機動戦士Gundam GQuuuuuux 逆転した世界:Re 作:ボルメテウスさん
「うん、海。前に話したけど、ここにあるほとんど全てが偽物みたいな感じだって」
夕方の気配がコロニーの内壁を薄く染めて、マチュの声だけがやけに近く聞こえた。
「……偽物か」
俺は短く返しながら、視線をほんの少しだけ持ち上げた。
サイド6は、彼女の言う通り、どこまで行っても人工物でできている。
空は天井で、太陽は照明で、風は循環で、潮の匂いすら調合された記憶のように漂っている。
本物の自然にしかないはずの“余白”が、ここには最初から存在しない。
それでも人は笑い、泣き、腹を空かせ、恋をしてしまう。
そういう当たり前が、余計に残酷だと感じる時がある。
「このサイド6は、マチュの言うように、何もかも偽物だ」
言葉にしてしまうと、世界の輪郭がさらに薄くなるようで、俺は口の中でその語感を転がした。
「全てが、人間で造り出された物であり」
「本物は、何もかもないかもしれない」
それは責めるための言葉ではなく、確認のための独白だった。
けれど、本物があるとしたら。
それは地面でも空でもない、今この瞬間に俺の胸の奥で熱を持っている感情だ。
ここでマチュと過ごした時間に抱いた思いは、偽物の天井が作れない種類の重さを持っている。
笑い声の温度、菓子の甘さ、怒って頬を膨らませた顔、その全部が俺を現実へ縫い止めている。
それは本物だと、少なくとも俺は信じたい。
「マチュは、偽物が嫌いかい」
問いかけた声が、思ったより柔らかく響いて、自分でも少し驚いた。
「どうなんだろぅ、正直に言ったら、窮屈だと思う」
彼女は肩をすくめるように笑ってから、指先で空の方を示した。
「だから、見てみたいの、本物を」
「本物をか」
その言葉を繰り返しただけで、胸の奥に別の景色が差し込んでくる。
サイド6の、その先にあるもの。
かつて人類が“故郷”と呼んだ青い星であり、戦争の泥と血と憎しみが堆積した場所。
そこで俺は、ティターンズからエゥーゴへと変わった。
変わったというより、変わらざるを得なくなったと言う方が正しい。
正義という旗が、どれほど簡単に血で染まるのかを見せつけられた場所だった。
「……だったら、いつか、連れて行くよ」
言い切った瞬間、言葉が勝手に前へ走った感覚があった。
「えっ、良いよ、第一、地球まで行くのは結構お金がかかるよ」
マチュが慌てたように手を振り、冗談みたいに笑う。
その笑い方が、今の彼女がまだ“戦争の計算”を知らない証拠で、俺は少しだけ救われる。
「良いんだ、俺も行きたいから」
返した俺の声には、言い訳のような響きが混じっていた。
俺は連れて行きたいのではなく、連れて行かなければならないと思っている。
本物を見せてやりたい気持ちと同じくらい、本物の前で彼女が壊れないか確かめたい恐怖がある。
守れなかった過去が、俺の判断をいつも一段だけ過剰にしてしまう。
「行きたいって、どこに?」
マチュが首を傾げて、俺の横顔を覗き込んだ。
「……海もそうだけど、俺は森に行きたい」
言った直後、俺は自分が何を口にしたのかを理解して、喉の奥が少しだけ痛んだ。
「森?」
「……あぁ、ジャングルに」
それを言った瞬間、記憶が勝手に噴き上がってくる。
地球に降り立ったあの日、降下作戦の混乱の中で、俺とペイルライダーは目的地点から外れて不時着した。
不時着したときには行方不明扱いになり、敵味方の区別も曖昧なまま、ただ“生き延びる”ことだけが命令になった。
湿った空気が肺を満たし、草の匂いが装甲の隙間に染み込み、虫の羽音が耳の奥を刺した。
宇宙で生きてきたはずの俺の身体が、地球の重力に文句を言いながらも順応していくのが分かった。
そのとき、俺は助けられた。
名も知らない夫婦に匿われ、怪我の手当てをされ、壊れかけた機体を直すための工具まで貸された。
俺はすぐティターンズへ戻ろうとした。
戻らなければならないと思い込んでいた。
復讐のために。
怒りを燃料にして、世界を焼くために。
けれど、夫婦と過ごした短い時間は、俺にとって異物だった。
穏やかで、無防備で、戦術にならない会話が、俺の中の何かを少しずつ緩めていった。
その緩みが怖くて、俺は余計に早く戻ろうとした。
そして、あの言葉だ。
焚き火のそばで、男がぽつりと呟いた声が、今でも耳の奥で消えない。
『君は、憎しみだけで戦っているのかい』
当時の俺には、それしかなかった。
それしかないからこそ、答えは一つしか出なかった。
憎しみがなければ、俺は何者でもなくなってしまう気がした。
けれど、その男は続けた。
続ける声の温度が、俺の憎しみよりずっと現実的だった。
『俺も、家族を全て殺されたから、君の気持ちは痛い程理解できる』
『えっ……』
彼が元軍人で、一年戦争を戦い抜いたことを、そこで初めて知った。
彼が語る戦争の話は、ティターンズで教わった歴史と噛み合わない部分が多かった。
数字と勝敗だけの講義にはない、人間の匂いがそこにはあった。
勝ったとか負けたとかの外側で、ただ壊れていく生活があった。
『けれど、俺に何が——』
俺が絞り出した言葉は、子供の泣き声みたいに情けなかった。
『君にもきっと見つけられるはずだよ、君が本当に戦うべき答えが』
『俺も、本当だったら敵だった彼女と結ばれた』
『それはきっと君にも、いつか見つけられるはずだから』
その言葉を、俺は信じたかった。
信じることでしか、憎しみ以外の場所へ足を置けなかった。
だから俺はティターンズに合流しようとした。
その途中で、サイコガンダムの実験を見た。
人を道具にするための冷たさが、組織の正義の顔をして立っていた。
あの瞬間、俺は初めて、敵は誰かという問いを自分の中で持つようになった。
その問いが、俺をエゥーゴへ向かわせた。
「……この世界では、どうなっているんだろうか」
気づけば、俺は声に出していた。
この世界の歴史は、大きく変わっている。
あの夫婦が存在するかどうかすら分からない。
存在していても、結ばれていないかもしれない。
そもそも、あの出会いそのものが起きていない可能性だってある。
それでも、俺はもう一度、地球へ行かなければならない。
戦場へ戻るためではない。
“本物”を確かめるためだ。
そして、本物に触れたとき、マチュを守れる自分でいるためだ。
「シローさん……アイナさん……」
恩人の名前が、喉の奥で転がって、外へ落ちた。
マチュは少しだけ黙り、俺の横顔を盗むように見た。
その視線に、責める色はない。
ただ、触れてはいけない場所に触れてしまった子供の遠慮がある。
「その人たち、大事な人なんだね」
短い言葉なのに、妙に胸に響く。
「……命を拾ってもらった」
俺は嘘をつかずに答えた。
命を拾われたのに、俺は長い間その命を復讐の燃料にしてきた。
その事実はまだ、言葉にできないまま胸の底に沈んでいる。
マチュは指先で、空の端をなぞるみたいに遠くを見た。
偽物の空の向こうに、本物の空を想像している顔だった。
「ねえ、地球って、本当に海があるんだよね」
「……あぁ、ある」
「本物の波の音って、どんな感じなんだろ」
彼女の問いは素朴で、だからこそ俺の心臓を締め付ける。
本物の波の音は、優しいだけじゃない。
波は時々、人を攫う。
海は時々、死を飲み込む。
本物は、偽物よりずっと残酷だ。
それでも本物を見たいという彼女の願いを、俺は否定できない。
否定すれば、俺はまた“管理する側”へ戻ってしまう。
ティターンズの正しさへ、あの冷たい実験へ、あの合理の嘘へ。
「連れて行くって言ったの、取り消さないよ」
俺はゆっくりと、逃げ道のない言葉を選んだ。
「ただ、約束するなら、俺も準備が必要だ」
「準備?」
「……危ない目に遭わせないための準備だ」
言い換えれば、戦争の癖を日常へ持ち込む準備だ。
それがどれほど醜くても、俺はやる。
守れなかった過去が、俺の背中を押し続けているからだ。
マチュは少しだけ笑って、肩をすくめた。
「ランガってさ、やっぱり変だよ」
その言葉に、俺は苦笑するしかなかった。
変だ。
変で当然だ。
俺は本来この世界にいない異物で、歴史の歪みの中で呼吸をしている。
赤いガンダムの紫の瞳も、軍警のザクも、難民区域の視線も、全部が俺にそう告げている。
それでも、今この瞬間に隣を歩く彼女の体温だけが、俺に“ここにいていい”と言っている気がした。
「海に行くなら、いつ?」
マチュが、少し楽しそうに訊いた。
その楽しさが、胸に刺さる。
刺さるけれど、抜けない。
「……近いうちに」
俺はそう答えて、サイド6の偽物の空を見上げた。
偽物の空の向こうに、本物の地球がある。
そこで、俺はもう一度確かめる。
憎しみだけで戦っていた自分が、本当に戦うべき答えに触れられるのかどうかを。
そしてもし、あの夫婦がこの世界にもいるのなら。
俺はちゃんと礼を言う。
命を拾ってくれたことだけじゃない。
憎しみの外側へ目を向けさせてくれたことに対しても。
俺は小さく息を吐き、心の中でだけ誓い直した。
偽物の世界で本物を守るために、俺はもう一度、本物の地球へ行く。