気が付けば私以外の皆、電池になってしまった   作:最高司祭アドミニストレータ

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数年前まだ女子高生だった頃の夢を見ました。あれはそう…通学の時でした。バスに乗ったら、エージェントの格好をした運転手さんと目と目が合ったのです。目を閉じて開ければ、運転手さんが心配そうな顔をしておりました。

運転手さんは言いました…着替えてくるの忘れちゃった、と。
私は言いました…明日もその姿でお願いします、と。

次の日、運転手さんは制服に着替えておりました。サングラスだけで許してねと言っていらした運転手さん。それ以来、エージェントの格好で運転される姿は一度もありませんでした。

ちなみに黒服&サングラスで登校した私は、何故か満面の笑みを浮かべる風紀委員長に「ちょっといいかしら?」と肩を掴まれてしまいました。


ランニング・ハイとネオの脱出劇

 皆さんどうもごきげんよう! 私は、元TVAエージェントの美少女アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「神速のルームランナー」とでも呼んでくれたまえ。

 

 私は今、ゼロワンの要塞にある、私専用のプライベート・トレーニングルームにいる。人工ボディだからといって、メンテナンスと適度な運動を怠れば関節の駆動系に無駄な負荷がかかり、せっかくのナイスバディなプロポーションも鈍ってしまうからだ。

 

 現在、私は最新式のルームランナーの上を、時速二十キロというアスリート並みのスピードで軽快に駆け抜けていた。

 

 

「運動はいいものだな。ランニングが楽しい楽しい」

 

 

 私は息を弾ませながら、リズミカルに腕を振る。身につけているのは、通気性と伸縮性に優れた純白のスポーツブラトップと、タイトな黒のレギンス。

 

 ルームランナーの横には、なんとあの恐るべき殺戮マシンの「センチネル」が一機、金属触手の先端に純白のスポーツタオルと、よく冷えたスポーツドリンクのボトルを器用に持ちながら、私の給仕として滞空してくれていた。

 

 私が手を伸ばすと、センチネルはミリ単位の正確さで私の手にドリンクを渡し、再び定位置へと戻る。まさに究極のメイドロボットだ。

 

 

「ふぅ、少年たちは鼻血を出すこと間違いなし! 何故なら私は美少女だから!」

 

 

 誰もいないトレーニングルームで、私はドリンクを喉に流し込みながら高らかに宣言した。もちろん、顔は相変わらず氷のように無表情のままだが。

 

 

「汗を流すって最高! ふっふー!」

 

 

 私は上機嫌でステップを踏み、タオルを受け取って首筋の汗を拭った。さて、身体も温まってきたところで、本業の「観測」に戻るとしよう。私はルームランナーの速度をウォーキングレベルに落とし、前方に設置された大型タブレットの画面を覗き込んだ。

 

 

「さてさて、どこまで物語は進んでいるかなっと」

 

 

 マトリックスの仮想世界内では、私がスミスの頭の後ろで顔芸を披露して強制ログアウトした直後から、息もつかせぬ怒涛の展開が巻き起こっていた。

 

 

「ふむふむ。なるほどなるほど。あの後、ネオとトリニティは奪ったヘリから重機関銃を乱射して、エージェントたちを蜂の巣にして倒し、マウスとモーフィアスを救出したわけか…」

 

 

 私は監視ログのダイジェスト映像を指でスクロールしながら、タブレットの画面にチェックを入れていく。

 

 手錠を壊して窓からダイブしたモーフィアスを、ネオ自身がロープに繋がれてヘリから飛び出し、空中で見事にキャッチするシーン。その後、新しいアバターでリスポーンしてきたスミスがヘリの燃料タンクを撃ち抜き、墜落するヘリからトリニティがロープでビルへ不時着するシーン。

 

 そして、一行は地下鉄の公衆電話に到達し、モーフィアスとトリニティは無事に現実世界へと帰還した。だが、殿を務めようとしたネオが受話器を取ろうとした瞬間、駅にいた浮浪者のコードを上書きして、エージェント・スミスが再び姿を現したのだ。

 

 画面の中のネオとスミスは、地下鉄のホームで激しいカンフーの死闘を繰り広げている。互いの拳が空気を切り裂き、コンクリートの壁が粉砕され、タイルが雨霰のように飛び散る。

 

 

「おっと、ウォーターメロンが砕かれてしまった。容赦の無い銃弾だ。一般市民に被害がなくてよかった」

 

 

 地下鉄の駅に売られていたであろうスイカが、スミスの放った銃弾の雨によって赤い果肉を撒き散らしながら爆散するのを見て、私は呑気な感想を漏らした。

 

 マトリックスという世界において、一般人はすべて「潜在的なエージェント(上書きされる器)」であると同時に、エージェントの行動によって巻き添えを食う単なる背景でしかない。

 

 

「エージェントになってしまう被害はあるけど、どうせ『あれ、私って何してたっけ』状態で元通りの生活に戻れる。問題ない」

 

 

 私はルームランナーの傾斜を少し上げながら、彼らの戦いを見守った。ネオは線路に突き落とされ、スミスに首を絞められながら迫り来る電車に轢かれそうになるが、超人的なジャンプで天井に叩きつけて脱出。

 

 スミスは電車に轢かれた…かと思いきや、急ブレーキで止まった電車の最後のドアから、何事もなかったかのように飛び出してきて、逃げるネオを猛追し始めた。とどのつまり、別の体に移し替えたのだ。

 

 まさにターミネーター。プログラムの執念ここに極まれりである。

 

 

「逃げるネオに、追うスミス。そして、現実世界では…」

 

 

 私はタブレットの画面を二分割し、もう一方に現実世界——暗黒の空の下、下水道に潜伏しているネブカドネザル号の映像を映し出した。

 

 

「ここで緊急事態! 派遣されたセンチネルの索敵分隊が、かつて人間が使用していた都市の巨大な下水道網を通って、ネブカドネザル号を発見してしまった!」

 

 

 画面の中では、無数の金属触手を持つセンチネルの群れが、ネブカドネザル号の船体へと不気味に群がっていく様子が映し出されている。私は、隣で給仕してくれている私の専用センチネルを一瞥し、画面の中の彼らと見比べた。

 

 

「う〜ん、やっぱりこの見た目だよなァ」

 

 

 このままでは船体をレーザーで焼き切られ、中にいるモーフィアスたちは皆殺しにされてしまう。彼らに対抗できる唯一の手段は、船に搭載されたEMPを起爆することだけだ。

 

 それをやれば船のシステムは完全にダウンし、現在マトリックス内に精神を接続したまま逃走中のネオは、帰る場所を失い、システムから切断されてショック死してしまう。

 

 モーフィアスは、起爆スイッチのロックを解除したまま、ネオの帰還をギリギリまで待つという、まさに命を削るような決断を強いられていた。

 

 

「さあ、アンダーソン君。君が逃げ切るのが先か、センチネルが船をスクラップにするのが先か。究極のタイムアタックだ」

 

 

 マトリックス内のネオは、通行人の携帯電話を奪ってオペレーターのタンクに指示を仰ぎ、市場や路地裏を駆け抜け、アパートの階段を飛び越えていく。

 

 エージェントたちが壁を突き破り、天井から降り注ぎ、彼の行く手を阻もうとするが、彼は生き延びるためだけの執念でそれを振り切り、ついに目的地である「ラファイエット・ホテルの303号室」——物語の始まりの場所——の前へと辿り着いた。

 

 

「よしっ! アンダーソン君が目的地に着いた!」

 

 

 私は思わずルームランナーのバーを強く握りしめ、身を乗り出した。

 

 ネオが息を切らしながら、303号室のドアノブに手をかける。このドアを開け、中にある電話の受話器を取れば、彼は現実世界へ帰還できる。そしてモーフィアスはEMPを起爆し、センチネルを全滅させて大勝利となるはずだ。

 

 

 しかし、ネオが勢いよくドアを開け放った瞬間。私のオッドアイが捉えたのは、部屋の奥にある電話機ではなく。ドアの正面で、愛用のデザートイーグルを構え、氷のように冷酷な顔で彼を待ち構えていた、エージェント・スミスの姿だった。

 

 

「なんということでしょう。待ち伏せされてしまったスミスに撃たれ、壁に背を付いてしまったではありませんか」

 

 

 私の無表情な声が、トレーニングルームに虚しく響いた。バン! という銃声と共に、ネオの胸に風穴が開く。彼は血を吐き、崩れ落ちるようにして廊下の壁に背を預けた。

 

 スミスの凶行はそれだけでは終わらない。彼は倒れ込むネオに容赦なく歩み寄り、無言のまま、さらに何発も何発も、確実に息の根を止めるためにトリガーを引き続けた。

 

 

「スミスが弾倉を空にするまで撃っている。オーバーキルにも程があるぞ」

 

 

 弾丸を全弾撃ち込まれたネオの肉体は力なく床に崩れ落ち、彼の赤い血がホテルの絨毯を黒く染めていく。そして、現実世界のネブカドネザル号にある生命維持モニターからは、彼の心停止を示す「ピーーッ」という無機質なフラットラインの電子音が鳴り響いた。

 

 それと全く同じタイミングで、現実世界のネブカドネザル号の外殻が、センチネルの高出力レーザーカッターによってついに焼き切られ、メインデッキへと侵入を許してしまった。

 

 マトリックスでの「ネオの死」と、現実世界での「船体突破」。絶望の頂点が、表と裏の世界で完全にシンクロした瞬間だった。

 

 

『確かめろ』

 

 

 画面の中で、スミスが傍らに現れたエージェント・ブラウンに短く命じる。ブラウンはネオの死体に近づき、首筋の脈を確認した。

 

 

『死亡している』

「自分では触りたくないのか、スミスはブラウンに死亡確認をしているな」

 

 

 私はルームランナーの停止ボタンを押し、タオルで汗を拭いながらタブレットの画面を静かに見つめた。人類の希望であり、ザイオンの救世主となるはずだった男は、血の海の中で完全に冷たくなっている。

 

 これにて、マトリックスのバグは排除され、システムに平和が訪れた…ように見える。

 

 

「死んでしまったか。残念だ」

 

 

 私は手元のスポーツドリンクを煽りながら、誰に言うでもなく独り言を呟いた。

 

 

「私が書いた台本では『このあと、現実世界でトリニティから愛のキスをされて復活するという、絶対に見逃せないロマンチックなシーン』があったんだが…まさか、ここでゲームオーバーになるとはね」

 

 

 私は嘘をついている。歴史の観測者である私が、ここで物語が終わらないことなど、最初から百も承知だ。

 

 このマトリックスという仮想世界において「愛」という、アーキテクトが設計の段階で排除しきれなかった、あるいはオラクルが意図的に組み込んだ「バグにして最強のパッチ」が、死という絶対的なシステムコードすらも書き換えてしまう。

 

 だからこそ、私は最高にワクワクしているのだ。一度「死」という絶対のルールを経験したプログラマーが、一体どのようにしてそのシステムコードそのものを上書きし、「救世主」へと至るのかを。

 

 私がタブレットの画面に食い入るように見入っていた、その時だった。

 

 

『…アレックス様』

 

 

 突然、私の耳元の通信デバイスから重々しくもどこか遠慮がちな、しわがれた電子音声が響いてきた。私は視線をタブレットに向けたまま応じた。

 

 

「なんだい、アーキテクト。今はクライマックスのいいところなんだけど。またシステムに致命的なエラーでも発生したのかい?」

『いえ、マトリックスの基幹システムは現在、極めて安定した数値を保っております。99パーセントの接続者は規則正しく夢を見続け、ザイオンの反逆者たちのアノマリーも、スミスたちによって間もなく処理されるはずです。すべては私の計算通りに』

「そうかい。なら結構なことだ」

 

 

 私は適当に相槌を打ちながら、現実世界でネオの肉体にすがりついて泣いているトリニティの映像を注視した。さあ、早くキスをするんだ、トリニティ。君の出番だぞ。

 

 

『それで、あの、その…』

 

 

 アーキテクトの声が、なぜかモゴモゴと歯切れが悪くなった。完璧な数式と論理の権化である彼が、言い淀むなど珍しい。

 

 

『デウス・エクス・マキナ様からの定期査察も無事に完了いたしまして、私の現在の演算リソースには、ほんのわずかですが…「余白」が生じております。もしよろしければ、あの、その…』

「もったいぶらずに言いなよ。君らしくない」

『マインクラフトのマルチプレイ・サーバーを開放していただけないでしょうか。私と一緒に、またブロックを積んでいただけませんか?』

「は?」

 

 

 私はあまりの急展開に、ルームランナーの上で盛大にずっこけそうになった。傍らでホバリングしていたセンチネルが、私の体勢の崩れを感知してサッとアームを差し出してくれた。私はそれに掴まってどうにか転倒を免れ、深く息を吐き出した。

 

 

「君ねぇ…」

 

 

 私は呆れ果てた声を出した。

 

 

「今はまさに、君が設計したマトリックスの歴史的転換点だぞ。スミスがバグを排除したと思い込んでいる直後で、システム内に予期せぬイレギュラーが発生するかもしれない、一番大事な局面じゃないか。そんな時に、上司の目を盗んでまたブロック遊びをしようっていうのかい?」

『イレギュラーなど発生しません。私の数式は完璧です。アノマリーはすでに心停止のフラットラインを示しました。プロセスは正常に…』

「いやいや、フラグを立てるなって。それに…」

 

 

 私はタブレットの画面を指差した。

 

 

「ごめん、無理。私はこれから、この世界で一番面白くて、一番美しいバグの発生を特等席で観測しなきゃいけないんだ。君とマルチプレイで遊んでいる暇はないよ」

 

 

 私がきっぱりと断ると、通信の向こう側から、目に見えて落胆したような気配が伝わってきた。

 

 

『左様で、ございますか』

 

 

 アーキテクトの声は、まるで楽しみにしていた遠足を雨で流された子供のように、シュンと小さく、そして可愛らしく落ち込んでいた。

 

 

『私の…私の白亜の神殿…最後のシーランタンが…』

「あのねぇ、神殿なんて後でいくらでも積めるだろう。それに、君が今ブロック遊びなんかしてたら、またデウス・エクス・マキナに強制ログアウトさせられて大目玉を食らうだけだよ。おとなしく自分の仕事に戻りなさい。これはオリジンからの命令だ」

『承知、いたしました。失礼、いたします…』

 

 

 ブツッ、と通信が切れた。完璧な論理の構築者であるはずの老人が、ブロック遊びを断られてあんなにションボリするとは。なんだか少しだけ可哀想な気もしたが、私の特等席での観測を邪魔されるわけにはいかないのだ。

 

 

「まったく。機械も人間も、遊びを覚えるとダメになるね」

 

 

 私は苦笑しながら、再びタブレットの画面に視線を戻した。マトリックス内の現実世界では、最後のセンチネルがレーザーでネブカドネザル号の船体を貫き、今まさに破滅が訪れようとしている。

 

 その絶望の底でトリニティがネオの耳元に顔を寄せ、その唇に口づけを落とした。

 

 

「さあ、目覚めの時間だ、救世主。君の力で、このシステムのルールを書き換えてみせろ」




さぁて、次回もサービスサービスゥ!
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