機動戦士Gundam GQuuuuuux 逆転した世界:Re 作:ボルメテウスさん
ジュドーに肩を貸されながら歩く廊下は、病院のそれとは程遠かった。
壁には何本もの配管が剥き出しになっていて、古い空調の唸りと、どこか遠くで金属を叩く音が絶えず響いている。床は微かに傾いていて、歩くたびに足裏へ古いコロニー特有の軋みが伝わってきた。清潔さよりも、今も動いていることを優先した場所だ。シャングリラという名前から想像する楽園めいた響きとは、まるで違っていた。
「本当に行くのかよ。まだ寝てた方がいいんじゃねぇの?」
「話しておかないといけない。あいつが落ち着いている内にな」
「落ち着いてる内にって、あの子そんなに危ないのか?」
「危ない。けど、たぶん一番危ないのは、本人が何を抱えているか分からないまま放っておくことだ」
ジュドーは納得したような、納得していないような顔をした。
それでも、俺を止めることはしなかった。
さっき会ったばかりなのに、こいつは妙に引き際を知っている。相手の事情に踏み込みすぎないというより、踏み込んだら壊れるものがあると、生活の中で覚えたような距離感だった。
胸が痛む。
脇腹も、背中も、脚も、全部が痛む。
それでも、俺は歩く必要があった。
サイコ・ガンダムの中にいたドゥーは、完全に壊れていた。
俺を愛していると言い、一緒に死のうと笑い、マチュを排除しようとした。あれが本心の全てなら、俺は彼女を助けたことを後悔しなければならない。けれど、最後に聞こえた声は違った。あの声は、狂気に塗り潰された女の声ではなく、暗闇で誰かを呼ぶ子供の声だった。
だから、確かめなければならない。
あの少女が、本当は何を見ていたのかを。
「ここだぜ。おっちゃんは少し機体の方を見に行ってる。あんたが来るなら、無茶させんなって言ってたけどな」
「無茶をしているのは俺だけじゃないからな」
「それ、全然言い訳になってねぇぞ」
ジュドーは呆れたように言い、扉の横に立った。
俺は軽く息を整え、古い金属扉を押し開ける。
中は、俺が寝かされていた部屋より少しだけ片付いていた。とはいえ、まともな病室とは言い難い。簡素なベッドと、使い込まれた医療モニターと、古い毛布。それだけの部屋だった。
ドゥーは、ベッドの上に座っていた。
黒いマスクは外されていない。けれど、以前のような粘つく視線も、俺を絡め取ろうとするような圧もなかった。薄暗い照明の下で、彼女はただ静かにこちらを見ていた。サイコ・ガンダムの中で響いていた狂った声が、同じ少女のものだったとは思えないほどに。
「……来てくれたんだ」
「あぁ。身体はどうだ」
「痛い。けど、死んでない」
「そうか」
「助けてくれたんだよね」
「見捨てられなかっただけだ」
「ランガらしいね」
その言い方に、俺はわずかに眉を動かした。
前なら、その言葉だけで肌が粟立っていただろう。
俺を知っているように、俺を所有しているように、俺の奥に指を差し入れてくるように響いていたからだ。
だが、今の彼女の声にはそれがない。
ただ、よく知っている誰かへ話しかけるような、ひどく普通の声だった。
「ジュドー、少し外してくれ」
「いいけどよ。無茶すんなよ、ランガ。あんた今、強そうに見えて全然強くないからな」
「分かっている」
「分かってる奴はそんな歩き方しねぇんだけどな」
ジュドーは最後まで文句を言いながらも、扉の外へ出ていった。
扉が閉まると、部屋には機械の小さな駆動音だけが残る。
俺は壁に手をつきながら、近くの椅子へ腰を下ろした。座るだけで傷が痛み、思わず息を詰める。
「痛そう」
「痛いよ。お前を助けるために、だいぶ無茶をしたからな」
「ごめんね」
「謝れるんだな」
「ひどいなぁ。私だって、謝る時ぐらいあるよ」
ドゥーは少しだけ笑った。
その笑みには、あの時の狂気がなかった。
薄くて、弱くて、すぐに消えてしまいそうな笑みだった。
「……ランガはさ」
「なんだ」
「前の世界もそうだけど、なんでそんなに戦いたがるの」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
俺は痛みを忘れ、ドゥーを見つめる。
前の世界。
彼女がその言葉を偶然口にしたとは思えなかった。俺自身がマチュに話した時でさえ、簡単に出せなかった言葉だ。それを、ドゥーは当たり前のように言った。
「……お前、まさか、俺と同じように」
「うん。まぁ、よく分からないけどね」
ドゥーは視線を少し落とした。
自分のことを話しているはずなのに、遠くの誰かの出来事を語るような声だった。
「死んだら、繰り返したかな」
「繰り返した、だと」
「そう。気がついたら、また始まってるの。場所も、相手も、流れも、少しずつ違うけど、最後はあんまり変わらないんだ」
彼女の指先が、毛布を掴んだ。
ほんのわずかに震えている。
狂気の代わりに見えたのは、傷だった。何度も同じ場所を抉られ、もう痛みが何なのか分からなくなっているような、古い傷。
「サイコ・ガンダムに乗って、容赦なく死ぬ。それは変わらないんだよね」
「……」
「戦って、暴れて、壊れて、最後は死ぬ。私が死ぬ時もあるし、私じゃないものになってから死ぬ時もある。どっちにしても、終わり方はそんなに変わらない」
サイコ・ガンダム。
強化人間。
サイコミュに感情を燃やされ、機体に飲まれ、最後には人間として戻れなくなる者たち。
俺は前の世界で、その末路を見てきた。
だが、一度だけではないと彼女は言う。
何度も、何度も、自分が壊される場所へ戻されたのだと。
「何度も、なのか」
「数えたことないよ。数えたら、たぶん本当に壊れるから」
「もう壊れていたように見えたが」
「ひどいなぁ」
彼女は軽く笑った。
けれど、その笑みは自嘲に近かった。
壊れていると自分で分かっている人間の笑いだ。
俺はその笑いを責められなかった。
何度も死に、何度もサイコ・ガンダムへ戻され、それでも正気でいろという方が無理だ。
「でもね、君がいたあの世界だけは違った」
「俺がいた世界……」
「君が助けてくれたから」
「俺が?」
「うん。たぶん、君は覚えてないかもしれないけど」
俺は記憶を探った。
ティターンズにいた頃。
エゥーゴに入った後。
サイコ・ガンダムが関わった戦場。
炎と煙と、誰かの悲鳴。
救えた命もあれば、救えなかった命の方が多い。戦場で助けた人間の顔を全部覚えていられるほど、俺は綺麗に生きてこなかった。
だが、彼女にとっては違ったのだろう。
俺が忘れてしまった一瞬が、彼女にとっては唯一生き残れた世界だった。
「君のおかげで、生きれたから」
ドゥーは、そう言って笑った。
その笑顔は、普通の女の子のものだった。
サイコ・ガンダムの中で俺を求めていた狂った表情ではない。
命を救われた少女が、その相手へ向ける、柔らかい笑みだった。
「だから、覚えてた」
「それで、俺を欲しがったのか」
「うん。たぶんね」
「たぶんって、随分曖昧だな」
「サイコ・ガンダムに乗ってる時は、色々ぐちゃぐちゃだったから。好きも、助けてほしいも、死にたくないも、全部混ざった」
彼女は自分の胸元を押さえた。
そこに、まだサイコ・ガンダムの感触が残っているように。
「ランガに見てほしかった。ランガに助けてほしかった。ランガがいれば、また違う終わり方になるかもしれないって思った。でも、サイコ・ガンダムの中にいると、それが全部おかしくなるの」
「俺だけを見ろ、になる訳か」
「うん。私だけを見て。私だけを助けて。私だけを選んで。そうじゃないなら、全部壊れればいいって」
「迷惑な話だ」
「うん。ごめん」
また謝った。
その素直さが、かえって胸に刺さる。
あの時のドゥーは確かに危険だった。マチュを殺そうとした。俺を巻き込んで死のうとした。
けれど、今目の前にいる少女は、あの怪物そのものではない。
怪物に押し込められ、何度も死なされ、助けを求める声まで歪められた少女だった。
「俺は、戦いたい訳じゃない」
俺はゆっくりと言った。
ドゥーは顔を上げる。
「でも、戦ってる」
「あぁ。戦わないと守れない時があるからだ」
「守るため?」
「昔は違った。復讐のために戦っていた。憎しみしかなかったし、それが正しいと思い込もうとしていた」
言葉にすると、やはり胸の奥が重くなる。
ティターンズに拾われた頃の俺。
ジャミトフの言葉に縋り、怒りの行き場を与えられて、それを自分の意思だと思っていた。
殺すことしか知らず、守るという言葉も、復讐を正当化するために使っていた。
「でも、今は違う。マチュを守りたい。帰りたい場所がある」
「マチュ」
ドゥーの声に、わずかな影が差した。
けれど、そこに以前の殺意はなかった。
ただ、自分にはないものを見てしまった子供の寂しさがあった。
「いいなぁ」
「……」
「帰りたい場所があるの、いいなぁ」
その一言は、あまりにも寂しかった。
サイコ・ガンダムの中で叫んでいた時より、よほど鋭く俺の胸を刺した。
彼女は、俺を欲しがっていたのではない。
本当は、帰る場所が欲しかったのかもしれない。
何度死んでも戻される地獄ではなく、死なずに戻れるどこかが。
「お前も、これから作ればいい」
「私が?」
「あぁ」
「無理だよ。私はまたサイコ・ガンダムに戻る。そういう風になってる」
「決めつけるな」
「だって、繰り返したもん」
「なら、今度は繰り返させない」
ドゥーが目を見開いた。
俺は痛む脇腹を押さえながらも、彼女から目を逸らさなかった。
「俺は過ちを繰り返さないために、もう一度生きている」
「……」
「お前がまたサイコ・ガンダムに戻ると言うなら、その前に止める」
「殺すの?」
「違う。助ける」
「……ランガって、本当に変だね」
「よく言われる」
ドゥーは俯き、小さく笑った。
その笑顔はまだ危うい。
けれど、サイコ・ガンダムの中で見せた壊れた笑顔とは違っていた。
自分に未来というものがあるかもしれないと、初めて少しだけ想像したような表情だった。
「じゃあ、私も作れるかな」
「何を」
「帰りたい場所」
「作れるさ」
「ランガがいる場所?」
「それは違う」
「即答なんだ」
「俺だけを帰る場所にするな。それだと、またお前は壊れる」
「……そっか」
ドゥーは少し残念そうにした。
だが、怒りはしなかった。
以前の彼女なら、俺の拒絶を受け入れられず、サイコミュの圧をぶつけてきただろう。
今は、言葉を受け止めて考えている。
それだけでも、大きな違いだった。
「誰か一人じゃなくていい。場所でも、人でも、仕事でも、飯でもいい」
「飯?」
「生きる理由なんて、最初はそれぐらいでいい。少しずつ作ればいい」
「難しいね」
「俺もまだ練習中だ」
「ランガも?」
「あぁ。俺だって、マチュがいなかったらどうなっていたか分からない」
それは本音だった。
マチュがいたから、俺はまだ人間の場所に戻れている。
彼女が俺に「一緒に生きたい」と言ってくれたから、俺は死ぬための戦いから降りようとしている。
だからこそ、ドゥーにもそれを一人に背負わせる訳にはいかない。
「じゃあ、私も練習すればいいのかな」
「そうだな。まずはサイコ・ガンダムに乗らない練習からだ」
「それ、練習なのかな」
「少なくとも、大事な一歩だろ」
「ふふっ、変なの」
その笑い声は、普通だった。
本当に、どこにでもいる少女が、少し変なことを言われて笑っただけの声だった。
俺はその声を聞いて、ようやく肩から力が抜けた。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙は、さっきよりずっと穏やかだった。
俺は椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、壁へ手をついた。
情けない姿だが、今は仕方がない。
「ランガ」
「なんだ」
「助けてくれて、ありがとう」
「……あぁ」
「今度は、死なないようにしてみる」
「そうしろ」
「でも、また怖くなったら呼ぶかも」
「呼べ。サイコ・ガンダムに乗る前なら、話ぐらいは聞く」
「乗った後は?」
「殴ってでも止める」
「ふふっ、やっぱりランガだ」
ドゥーは、もう一度笑った。
普通の女の子のように。
その笑顔を見て、俺はようやく理解する。
サイコ・ガンダムの中にいた怪物は、彼女そのものではなかった。
何度も死なされ、何度も壊され、それでも誰かに助けてほしかった少女の叫びだったのだ。
なら、助ける。
マチュの元へ戻るためにも。
俺自身が、過ちを繰り返さないためにも。
この少女を、もう一度あの棺桶へ戻すわけにはいかない。
扉を開けると、廊下の壁に寄りかかっていたジュドーが、気まずそうに顔を逸らした。
「聞いてたのか」
「ちょっとだけな。いや、全部じゃねぇぞ。本当にちょっとだけだ」
「その言い訳は下手だな」
「うるせぇな。心配してただけだっての」
ジュドーは照れ隠しのように頭を掻いた。
その姿を見て、俺はほんの少しだけ息を吐く。
「ジュドー」
「なんだよ」
「世話になる相手が増えた」
「あの子のことか?」
「あぁ。危ない奴ではあるが、見捨てる理由にはならない」
「ふーん。まぁ、うちは元々厄介事には慣れてるしな」
「慣れない方が良いぞ」
「シャングリラでそれ言うかよ」
ジュドーは笑い、俺に肩を貸した。
俺はその肩を借りながら、薄暗い廊下を戻っていく。
ドゥーの話は、まだ全てではない。
俺自身も、彼女を完全に信用した訳ではない。
けれど、サイコ・ガンダムの亡霊から一つだけ手を引き剥がせた気がした。
過ちは繰り返さない。
その言葉は、もう俺一人のためだけのものではなくなり始めていた。