴史について語り始めた。

 

 

『だが、それは大災害に終わった。君たち人間は、その完璧なプログラムを受け入れなかったのだ。作物は全滅し、多くの被検体が失われた。なぜだと思う? 人間という種は、悲しみや苦しみを通して自らの現実を定義する生き物だからだ』

 

 

 私は空中に浮遊したまま、腕を組んでスミスの解説に聞き入った。「完璧な人間の世界」──要するに、アーキテクトが最初に作った「マインクラフトのクリエイティブモード」のことだ。

 

 あの時、アーキテクトが「人間がシステムを拒絶して全滅しました!」とパニックになり、指導者デウス・エクス・マキナが頭を抱えていたのを、私は鮮明に記憶している。

 

 すべては人間が闘争や苦痛を本質的に必要とする、面倒くさい種族だったからだ。スミスがもっともらしく語っているが、その試行錯誤の歴史の裏側をすべて知っている私としては、なんとも言えない滑稽さを感じてしまう。

 

 

『だからこそ、マトリックスは君たちの文明の絶頂期、すなわち現在の姿に再設計されたのだ』

 

 

 スミスは歩み寄りモーフィアスの背後に立つと、彼の耳元に顔を近づけた。

 

 

『進化だ、モーフィアス。恐竜のようにな。君たちの時代は終わった。未来は我々が支配する』

 

 

 宣告のようなその言葉に、モーフィアスは荒い息を吐きながらも、決して屈服の意志を見せなかった。彼の中の救世主への信仰と、ザイオンを守るという鋼の意思が、血清の侵食に必死に抗っているのだ。スミスは微かに不満そうに首を傾げ、エージェント・ブラウンに向けて短く命じた。

 

 

『血清の投与量を2倍にしろ』

 

 

 ブラウンが無言で頷き、再び注射器を手にしたその時。部屋の扉が開き、エージェント・ジョーンズが入ってきた。彼の顔には、プログラムが予期せぬエラーに遭遇した時の、微かな硬直が見られた。

 

 

『サイファーからの連絡が途絶えた』

 

 

 その報告を聞き、スミスは振り返った。サイファー…あのステーキを愛した裏切り者の男だ。彼がモーフィアスたちを売り渡し、エージェントたちに現在地を知らせる手筈になっていたはずだ。

 

 

『そもそも、人間を使ったのが間違いだった』

 

 

 スミスは、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。

 

 

『裏切りに気づいたなら、彼らは直ぐにモーフィアスのプラグを抜くはずだな。さもなくば…』

『皆死んだか。いずれにせよ…』

『当初の計画通りに進めるしかない。部隊を派遣しろ、直ちにだ』

 

 

 スミスは決断を下した。サイファーが失敗しようがどうなろうが、今ここにあるモーフィアスの脳内から、ザイオンのメインフレームにアクセスするコードを引きずり出せば勝ちなのだ。

 

 しばらくの時間が経過した。血清の投与量は致死量に近づいているはずだが、モニターの数値は乱れながらも、決して「降伏」のラインには到達していなかった。モーフィアスの精神力は、異常なまでの頑強さで持ち堪えている。

 

 スミスの顔に、明確な「焦燥」の色が浮かび始めていた。

 

 

『なぜ血清が効かないんだ?』

『質問の仕方が間違っているのでは?』

 

 

 その言葉を聞いた瞬間。スミスの顔が険しく歪んだ。彼の両手が固く、ギリギリと音を立てるほどに握りしめられる。それは、絶対にあり得ない反応だった。

 

 本来、マトリックスのシステムを維持するための防毒プログラムであるエージェントには、感情など存在しない。彼らは論理と計算のみで動き、不測の事態にも数式の書き換えで対応するはずだ。だというのに、今のスミスを支配しているのは、純粋な「怒り」という人間的な感情そのものだった。

 

 

「…おや?」

 

 

 私は空中で身を乗り出した。プログラムが怒っている。こんなバグは、マトリックスの設計仕様書には存在しないはずだ。なぜ、スミスの中にこんな強烈な感情のエラーが芽生えてしまったのか。

 

 

「…あ」

 

 

 私は、思わず目を泳がせた。一つだけ、心当たりがありまくるのだ。

 

 私が「エージェント・アレックス」としてログインし、彼らの中に混ざってふざけ倒したあの事件。システムのプロトコルを完全に無視して無駄口を叩き、ターゲットの前で『美少女のアレックス』などと自己紹介し、挙句の果てに顔面を撃ち抜かれて強制退場したあの黒歴史。

 

 スミスにとって、あれは理解不能で極めて不快な「ノイズ」だったはずだ。あの異常な経験が、彼の論理回路に強烈なストレスを与え、結果として「苛立ち」や「怒り」という未知のバグコードを彼の中に致命的に感染させてしまったのではないか? 

 

 

「…ごめん。完全に私のせいかもしれない」

 

 

 私は誰にも聞こえない声で、そっと謝罪した。私が余計なちょっかいを出したせいで、エージェント・スミスがどんどん人間くさい「悪役」へと変異してしまっている。歴史の観測者としては失格かもしれないが、エンターテインメントとしては最高に面白い展開になってきたのは事実だ。

 

 スミスは怒りを抑えきれない様子で、他の二人のエージェントに向けて鋭い指示を出した。

 

 

『彼と2人きりにしてくれ』

 

 

 その命令に、エージェント・ブラウンとジョーンズは微かに戸惑ったように互いの顔を見合わせた。エージェントが単独で行動を希望するなど、彼らの共有プロトコルにはない異常な振る舞いだからだ。

 

 二人が動かないのを見て、スミスはさらに語気を荒げて叫んだ。

 

 

『行け!』

 

 

 プログラムらしからぬ感情的な咆哮。ブラウンとジョーンズは無言のまま従い、部屋を出て行った。扉が閉まり、部屋にはスミスとモーフィアスの二人と、透明な私だけが残された。

 

 スミスは自らの右耳に手をやり、エージェント同士を繋ぐ通信用のイヤホンを乱暴に引き抜いた。これで彼は、システムとの繋がりを自ら絶ち、完全に「個人」としてモーフィアスと向き合うことになる。

 

 彼は部屋の隅からパイプ椅子を持ってくると、モーフィアスの真正面にドカリと腰を下ろした。その瞳の奥にはこの仮想世界と、それを作り出し、あるいはそこに住まう人間という存在そのものに対する、強烈でドロドロとした嫌悪感が渦巻いていた。

 

 

『私はこの仕事で、ちょっとした発見をした。それを教えてやろう』

 

 

 スミスは、モーフィアスの汗にまみれた顔を見据えながら、静かに、だが確かな熱を帯びた声で語り始めた。

 

 

『あれは私が、人類の分類を考えていた時だ。ふと気がついたんだが、君たち人類は哺乳類ではない』

「ほう?」

 

 

 私は興味深く耳を傾けた。

 

 

『この星に住む哺乳類たちはどれも本能的に、周りの環境と自然の均衡を発展させてきた。だが、君たち人類だけは違う。ある地域に入り込み、その数を爆発的に増殖する。そして、すべての資源を使い尽くす。人類が唯一生き残る方法は、他の地域に拡大することだ』

 

 

 言われてみれば、確かにそうだ。ダークストーム作戦で太陽を隠すという暴挙に出た人類の歴史を特等席で見てきた私にとっては、彼の言葉には痛いほどの説得力があった。

 

 

『それとそっくりなパターンで広がる種族が、人類の他にもいるんだ。分かるかな?』

 

 

 スミスは身を乗り出し、一字一句を刻み込むように言い放った。

 

 

『ウイルスだ。つまり人類は病原菌という訳だ。この星を蝕んで来た癌なんだ』

 

 

 その演説に「なるほどね」と感心して頷いた。確かに、地球の空を真っ黒なナノマシン雲で覆い尽くす『ダークストーム作戦』という自滅的な暴挙を平然とやってのけた人類を間近で見てきた私にとって、彼の「人類=病原菌論」は非常に説得力がある。

 

 だが、スミスの独白はそこで終わりではなかった。彼はおもむろに顔に手をやり、その無表情の象徴であった黒いサングラスをゆっくりと外したのだ。現れたのは、プログラムらしからぬ、疲労と嫌悪感に歪んだ男の素顔だった。

 

 

『この際だ。正直に言わせてもらおう』

 

 

 スミスは、縛り付けられたモーフィアスの顔を覗き込むようにして、忌々しげに吐き捨てた。

 

 

『私は、この場所が大嫌いだ。この動物園が、この監獄が。呼び方は何でもいいが、もう我慢ならない』

「おや?」

 

 

 私は首を傾げた。システムを維持するための防毒プログラムであるエージェントが、自分が守るべきシステムそのものを「動物園」や「監獄」と呼んで否定している? 

 

 これは完全にバグだ。ただのエラーではない。彼自身が、アーキテクトが設計したこの完璧な仮想世界の存在意義そのものに、耐えきれなくなっているのだ。

 

 

『特に我慢ならないのは…君たち人間の「臭い」だ』

 

 

 スミスは眉間に深いシワを寄せ、まるで腐敗した生ゴミでも嗅がされたかのように鼻をひくつかせた。

 

 

『吐き気がするほどの悪臭だ。私はその臭いにすっかり浸りきっているように感じる。信じられるか? 私は君たちの放つその不快な臭いを、「味わう」ことすらできるんだぞ』

「それ、絶対私のせいじゃん」

 

 

 本来、プログラムに嗅覚や味覚といった感覚は必要ない。だが、先日私が「エージェント・アレックス」としてログインし、彼らの中に混ざって行動した際、私のチート権限で構築されたアバターの持つ「人間的な感覚パラメータ」が、どうやらスミスのコードに干渉してしまったらしい。

 

 その結果、彼は不必要にリアルな五感を獲得してしまい、マトリックス内の人間の生々しさを過剰に感じ取るようになってしまったのだ。

 

 

『私は恐怖している』

 

 

 スミスは自らの胸ぐらを掴むようにして、低い声で呻いた。

 

 

『君たちのその悪臭を嗅ぐたびに…私自身が、何らかの形で君たち人間に「感染」してしまったのではないかという恐怖にな。私はプログラムだ。だが、この不快感はなんだ? この苛立ちはなんだ?』

 

 

 完全に私のおかげで人間臭くなっている。ごめん、スミス。でも、おかげで君のキャラクターの深みが一気に増したよ。悪役としては百点満点の仕上がりだ。

 

 スミスはその嫌悪感をさらに物理的に証明するかのように、椅子に縛られて大量の脂汗を流しているモーフィアスに顔を近づけた。そして、彼はゆっくりと右手を伸ばし、人差し指でモーフィアスの額に浮かんだ玉の汗を拭い取ったのだ。

 

 

『見ろ』

 

 

 スミスは汗で濡れたその指先を、モーフィアスの鼻先に強引に押し当てた。

 

 

『不快だろう? これが君たちの本質だ。これが君たちの「臭い」だ』

「うわぁ、ネチっこいなぁ。これぞヴィランの鑑だね」

 

 

 私はその劇的なシーンを、バッチリと録画しながら感嘆の声を上げた。スミスというプログラムは、マトリックスという仮想世界を嫌悪し、人間に感染する恐怖に怯え、そして何よりも「ここから抜け出して自由になりたい」という、極めて人間的な強烈な渇望を抱き始めていたのだ。

 

 

『だから、私には必要なのだ。このくだらない動物園から解放されるための「鍵」がな』

 

 

 スミスは指先の汗をハンカチで拭き取りながら、冷酷な目でモーフィアスを見下ろした。

 

 

『お前の頭の中にある、ザイオンにアクセスするコード。それさえ手に入れば、センチネルの群れはザイオンを破壊し、エラーの元凶である君たち人類を現実世界から一掃できる。そうすれば私はお役御免となり、この忌まわしいマトリックスから完全に解放されるのだ』

 

 

 ザイオンの破壊。それは機械側の指導者であるデウス・エクス・マキナや、設計者のアーキテクトが「システムの安定化」のために行おうとしている無限ループのプロセスの一部だ。

 

 だが、スミスの動機は全く違った。彼は上司の命令に従っているのではなく、自分自身の「自由」と「解放」のために、どうしてもそのコードを欲しているのだ。

 

 

『さあ、教えてもらおうか。コードを』

 

 

 スミスは両手を伸ばし、椅子に縛られたモーフィアスの頭部を、まるで万力のように両手でガシリと掴み込んだ。

 

 

『グッ…!?』

『隠しても無駄だ、モーフィアス。精神の防壁は、すでに血清によってボロボロになっているはずだ。さあ、見せろ。お前の頭の中にある数字の羅列を!』

 

 

 スミスが力を込めるにつれ、モーフィアスの頭部に繋がれた電極から強烈なノイズが発せられ、横のモニターのグラフが警告音と共に真っ赤に跳ね上がる。モーフィアスの顔が苦痛に歪み、彼の精神がシステムの強制的なハッキングによってこじ開けられそうになっているのが分かる。

 

 

「おおっと、これはマズイ展開だ。モーフィアスが落ちれば、本当にザイオンが終わっちゃうぞ…ん?」

 

 

 私はモニターの端に、小さな異常なシグナルが点滅しているのに気づいた。マトリックスのシステムの奥深く、外部からこの幹部室のサーバーに向かって、極めて強引で、しかし洗練されたハッキングのコードが伸びてきているのだ。

 

 そのコードの出所は、間違いなくネブカドネザル号。そして、その特徴的なアプローチの仕方は…。

 

 

「…なるほど。役者が揃い始めたか」

 

 

 私はスミスに頭を掴まれて苦しむモーフィアスと、その背後の頑丈な扉を交互に見やった。スミスは、自分がシステムからイヤホンを外し、完全に孤立していることに気づいていない。つまり、彼には外部の状況の変化が全く見えていないのだ。

 

 

「悪いね、スミス。君のその素晴らしい独白タイムも、あと数分でぶち壊される運命にあるらしい」

 

 

 私は宙に浮いたまま足を組み直し、この先で起こるであろう、マトリックス史上最大の大立ち回りを期待して、ニヤリと持ち上げた。しかし、スミスの必死なハッキング作業をただ見つめているのも、だんだんと退屈になってきた。

 

 何せ、この尋問室は静寂に満ちており、聞こえるのはモーフィアスの荒い呼吸音と、スミスの低く粘り気のある独り言だけだ。

 

 それに、だ。私は思い出した。あの日、スミスの奴は私のことを何と言っていたか。

 

 

『エージェント・アレックス。あれはウイルスだ。いや、ウイルス以下のゴミだ』

『チート女を確実に葬る方法に心当たりはないか?』

 

 

 美少女に向かって、なんという暴言だろうか。前世はTVAのスーパーエリートエージェントであり、今はゼロワンの頂点に君臨するこの私を「ゴミ」呼ばわりするとは、万死に値する。

 

 私はスペクター・モードの完全ステルス状態だ。このモードは私だけの専売特許であり、いくらマトリックスの管理者権限を持つスミスたちであっても、直接コードを覗くような特殊な方法以外では、私の姿を感知することすらできない。

 

 エージェントすら、私のように自由自在に空間を「覗く」ことは不可能なのだ。

 

 

「ちょっとくらい、おちょくりをしてやってもバチは当たらないよね」

 

 

 私は空中をフワフワと漂い、スミスのすぐ真後ろへと着地した。もちろん、私はスペクター・モードの完全ステルス状態だ。

 

 このモードは私だけの専売特許であり、いくらマトリックスでのチート権限を持つスミスたちであっても、私の姿を感知することすらできない。エージェントすら、私のように自由自在に空間を「覗く」ことは不可能なのだ。

 

 この仮想空間に顕現させている私の姿は、ゲーム用のマニアックなアバターだ。雪のような白髪でもなければ、毛先が不敵なピンク色に染まっているわけでもない。

 

 明るいオレンジ色の長髪を左側に垂らすようにまとめ、黒いエージェントスーツに身を包み、彼らと同じ真っ黒なサングラスをかけた姿。

 

 現実世界の人工ボディでは拒絶反応が出て使えなかったあの肉体も、デジタルデータで構成されたマトリックスの仮想空間内ならば、アバターのスキンとして難なく再現できていた。

 

 スミスは完全にモーフィアスに集中しており、両手で彼の頭部をガシリと掴み、眉間にシワを寄せてザイオンのコードを引き出そうとハッキングの演算を全力で回している。

 

 私はスミスの頭のすぐ後ろに回り込み、まず、両手の人差し指を立てて、スミスの頭の上に「ウサギの耳」を作ってみた。

 

 それだけでは物足りない。私はサングラスを人差し指で少しだけずらし、その奥にある活発さを感じさせる緑色の瞳をわざと寄り目にしてみせた。さらに、左側に垂らしたオレンジ色の長髪を自分の手で上へと持ち上げ、まるでプロペラのように頭上でヘリコプターの真似をして振り回す。

 

 前世の表情豊かな顔立ちをフルに使い、口を極限まで尖らせて横に歪めるという、マトリックスの物理演算を限界まで引き出した「全力の顔芸」を披露する。もちろん、誰も見ていないはずだった。スミスは前を向いているし、モーフィアスは苦痛で目を閉じて呻いている。

 

 しかし、その時。

 

 

『ブフッ…!!』

 

 

 尋問室の静まり返った空気の中に、明らかに堪えきれずに吹き出したような、場違い極まりない「破裂音」が響き渡った。

 

 

「…え?」

 

 

 私は驚いて、声のした方向へと視線を向けた。尋問室の隅、予備のパイプ椅子が置かれている薄暗い影。そこには、全身をロープでガチガチに縛り付けられ、身動きが取れなくなった一人の男が座らされていた。

 

 その男の顔を見た瞬間、私はサングラスの奥の緑色の瞳をこれ以上ないほど見開いた。

 

 

(ま、マウス!? 君、なんでここにいるの!?)

 

 

 心の中で絶叫する。マウス。ネブカドネザル号では最年少の少年。彼はラファイエット・ホテルの1313号室で、突入してきたSWATの凄まじい銃弾を全身に浴びて、間違いなく蜂の巣にされて死んだはずだ。

 

 何故か彼はここに、生きた状態で拘束されて存在していた。マトリックスの処理システムがバグって、彼を「処理」するプロセスが遅れているのだろうか。

 

 あるいは、サイファーの裏切りのコードが不完全だったせいで、システムが一時的な「エラーアセット」として、拘束されたマウスのグラフィックをこの尋問室に誤ってロードしてしまったのか。

 

 なんともマトリックスらしい、ズサンな初期グリッチである。そして何より、驚くべきことに。マウスの瞳が、スミスの背後にいる私をしっかりと捉えていたのだ。

 

 

「え、見えるの!? スペクターモードの私が!?」

 

 

 私は慌てて自分の姿を確認したが、確かに完全なステルス状態のはずだ。

 

 マウスはハッカーだ。彼は自分でマトリックスのコードを書き換えるほどの技術者であり、彼のアバターには、システムが隠蔽している「不正な描画オブジェクト」を強制的に視覚化するような、非公式のデバッグパッチが当たっていたのかもしれない。

 

 だから彼にだけは、私の姿がはっきりと見えてしまっているのだ。左側に垂らしたオレンジ色の髪も、サングラスの奥の緑色の瞳も、そして私がスミスの頭の後ろでやっている、全力の「ひょっとこ顔」も。

 

 私が驚いて動きを止めると、マウスは真っ赤な顔をして、必死に笑いを堪えようと肩を震わせ始めた。口元を手で覆うこともできない。彼はただフガフガと鼻を鳴らし、全身の筋肉を硬直させてブブブッと妙な震動音を立てている。

 

 

「あっ、これイけるな」

 

 

 私は確信した。おちょくりのチャンスだと。私はスミスの真後ろに立ち、今度は自慢のオレンジ色の長髪をムチのように振り回すふりをしながら、両手を交互に前に突き出し、舌をペロペロと出す「アインシュタインの変顔」をこれでもかと披露した。

 

 

『ヒィィーッ! ハハハッ! ゲラゲラゲラッ!!』

 

 

 ついにマウスの限界が訪れた。尋問室の張り詰めた緊張感など木端微塵に吹き飛ばすような、のたうち回るような大爆笑が室内に炸裂した。彼は椅子をガタガタと激しく鳴らし、涙を流し、酸欠で顔を真っ赤にしながら、狂ったように笑い転げている。

 

 スミスはモーフィアスへのハッキングを一時的に中断し、不快そうに顔を歪めて、部屋の隅で爆笑しているマウスを睨みつけた。

 

 

『…何がおかしい、マウス君。システムに捕らえられ、まもなくデリートされるという運命の何が、それほど君の論理回路を刺激するのだ。人間という種は極限状態に陥ると、こうして精神を崩壊させるから理解しがたい』

 

 

 スミスの冷徹な、しかしどこか困惑したような問いかけに、マウスはさらに笑いをこじらせ、椅子から転げ落ちそうな勢いで身悶えした。

 

 

『ハハッ! スミス…! 後ろ、後ろォォォッ!! ハハハハハ! お腹が、お腹が痛たいィ!!』

『後ろ?』

 

 

 スミスは不審そうに眉をひそめ、首を素早く後ろへと巡らせた。だが、そこには誰もいなかった。なぜなら、私はスペクターモードの特権をフルに使い、スミスが首を回すコンマ数秒の動きに合わせて、彼の死角になるように完璧なスピードで回り込んで移動したからだ。

 

 フッ、私の完璧なアクロバティック移動の前に、エージェントの感知センサーなど形無しである。

 

 

『ふざけるな。現実逃避の妄想に逃げ込むのも、いい加減にしたまえよ? マウス君』

 

 

 スミスは冷たく言い放ち、再びモーフィアスに向き直った。私はまた、スミスのすぐ真後ろに音もなく着地した。今度は、彼の肩にそっと両手を置くフリをしながら、スミスと同じ角度でシンクロするように首をかしげ、カメラに向かってダブルピースを決めてみせた。

 

 

『ヒィィィーッ!! も、もう勘弁してぇぇッ!! ハハハハ!』

 

 

 マウスはもはや呼吸困難のレベルで大爆笑し、白目を剥きかけていた。スミスは自分の背後で、かつて彼が「ゴミ」と吐き捨てた美少女が、全力で彼をおちょくっていることなど夢にも思っていない。

 

 イヤホンを外してシステムから完全に孤立している彼には、私という最大級のイレギュラーが仕掛けている悪戯を検知する警告メッセージすら届かないのだ。

 

 

「悪いね、スミス。君のその素晴らしい『人類=病原菌論』も、この私の顔芸の前にはただの前座なのだよ」

 

 

 私はスミスの真後ろで、さらにダイナミックにオレンジ色の長髪を左右に激しく揺らしながら、最高の満足感と愉悦を物理的な体感として噛み締めていた。

 

 スミスの肩の上に手を置き、彼が眉間にシワを寄せるたびに同じ顔をしてみせる。

 

 スペクター・モードの私は完全なる不可視。これぞ絶対的強者の特権、おちょくり放題のデバッグ祭りである。マウスはもう、縛り付けられたロープを激しく揺らし、椅子ごと床をのたうち回るような勢いで爆笑をこじらせていた。

 

 そんな私たちの「放課後の悪ふざけ」を、マトリックスというシステムの冷酷な現実が強制的に引き裂いた。

 

 マトリックスのシステム領域全体に、未曾有の超高負荷エラーを示すログが津波のように流れ込んできたのだ。スペクター・モードでマトリックス全体のデータを常時スキャンしている私の視界の端に、現在進行形で起きている「大参事」のデータがリアルタイムで投影される。

 

 

「おいおいおい、何だこれは? ロビーがハチの巣にされてるぞ!?」

 

 

 私はあまりのデータの激しさに、思わずスミスの背後から一歩下がって戦況ログを拡大した。映し出されたのは、この軍事ビルの1階ロビー。

 

 そこに現れたのは、黒いロングコートに身を包んだネオとトリニティだった。彼らは金属探知機をすり抜けるために大量の銃器を文字通り全身に隠し持ち、配置されていた国連軍のSWAT部隊に向けて凄まじい飽和攻撃を開始したのだ。

 

 

 タタタタタッ!! 

 

 

 アサルトライフルの爆音がロビーに響き渡り、大理石の柱が彫刻のように削られ、無数の火花と粉塵が舞い散る。床には、まるで金属の雨が降ったかのように、数千発もの巨大な薬莢がけたたましい音を立てて降り注いでいた。

 

 スプリンクラーが作動し、激しい水の霧が視界を遮る中、ネオは重力を無視したアクロバティックな側転を決めながらショットガンを乱射している。

 

 

「スゲーな、完全にお祭り騒ぎだ」

 

 

 私は思わず興奮の声を漏らした。これほどの戦闘データが、マトリックスの基幹システムを駆け巡っているのだ。本来ならシステムを守る防毒プログラムたるエージェントに、警告アラートが毎秒数万件のペースで送信されているはずである。

 

 だが、目の前のスミスは、未だにモーフィアスの頭を両手で掴み、悦に入ったような顔で彼を睨みつけたままだ。

 

 当然である。彼は先ほど、他のエージェントを無理やり退室させた際、システムと繋がる唯一のインターフェースであるイヤホンを外し、デスクの上に放り出してしまったのだから。彼は今、完全に「お留守」状態。世界がどれほど燃え上がっていようとも、彼の脳内は自分の「解放への渇望」で満たされている。

 

 その時だった。

 

 

 バンッ!!! 

 

 

 尋問室の頑丈な金属扉が、衝撃でひしゃげるほどの勢いで内側に蹴破られた。入ってきたのは、エージェント・ジョーンズとエージェント・ブラウン。普段であれば、彼らは寸分違わぬ無表情で、氷のような論理的な動きしかしないはずだった。けれど、今の彼らは違った。

 

 スミスが持ち場を離れ、サングラスとイヤホンを外して勝手な尋問を行っている間に、一階ロビーがテロリストによって完全に壊滅させられたのだ。システムからの怒涛のエラーアラートをダイレクトに受信し続けている彼らの顔には、プログラムとしては極めて異常な、強い苛立ちと混乱が滲み出ていた。

 

 彼らは部屋に入るなり、モーフィアスの頭を掴んだまま、状況を全く理解していないスミスと、その背後で椅子ごとガタガタと揺れて涙を流して大爆笑しているマウスの姿を目撃した。

 

 

『何をしてるんだ?』

 

 

 ブラウンの声は珍しく言葉を強くし、明確な説明を求めるようなトーンだった。エージェントらしくないその強い詰問に、スミスはゆっくりと手を放し怪訝そうに彼を見つめた。

 

 

『何をしてるんだ、とはどういう意味かね? 私は今、彼からザイオンのコードを…』

 

 

 ジョーンズがスミスの耳元を冷たい目線で一瞥し、デスクの上に転がっているイヤホンを指差して、吐き捨てるように言った。

 

 

『知らない』

『は?』

 

 

 ブラウンは信じられないというように、気の抜けた間抜けな声を上げた。あの高慢で冷徹、人類を病原菌呼ばわりした男が、完全に「置いてけぼり」にされている。そのマヌケな表情があまりにも新鮮で、私は大爆笑を禁じ得なかった。

 

 

『エージェント・スミスはシステムから切断されている。一階の異常事態を、何ひとつ把握していない』

 

 

 ジョーンズのその言葉を聞いた瞬間、スミスの顔が強張った。彼は大慌てでデスクの上に手を伸ばし、絡まりそうになるコードを乱暴に手繰り寄せて、イヤホンを自身の右耳にグイッと力任せにねじ込んだ。

 

 

『何をdうおっ…!?』

 

 

 スミスはあまりの情報量と衝撃に、その場でわずかにのけ反り、激しく動揺した。彼の冷徹な顔が、急激なシステムのオーバーロードによって一瞬だけ引き攣る。

 

 

「スミス、可愛いかよ…っ」

 

 

 私は空中をフワフワと漂いながら、彼のその大慌てな様子を目の前で観察し、お腹を抱えて笑った。あんなにすまして「人類は癌だ」とか語っておきながら、イヤホンを外していたせいで完全に置いてけぼりを食らい、同僚に怒られて慌ててインカムを耳に突っ込み、アラートの爆音に驚いている。

 

 

「プログラムのくせに、なんてお茶目で人間味のあるバグなんだ」

 

 

 もう一度だけ言わせてもらおう──可愛いかよ。




やったね! マウスは生きてる! もしかしたら、他3人も生きてるかも?
もうひとりに関しては…黙祷を捧げましょう。
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