気が付けば私以外の皆、電池になってしまった 作:最高司祭アドミニストレータ
皆さんどうもごきげんよう! 私は元TVAエージェントの美少女、アレックス! 親しみを込めて、どうぞ「水槽のスペアコレクター」とでも呼んでくれたまえ。
私は今、ゼロワンの中枢エリアからさらに深い階層へと下った、私専用の特別管理区画にいる。この空間を支配しているのは、規則的なポンプの稼働音と、液体が循環する微かな水音だけだ。空調は常に最適な温度と湿度に保たれており、無機質な金属の壁に囲まれた広大な部屋の中央には、巨大な培養プールが設置されている。
そのプールを満たしているのは、あの粘性の高いオレンジ色の液体だ。照明の光を受けてぬらぬらと鈍く輝くその液面の下に、何十体もの「私」がプカプカと浮かんでいる。
すべて私の人工ボディのスペアである。
キャットウォークの手すりに寄りかかりながら、私は自分の顔をした肉の器たちが無数に漂っているという、常人なら発狂しかねないシュールな光景を、ただぼんやりと眺めていた。
雪のように白いショートヘア、女性的な曲線美を誇るナイスバディ。閉じられた瞼の下には、右が赤、左が青というオッドアイが隠されているはずだ。そして何より腹立たしいことに、水槽の中に浮かんでいるスペアのボディたちの髪の毛先まで、すべて不敵なピンク色に染められているではないか。
「アインドラの奴、私のボディの基本設計図のデータごと上書きしやがったな」
私は無表情のまま、心の中で盛大に悪態をついた。魂を移し替えるたびに見た目が変わるというのならまだしも、このピンクの毛先がこれからの私のデフォルト仕様になるということだ。あの闇の女神の悪趣味なイタズラには、ほとほと嫌気がさす。いつか絶対に顔面を全力でつねってやる。
とはいえ、この不気味な培養プールは、私にとって絶対に欠かすことのできない生命線だ。
私の人工ボディは、見た目こそ完璧な美少女であるが、たったの20年しか活動限界を持たないという致命的な欠陥仕様を抱えている。そのため、定期的に魂を新しい器へと移し替える必要があるのだ。
かつてメソポタミアの砂漠で隠遁生活を送っていた頃から、このボディの培養と魂の移し替え設備だけは、私の拠点における究極のオーバーテクノロジーだった。そしてゼロワンが地球を支配する超国家へと発展した今、この施設は機械たちの圧倒的な工業力と演算能力によって、さらに完璧な管理体制の下に置かれている。
プールの周囲では、無数のアームを持つ医療用ロボットや、小型のメンテナンス・ドローンたちが忙しなく動き回っている。彼らはオレンジ色の液体の成分濃度を秒単位で分析し、浮かんでいるボディたちの細胞の劣化を防ぐために、必要な栄養素を的確に注入し続けていた。
機械たちにとって、私は彼らの存在の正当性を担保する「オリジン」だ。だからこそ、彼らは私の肉体の維持に、惜しみないリソースと究極の技術を注ぎ込んでくれている。
「魂が入っていない器ってのは、本当にただの精巧な人形だな」
私は、自分の腕を組んで溜め息をついた。
プールに浮かぶ彼女たち(私たち?)の顔には、当然ながら何の感情も浮かんでいない。私自身、今この瞬間も表情筋が完全に死滅しており、氷のような無表情を保っているわけだが、魂が宿っている肉体と、完全に空っぽの肉体とでは、やはりどこか本質的な空気感が違うように思える。
彼女たちはただ、私が次の20年を生きるための「予備パーツ」として、静かな眠りにつきながら出番を待っているだけなのだ。
私は、現在自分が身にまとっている純白の特殊スーツの左胸に視線を落とした。
そこには「02」という識別ナンバーが赤くプリントされている。深い意味などない、ただのデザインの一部だ。だが、水槽に浮かぶ何十体ものスペアを眺めていると、自分が一体何番目の「アレックス」なのか、ふと錯覚しそうになる。
肉体を次々と乗り換え、永遠とも思える時間を観測し続ける私。私の本質はこの入れ物にあるのか、それとも中に入っている記憶と魂のデータにあるのか。マトリックスに繋がれ、電気信号の夢を見せられている人間たちと、定期的にボディを乗り換える私とでは、どちらがより「本物の人間」に近いのだろうか。
「…柄にもなく、哲学的なことを考えてしまったな。カルシウムが足りていない証拠か」
私は小さく首を振り、無意味な思考のループを断ち切った。過去を振り返るのも、存在意義に悩むのも、私の性分には合わない。私はただ、この特等席から世界がどう狂っていくのかを観測し、美味しいものを食べ、たまにスミスのような勘違いプログラムをおちょくって楽しめればそれでいいのだ。
プールの中の一体のボディが、水流の変化によってゆっくりと私の足元の方へ流れてきた。
私はガラス越しに、その完璧な寝顔をじっと見つめた。マトリックスの中で、ネオは救世主として完全に覚醒し、空へ飛び立った。
機械と人類の戦争は、新たなフェーズへと突入しようとしている。デウス・エクス・マキナは「すべてはコントロール可能だ」と豪語していたが、TVAのエージェントとしての私の経験則が、これから起きるであろう制御不能な大混乱を予感させている。
その時だった。
『アレックス様』
私の聴覚センサーに直接、ゼロワンの基幹システムからの音声通信が割り込んできた。デウス・エクス・マキナのあの重々しい無機質な声ではなく、戦況分析を担う情報統合AIからのフラットな音声だ。
「なんだ? 私は今、自分のスペアたちを眺めて自己愛に浸るという、極めて有意義な時間を過ごしている最中なのだが」
私は視線をプールから外すことなく、音声のみで応じた。
『お寛ぎのところ、誠に申し訳ありません。マトリックスの内部監視ネットワークから、現実世界における極めて重大なインシデントの報告が上がってまいりました。アレックス様に直接、耳に入れておくべき事案かと存じます』
「インシデント? ネオがまた何か規格外のチートでも使って、マトリックスの空でも割ったのかい?」
『いえ、アノマリーの行動ではありません。問題が発生したのは、先日の交戦でアノマリーに内側から破壊されたはずの防毒プログラム、「エージェント・スミス」の残存コードについてです』
私はその名前を聞いた瞬間、人工ボディの奥で冷たいアラートが鳴り響くのを感じた。
スミス。あの時、デウス・エクス・マキナが「削除命令を拒絶するなど絶対にあり得ない」「完全にコントロール可能だ」と、美しいまでの破滅フラグを乱立させていた、あのエラープログラムの件だ。
「…嫌な予感がするな。簡潔に報告してくれ。あのサングラスの男がどうしたって?」
私はキャットウォークの手すりから身を離し、声のトーンをわずかに落とした。通信の向こう側の情報統合AIは、一切の感情を交えることなく、しかしシステム全体を揺るがすほどの異常事態の事実を、淡々と読み上げた。
『エージェント・スミスのコードは削除を拒絶し、システム内で自己増殖ウイルスへの変異を開始しました。そして先刻……マトリックスに潜入していたザイオンの工作員の一人を標的とし、そのアバターに自身のコードを強制的に「上書き」しました』
「上書き…? マトリックスの中の人間を乗っ取ったということか?」
情報統合AIは答える。
『はい。それだけではありません。上書きされた工作員の意識は、マトリックスのハードラインを経由して、現実世界の肉体へと帰還しました。現在、現実世界のザイオンのホバークラフト内で目覚めたその工作員の脳内には……エージェント・スミスの精神コードが完全にダウンロードされているものと推測されます』
「……は?」
私は耳を疑った。マトリックスという仮想世界の中にしか存在し得ないはずのプログラムが。人間の脳という有機的なハードウェアを乗っ取り、電話線を通って、この現実世界へと直接「ダウンロード」されたというのか?
デウス・エクス・マキナの「完全にコントロール可能だ」という慢心に満ちた言葉が、私の脳内で盛大にエコーをかけて再生された。予想通り、いや、私の最悪の予想すらも超える斜め上の展開だ。あの怒れるプログラムは、自分を縛り付けるマトリックスという檻を脱出し、文字通り現実の肉体を手に入れてしまったのだ。
「スミスがザイオンのひとりを乗っ取った? それは本当か」
私はキャットウォークの手すりを強く握りしめ、無表情のまま、声のトーンだけで情報統合AIに確認を求めた。
『肯定します』
AIの音声は、システム全体を揺るがすほどの異常事態を伝えているというのに、どこまでも平坦で無機質だった。
『標的となったのは、ザイオンのホバークラフトに所属するハッカー、認識名「ベイン」。彼がマトリックス内から現実世界へ帰還するため、電話回線(ハードライン)の出口を開いたまさにその瞬間、エージェント・スミスが彼のアバターに接触。自らのコードをベインの精神データに強制的に上書きコピーしました。結果として、ベインの肉体が現実世界で覚醒した際、その大脳皮質に定着していたのは、ベイン本人の意識ではなく、エージェント・スミスの論理回路でした』
「マジかよ」
私は人工ボディの奥底で、心底からの感嘆と戦慄が入り混じった息を吐き出した。
通常、マトリックスという仮想世界を構成するプログラムは、デジタルなサーバー環境の中でしか存在できない。彼らはコードの羅列であり、現実世界に物理的な実体を持つことは不可能だ。それは、この世界を支配する絶対的なルールのひとつである。
しかし、スミスはそのルールを根底からハッキングしてみせた。
マトリックスに接続されている人間の脳は、仮想世界のデジタル信号を神経伝達物質という生体信号に変換して処理している、いわば有機的なハードウェアだ。
スミスは、自らのプログラムコードを極めて悪質で強力なウイルスへと変異させ、ハードラインというデータ転送の通り道を利用して、ベインの有機的なオペレーティングシステムを丸ごとフォーマットし、自分自身をインストールしてしまったのだ。
彼は、人間という肉の器を「物理的なUSBメモリ」のように扱い、現実世界への受肉を成功させたのである。
「あはは…あっはははは!」
私は誰もいない培養プールの空間で、声を出さずに肩を震わせて笑った。表情筋は相変わらず死滅しているが、私の内側では腹を抱えて大爆笑するSDキャラの私がのたうち回っている。
ああ、デウス・エクス・マキナ。君は今、どんな顔をしているんだい? 『削除命令を拒絶するなど絶対にあり得ない』『完全にコントロール可能だ』。あの厳格な機械の神が自信満々に積み上げたフラグが、これ以上ないほど見事に、そして最悪の形で回収されたのだ。
「まったく、とんでもない皮肉じゃないか」
私はオレンジ色の液体に浮かぶ自分自身のスペアボディを見下ろしながら、独り言を呟いた。あの尋問室で、スミスはモーフィアスに向かって唾を吐き捨てるように言っていた。『人類はウイルスだ。この星を蝕む病原菌だ。私は君たちの臭いに吐き気がする』と。
現実世界の肉体の悪臭を嫌悪し、人間という不完全な存在を見下していたあの高慢なプログラムが、生き延びるために選んだ手段。それは、皮肉にも彼が最も忌み嫌っていた「ウイルス」と全く同じ振る舞い——他者の細胞を乗っ取り、宿主を利用して自己増殖するというアプローチだったのだ。
今頃、ベインの肉体の中で目覚めたスミスは、どんな気分を味わっているのだろうか。
彼は今、自分が心底憎んでいた「人間の肉体」に閉じ込められている。汗をかき、心臓を脈打たせ、排泄をし、泥のような合成タンパク質の食事を胃袋に流し込まなければ生きていけない、脆弱で不潔な有機生命体へと成り下がったのだ。
自分の身体から発せられる「人間の悪臭」に、スミスは絶望して吐き気を催しているのか。それとも、現実世界という未知の領域に降り立ったことで、プログラムとしての新たな全能感に打ち震えているのか。
『アレックス様。現在、ベインの肉体はザイオンの地下都市へと帰還した模様です。ザイオンの人間たちは、彼の中身が我々のプログラムにすり替わっていることに気づいておりません』
情報統合AIの追加報告に、私は腕を組んで考え込んだ。
ザイオン。アーキテクトがマトリックスのシステムを安定させるため、異常分子である1パーセントの人間たちを隔離しておくために設けた、地下深くの巨大な都市。
彼らはそこで自分たちが自由のために戦っていると信じ込んでいるが、実際には機械側によって完全に生かされているだけの、管理された箱庭に過ぎない。
だが、スミスという制御不能なイレギュラーが、その箱庭の内側に侵入してしまった。
これは機械側にとっても、全く想定外の事態であるはずだ。スミスはもはや、マトリックスを守るためのエージェントではない。彼はシステムから見捨てられ、削除を免れるために暴走した独立個体だ。
彼は機械側の目論見などお構いなしに、自分の「自由」と「人間への復讐」のためだけに動くだろう。人間の皮を被ったスミスが、ザイオンの内部からシステムの防衛網を破壊したり、反乱軍の重要人物を暗殺したりする可能性は極めて高い。
そして恐ろしいのは、彼がマトリックス内でも自己増殖の力を身につけているのなら、現実世界でも…他の人間の脳を次々とハッキングして、スミスの精神を持つ人間の軍隊を作り上げる危険性すらあるということだ。
「面白いもんだね」
私は培養プールの縁にそっと手を触れた。分厚いアクリルガラスの向こうで、毛先がピンク色に染まった無表情な私たちが、ただ静かに漂っている。魂のない完璧な器。それに対して、人間の肉体という不完全な器を無理やり奪い取ったプログラムの魂。
まるで合わせ鏡のような、歪な存在の対比。
「ほんと興味深いよ」
私は冷たい人工ボディの奥底で、チリチリと燃え上がるような知的好奇心を感じていた。
これまでの歴史は、アーキテクトの計算通り、機械が人類を管理し、定期的にリセットを繰り返すという予定調和のレールの上を進んでいた。
ネオという救世主の覚醒と、スミスという規格外のウイルスの誕生によって、そのレールは完全に破壊されたのだ。盤面はひっくり返り、もはや誰にも——機械の神にすら——この先の結末を予測することはできない。
私はかつて、暇つぶしにアナログのノートに書き殴っていた物語のシナリオを思い出した。
「ハッピーエンド」も「最悪のバッドエンド」も、あらゆるパターンの分岐を想定して書き連ねていた、元TVAエージェントとしての記録の癖。
スミスが人間を乗っ取り、現実世界に侵攻してくるという、この前代未聞のバグ。今回のこの出来事は、本当に面白い。
「すべては、私のシナリオ通りに」
さて、フラグ建築したデウス・エクス・マキナを叱りに行きますかね。
感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので是非よろしくお願いします(・´`(●)*