機動戦士Gundam GQuuuuuux 逆転した世界:Re 作:ボルメテウスさん
# 本編
## 懐かしい地球で始まる朝
地球へ降りて最初に覚えたのは、空の色よりも土の匂いだった。
宇宙港から郊外へ向かう輸送車の窓を開けると、湿った草と熱を含んだ道路の匂いが車内へ流れ込んでくる。モビルスーツの冷却剤とも、艦内へ満ちた濾過空気とも違う、少し青臭くて輪郭の曖昧な匂いだった。
「ランガ、さっきから同じ方向ばかり見てるけど、何かあるの?」
隣の座席からマチュが身を乗り出し、俺が見ていた窓の外を覗き込んだ。
「山と畑と、遠くに古い鉄塔があるだけだよ」
「それが懐かしいんだ。俺がいた世界の地球にも、似た景色が残っていたからな」
「また昔の地球と比べてる」
マチュは頬を膨らませたが、すぐには視線を戻さなかった。窓枠へ顎を乗せ、流れていく緑を俺と同じ速度で追っている。
「でも、今見てるのはこっちの地球だからね。間違えないでよ」
「間違えないさ。隣から逐一訂正する人がいるからな」
「それなら安心だけど、訂正される前に覚えてほしいんだからね」
向かい側へ座るニャアンは、膝の上へ広げた書類から顔を上げず、小さく息を吐いた。
「二人とも、家へ着く前から疲れる会話をしないで。契約内容と生活費の分担を確認したいから、少し静かにしてほしい」
「家へ着いてからでよくない?」
「着いたらマチュは荷物も開けずに庭を見に行くと思うから、移動中に説明しているんだよ」
「そんなことしないってば」
「庭に小さな木があるって聞いた時、どんな実がなるのか三回も聞いていたよ」
「三回じゃなくて二回だったと思う」
「回数の問題じゃないだろう」
最後列へ座っていたドゥーが、俺たちの言葉を聞きながら透明な袋を指で押していた。袋の中には家の鍵が四本入り、それぞれの札へ名前が書かれている。
ランガ。
マチュ。
ニャアン。
ドゥー。
彼女は自分の名が書かれた札へ何度も指を滑らせている。
「まだ信じられないか」
声を掛けると、ドゥーは袋から顔を上げた。
「鍵って、戻ってくる人が持つものなんだよね」
「出掛ける時に戸締まりする人も持つけど、だいたい合っている」
「私が持っていても、誰も困らないの?」
「困るどころか、なくすと全員が困るから大事にしてくれ」
ドゥーは鍵の袋を両手で包み、膝の中央へ置き直した。
戦闘が終わった後、俺たちは地上の軍施設へ移され、検査と事情聴取を何度も受けた。ガンダムXのHADES、ジークアクスとジフレドの特殊システム、ドゥーの感応能力、そして俺の出自について、知りたい人間はいくらでもいた。
施設側が最初に用意したのは、それぞれ別棟の居室だった。
マチュが説明の途中で机を叩いたため、その案は書類ごと引っ込められた。
「四人で住むからね。誰か一人だけ別の場所へ送る話なら、最初から聞かないよ」
あの時の声は、戦場でシュウジへ叫んだ時より低かった。
シャリア中佐は反論せず、机の上で指を組んだままマチュの言葉を最後まで聞いていた。その翌日には、郊外に空いている一軒家の資料と四人分の契約書を持ってきた。
「君たちに必要なのは、次の命令を待つ施設ではない。自分の意思で帰れる住所だと、私は思う」
家賃の一部は軍が負担し、残りはラルさんたちの口添えによって設けられた支援制度から支払われることになった。ガトーから届いた通信には「甘えと支援を混同するな」と書かれていたが、最後に小さく「戻る基地を持つことも戦力維持の一環だ」と付け足されていた。
テムさんからは生活家電が送られてきた。
取扱説明書の束が、家電そのものより厚かった。
輸送車が緩やかな坂を上り、白い壁と青い屋根の家が見えてくる。
庭の草は膝ほどまで伸び、小さな木の枝が風を受けて揺れていた。窓には午後の日差しが反射し、空き家だった室内へ、まだ誰のものでもない光が差し込んでいる。
「着いた!」
マチュが扉の開く前から立ち上がろうとし、ニャアンに袖を掴まれた。
「停車してから動いて。地球へ来た初日に車内で転ばないでほしい」
「転ばないよ。それに、この重力にはもう慣れたから」
「昨日、廊下の段差でつまずいていたけど」
「あれは床の設計が悪かったんだよ」
「段差は三センチだったぞ」
「ランガはどっちの味方なの?」
「段差の味方という立場は初めて聞いたな」
輸送車が停まり、四人で外へ降りる。
日差しが肩へ触れ、風が髪と服の裾を揺らした。遠くで鳥が鳴き、道路の向こうから小さな車の音が近づいては離れていく。
土へ足を置くたび、体重が地面へ吸い込まれる。
俺は無意識に深く息を吸っていた。
「ランガ、また止まってる」
数歩先へ進んだマチュが振り返り、手を腰へ当てている。
「今度は何が懐かしいの?」
「重力だよ。立っているだけで足元へ引かれる感じを、少し忘れていた」
「だったら、早く家の中で座ればいいじゃん」
「情緒というものを少しは大切にしてくれ」
「荷物を運んでからなら、いくらでも大切にしていいよ」
玄関の前にはシャリア中佐が立っていた。
キケロガの操縦席で見た時と同じ穏やかな顔だったが、今日は軍服の上着を脱ぎ、手には小さな箱を持っている。
「無事に着いたようだね」
「わざわざ待っていたんですか」
「鍵を渡す役目は、人へ任せたくなかったのでね」
シャリア中佐が箱を開けると、中には同じ形の鍵が四本並んでいた。輸送車の袋に入っていたものは仮の鍵であり、こちらが正式な玄関の鍵らしい。
中佐は俺だけにまとめて渡さなかった。
マチュ、ニャアン、ドゥー、そして最後に俺へ一本ずつ手渡していく。
「ここへ帰る順番は誰にも決められない。誰かが先に入り、誰かが最後まで待つ必要もない」
ドゥーは受け取った鍵を掌へ乗せ、光へ透かすように眺めた。
「私の名前で開くの?」
「鍵は名前を読まないが、君が開ければ君の帰宅になる」
「それなら、最初に開けてもいい?」
マチュが一歩前へ出かけたまま止まり、ニャアンも手にしていた書類を閉じた。
「もちろんだよ」
俺が答えると、ドゥーは玄関へ近づいた。
鍵穴へ差し込むまでに二度向きを確認し、ゆっくり回す。内部で金属の噛み合う音が鳴り、古い扉が少しだけ外側へ浮いた。
ドゥーは取っ手を引き、開いた家の中を覗く。
誰も彼女の背中を押さなかった。
彼女は自分から敷居を越え、光の差す廊下へ一歩だけ進んだ。
「ただいまって、今言ってもいいの?」
「初めて入る家で言うのは少し変だけど、誰も止めないと思う」
ニャアンがそう言うと、ドゥーは玄関の奥へ向かって小さく口を開いた。
「ただいま」
返事の代わりに、開け放された窓から風が通り抜けた。
廊下の奥で薄いカーテンが揺れ、午後の光が床へ長く伸びる。
「おかえり、ドゥー」
マチュが先に言った。
ニャアンも続き、俺も最後に同じ言葉を返した。
シャリア中佐は玄関の外からその様子を眺め、何も言わずに目を細めた。
引っ越しは、戦闘より連携の悪い共同作業になった。
「ランガ、その棚を一人で持たないで!」
「この程度なら問題ない。モビルスーツの操縦席より軽い」
「比較対象がおかしいし、廊下の角へぶつけてる!」
「傷は浅い」
「家の傷を戦闘報告みたいに言わないで!」
俺が運んでいた棚の下へ、ドゥーが無言で手を入れた。
「重いものは二人で持つって、さっきマチュが言ってた」
「君まで止めるのか」
「止めてない。一緒に持ってる」
反対側では、ニャアンが段ボール箱を三つの山へ分けていた。
「これは台所、こっちは居間、そっちはマチュが勝手に買った物だから本人の部屋へ持っていって」
「勝手じゃないよ。クッションと置き時計と光る置物は生活に必要でしょ」
「光る置物は三つも必要ないと思う」
「部屋ごとに置けば、夜でも迷わないよ」
「家の中で遭難する予定があるの?」
夕方までに、廊下は段ボールで埋まり、居間には組み立て途中の家具が並んだ。窓から入る風には土と草の匂いが混じり、橙色の日差しが箱の角を丸く照らしていた。
部屋割りは、じゃんけんでも命令でも決めなかった。
二階には四つの小部屋があり、マチュは庭の見える南側を選び、ニャアンは台所へ近い階段側を選んだ。俺は余った部屋でよかったが、それを口にした途端、二人から同時に首を振られた。
「余ったところじゃなくて、自分で選んで」
「寝られれば、どこでも変わらないだろう」
「そうやって自分を最後にするの、もう禁止だから」
マチュが腕を組み、ニャアンは部屋の一覧を俺の胸へ押しつけた。
「朝に庭が見える部屋と、夕方に街が見える部屋なら、どちらがいい?」
「では、夕方の街が見える方にする」
「最初からそう答えればいいんだよ」
ドゥーは残った日当たりの良い小部屋の前で、長い間立ち止まっていた。
部屋には小さな窓と空の棚があり、床へ置かれた荷物は一つの鞄だけだった。監視用の機器も、接続端子も、目を閉じる時間を決める表示も存在しない。
「何を置けばいいのか、分からない」
ドゥーは部屋へ入らず、敷居の上から窓を見ていた。
「今日中に決めなくていい」
俺は扉の外へ立ったまま答えた。
「ベッドの位置も、棚へ置く物も、扉を閉めるかどうかも、自分で決めればいい」
「ランガは決めてくれないの?」
「必要なら一緒に考える。でも、俺が先に全部決めたら、ここが君の部屋じゃなくなる」
ドゥーは少しだけ視線を下げ、それから鞄の留め具を外した。
中から取り出したのは、施設を出る時に渡された小さな木札だった。表面には自分で書いたらしい不揃いな文字で、ドゥー・ムラサメと記されている。
彼女は札を扉の取っ手へ掛けた。
「ここへ帰ってもいいんだね」
「鍵を持っているだろう」
「鍵があって、名前もある」
「なら、迷っても戻れる」
窓から差し込んだ夕陽が、白い床へ四角い光を作っている。
ドゥーはその中央へ立ち、自分一人分の影を長く伸ばした。しばらく眺めた後、鞄を部屋の奥へ運び、扉は半分だけ開けたままにした。
荷解きが一段落した頃には、外はすっかり暗くなっていた。
夕食当番の初日は話し合いの結果、全員で簡単な料理を作ることになった。マチュは包丁の扱いをニャアンに止められ、ドゥーは野菜の大きさを定規で揃えようとし、俺は味付けの量を目分量で入れて三人から止められた。
食卓に並んだ料理は、少し味が濃く、野菜の形も揃っていなかった。
それでも四つの椅子が埋まり、誰かが席を立つたびに食器の触れ合う音がした。
食後、俺は一人で縁側へ出た。
庭の草は月明かりを受けて銀色へ変わり、遠くから虫の声と電車の走る音が届いている。湿った夜気が肌へ触れ、昼間とは違う土の匂いを運んできた。
空には星があった。
宇宙で見る星より小さく、地上の大気を通すため輪郭が揺れている。
以前の世界でも、こんな夜を見たことがある。
戦場へ戻る前の短い休息。
守れなかった街の外れ。
誰かが淹れた熱い飲み物を片手に、明日も同じ空が残ると信じていた夜。
似ている。
けれど、同じではない。
「ランガ、また一人で景色を見てる」
背後からマチュの声がした。
振り返ると、彼女は四つのカップを乗せた盆を持っている。その後ろにはニャアンが続き、ドゥーは両手で自分のカップを包んでいた。
「懐かしいと思ったんだ」
俺が答えると、マチュは隣へ腰を下ろした。
「昔の地球に似てるから?」
「ああ。草の匂いも、虫の声も、遠くの電車も、少しだけ覚えているものに近い」
「だったら、今の地球と混ざらないように、新しいことも覚えないとね」
マチュが俺へカップを渡す。
中身は温かい飲み物だったが、砂糖が多過ぎるらしく、ニャアンは一口飲んだところで眉を寄せている。
「マチュ、これは誰が作ったの?」
「私だけど、甘い方が疲れに効くでしょ」
「甘いというより、砂糖の中へ飲み物が入ってる」
「ドゥーはどう?」
「甘い。でも、今日の味として覚えやすい」
「ほら、好評だよ」
「好評とは少し違うと思う」
三人の声が、夜の庭へ柔らかく広がっていく。
俺はカップへ口を付け、確かに甘過ぎる味を飲み込んだ。戦場で飲んだ栄養剤よりずっと不正確で、だからこそ忘れにくい味だった。
縁側へ四人分の影が並ぶ。
開け放した居間から暖かな明かりがこぼれ、庭の先で重なった影が夜空へ長く伸びている。
「懐かしい地球だと思った」
俺はもう一度、空を見上げた。
「でも、前と同じ地球じゃない。隣にいる人が違えば、空の見え方まで変わるらしい」
「それなら、ちゃんと今の空を見てよ」
マチュが俺の肩へ自分の肩を軽く当てた。
ニャアンは反対側で家計簿を開き、明日必要な物を小さな文字で書き出している。ドゥーは自分の鍵を取り出し、月明かりの下で名前の札を確かめていた。
「ここからは、新しい家だ」
口にすると、その言葉は思っていたより自然に夜へ溶けた。
「家って、明日も戻ってきていい場所なんだよね」
ドゥーが尋ねる。
「明日だけじゃない。出掛けても、迷っても、喧嘩しても、帰りたいと思った時に戻ればいい」
「喧嘩はする前提なの?」
ニャアンが家計簿から顔を上げる。
「マチュがいる時点で避けられないと思う」
「どうして私だけが原因みたいに言うの!」
「初日から棚を三回ぶつけた人へ言われたくない」
「あれはランガでしょ!」
「二人とも、近所へ聞こえるから少し静かにして」
ニャアンの声へ、俺とマチュは同時に口を閉じた。
その直後、ドゥーが小さく笑った。
初めは息が漏れただけのように聞こえたが、彼女は鍵を握ったまま肩を揺らしている。マチュもつられて笑い、ニャアンは困ったように眉を下げた後、口元を隠した。
俺もカップを膝へ置き、声を抑えずに笑った。
地球の夜は、戦場よりずっと静かだった。
それでも、四人で並ぶ縁側には、砲撃より確かな音がいくつも残っている。食器の触れ合う音、廊下を歩く足音、名前を呼ぶ声、そして、誰かが帰った時に返す言葉。
過去の地球は、もう戻らない。
けれど、この家の明かりは今夜から点き始めた。
俺たちは懐かしい空の下で、まだ新しい鍵をそれぞれの掌へ握りながら、明日も帰ってこられる場所を見つめていた。