気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「完全無欠のチート・デバッガー」とでも呼んでくれたまえ。
私は今、ゼロワンの要塞に設けられた広々としたプライベート・トレーニングルームで、ルームランナーの速度を落とし、クールダウンのウォーキングを行っているところだ。
身体を動かしてかく汗というのは、実に気持ちがいい。純白のスポーツブラトップとタイトなレギンスに張り付いた汗を、傍らでホバリングしている給仕用のセンチネルが、マニピュレーターの先端で丁寧にタオルを差し出して拭き取ってくれる。
「ありがとう。ちょうど欲しかったところだ」
私が声をかけると、センチネルは無言でレンズを微かに明滅させ、よく冷えたスポーツドリンクのボトルを手渡してくれた。至れり尽くせりである。
さて、私の視線は、コンソールの前方に設置された大型タブレットの画面に釘付けになっていた。
先程まで、私は『現実世界でトリニティからキスをされて復活するという見逃せないシーンがあったんだが』と、終わったかのような口ぶりでアーキテクトをからかった。だが、私の手元にある歴史の記録によれば、ここからが本当の「バグ」の始まりなのだ。
タブレットの画面は二分割されている。片方は、暗い下水道に潜伏しているネブカドネザル号の現実世界の映像。もう片方は、マトリックス内のラファイエット・ホテルの廊下だ。
「来た来た。論理回路が焼き切れるほどの非合理、愛という名の最強のパッチだ」
私はスポーツドリンクを口に含みながら、ニヤリと笑った。もちろん、人工ボディの表情筋は一切動いていないが、内心はドヤ顔だ。アーキテクトがまた頭を抱えて、自分の構築した数式の不完全さに泣き喚いていることだろう。
ホテルの303号室の前。弾丸を全弾撃ち込まれて死んだはずのネオの肉体が、ゆっくりと、しかし確かな力強さを持って立ち上がった。廊下の奥、エレベーターの前で到着を待っていたエージェント・スミス、ブラウン、ジョーンズの三人が、背後の気配に気づいて一斉に振り返る。
スミスの顔を見た瞬間、私はルームランナーの上で吹き出しそうになった。
彼は死んだはずの男が立ち上がっているのを見て、まるで幽霊でも見たかのように激しく動揺していたのだ。常に冷静沈着なエージェントが、驚愕のあまり、自らの手でトレードマークの真っ黒なサングラスをむしり取るように外して、ネオを凝視している。
「あははっ! プログラムの分際で、なんていい表情をするんだ。サングラスを投げ捨てるんじゃないかと思ったよ」
スミスがここまで「感情的」になってしまった理由。それは、他でもないこの私に心当たりがありまくりだからだ。
あの尋問室で、私がスペクター・モードの完全ステルス状態を利用し、彼の頭の後ろでウサギの耳を作ったり、アインシュタインの変顔をしたりして全力でおちょくったせいだ。私の放った人間的なノイズが、彼の論理回路を致命的に狂わせ、「怒り」や「驚き」といった無駄なエラーコードを発生させてしまったに違いない。
ごめんねスミス。君をこんな人間臭い悪役に育ててしまったのは、間違いなく私だ。
動揺を振り払うかのように、三人のエージェントたちは懐から拳銃を抜き放ち、立ち上がったネオに向けて一斉に発砲した。
タァン! タァン! タァン!
狭い廊下に銃声が轟き、無数の弾丸がネオの身体を貫く……はずだった。
「無駄だ」
ネオが短く言い放ち、右手を前方にスッと突き出した。その瞬間、彼に向かって飛来していたすべての弾丸が、空中でピタリと静止したのだ。物理法則の完全なる停止。重力や運動エネルギーといったマトリックスの根幹を成すルールを、彼個人の意志が完全に上書きしたのだ。
ネオは空中で止まった弾丸の一つを、まるで指先でつまむようにして取り、それを床へと落とした。チャリンという音と共に、残りのすべての弾丸が一斉に効力を失い、床にバラバラと無害な金属片となって落下していく。弾丸が床に転がる光景を、ネオはゆっくりと視線を下げて確認した。
彼の目にはもう、ホテルの薄汚れた壁も、古い絨毯も、そして目の前にいる三人のエージェントたちも、「現実の物体」としては映っていない。周囲のすべてが、上から下へととめどなく流れる緑色の「コード」へと変化していた。
彼はこの仮想世界を、完全に理解したのだ。これが単なるデータで作られた箱庭であることを。
「おお、ついに私と同じ『チートの視界』を手に入れたか。歓迎するよ、アンダーソン君」
私はタオルを首にかけ、ルームランナーから降りてモニターの前に立った。
事態はここから、さらにヒートアップする。自らが放った弾丸が通じないという事実。絶対的強者であったはずの法則が崩れ去ったことに、スミスは激昂した。
「ウォォォォッ!!」
彼は純粋な怒りの雄叫びを上げながら、ネオに向かって猛然と突進した。プログラムには本来あり得ない感情の爆発。私の顔芸と煽りが、本当に効きすぎてしまったようだ。少しだけ反省する。
スミスは凄まじいスピードで拳の連打を繰り出す。だが、覚醒したネオにとっては、それらはすべて「ゆっくりと流れる遅いデータ」に過ぎなかった。ネオは片手だけで、スミスのすべての打撃を軽く払いのけ、完全にブロックしてしまう。
そして、無造作に放った胸への素早い一撃だけで、スミスを廊下の後方へと大きく吹き飛ばした。ズサァァァッ! と床を削りながら後退するスミス。その光景を見て、背後に控えていたブラウンとジョーンズが微かに後ずさった。彼らエージェントが誕生して初めて「恐怖」という概念を理解した瞬間だった。
吹き飛ばされたスミスは、信じられないという顔で立ち上がり、再び身構える。
今度はネオの方から動いた。彼はスミスに向かって猛スピードで突進し、そのままダイブしたのだ。ドスッ! という物理的な衝突の音はしなかった。ネオはまるで深い水だまりに飛び込むかのように、スミスの身体の中へとズブズブと沈み込み、同化して姿を消してしまったのだ。
「うわぁ、エグい入り方だな」
私は思わず目を丸くした。スミス自身も何が起きたのか理解できず、自分の身体をまさぐりながら、ブラウンとジョーンズの方を振り返った。助けを求めるようなその視線に対し、二人のエージェントは明確な「恐怖」に支配され、後退りしていく。
直後。スミスの内側から、強烈な不協和音が鳴り響いた。彼の胸が、まるで許容量を超えた風船のように内側から異常な形に膨張し始める。緑色と純白の眩い光が、彼のスーツの隙間から漏れ出し、空間全体を振動させた。
バァァァァァンッ!!
すさまじい爆発音とともに、スミスの身体が内側から突き破られ、破裂した。抜け殻となった彼のアバターは、光の粒子とノイズの破片になって完全に消滅した。その爆発の跡地には、ネオだけが静かに立っていた。
無敵だと思われていたエージェントを、文字通り「内側から書き換えて破壊」したのだ。
「なんて派手なデバッグ作業だこと。やりすぎなくらいだ」
私は思わず、モニターに向かってゆっくりと拍手をした。廊下には、ネオと残された二人のエージェントだけがいる。ブラウンとジョーンズは、自分たちの最強のリーダーが一瞬にして内側から消し飛ばされたのを見て、同時に同じ論理的帰結に到達した。
それは「戦う」ことではなく、「逃げる」ことだった。二人のエージェントは完全に恐れをなし、踵を返してネオの前から全速力で逃走していった。ウサギのように逃げ惑うシステム最強のプログラムたち。その滑稽な後姿を見て、私は静かに肩をすくめた。
マトリックス内での痛快な勝利の瞬間、現実世界では絶望的な破壊音が鳴り響いていた。
『トリニティ! 急げ』
モーフィアスの悲痛な叫び声が聞こえる。現実世界のネブカドネザル号は、今まさに最悪の危機に瀕していた。センチネルがレーザーで船体の外殻を焼き切り、船内へと侵入して来ていたからだ。金属の触手が壁を引き裂き、至る所を破壊しながら、モーフィアスたちのいるメインデッキへと迫っている。
彼らを止める手段は、モーフィアスが手をかけている「EMP」の起爆しかない。だが、ネオがマトリックスから戻る前にそれを使えば、ネオはショック死してしまう。
『ネオ!』
トリニティの叫ぶ声。ネオは部屋の中で鳴り響く古い電話のベルの音——現実世界への出口であるハードラインの音に気づき、迷うことなくその電話機に向かってダイブした。
ザザァッ! ネオの意識が電話の受話器を通って、光の速さで現実世界へと帰還してくる。現実世界の生命モニターが、ネオの完全な帰還を告げるサインを表示した。
『今よ!』
トリニティの叫びと同時。モーフィアスが、躊躇うことなくEMPの起爆キーを回した。
カッ!!
目も眩むような白い閃光が、ネブカドネザル号の船内と、その周囲の空間を完全に包み込んだ。強力な電磁波の嵐。そしてガシャアァァン!! という重い鉄塊の落ちる音が響き、後には完全な静寂が訪れた。
「…」
私はタブレットの画面を見つめた。マトリックス側のモニターは、無事にネオが帰還したことで通信が終了している。砂嵐のようなノイズに覆われ、完全に接続がロストしていた。
「派遣された部隊は全滅したか。見れなくなったな」
私は静かに呟き、タブレットの電源を落とした。私の可愛い給仕ロボットと同じ型のセンチネルたちが、一瞬にしてスクラップにされたのは少しだけ惜しい気がしたが、まあ仕方がない。あれは戦争だ。
「しかし、見事な幕引きだったよ」
私はセンチネルから渡されたスポーツドリンクのボトルを掲げ、見えない役者たちに向かって乾杯のポーズをとった。これで、歴史の大きな節目が一つ終わった。救世主は目覚め、人類の反撃の狼煙が上がった。
だが、これは長い長い無限ループのサイクルにおける、ほんの一つのイベントに過ぎないことを、私は知っている。
「さて、汗も引いたし、シャワーでも浴びてくるとするか」
私は給仕のセンチネルにタオルを返し、静かな足取りでトレーニングルームを後にした。
スミス…いい奴だったよ。