機動戦士Gundam GQuuuuuux 逆転した世界:Re 作:ボルメテウスさん
ホテルの廊下は、夜でも妙に明るかった。
高級な照明の白さが、影を薄くしてくれるせいで、隠れる側にとっては逆に厄介だ。
俺は黒いコートの襟を立て、呼吸を浅くし、足音を消しながら目的の階へ向かっていた。
シャリアから渡された断片の情報が正しいなら、このフロアのどこかに“線”がある。
その線がバスクへ繋がるのか、あるいはもっと別の何かへ繋がるのかは分からない。
分からないからこそ、見つけるしかない。
だが、その“見つける”という意思そのものが、すでに誰かに見つけられていた。
背中に貼り付く視線が、さっきから消えない。
視線の温度が、監視のそれじゃない。
獲物を見る目だ。
狩りを楽しむ目だ。
俺は角を曲がった瞬間、背後の空気が一段濃くなるのを感じた。
反射で銃を抜こうとしたが、その反射より速く、柔らかい重みが俺の胸に乗った。
次の瞬間、背中が床に叩きつけられる。
ホテルの絨毯が衝撃を吸うはずなのに、衝撃が妙に直接的で、骨に響いた。
「っ……!」
声にならない息が漏れた。
押し倒した相手の体重は軽いはずなのに、重い。
体重の重さじゃない。
“圧”の重さだ。
サイコガンダムの前に立った時に近い、呼吸を奪う種類の圧が、少女の形をして俺の上に乗っている。
黒いマスク。
異様に白い肌。
血色の薄い頬。
興味深そうに俺を覗き込む目。
さっき廊下で見た少女だと、理解するより先に身体が知っていた。
「……やっぱり、あなたなんだ」
声は静かで、落ち着いているのに、内容が狂っている。
彼女は俺に銃口が向けられている事すら、最初から計算に入れていない。
俺の手首の角度を見て、引き金の位置を見て、それでも怖がらない。
怖がらないのではなく、“怖がる感情が欠けている”ように見える。
本当なら、ここで俺は反転できる。
体格差も筋力差も、俺の方が上だ。
手首を捻って、腰を切って、相手の重心を浮かせれば、少女の体は簡単に転がる。
それができないはずがない。
なのに――動けない。
動けない理由が、力じゃない。
この少女から感じる狂気が、俺の身体の奥を掴んで離さない。
戦場で何度も感じた“危険”とは違う。
危険は距離を取れば薄まる。
だがこの狂気は、距離の概念を無視してくる。
近いから怖いのではなく、理解できないから怖い。
「……どけ」
俺は喉の奥で声を絞り出した。
銃を構えたままでも、指が固くて引き金が引けない。
撃てば終わるのに、撃てない。
撃てないのは優しさじゃない。
撃った瞬間に、こいつが“普通の人間じゃない”と確定してしまうのが怖い。
確定したら、俺は次から迷わず撃てるようになる。
それが嫌だった。
自分がまた、そういう人間に戻るのが嫌だった。
少女は、俺の言葉を聞いてもどかない。
むしろ顔を近づけ、吐息が届く距離まで詰めてくる。
吐息が冷たい。
生きているのに、生きていないみたいな冷たさだ。
「どかないよ」
彼女は言う。
「だって、やっと見つけたんだもん」
「……見つけた?」
俺が問うと、少女は目を細めた。
笑っているのに、目が笑っていない。
目が笑っていない笑みは、戦場で一番信用できない。
「あなた、逃げる癖がある」
少女が囁く。
「誰かを守る時だけ、呼吸が止まる」
「その時の顔が好き」
背筋が凍った。
俺の癖を、なぜ知っている。
俺の癖を知っているのは、俺と長く戦場を共にした人間か、俺を長く観察した人間だけだ。
こいつはどちらでもないはずなのに、言い当て方が妙に正確すぎる。
しかも、言い当てるのが目的じゃない。
言い当てた上で、俺の心を掴みに来ている。
「……お前、何者だ」
俺は問い詰める。
問い詰めながらも、喉の奥が乾く。
この問いに答えが返ってきた瞬間、もっと面倒になる予感がする。
少女は、俺の胸元のコートを指でつまんだ。
子どもの仕草みたいなのに、やっていることは獲物の首輪を試す動きだ。
「私?」
少女が小さく首を傾げる。
「ただの……あなたの味方だよ」
その言葉が嘘だと、直感が言っている。
味方という言葉を使う人間ほど、味方じゃないことが多い。
だから俺は力で押し返そうとした。
押し返そうとして――やっぱり、動けない。
動けない理由が、もう一つ増えた。
この少女の狂気の奥に、執着がある。
執着の矛先が、俺だ。
そして、その執着が“恋”に似た温度を纏っている。
戦場の執着より厄介で、戦場の執着より粘着質だ。
「ねえ、ランガ」
少女が、当たり前みたいに俺の名を呼んだ。
俺は背骨の奥が冷たくなる。
ここでランガと呼ばれるのは、最悪だ。
俺は今、偽名と影で動いている。
その線を引いている最中だ。
それを、この少女は最初から踏み越えてくる。
「……その名前をどこで知った」
「知ってるよ」
少女は答えになっていない答えを返す。
「あなたは、そういう人だもん」
言葉の意味が、分からない。
分からないのに、胸の奥が妙にざわつく。
ニャアンと繋がった時みたいな、意識の境界が薄くなる嫌な感覚。
こいつはサイコミュの側にいる。
それだけは確信できた。
その時だった。
廊下の先から、複数の足音が近づいてくる。
訓練された足音だ。
一定のリズムで、迷いがない。
軍人の足音。
それも、軍警じゃない。
軍警の足音はもっと雑で、もっと人間くさい。
少女も気づいたらしい。
一瞬だけ目が細くなり、楽しげな表情が消えた。
代わりに、計算の顔になる。
獲物を抱えたまま逃げるか、獲物を捨てて逃げるかの計算だ。
「……面倒」
少女が小さく呟いた。
「今ここであなたを壊したら、私が困る」
「……何を言ってる」
俺が吐き捨てると、少女は俺の上から腰を浮かせた。
離れる。
だが離れる瞬間に、指先だけで俺の頬をなぞる。
その触れ方が、優しさではなく所有の確認だった。
「捕まるのは、困るでしょ」
少女が言う。
「あなたが捕まったら、遠くに行っちゃう」
「遠くに行ったら、私が探すの大変だから」
足音が、もう近い。
角を曲がれば視界に入る距離だ。
俺は起き上がろうとしたが、少女が最後に俺の胸元を押して、動きを封じた。
力じゃない。
圧だ。
圧で、俺の身体が一瞬だけ言うことを聞かなくなる。
「じゃあね、今度はサイコガンダムで会いに行くね」
少女が囁く。
その声が、甘いのに冷たい。
甘いのに血の匂いがする。
そして、足音の主が角へ来る寸前、少女は闇へ溶けるみたいに後退した。
廊下の影へ、壁の陰へ、最初からそこにいなかったみたいに消える。
最後に残ったのは、声だけだった。
「また、会えるのを待っているよ、ランガ♡」
ハートのついた語尾が、冗談みたいに軽い。
軽いのに、背中に刃が残る。
俺は歯を噛みしめた。
次の瞬間、角から複数人の影が現れる。
制服の匂い。
動きの硬さ。
そして、俺の嫌悪が最初に反応する――あの頃の連邦の匂い。
(ティターンズ……?)
確信には早い。
だが、早いからこそ恐ろしい。
俺はコートの襟を立て直し、呼吸を殺し、銃を仕舞う。
今ここで撃てば、少女は喜ぶ。
そして俺は捕まる。
捕まれば、マチュの未来が燃える。
だから俺は、歯を食いしばって立ち上がり、影の中へ身体を滑らせた。
あの少女の狂気が、まだ肌に貼り付いたままなのに。
そして、確信した。
今夜、俺は“バスクの線”に触れる前に、もっと厄介なものに触れてしまった。