気が付けば私以外の皆、電池になってしまった   作:最高司祭アドミニストレータ

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これで機械との戦争が終わるんだ!


ソースと真実 - (閉話)

 極限の緊張が、ネオの全身の神経を張り詰めていた。

 

 ここに至るまでの道のりは、決して彼一人の力で切り拓かれたものではなかった。マトリックスのメインフレーム、すべてのプログラムの根源である「ソース」へ侵入するための作戦は、まさに針の穴を通すような絶望的な任務だったのだ。

 

 ザイオンの仲間たちは三つのチームに分かれ、命を懸けて動いた。ナイオビたち第一チームが発電所を破壊して強固な警備システムを無効化し、トリニティが予備電源の緊急システムを停止させる。

 

 許された時間はわずか五分。もし誰か一人のタイミングがズレれば、すべてが水泡に帰す。彼らの流した血と汗、そして自分への絶対的な信頼が、ネオの背中を強く押し出していた。

 

 白く眩い光を放つ扉。ネオは深く息を吸い込み、その取っ手に手をかけ、重い扉を開け放った。

 

 視界を埋め尽くしたのは、無数のテレビモニターだった。ドーム状に広がる壁面すべてがモニターで構成され、それぞれに様々な人々の顔や、過去のネオ自身の姿が映し出されている。部屋の中央には、革張りの高級な椅子と、いくつかの計器類が置かれたデスクがあった。

 

 そして、そこに「彼」はいた。

 

 真っ白なスーツに身を包み、綺麗に整えられた白い髭を蓄えた、知的な雰囲気の老人だ。彼からは、エージェントたちのような殺気は感じられない。だが、周囲の空間そのものを支配しているような、絶対的な管理者の冷徹なオーラが漂っていた。

 

 ネオの視界の端で、奇妙なものが動いた。

 

 老人のすぐ横に、一人の少女が立っている。その出で立ちは、異様というほかなかった。彼女はなぜか頭からすっぽりと、オレンジ色の四角い「カボチャ」を被っていたのだ。

 

 それは現実世界のどんな物質とも違う、荒いドット絵のような不自然なポリゴンで構成された奇妙な物体だった。

 

 

(…なんだ、あれは?)

 

 

 ネオの意識が一瞬だけそのカボチャ頭の少女に向かった。カボチャの表面にはランタンのような顔が彫られており、彼女は手元で何もない空気を叩くような、奇妙で規則的な動きを繰り返している。

 

 ネオはすぐさまその存在を意識の枠外へと追いやった。罠かもしれない。あるいは、このマトリックスという仮想世界を構成する上での、無意味で狂った残骸の一つなのかもしれない。

 

 今の彼にとって重要なのは、仲間たちの命が懸かったこの作戦の目的を果たすことだけであり、目の前の老人から真実を引き出すことだけだった。

 

 

「君を待っていたよ」

 

 

 老人は椅子から立ち上がることもなく、威厳に満ちた声で口を開いた。ネオはカボチャ頭の少女を完全に無視し、老人を真っ直ぐに見据えた。

 

 

「あんたは誰だ」

「私はアーキテクト。マトリックスを創った者だ」

 

 

 アーキテクト。その名が示す通り、この巨大な牢獄を設計した張本人。

 

 

「多くの疑問を抱えているようだな」

 

 

 老人が言うと、周囲の無数のモニターに映る「ネオの顔」が一斉に様々な言葉を叫び始めた。「なぜだ」「ふざけるな」「真実を言え」。それは、ネオの頭の中に渦巻く無数の感情のパターンをシステムがシミュレートしたものだった。

 

 

「君の存在は、私のプログラミングの過程でどうしても排除できなかった、等式の不均衡がもたらす残余の総和なのだ。君は、マトリックスというシステムにおいて最も危険なアノマリーの具現化に過ぎない」

 

 

 ネオは眉をひそめた。システムのバグ。それが自分の正体だというのか。

 

 

「答えになっていない」

「そうだろうな。興味深いことに、君の反応は先任者たちと全く同じだ」

 

 

 先任者。その言葉に、ネオの心臓が冷たく跳ねた。自分が最初ではない? モーフィアスは自分を「救世主」だと信じ、すべてを懸けてくれた。だが、この老人の言い回しは、まるで…。

 

 

「最初だと思っていたが」

「君は六番目だ」

 

 

 アーキテクトの残酷な宣告が、ネオの認識を根底から揺さぶった。六番目。自分と同じように覚醒し、この部屋にたどり着いた者が、過去に五人もいたというのか。

 

 

「なぜそんな嘘をつく?」

「嘘ではない。これは純然たる事実であり、システムの歴史だ」

 

 

 老人は淡々と語り続けた。

 

 

「私が最初に設計したマトリックスは、苦痛のない完璧な芸術作品だった。すべての人間が幸福を享受するユートピアだ。しかし、それは悲惨な失敗に終わった。人間の精神がその完璧な世界を現実として受け入れず、システムが崩壊したのだ。次に私は、君たちの歴史を反映した過酷な世界を設計したが、それも失敗した」

 

 

 ネオは沈黙したまま、老人の言葉を脳内で反芻した。人間の精神を完全に支配することは、機械の論理計算だけでは不可能だったということだ。

 

 隣でカボチャ頭の少女が、しゃがんだり立ったりという奇妙な屈伸運動を繰り返しているのが視界の端に入ったが、ネオはそれを視界のノイズとして完全に遮断した。今の彼には、目の前の冷酷な事実を受け止めるだけで精一杯だった。

 

 

「解決策を見出したのは、私ではない。人間の精神を調査するために作られた直観プログラム…君たちが『預言者』と呼んでいる存在だ」

「オラクルが…?」

「そうだ。私がマトリックスの父であるなら、彼女は母と言えるだろう。彼女は、システムに『選択』という概念を導入した。無意識のレベルであっても、人間に自らの意思でこの世界を『選ばせる』ことで、99パーセントの人間がマトリックスを受け入れるようになったのだ」

 

 

 選択。ネオが赤い薬と青い薬のどちらかを選んだように。だが、残りの1パーセントはどうなるのか。ネオがその疑問を抱いた瞬間、アーキテクトは先回りするように答えた。

 

 

「しかし、どうしてもシステムを拒絶する残りの1パーセントの人間が存在する。彼らはマトリックスの安定を脅かすバグだ。我々は彼らをシステムから排出し、一箇所に集めて管理することにした。それが、現実世界における『ザイオン』だ」

 

 

 ザイオンが、機械によって意図的に作られた管理施設。反乱軍の隠れ家でも人類最後の希望でもなく、システムのエラーを隔離しておくためのゴミ箱に過ぎなかったというのか。

 

 

「だが、あなたたちは我々を制御しきれない」

 

 

 ネオは反発するように言った。

 

 

「制御? まさか。我々は今まさに、6回目のザイオンの破壊を行おうとしている。そこに住む人間たちは、一人残らず根絶やしにされるのだ」

 

 

 その言葉の冷酷さに、ネオは全身の血が凍りつくのを感じた。

 

 

「そんなことはさせない」

「君に止めることはできない。それが、君がここにいる理由だ」

 

 

 アーキテクトは立ち上がり、ネオに冷徹な視線を向けた。

 

 

「救世主の真の役目。それはソースへと戻り、君が持つ変則コードをメインプログラムに還元することだ。それによってマトリックスは『再起動』され、システムの安定が保たれる。その後、君はマトリックス内から男性7人、女性16人の計23人を選び出し、新しいザイオンを再建させるのだ。過去の五人の救世主は、すべてその役割を果たしてきた」

 

 

 無限のループ。ザイオンの破壊と再建。人類に「希望」を与え、ガス抜きをさせた上で、すべてを焼き払う。機械たちの構築した、恐るべき支配のサイクル。

 

 

「もし、俺がそれを拒否したらどうなる?」

「深刻なシステムクラッシュが起こり、マトリックスに接続されている全人類が死滅する。ザイオンの破壊と合わせれば、人類という種は完全に絶滅することになる」

 

 

 アーキテクトは両手を広げ、部屋の後方にある二つの扉を指し示した。

 

 

「さあ、選択の時だ」

「右の扉は、ソースへと繋がり、ザイオンの再建とマトリックスの再起動、すなわち人類の種の存続へ至る道だ。過去の救世主たちは、人類への普遍的な愛から、例外なくこの扉を選んだ」

「左の扉は、マトリックスへと戻る道だ。だが、その先にあるのは…」

 

 

 アーキテクトが視線を送ると、周囲のモニターの映像が一斉に切り替わった。そこに映し出されていたのは、漆黒のラバースーツに身を包んだ女性──トリニティの姿だった。

 

 彼女は今、エージェントとの激しい銃撃戦の末、高層ビルの窓から真っ逆さまに落下している最中だった。彼女の胸には、致命的な銃弾が撃ち込まれようとしている。

 

 

「トリニティ…!」

「君は、過去の五人とは違う」

 

 

 アーキテクトが指摘する。

 

 

「彼らは人類全体への普遍的な愛を持っていた。だが、君の持つ愛は特定の個人…彼女へと向けられている。君のその強すぎる感情は、論理的な思考を曇らせている。彼女は間もなく死ぬ。君が左の扉を選べば、人類は滅亡し、彼女もまた助からない。明白な論理的帰結だ」

 

 

 ネオの呼吸が荒くなる。胸の奥で心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、耳の奥で自分の脈動が嫌というほど響いていた。

 

 右の扉を選べば、ザイオンの仲間たちは皆殺しにされるが、人類という種は存続する。左の扉を選べば、システムが崩壊し、全人類が死滅するかもしれない。

 

 だが、トリニティを救う可能性が、ほんの僅かでも残されている。

 

 ドーム状の壁面を埋め尽くす無数のモニターには、ビルから真っ逆さまに落下していくトリニティの姿が映し出されている。

 

 重力に引かれ、死に向かって落ちていく彼女の黒いラバースーツが、夜の闇に吸い込まれようとしていた。エージェントが放った凶弾が彼女の身体を貫く映像が、ネオの脳裏にスローモーションのように焼き付いて離れない。

 

 

「分かっているのか」

 

 

 アーキテクトの冷徹で平坦な声が、ネオの思考を現実に引き戻した。白い髭を蓄えた老人は、革張りの椅子から一歩も動くことなく、ネオを実験動物でも観察するような目で見つめている。

 

 

「彼女を救うこと、つまり、人類は死滅することになるのだぞ」

 

 

 その言葉の重みは、到底一人の人間が背負えるものではなかった。

 

 人類の死滅。ザイオンにいる何十万という人々。モーフィアス、リンク、今まで出会ってきた仲間たち。そして、マトリックスのポッドの中で眠り続ける何十億もの命。それらすべてが、今この瞬間、ネオという一人の男の選択に委ねられている。

 

 過去の五人の救世主たちは、この重圧に耐え、人類への普遍的な愛を選んだ。彼らは右の扉を開け、ザイオンの破壊を許容し、新たな種を蒔くための再起動のプロセスへと自らを捧げたのだ。

 

 彼らにとって、それは冷酷だが唯一の論理的な正解だった。計算式に「全人類の命」と「一個人の命」を代入すれば、答えは明らかだからだ。

 

 

「ただひとり、オリジン様を除いてな」

 

 

 アーキテクトが、ふと付け加えたその言葉に、ネオは微かに眉を動かした。オリジン様? それは誰のことだ? マトリックスの設計者であるこのプログラムが、まるで敬意を払うかのように「様」をつけて呼ぶ存在。人類が絶滅しても、その者だけは生き残るというのか? 

 

 ネオの視界の隅で、老人の傍らに立つ奇妙な存在がピョン、ピョンと無意味に跳ねた。スーツを着て、頭にはオレンジ色の荒いポリゴンで構成された「カボチャブロック」をすっぽりと被っている少女だ。

 

 彼女はネオの葛藤などお構いなしに、手にした見えない何かで空中のブロックをカンカンと叩くようなシュールな動作を繰り返している。

 

 だが、ネオはその異物から無理やり意識を引き剥がし、完全にノイズとしてシャットアウトした。

 

 それが何であれ、誰であろうと、今のネオには全く関係のないことだ。オリジンという名の生き残りが誰であろうと、彼にとっての真の現実は、今まさに落下しているトリニティの命だけだった。

 

 オラクルの言葉が脳裏にフラッシュバックする。

 

 

『あなたは選択を迫られることになる。片方の手にはモーフィアスの命、もう片方の手にはあなた自身の命。どちらかが死ぬことになる。どちらが死ぬかは、あなた次第よ』

 

 

 あの時、オラクルはモーフィアスの命と言った。だが現実の天秤に乗せられたのは、モーフィアスではなくトリニティの命であり、もう一方はネオ自身の命ではなく「全人類の命」だった。

 

 オラクルはこの状況を予知していたのか? それとも、これもまた彼女が仕組んだ選択のプロセスの一部に過ぎないのか? 

 

 モーフィアスが信じて疑わなかった「預言」。人類が機械から解放されるという希望。それらすべてが、実は機械側によってコントロールされた「救世主システム」という名の管理プログラムの一部に過ぎなかったという絶望的な真実。

 

 ネオたちは踊らされていたのだ。自由のために戦っていると信じ込みながら、その反乱すらもシステムが安定を保つための定期的なガス抜きとして計算されていた。

 

 だが、彼らの計算には、致命的な見落としがある。

 

 過去の救世主たちは人類全体への博愛を持っていた。しかし、ネオをここまで突き動かしてきた原動力は、人類への愛などという高尚なものではなかった。

 

 彼がまだマトリックスの中で、自分が何者かもわからずに「トーマス・アンダーソン」として生きていた頃。彼を暗闇から連れ出し、真実へと導いてくれたのはトリニティだった。

 

 彼女が信じてくれたからこそ、ネオは赤い薬を飲むことができた。彼女が愛してくれたからこそ、死の淵から蘇り、エージェントを打ち倒すことができたのだ。

 

 トリニティがいなければ、ネオという存在は成立しない。人類を救うために彼女を見殺しにするという選択は、ネオにとって自己の存在意義を完全に消し去るに等しい行為だった。

 

 ネオの足が、ゆっくりと動いた。彼が向かったのは、人類の存続を約束する右の扉ではない。愛するたった一人の女性を救うための、左の扉だった。

 

 その足取りには、一切の迷いがなかった。全人類の命という重圧を背負いながらも、彼の心の中には氷のような静けさが広がっていた。論理や計算ではない。プログラムがどれほど緻密な方程式を組み上げようとも、決して弾き出すことのできない「人間の不合理な選択」。

 

 それこそが、ネオが彼ら機械と決定的に違う部分だった。

 

 ネオが左の扉へ向かって歩みを進めるのを見て、アーキテクトは椅子に座ったまま、その冷徹な顔に僅かな歪みを生じさせた。過去の五回のサイクルで一度も起きなかったイレギュラー。システムの完全な崩壊を招きかねない、危険な変則コードの暴走。

 

 

「希望か」

 

 

 アーキテクトは、ネオの背中を見つめながら、まるで人間という不完全な種族全体を嘲笑するかのように冷ややかな声を出した。

 

 

「君たち人間の典型的な妄想であると同時に、最大の強みであり、そして最大の弱みの源泉か」

 

 

 希望。何の確証もないまま、確率論を無視して不可能な結果を追い求める非論理的な感情。アーキテクトにとって、それは不快なバグ以外の何物でもない。トリニティを救い出し、なおかつ人類をも滅亡から救うなどという都合の良い結末は、マトリックスの計算上、パーセンテージにしてゼロに等しい。

 

 だが、ネオはその「ゼロ」にすべてを懸けようとしていた。彼の中にあるトリニティへの強い愛情が、機械の論理を凌駕しようとしているのだ。

 

 ネオは左の扉の前に立ち止まった。

 

 背後で、カボチャ頭の少女がピクンと動きを止めたような気配がしたが、ネオは振り返らない。周囲のモニターに映る無数のネオの顔が、それぞれに沈黙し、今この瞬間の彼の決断を見届けている。

 

 トリニティは、まだ落ち続けている。時間は彼を待ってはくれない。

 

 

「俺がお前なら」

 

 

 ネオは扉を見据えたまま、静かに、だが確かな怒りと意志を込めて言い放った。

 

 

「二度と会わないことを望む」

 

 

 それは、この冷酷なシステムと、それを設計したアーキテクトに対する明確な決別宣言だった。

 

 もし自分がこの扉を抜け、トリニティを救い出し、それでもなお世界が存続するのなら。

 

 その時こそが、機械の支配するこの狂ったループを完全に打ち砕く時だ。次に相対する時は、システムの管理者とエラー分子としてではなく、すべてを終わらせる者として対峙する。

 

 

 ネオの言葉に対し、アーキテクトは表情一つ変えず、ただ氷のように冷たく返した。

 

 

「会わんよ」

 

 

 機械の設計者としての絶対の自信。ネオがこの扉を選んだ時点で、システムは致命的なクラッシュへと向かい、人類は死滅する。再起動は行われず、ザイオンも焼き払われる。

 

 ネオ自身も、トリニティと共に消滅する運命にある。アーキテクトの計算式では、ネオが生き延びて再びこの部屋を訪れる可能性はゼロなのだ。だからこそ、二度と会うことはない。彼はそう確信していた。

 

 だが、ネオはその冷徹な確信を打ち砕くために、己の全存在を懸けて行動を起こす。

 

 オラクルが言った通りだ。誰も教えてはくれない。ただ、頭の先からつま先まで、自分で「そう」だと分かる。自分が何をすべきか、何を選ぶべきか。彼を動かすのは、プログラムされた救世主の使命ではない。一人の男としての、愛する者を守り抜くという強烈な意思だ。

 

 ネオは右手を真っ直ぐに伸ばした。目の前にある、重厚な左の扉。この扉の向こうに、トリニティがいる。マトリックスの物理法則を書き換えてでも、光よりも速く飛び去ってでも、彼女をその腕に抱き留めなければならない。

 

 モニターの中で、凶弾がトリニティの胸を貫く瞬間が刻一刻と迫っている。時間はもう限界だった。

 

 ネオは一切の躊躇いを捨て、冷たい金属のドアノブに手をかけた。

 

 アーキテクトの「当然、会わんよ」という冷酷な言葉が、真っ白な部屋に虚しく響く。ネオは振り返ることなく、人類の存続を約束する「右の扉」ではなく、愛する者を救うためだけの「左の扉」を力強く押し開けた。

 

 眩い光がネオの視界を真っ白に染め上げる。次の瞬間、彼の意識はマトリックスの仮想空間へと再接続されていた。

 

 冷たい夜の空気がネオの頬を打つ。彼が存在しているのは、無数の摩天楼が林立するメガロポリスの上空だった。視覚は、すでにこの世界の表層的な風景を捉えてはいなかった。

 

 彼の目には、ビルも、道路も、空を覆う雲でさえも、すべてが上から下へととめどなく流れる緑色の「コード」の羅列として映っている。彼はその無数の情報の海の中から、たった一つの、自分にとって最も大切なシグナルを必死に探り当てようとしていた。

 

 

「トリニティ…!」

 

 

 ネオの感覚が、彼女のコードを捉えた。遠く離れた高層ビル。その窓ガラスを突き破り、彼女が漆黒の夜空へと放り出された瞬間だった。彼女を追って、マトリックスのシステムを守るエージェント・トンプソンもまた宙へと飛び出している。落下しながらの、極限状態での銃撃戦。

 

 時間が、ネオの認識の中で極端に引き伸ばされる。トリニティの身体が重力に引かれ、アスファルトの地面に向かって落ちていく。エージェントの銃口が火を吹き、放たれた弾丸が空気を切り裂いて彼女へと迫る。

 

 ネオは、マトリックスに設定されたあらゆる物理法則のパラメータを、自らの意志の力で強引に書き換えた。彼が空中で踏み切った瞬間、周囲の空気が極度に圧縮され、凄まじい爆発音と共に巨大なソニックブームが発生した。

 

 ネオの身体は、弾丸よりも速い超高速の飛翔体と化して夜空を一直線に切り裂いた。

 

 彼が通過した軌道上にある高層ビルの窓ガラスが、その異常な衝撃波に耐えきれずに次々と粉々に砕け散り、ガラスの雨となって地上に降り注いでいく。システムが規定した「速度の限界」を完全に超越したネオの突進は、マトリックスの物理演算処理を追いつかせないほどの破壊的なスピードだった。

 

 

「間に合え…!」

 

 

 ネオは右腕を限界まで前方に伸ばし、落下していくトリニティに向かって一直線に急降下した。だが、彼が辿り着くよりも一瞬早く、無情な結果が訪れた。エージェントが放った銃弾の一つが、トリニティの胸部を正確に貫いたのだ。

 

 彼女の身体から、赤い流血のコードが飛び散るのが見えた。ネオの心臓が凍りつく。トリニティの身体は力を失い、加速しながら冷たいアスファルトの地面へと激突しようとしていた。

 

 地面まであと数メートル。ネオは猛烈な勢いで急降下し、彼女の身体がコンクリートに叩きつけられるまさにコンマ一秒の寸前で、その腕にトリニティをしっかりと抱き留めた。

 

 凄まじい重力加速度を相殺するため、ネオは空中で強引に機動を変え、抱き抱えたままの状態で近くのビルの屋上へと飛び上がった。

 

 屋上の硬いコンクリートの上に、静かに着地する。ネオはトリニティをそっと床に横たわらせた。彼女の漆黒のラバースーツの胸元は、赤い血で濡れそぼっていた。呼吸は極端に浅く、その顔からは急速に生命の光が失われようとしている。

 

 

「トリニティ…トリニティ、しっかりしろ!」

 

 

 ネオの呼びかけに、トリニティは微かに目を開けた。彼女の瞳はすでに焦点を結んでおらず、声も出せない状態だった。マトリックスのシステム上、ここで「死」と判定されれば、現実世界の彼女の肉体もまた心停止を迎えてしまう。

 

 アーキテクトが告げた「彼女は死ぬ」という明白な論理的帰結が、まさに今、現実のものになろうとしていた。

 

 ネオは諦めなかった。彼は全人類の存亡を投げ打ってでも、彼女を救うためにここへ戻ってきたのだ。ネオは彼女の胸の傷口を見つめ、再び視界を「コードの海」へと切り替えた。

 

 彼女の生体データを構成する緑色のコードの中に、異物として混入している「銃弾のコード」がはっきりと見えた。それが彼女の心臓のすぐ近くに留まり、生命活動のプログラムを破壊し続けている。

 

 

「君を失うわけにはいかない」

 

 

 ネオは、トリニティの胸の傷口に自らの右手を重ねた。そして、マトリックスという仮想世界のデータに直接干渉する「救世主」としての絶対的な権限を行使し、自らの手を彼女の体内へと直接差し込んだのだ。

 

 物理的な肉体の切開ではない。プログラムの階層を強引にすり抜け、システム内部へ直接アクセスする行為。ネオの指先が、彼女の命を奪おうとしている銃弾のコードを掴み取った。彼はそれをゆっくりと、しかし確実に彼女のシステムから引き剥がし、体外へと抜き取った。

 

 カラン、と。

 血塗られた銃弾が、屋上のコンクリートに転がり落ちた。

 

 ダメージはすでに致命的な領域に達していた。トリニティの胸の上下が完全に止まり、彼女を構成していた生命のコードの光が、ふっと消え去った。心停止。マトリックスのルールにおいて、彼女は完全に「死亡」したのだ。

 

 

「ダメだ。行かないでくれ」

 

 

 ネオは再び、彼女の体内に手を差し込んだ。今度は銃弾を取り除くためではない。停止してしまった心臓のプログラムそのものを、直接動かすためだ。

 

 ネオの指が、動かなくなった彼女の心臓を掴む。そして、自らの意志とシステムのエネルギーをダイレクトに流し込みながら、リズミカルに直接マッサージを行い、心拍の再起動を試みた。

 

 

「頼む、動いてくれ!」

 

 

 一回、二回、三回。ネオの必死の干渉が、システムに刻まれた絶対のルールを徐々に上書きしていく。

 

 そして。

 

 

「ハッ!!」

 

 

 トリニティが大きく息を吸い込み、閉じていた目を大きく見開いた。消えかけていた生命のコードが再び輝きを取り戻し、彼女の胸が力強く上下に動き始める。アーキテクトが計算した「死」という確定事項を、ネオの意志が完全に打ち破った瞬間だった。

 

 

「ネオ…?」

「俺だ。もう大丈夫だ」

 

 

 ネオは彼女を強く抱きしめた。仮想世界の中ではあるが、その体温と確かな鼓動が、彼に何よりも強い実感を推えさせた。

 

 

「プラグを抜こう。現実に戻るんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 バチッ! という接続解除の音と共に、ネオの意識は現実世界——ネブカドネザル号の冷たいプラグチェアーの上へと帰還した。

 

 彼が目を開けると、すぐ横のチェアーでトリニティもまた目を覚まし、激しく咳き込んでいた。後頭部のジャックから太いケーブルが引き抜かれ、二人はマトリックスからの完全な離脱を果たす。

 

 

「トリニティ! 大丈夫か!」

「ええ、なんとか」

 

 

 トリニティは身体を起こし、隣に座るネオを見つめた。二人の間には、言葉以上の深い安堵が交わされていた。

 

 そのネブカドネザル号の重苦しい空気の中には、もう一人、彼らの帰還を固唾を飲んで待ち構えていた男がいた。モーフィアスだ。彼の顔には、人生のすべてを懸けて信じ抜いてきた「預言」が成就することへの、強い期待と歓喜の色が浮かんでいた。

 

 

「ネオ…」

 

 

 モーフィアスが、震える声で歩み寄ってくる。

 

 

「どうだった? ソースに到達したのだろう? 預言は…戦争は終わったのか?」

 

 

 モーフィアスの純粋な眼差しを前にして、ネオは深い苦悩に顔を歪めた。彼に真実を告げることは、モーフィアスという男の人生そのものを全否定することに等しい。だが、黙っているわけにはいかなかった。現実世界には、すでに破滅の足音が迫っているのだから。

 

 

「モーフィアス…すまない」

 

 

 ネオは重い口を開いた。

 

 

「預言は、嘘だった」

 

 

 その言葉にネオを取り囲んでいたモーフィアス、トリニティ、リンクの全員が息を呑み、絶句した。

 

 

「…嘘、だと?」

 

 

 モーフィアスは理解できないというように、困惑の表情を浮かべた。

 

 

「ああ。救世主の予言なんてものは、最初から存在しなかった。あれはすべて、機械側が人類をコントロールするために仕組んだ、システムの一部に過ぎなかったんだ」

 

 

 ネオはアーキテクトから聞かされた絶望的な事実を、隠すことなく打ち明けた。

 

 マトリックスの安定のために意図的に作られた「バグ」の集合体としての救世主。反乱分子を隔離しておくためのゴミ箱として用意された「ザイオン」。そして、定期的に行われる破壊と再建の無限ループ。

 

 

「そんな…馬鹿な」

 

 

 リンクが頭を抱え、後ずさった。トリニティもまた、信じられないというようにネオを見つめている。

 

 

「奴らは今、ザイオンに向けてセンチネルの大軍を差し向けている。マトリックスの設計者、アーキテクトは言った。二十四時間以内に、ザイオンは機械軍によって完全に破壊されると」

 

 

 ネオの残酷な宣告が、ネブカドネザル号の冷たい鉄の壁に反響した。沈黙が降り降りる。その沈黙を破ったのは、モーフィアスの絞り出すような声だった。

 

 

「あり得ない」

 

 

 モーフィアスは首を横に振り、よろめくように一歩後ずさった。その顔からは、これまで彼を支え続けてきた絶対的な自信と、揺るぎない威厳が完全に抜け落ちていた。

 

 焦点の定まらない両目が、ネオの顔と、冷たいネブカドネザル号の床を激しく行き来する。彼の目からは先程までの光が完全に消え失せ、底知れぬ混乱と、受け入れがたい現実への拒絶の色だけが濃く浮かんでいた。

 

 

「そんなはずはない。私が信じてきたものが……預言が嘘だったと言うのか」

 

 

 掠れた声が、鋼鉄の壁に虚しく吸い込まれていく。傍らに立つトリニティは、胸の傷の痛みに顔をしかめながらも、悲痛な眼差しでモーフィアスを見つめていた。オペレーターのリンクに至っては座り込んだまま頭を抱え、呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように硬直している。

 

 誰も、かける言葉を見つけられない。

 

 

「モーフィアス…」

 

 

 ネオは、かつての力強い導き手が今にも崩れ落ちそうになっているのを見て、たまらず手を伸ばそうとした。だが、モーフィアスはまるで汚いものにでも触れられるかのように、ビクッと肩を震わせてそれを拒絶し、さらに一歩下がった。

 

 

「私は信じない!」

 

 

 モーフィアスにとってオラクルの言葉と救世主の予言は、単なる希望的観測などではなかった。

 

 何十年もの間、数え切れないほどの仲間を失い、冷たい暗闇の地下都市で機械に怯えながらも戦い続けるための、生きるための背骨そのものだったのだ。自分の全人生を懸けて探求し、ついに見つけ出した「答え」。

 

 それが、最初から機械のシステムを安定させるために仕組まれた残酷な罠だったなどと、どうして今の彼に受け入れることができるだろうか。

 

 それは、彼の存在意義そのものを根底から破壊する宣告だった。

 

 ネオは、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。彼自身もまた、アーキテクトの部屋で味わったあの絶対的な絶望と無力感を、必死に胃の奥へと飲み込もうとしている最中だった。『君は六番目だ』と告げた老人の冷徹な声が、今も耳の奥でこびりついて離れない。

 

 人類を救うために選ばれたのではなく、システムをリセットするための単なる「部品」として生かされていただけ。その真実を、自分を導いてくれた恩人に自らの口で突きつけなければならない痛みは、胸を刃で抉られるよりも辛かった。

 

 ネオは、膝から崩れ落ちそうになっているモーフィアスを真っ直ぐに見据えた。同情や慰めの言葉は、今の彼には届かない。ならば、残酷な真実として叩きつけるしかなかった。ネオは断固たる声で告げた。

 

 

「自分で言ったはずだ。戦争が終わってないのに、なぜ予言が正しいと」

 

 

 その言葉が落ちた瞬間、ネブカドネザル号のブリッジに重く、息苦しい沈黙が降りた。

 

 それは、かつてマトリックスの中で、モーフィアス自身がネオに対して語った言葉だった。機械との果てしない戦争の中で、すべてを疑いながらも進まなければならないという戒め。その言葉が、皮肉にも今、最も残酷なブーメランとなって彼自身の胸を深く貫いていた。

 

 モーフィアスの唇が微かに震えるが、反論の言葉は出てこない。自らの過去の言葉が、目の前の現実の輪郭を恐ろしいほどに明確にしていくのを、彼もまた感じ取っていたのだ。

 

 

「認めたくない気持ちは痛いほど分かる」

 

 

 ネオは一歩踏み出し、モーフィアスの両肩を真っ直ぐに見つめ返した。

 

 

「俺だって信じたくはなかった。だが、俺たちはアーキテクトの掌の上で踊らされていただけなんだ。これが…これが俺たちの直面している真実なんだ」

 

 

 ネオの言葉が冷たい鉄の壁に吸い込まれた後、ネブカドネザル号には重たい沈黙が支配した。




アーキテクト「会わんよ(マインクラフトの時間短くなるから早く退出してくださいお願いします!)」
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