機動戦士Gundam GQuuuuuux 逆転した世界:Re 作:ボルメテウスさん
鳥の声で目を覚ました朝は、警報の鳴らない静けさに満ちていた。
窓の隙間から入り込んだ風がカーテンを膨らませ、まだ薄暗い部屋の壁へ柔らかな影を揺らしている。枕元へ置いた家の鍵は、昇り始めた朝日を受けて、昨日までとは少し違う色に輝いていた。
敵襲を知らせる通信はない。
出撃時刻を告げる表示も、生命反応の消失を数える機械音も聞こえない。
俺はしばらく布団の中で天井を見つめ、それから予定より早く起き上がった。
眠れなかったわけではない。
むしろ、よく眠れた方だと思う。
ただ、目が覚めた後に何をすればいいのか、身体の方がまだ理解していなかった。
戦場にいた頃なら、起床後の動きは決まっていた。機体の状態を確認し、敵の位置を調べ、誰が帰っていないのかを数える。目的を探す必要などなく、失われようとしている何かが、こちらの都合を待たずに次の命令を作っていた。
今は、誰も俺へ急げと言わない。
それが時々、宇宙より広く感じられた。
家の中を起こさないよう階段を下り、縁側の窓を開ける。朝の空気には湿った土と草の匂いが混じり、庭の葉には小さな朝露が残っていた。
水滴へ日が触れるたび、無数の光が緑の上で瞬いている。
以前なら、それを観測装置の反射と見間違えたかもしれない。
今は、ただの朝露だと分かる。
ただの朝露が、こんなに長く目に残ることを、俺は知らなかった。
縁側へ腰を下ろし、裸足のまま庭先へ足を投げ出す。
空は地平線の近くから淡い橙色に染まり、さらに高い場所では、夜の名残を含んだ青が残っている。遠くから始発列車の音が聞こえ、隣の家では誰かが雨戸を開けていた。
誰も戦っていない。
誰かが今日を始めるための音だけが、地上のあちこちから届いてくる。
「やっぱり、ここにいた」
背後から聞こえた声に振り返ると、マチュが二つのカップを持って立っていた。
髪は片側だけ跳ね、まだ眠気の残る目を細めている。けれど、俺を見つけると少しだけ口元を持ち上げ、縁側へ近づいてきた。
「俺を探していたのか」
「朝起きたら部屋にいないし、靴は玄関に残ってるし、この家で一人になれる場所なんて庭くらいでしょ」
「推理としては見事だな」
「褒めても何も出ないよ。もう持ってきたから」
マチュは隣へ座り、片方のカップを差し出した。
湯気の向こうから甘い匂いがする。
「ニャアンが砂糖の量を見張ってたから、今日は普通の味だよ」
「前回の反省が生かされたらしいな」
「私はあれでもおいしいと思ってたんだけど」
「砂糖の中へ飲み物を入れる料理法を、飲料とは呼ばないと思う」
「最終回みたいな朝に、細かいことを言わないでよ」
マチュは自分のカップへ口を付け、熱かったのか小さく眉を寄せた。
その仕草を見ながら、俺も一口飲む。
確かに、今日は適度な甘さだった。
庭を渡る風が二人の間を抜け、開け放した居間のカーテンを揺らす。室内には昨夜片づけきれなかった箱が一つだけ残り、その上へニャアンの家計簿が置かれていた。
「何を考えてたの」
マチュがカップを膝へ置いた。
「何を、というほど具体的ではない」
「またそうやって、考えてることを煙に巻く」
「煙に巻いているわけじゃない。本当に、答えがなかったんだ」
空へ視線を戻す。
朝焼けは少しずつ薄れ、青い部分がゆっくり広がっている。
「戦う理由がなくなった」
口にすると、思っていたより静かな言葉になった。
「シュウジは向こう側へ帰り、イオマグヌッソも止まった。マチュも、ニャアンも、ドゥーも、ここへいる。守らなければならないものが消えたわけじゃないが、今すぐ倒すべき敵はいない」
「それで、次に何をすればいいか分からないんだ」
「そんなところだ」
マチュはすぐに答えず、カップの縁を指でなぞった。
庭の端では、小さな鳥が草の間を跳ねている。ついばむたびに朝露が飛び、細かな光が一瞬だけ空中へ散った。
「戦う理由がなくなったからって、ランガまで止まる必要はないでしょ」
マチュは鳥の動きを見たまま言った。
「誰かを守るためでも、過去の失敗をやり直すためでもなくて、ランガ自身がこれから何をしたいのか決めればいいよ」
「自分が何をしたいか、か」
「うん。ずっと後回しにしてたでしょ」
否定する言葉は見つからなかった。
誰を帰すか。
何を止めるか。
どこで死ねば被害を減らせるか。
そういうことなら、何度でも考えてきた。
けれど、明日を自分のために使う方法は、戦術画面のどこにも表示されなかった。
「何か見たいものはないの」
「見たいもの……」
「行ってみたい場所とか、食べたいものとか、やってみたいこと。大きなことでなくてもいいんだよ」
マチュは縁側へカップを置き、後ろへ手を伸ばした。
居間の隅へ畳まれていた大きな紙を引き寄せ、俺たちの前へ広げる。
地球の地図だった。
宇宙から何度も見た青い惑星が、紙の上では海岸線や山脈、都市の名前へ細かく分けられている。軍事拠点の印も、砲撃可能範囲の円も描かれていない。
代わりに、マチュが書き込んだらしい色の違う丸印が、いくつかの場所へ付けられていた。
「これは何だ」
「行ってみたい場所。海が見える町と、古い建物が残ってる都市と、夜空が綺麗な山。それから、ニャアンが市場を見たいって言ってた場所」
「ドゥーの希望は?」
「星が見えるところ。でも宇宙からじゃなくて、地上から見たいんだって」
マチュは空白の多い地図を指先で押さえた。
「ランガは、どこへ行きたい?」
すぐには答えられなかった。
紙面には、俺が知っているはずで知らない土地が無数に並んでいる。以前の世界でも地球へ降りたことはあったが、その多くは戦闘か移動の途中だった。
海岸線を見れば上陸地点を考え、山を見れば隠された砲台を疑い、古い街を歩けば避難経路を探した。
景色を景色として見る余裕など、ほとんどなかった。
「海が見たい」
言葉は、自分でも意外なほど素直に出た。
「宇宙からではなく、地上へ立って見たい。波の音を聞いて、水平線がどこまで続いているのか確かめたい」
「それだけ?」
「それから、戦場の地図でしか知らなかった街を歩きたい。古い駅や、名前も知らない店や、誰も急いで逃げていない広場を見てみたい」
話し始めると、次の言葉が少しずつ続いた。
「夜の山にも行ってみたい。宇宙で見る星と、地上から見上げる星がどれほど違うのか、自分の目で確かめたい」
マチュは何も茶化さず、地図の海岸へ新しい印を付けた。
赤い丸だった。
「じゃあ、最初はここにしよう」
「ずいぶん早く決めるな」
「行きたい場所が決まったのに、わざわざ保留する理由ある?」
「軍では、輸送経路や予算や安全性を調べてから――」
「これは作戦じゃなくて旅行だよ」
マチュはペンの先で俺の肩を軽く叩いた。
「それに、私も行くから」
「マチュも?」
「その顔、何で意外そうなの」
「いや、君にも君の生活があるだろう。学校へ戻ることも考えていると言っていたし、ニャアンやドゥーとやりたいこともあるはずだ」
「あるよ」
「なら、俺へ付き合うために変える必要はない」
口にした瞬間、マチュはペンを地図の上へ置いた。
真っすぐこちらへ顔を向け、逃げ道を塞ぐように俺の目を見る。
「ランガは、また私の未来を代わりに整理しようとしてる」
「そういうつもりじゃない」
「つもりがなくても、今の言い方は同じだよ。私が自分で行きたいって言ってるのに、付き合わせることになるって決めてる」
返事を探している間に、マチュは俺の左手を取った。
閉じていた指を一本ずつ開き、その掌へ自分の手を重ねる。
戦場で腕を引かれた時よりも、ずっと静かな触れ方だった。
「俺についてきてくれるのか、って聞くのは違うんだな」
「うん、違う」
「君は、自分で選んで同じ道を歩くのか」
「そういうこと」
マチュの指が、俺の指の間へ自分から入り込んだ。
「私は私の行きたい場所へ行く。でも、その行きたい場所にランガがいるんだよ」
朝の風が地図の端を持ち上げる。
俺は空いていた右手で紙を押さえながら、左手の中にある彼女の指へ力を返した。
失わないために掴むのではない。
逃がさないためでも、危険から引き戻すためでもない。
同じ方向へ歩くために繋ぐ手は、思っていたよりも軽く、それでいて離し方を忘れそうなほど温かかった。
「離れる選択をしても、止めるつもりはない」
「急に何の話?」
「確認だ。君がいつか別の場所へ行きたいと言ったら、その道も受け止める」
マチュは少しだけ目を丸くし、それから呆れたように眉を下げた。
「今から一緒に行こうって話をしてるのに、どうして先に別れる場合を考えるの」
「癖なんだろうな」
「その癖、旅行中に直そうね」
「長い旅になりそうだ」
「まだ見てない世界が多いんだから、長い方がいいよ」
その言葉が朝の空へ溶けた頃、背後から紙の擦れる音がした。
「旅行へ行くのはいいけど、予算を決める前に目的地を増やし過ぎないで」
ニャアンが家計簿を抱えて立っていた。
寝起きのはずなのに髪は整い、すでに計算用の端末まで持っている。その隣にはドゥーがいて、両手へ四人分の焼いたパンを載せた皿を持っていた。
「いつから聞いてたんだ」
「海へ行きたいと言った辺りから」
「ほとんど最初じゃないか」
「聞こえる場所で話していたから、盗み聞きではないよ」
ニャアンは俺たちの前へしゃがみ、地図に付いた赤い丸を確認した。
「ここなら鉄道とバスで行ける。四人分でも、宿泊を一泊にすれば今月の予算内に収まると思う」
「四人分?」
マチュが尋ねると、ニャアンは当然のように地図へ別の印を付けた。
「私とドゥーも行く。二人だけで行かせたら、帰りの交通費まで使い切りそうだから」
「私、そんなに信用ない?」
「マチュが買い物をすると予定外の荷物が増えるし、ランガは困っても大丈夫だと言うから、二人だけだと止める人がいない」
「俺たちへの評価が妙に具体的だな」
「一緒に暮らしていれば分かるよ」
ドゥーも隣へ座り、皿を地図の端へ置いた。
「私は、海を見たことがない」
「宇宙から地球の海は見ただろう」
「青い場所として見ただけ。波の音も、塩の匂いも知らない」
彼女は地図の赤い丸へ指を置いた。
「帰る家があるなら、遠くまで行ってもいいんだよね」
「ああ。迷った時に戻れる場所があれば、知らない土地へ行く理由になる」
「なら、行きたい」
マチュが空いている手でパンを一枚取り、ドゥーへ渡した。
「決まりだね。最初は四人で海へ行こう」
「待て、まだ日程も――」
「ニャアンが決めてくれるよ」
「全部を私へ任せないで。日程は四人で相談するから」
「それなら今日の予定へ入れよう」
俺がそう言うと、ニャアンは家計簿を開きながら小さく頷いた。
地図の上へ、四人の指がそれぞれ別の場所へ伸びていく。
マチュは海岸線をなぞり、ニャアンは市場のある都市を選び、ドゥーは星の見える山へ印を付けた。
俺はしばらく迷った後、最初に見たいと口にした海へ指を置いた。
空白だった地図へ、色の違う丸が増えていく。
それは作戦目標ではなく、失ってはならない拠点でもない。行って、見て、笑って、帰ってくるための予定だった。
家の奥から、時計が朝の時刻を知らせる。
庭の朝露は太陽へ温められ、少しずつ葉から消え始めていた。濡れていた地面には四人の影が長く伸び、それぞれ違う輪郭を保ったまま、縁側の前で重なっている。
「朝ご飯を食べよう」
ニャアンが地図を畳み始める。
「その後は庭の草刈り。旅行の話は、それが終わってから続けるよ」
「今日くらい免除してもよくない?」
「昨日も同じことを言っていたよ、マチュ」
「ランガからも何か言って」
「草を刈らずに旅へ出たら、帰った頃には玄関まで草原になっているかもしれない」
「そういう現実的な援護は求めてない!」
マチュが俺の手を引いたまま立ち上がる。
引かれたから立つのではなく、俺も同じタイミングで腰を上げた。
縁側から庭へ降りると、まだ冷たい土の感触が足裏へ伝わってくる。後ろではニャアンが地図を抱え、ドゥーは皿を持ったまま、俺たちを追ってきた。
家の扉は開いている。
食卓の上には四人分の鍵が置かれ、朝日を受けて小さく輝いていた。
「ランガ」
隣を歩くマチュが、繋いだ手を一度だけ持ち上げた。
「まだ見たことのない世界って、どれくらいあると思う?」
「一生かけても見切れないくらいだろうな」
「だったら、ちょうどいいね」
「何がだ」
「ずっと一緒に過ごしても、行く場所がなくならないから」
彼女はそう言って、朝の光の中で笑った。
その笑顔を、過去の誰かへ重ねる必要はなかった。
今ここにいるマチュが、自分で選んだ今日の中で笑っている。その隣に立つことを、俺も自分で選んでいる。
「そうだな」
繋いだ指を握り返し、庭の先へ視線を向ける。
見慣れたはずの地球は、朝日を受けるたびに新しい色を見せていた。
過去と同じ空を探す旅ではない。
未来を守るためだけの道でもない。
帰る家を背中に残し、同じ時間を歩く人たちと、まだ名前も知らない景色へ会いに行く。
「まだ見ぬ世界を、一緒に見よう」
「うん。今度はどちらかが待つんじゃなくて、同じ歩幅で行こう」
マチュと肩を並べ、俺は最初の一歩を踏み出した。
その後ろから、ニャアンとドゥーの足音も続いてくる。
鳥の声が青空へ昇り、開いた家の窓から朝の風が吹き抜けていく。
俺たちの戦いは、もう終わった。
けれど、俺たちが共に過ごす物語は、今この朝から始まっていく。
ここまで本作を読んでくださり、本当にありがとうございました。
本作は『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』を題材とした、二度目の連載作品になります。前回の連載では、その時々に浮かんだ展開やキャラクターの感情を優先し、物語がどこへ向かうのかを作者自身も楽しみながら追いかける、いわゆるライブ感の強い構成で執筆していました。
それに対して今回は、最初から前作とは異なるルートを進む物語として組み立てています。
物語の中心に置いたのは、ランガと深い因縁を持つティターンズとの決戦でした。別の歴史を生き、理不尽な暴力と人体実験によって人生を壊されたランガが、再びティターンズと向き合った時、復讐を選ぶのか、それとも過去とは異なる答えを選べるのか。その問いを最後まで描くことが、今回の連載における大きな目標でした。
そのため、ペイルライダーとHADES、ドゥー・ムラサメをはじめとした強化人間たち、そしてティターンズの研究施設や兵器群を、単なる強敵として扱うのではなく、ランガが置き去りにしてきた記憶そのものとして登場させています。
敵を倒せば過去が消えるわけではなく、憎んだ相手を滅ぼしても、失われた人々が戻るわけではありません。それでも、囚われていた人々の名前を取り戻し、生きて帰れる道を残すことで、ランガ自身も復讐以外の未来へ進めるようになりました。
そして、その変化を支えたのが、この世界のマチュでした。
ランガにとって彼女は、かつて失ったマチュと同じ顔を持つ存在でありながら、決してその代わりではありません。守られることを受け入れるだけではなく、自分の意思で戦場へ入り、ランガが一人で死ぬ道を何度も塞ぎ、最後には同じ未来を歩くことを選びました。
ニャアンやドゥーもまた、誰かから与えられた役割ではなく、自分で立つ場所と帰る場所を選んでいます。四人が同じ家で暮らす結末は、戦いに勝ったこと以上に、彼らが翌日も同じ食卓へ戻れるようになった証として描きました。
終盤ではティターンズとの決着だけでなく、イオマグヌッソ、シュウジ、次元を越えたガンダムたちとの戦いへ物語が広がりました。しかし、最後まで変わらなかったのは、力によって相手の未来を決めるのではなく、その人自身が選べる道を残すというテーマです。
巨大な力を持つサテライトキャノンも、最終的には誰かを消し去るためではなく、閉じ込められた想いへ届く光として使われました。兵器として生まれた力が、破壊ではなく帰還のために使われたことは、ランガ自身の生き方が変わった証でもあります。
前回の連載とは異なり、今回はティターンズとの因縁と、その先にあるランガの再生を意識しながら物語を進めました。復讐から始まった青年が、最後には戦う理由ではなく、自分が見たい景色を語れるようになるまでを描き切れたことを嬉しく思います。
戦いは終わりましたが、ランガ、マチュ、ニャアン、ドゥーの生活はこれからも続いていきます。
四人で海を見に行き、知らない街を歩き、帰る家でくだらない言い合いをしながら、昨日まで知らなかった明日を少しずつ増やしていくのでしょう。
彼らがまだ見ぬ世界へ踏み出す姿を最後まで見届けてくださった皆様へ、改めて感謝を申し上げます。
長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。