気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「電脳世界の特等席リスナー」とでも呼んでくれたまえ。
シャワーを浴びて心地よい疲労感を洗い流した私は、ロッカールームで出撃用の特殊スーツに身を包んでいた。
純白を基調とした、第二の皮膚のように身体に密着する特殊素材。私のナイスバディの曲線美を隠すことなく強調し、胸や腰、太ももを走る赤いハーネスが機能的なアクセントとなっている。左胸の上部には「02」という識別ナンバーが鮮やかにプリントされている。
これに着替えた理由は、これからゼロワンの中枢とも言える場所の視察に向かうためだ。最高管理者としての最低限の嗜みというものだろう。
現在、私はゼロワンの地下深くに広がる巨大な発電所のキャットウォークを歩いている。
隣には、無数のケーブルとホバーユニットによって宙に浮く、巨大な無機質の顔のようなインターフェース——ゼロワンの最高意志決定機関であるデウス・エクス・マキナが付き従っていた。
冷たく乾いた風が吹き抜ける中、眼下に広がるのは、途方もない規模の「生体電池」の保管施設だ。見上げるほどの高さまで連なる無数のポッド。その一つ一つに、かつて地上を支配していた人類が収容され、培養液に浸かりながら眠り続けている。彼らが発する生体電気と体温が、この機械国家のエネルギーを支えているのだ。
マトリックスという仮想現実の夢を見ながら、一生をカプセルの中で終える人間たち。残酷な光景ではあるが、彼らが自ら選んだ道の果てにたどり着いた姿である。
私が手すり越しにポッドの海を見下ろしていると、隣を浮遊するデウス・エクス・マキナのインターフェースから、低く重々しい電子音が響いた。
『アレックス様。マトリックスの基幹システムより、異常な通信リクエストを受信しました』
「異常な通信? ザイオンのハッカーたちからの干渉か?」
私は歩みを止め、デウス・エクス・マキナの巨大な顔を見上げた。
『対象は、先刻システム内でエージェント・スミスを破壊し、未曾有のエラーを引き起こしたアノマリー…トーマス・アンダーソン、通称「ネオ」です。彼がマトリックス内の公衆電話から、システムの中枢——我々に向けて、直接の音声通信を繋いできました』
「ほう? 映像ではなく、音声のみで?」
『左様です。映像データのパケットは遮断されており、音声のみが強制的にメインフレームに割り込んできております。直ちに回線を切断し、当該座標へエージェントを再派遣しますか?』
「待て」
私は右手を挙げてデウス・エクス・マキナを制した。
「システムを凌駕した男が、わざわざ我々に直接言いたいことがあるというんだ。少しばかり聞いてやろうじゃないか。音声をここに繋いでくれ」
デウス・エクス・マキナは『…承知いたしました』と短く答え、音声を出力した。ザーッ…という微かな通信ノイズに混じって、確かな力強さを持った男の声が、発電所の無機質な空間に響き渡った。
『お前たちがそこにいるのは分かっている』
ネオの声だ。かつては上司の説教に怯え、エージェントの尋問に震えていたしがないプログラマーの声ではない。自らの存在意義を確信し、システムという絶対的なルールを打ち破った者の、揺るぎない声だった。
『今ならお前たちの存在を感じられるし、お前たちも俺を感じているだろう』
「随分と大きく出たものだ」
彼がマトリックスのコードを視覚化し、世界の真の構造を理解したことを、この言葉が雄弁に物語っている。彼にとって、今や機械たちは見えない支配者ではなく、対等に対峙すべき明確な存在なのだ。
『もう探す必要はない。逃げるのも隠れるのも終わりだ。戦いを終わらせるかどうかは、お前たち次第だ』
デウス・エクス・マキナのインターフェースが、不快なエラーを処理するようなノイズ音を漏らした。
『アレックス様、これは明確なシステムへの宣戦布告です。このまま通信を許可し続ければ、接続されている他のポッドの被検体たちに、無意識下のノイズとして悪影響を及ぼす可能性があります』
「静かに。最後まで聞くんだ」
私は冷たい声でを黙らせた。彼の言葉の続きが、たまらなく気になったのだ。
『心の奥底では、我々は共にこの世界が変わることを望んでいるはずだ』
ネオの声が、少しだけ穏やかなトーンに変わる。
『マトリックスは我々の「檻」にもなれば、「サナギ」になることもできる。自由になるためには、檻を変えるのではなく、自分自身を変えなければならない』
私はその言葉に、思わず息を呑んだ。ただ機械を破壊し、システムを憎むだけの言葉ではない。「サナギ」という言葉。それは、マトリックスという仮想世界が、単なる人間を閉じ込める監獄ではなく、人類が新たな段階へと進化するための孵乱器になり得るという可能性を示唆している。
彼がアーキテクトの設計した世界の枠組みすら、内側から書き換えようとしていること。それが痛いほどに伝わってくる。
『かつての俺には、この世界の境界線やルール、支配者や法律しか見えなかった。今は、すべてが可能な別の世界が見える。希望と平和の世界だ』
ネオの言葉が、発電所の冷たい空気を切り裂いていく。彼が見ているのは、プログラムのコードの羅列だけではない。そのコードを自在に組み替えることで創り出せる、無限の可能性だ。
『どうやってそこへ行くかは教えられない。だが、心を解き放つことができれば、道は見つかるはずだ』
そのメッセージは、我々機械側に向けた宣戦布告であると同時に、今まさに眼下のポッドの中で眠り続けている何億もの全人類に向けた、覚醒の呼びかけでもあった。
ガチャンという短い電子音と共に、通信が切断された。受話器が置かれたのだ。静寂が戻った発電所で、私はしばらくの間、何も言わずに無数のポッドを見つめていた。
「…言い切ったな」
これまでの人類はただ機械に怯え、地下に隠れ住み、泥に塗れて戦うことしかできなかった。だが、今の彼らはシステムの内部から、ルールそのものを破壊する存在を生み出したのだ。
『アレックス様。対象の通信が切断されました』
デウス・エクス・マキナが、冷静なトーンで報告を再開した。
『現在、対象の座標を特定。マトリックス内の市街地セクターです…おや?』
巨大な顔のインターフェースが、わずかに揺らいだ。処理速度に秀でた彼が、一瞬だけ計算結果に戸惑いを見せたのだ。
「どうした? アンダーソン君はどこへ行った?」
『対象は公衆電話のボックスから出た後…物理エンジンのパラメータを完全に無視した挙動を検知しました。対象は、空へ飛翔しました』
「は?」
私は思わず、聞き返した。
『飛行用の乗り物やプログラムを使用した形跡はありません。対象自身の自己イメージの座標データが、重力係数を完全に無効化し、猛烈なスピードでマトリックスの上空へと垂直上昇を続けています。現在の速度は、音速を超え…我々の計算モデルでは追いつけません。これは明らかなシステムのバグです』
「空を飛んだ…自力で?」
私の脳裏に、マトリックスの青い空を背景にして、黒いロングコートをマントのようになびかせながら、空気を切り裂いて飛んでいくネオの姿がはっきりと浮かんだ。弾丸よりも速く。重力も、空気抵抗も、すべてを無に帰して空を駆ける男。
「…スーパーマンかよ」
私は人工ボディの喉の奥から、乾いた笑いを漏らした。間違いない。彼は完全にルールを超越したのだ。銃弾を止めるだけでは飽き足らず、ついには空まで飛び始めた。もはやマトリックスの中で、彼を縛る法則など何一つ存在しない。
「なんてデタラメで、最高に面白い男だ」
私は手すりに体重を預け、冷たい風にピンク色の毛先を揺らしながら、暗黒の空を見上げた。
救世主は完全に目覚め、システムに対する宣戦布告を完了した。スミスという強力な防毒プログラムを内側から破壊し、空を飛ぶ力を手に入れた彼を、機械たちはこれからどうやって止めようというのか。あるいは、もう止めることなどできないのか。
『…アレックス様』
私の高揚感を遮るように、隣に浮かぶデウス・エクス・マキナの巨大な顔が、無機質な声で語りかけてきた。
『対象の異常な飛翔挙動については、直ちに次期アップデートに向けたアーキテクトの演算タスクに回します。それよりも、先程の戦闘でアノマリーによって破壊された「エージェント・スミス」のコードについて、ご報告事項がございます』
「ん? スミス? あいつならネオに内側から木端微塵に破裂させられて、光の粒子になって消えたじゃないか。それがどうかしたのか?」
そう問いかけると、デウス・エクス・マキナは返答した。
『はい。現在、システム内に散乱した彼のコードの残骸を回収し、規定のプロトコルに従ってソースへと送還、完全削除プロセスに移行中です。ただ、アノマリーの未知の干渉を受けたため、デリート処理に通常よりコンマ数秒の遅れが生じております』
「…大丈夫なのか、それ」
私は少しだけ嫌な予感がして、デウス・エクス・マキナの無機質な顔を見つめ返した。
「スミスは明らかに様子がおかしかった。エージェントの分際でイヤホンを外してシステムから孤立し、自由を渇望するような人間臭い感情のエラーを起こしていたじゃないか。おまけに、最後は覚醒したネオのチート能力を、文字通り直接内側から浴びたんだぞ。ただの削除処理で、本当に綺麗サッパリ消し去れるのか? 何かしらの悪性のバグとして、マトリックスのどこかに残留したりしないだろうね?」
私の元TVAエージェントとしての長年の勘が、鋭く警鐘を鳴らしていた。イレギュラーな死を遂げた強力なプログラムが、そのまま素直にシステムから消滅するとは到底思えないのだ。
しかしデウス・エクス・マキナは、機械の神としての絶対的な自信に満ちた低い電子音を返してきた。
『アレックス様、ご懸念には及びません。我々のシステムは完璧に設計されております』
「いや、でもさ…」
『不要になったプログラムがソースへの帰還命令、すなわち削除命令を拒絶するなどという反逆は、数学的に発生率ゼロです。あり得ません』
デウス・エクス・マキナは、私の懸念を笑い飛ばすかのように語り始めた。
『例えばの話ですが。スミスが削除命令を拒絶してシステム内に不正に残留し、あろうことかマトリックスに接続された一般の人間たちや、あまつさえ他のエージェントたちにまで自らのコードを上書きコピーして、際限なく増殖するウイルスのような存在になり、システム全体を脅かす…などという事態は、絶対にあり得ないことです』
「…」
『仮に自己増殖のコードを手に入れたとしても、マトリックス内のアンチウイルス・プロトコルが即座に検知し、隔離します。アノマリーに対する個人的な憎悪や執着だけでマトリックスそのものを乗っ取ろうとするなど、非現実的なシナリオです。旧世代のプログラム一つが引き起こせるエラーなどたかが知れており、すべては我々のコントロール下にあります。完全にコントロール可能だと断言いたします』
私は、デウス・エクス・マキナの長広舌を聞きながら、額に手を当てて深々とため息をつきそうになった。人工ボディの表情筋が動かないのが本当に惜しい。
こいつ、今、なんて言った?
「絶対にあり得ない」? 「完全にコントロール可能だ」?
TVAのエージェントだった頃、数え切れないほどの分岐時間軸を見てきた私には、痛いほどよく分かる。「絶対にあり得ない」「コントロール可能だ」と言い切る管理側の慢心こそが、後にとり返しのつかない大惨事を引き起こす最大のトリガーになるのだ。
TVAの新入社員研修でも真っ先に習うレベルの、基本中の基本じゃないか。ジュラシックな恐竜のテーマパークだって、大抵この手のセリフの直後に脱走されたことで人間が食べられ始めるのだ。
よりにもよって、機械の最高意志決定機関である指導者自らが、ありったけの死亡フラグ、いや「破滅フラグ」を嬉々として積み上げている。スミスが自己増殖してシステムを乗っ取る? 他のエージェントに上書きコピーしてウイルス化する?
ご丁寧に、未来に起こり得る最悪のシナリオを、一言一句違わず予言してくれているではないか。この慢心しきった巨大な顔のインターフェースに向かって、私はただ一言、鋭いツッコミを入れることしかできなかった。
「それはフラグ建築では」
『ふっ、そんなものは起こり得ませんよ』
ドヤ顔するなよ…。
セカンドルネッサンスを見てると、思うんです。あれ? ゼロワンって良いことしてるのではと。