俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
平穏な街道と忍び寄る脅威 - (タチバナ視点)
俺たちの旅は、今のところ順調そのものだ。いや、順調という言葉では足りない。快適、という表現こそが相応しい。
俺は馬車の座席にふんぞり返り、窓から流れゆくのどかな田園風景を眺めていた。ふかふかの座席は尻への負担を軽減し、王家特製のサスペンションは、石畳のガタガタという不快な振動を見事に吸収してくれている。
馬車の中には、運び込まれた食料や飲み水が満載されており、俺は腹が減れば手を伸ばし、喉が渇けば「セシリアちゃん、お水」と甘えるだけで、全ての欲求が満たされるという、王侯貴族のような生活を享受していた。
理屈で考えてみてほしい。魔王討伐の旅とは、本来過酷なものであるはずだ。雨風に打たれながら泥道を進み、硬いパンをかじり、時には魔物に襲われて命からがら逃げ出す。それが冒険というものの相場だろう。
だが、俺たちの旅は違う。移動は豪華な屋根付き馬車。食事は王城から持ってきた保存食とはいえ、そこらの宿屋より遥かに上等なものだ。そして何より、周囲には三人の美女。まさに、至れり尽くせり。
(これが、勇者という職業の素晴らしさか…)
俺は心の中で満足げに頷いた。確かに、魔王と戦わなければならないという致命的なデメリットはある。だが、そのデメリットを補って余りあるメリットが、この旅には満ち溢れている。
御者台に目をやれば、交代で手綱を握っているセシリアの後ろ姿が見えた。彼女が時折、馬に声をかけるために身を乗り出すと、純白の法衣が風を孕んで身体に張り付き、その驚異的なボディラインがくっきりと浮かび上がる。眼福だ。
車内では、アリシアとメグが何やら楽しげに話をしている。アリシアは膝の上に広げた地図を指差しながら、今後の進路について真剣な表情で説明している。その横顔は凛々しく、王女としての気品に満ちている。
対してメグは、アリシアの話を半分聞いているのかいないのか、時折俺の方をチラチラと見ては、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべてくる。彼女の短いローブの裾から覗く太ももが、馬車の揺れに合わせてリズミカルに揺れている。これもまた眼福だ。
(…いや、待てよ)
俺は思考の舵を切り直し、油断しきっていた自分を戒めた。この状況、表面的にはハーレム旅行そのものだが、俺の置かれている立場は決して楽観視できるものではない。忘れてはならない。フィリアから叩き込まれた、あの忌まわしい情報を。
──王は、貴方のことを「自国すら滅ぼしかねない、規格外の怪物」だと、壮大に勘違いしています。
──王女アリシアは、貴方をその体で籠絡し、監視するための駒として差し向けられました。
その事実を思い出した瞬間、俺の胃がきりりと痛んだ。俺はごくりと唾を飲み込み、アリシアの姿を盗み見る。
彼女は今、メグに地図を見せながら、柔らかな笑みを浮かべている。だが、あの笑顔の裏には、俺を骨抜きにし、国の忠実な犬にするための、冷徹な計算が隠されているというのか。
これから彼女は、ことあるごとに俺に色仕掛けをしてくるのだろうか。例えば、夜の野営で「寒くて眠れません」と俺の寝袋に潜り込んできたり、川で沐浴中に「背中を流してください」と頼んできたりするのかもしれない。
(ぐ、ぐへへ…)
不覚にも、想像してしまった。アリシアの豊満な肢体が、俺の腕の中に…。
(いやいやいや! 駄目だ、タチバナ! あれは罠だ! ハニートラップだぞ!)
俺は必死で首を横に振った。彼女の誘惑に乗れば、その先にあるのは甘い快楽などではない。あの粘着質な王様からの、嫉妬と怒りに満ちた処刑命令だ。
俺は板挟みだ。誘惑には乗りたい。だが、乗れば死ぬ。なんという残酷な二者択一か。
(そうだ、距離を置こう。彼女とは必要最低限の会話に留め、二人きりになる状況は絶対に避ける。それが俺の生存戦略だ)
そう決意した瞬間、当のアリシアがふと顔を上げ、俺と目が合った。彼女はにこりと微笑み、会釈をしてきた。その完璧な王女スマイルが、俺には「いつでも貴方を落とせますよ」という、宣戦布告の笑みに見えてならなかった。
俺はビクッと肩を震わせ、慌てて視線を逸らした。
(こ、怖い…! 美女が怖い!)
今度はメグが、俺の挙動不審な様子を見て、くすくすと笑いながら手を振ってくる。彼女も、俺のことを「面白い男」として興味津々のようだ。だが、彼女も油断ならない。元気っ子の皮を被った、とんでもない爆裂魔法の使い手なのだ。機嫌を損ねれば、俺の寝床ごと吹き飛ばされかねない。
セシリアはセシリアで、俺への好意がダダ漏れだ。先ほども「タチバナ様、喉は渇いていらっしゃいませんか?」と、五分おきに尋ねてきた。その過剰なまでの母性は、ありがたい反面、俺を完全に無力化し、彼女なしでは生きられない駄目人間に堕落させようとする、甘い毒のようにも感じられる。
(四面楚歌だ…いや、三面美女か?)
俺の胃の痛みは、さらに増していく。このパーティは、物理的にも精神的にも、俺の手に余る。俺はただ、隅っこで空気のように存在感を消し、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
俺は懐から、出発前に財務大臣が「勇者の健康管理も国家の責務です」と言って持たせてくれた、最高級の胃薬を取り出した。銀の小箱に入ったその丸薬は、一粒で家が一軒建つほどの高価なものらしい。俺はそれを水なしで口に放り込み、苦い味と共に飲み下した。
そんなことをしていると、突如として馬車がガクンと大きく揺れ、急停止した。慣性の法則に従い、俺の体は前のめりになる。なんとか座席に手をついて、転倒は免れた。
(な、なんだ!? 事故か!?)
俺が慌てていると、御者台にいるセシリアの、普段の穏やかな声とは全く違う、緊迫した声が車内に響き渡った。
「タチバナ様、アリシアさん、メグさん! 前方に魔物です!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中から、アリシアの監視の恐怖も、胃の痛みも、全てが一瞬で吹き飛んだ。代わりに、俺の全身を支配したのは、もっと直接的で、もっと原始的な感情。
「死」の恐怖である。
(で、出たああああああ! やっぱりこの世はクソだぁぁぁぁ!)
俺は心の中で絶叫した。さっきまでの快適な馬車旅行は、一瞬にして地獄の戦場へと姿を変えたのだ。俺は座席の影に隠れるように身を縮こませ、これから始まるであろう殺戮ショーを、いかにして被害ゼロでやり過ごすか、必死で考え始めた。
胃薬の効果は、どうやら切れてしまったらしい。
(冗談だろ…? 最初の街にも着いていないのに、もう魔物のお出ましだと?)
俺は震える手で馬車の扉を押し開け、外の様子を窺った。街道を完全に塞ぐようにして立ち塞がっていたのは、緑色の汚らしい肌と、凶悪に歪んだ顔つきを持つ、十匹以上のゴブリンの群れだった。
手には錆びた鉈や、太い木の枝を削った棍棒を握りしめている。知能は低いが、集団で獲物を嬲り殺しにする狡猾な魔物だ。村の大人たちが「森の奥には入るな」と子供に言い聞かせる際の、最も典型的な脅威。それが今、俺の目の前で涎を垂らしている。
(ひっ…!)
俺の喉がヒュッと鳴った。だが、俺の絶望をよそに、俺が従えている三人の美少女たちは、流石は王家が選び抜いた英傑というべきか、即座に馬車を飛び出して臨戦態勢をとった。
王女騎士のアリシアが白銀の剣を抜き放ち、冷徹な声で状況を分析する。
「数は十二。私が前衛を、メグは後方から魔法支援を。セシリアは全体の回復を頼む」
その見事なまでの指揮能力。俺は内心で拍手喝采を送った。
(おお、素晴らしい! そうだ、お前たちで戦え! 俺は馬車の影で応援しているからな!)
俺はこっそりと馬車の車輪の陰に隠れようと、そろりそろりと後ずさりを始めた。
理屈で考えてみてほしい。俺はこのパーティの「勇者」であり、すなわち「頭脳」であり「王」なのだ。
戦場において、指揮官が最前線に立って剣を振り回すなど、愚の骨頂である。指揮官が討ち死にすれば、部隊は統制を失い全滅する。だからこそ、指揮官は最も安全な絶対不可侵の領域に身を置き、手足となる兵隊たちに血を流させるのが、正しい戦術というものだ。
俺が逃げるのは、決して臆病だからではない。パーティの生存率を最大化するための、極めて冷酷で合理的な判断なのだ。
だが、俺のその完璧な戦術的後退は、アリシアの一言によって無惨にも打ち砕かれた。
「タチバナ様、ご指示を」
アリシアが、真剣なサファイアの瞳をこちらに向けてきたのだ。メグも杖を構えながら、セシリアも祈るように手を組みながら、俺の次の言葉を待っている。
(はぁ!?)
俺の心臓が、恐怖で早鐘を打つ。指示だと? そんなもん、決まってるだろ…肉盾になれ! 俺は逃げさせてもらう!
俺は腹の底から湧き上がるその最も純粋で外道な本音を、そのまま口に出して叫ぼうとした。「俺を守れ! お前らが死んでも俺は生き残る!」と。だが、口を半開きにした瞬間、ゴブリンの群れの一匹と、ばっちりと目が合ってしまった。
血走った黄色い眼球。不揃いな牙から滴る濁った涎。それが俺に向けられた「明確な殺意」であると本能が理解した瞬間、俺の喉は完全に干からび、声帯が凍りついた。
「あ、う…」
声が出ない。それどころか、両足の震えが制御不能な領域に突入していた。膝が笑う、などという生易しいものではない。関節そのものがゼリーにでもなってしまったかのように、体重を支える機能を放棄し始めたのだ。
(ま、待て…! 頼む、動いてくれ俺の足! 逃げる方向にでいいから動け!)
俺の必死の懇願も虚しく、恐怖という名の劇毒は俺の神経を完全に麻痺させていた。そして次の瞬間、限界を迎えた俺の膝はガクンと折れ曲がり、俺は街道の硬い土の上に、情けなく尻餅をついてしまった。
「…っ!?」
アリシアたちが息を呑む気配がした。ゴブリンたちが、無様にへたり込んだ俺を見て、ギャハハハ! と耳障りな奇声を上げて嘲笑う。恥ずかしい。だが、それ以上に怖い。
(助けてくれ…誰か、誰でもいいから俺をここから連れ出してくれぇ!)
俺は地面に手をつき、情けない姿のまま後ずさりしようともがいた。だが、その最大の隙を、狡猾な魔物が見逃すはずがなかった。
「ギャアアッ!」
群れの先頭にいた一際体格の良いゴブリンが、丸太のような棍棒を両手で振りかぶり、尻餅をついている俺に向かって一直線に飛びかかってきた。
(終わった!)
俺はギュッと目を閉じ、己の死を覚悟した。頭蓋骨が砕け散る痛みを想像し、せめて一思いに殺してくれと神に祈ったその時。
『…仕方ありませんね。自動戦闘補助、起動します』
脳内に、あの氷のように冷たい精霊フィリアの思念が響き渡った。その直後だった。
「ひっ!?」
俺の右腕が、俺の意志とは全く無関係に、まるで目に見えない強靭な糸で乱暴に引き上げられたかのように、跳ね上がったのだ。腰に下げていた聖剣の柄を、勝手に俺の右手が握りしめる。そして、信じられない速度で抜刀が行われた。
スパァン!!
乾いた、しかし鼓膜を裂くような鋭い音が鳴った。俺が恐る恐る薄目を開けると、目の前に迫っていた巨大なゴブリンが、空中で斜め真っ二つに両断され、汚い血と内臓を撒き散らしながら左右に分かれて落ちていくところだった。
「え?」
俺が状況を理解するよりも早く、俺の身体は勝手に地面を蹴り、立ち上がっていた。いや、立ち上がったのではない。操り人形のように「立たされた」のだ。そして、俺の足は、逃げるどころか、残る十一匹のゴブリンの群れの中心へと向かって、猛然と突進を始めたのである。
「イヤだァァァ!! 死にたくなーいィィィ!!」
俺の喉から、ついに悲痛な絶叫がほとばしった。だが、俺の肉体は俺の悲鳴を完全に無視して、神がかり的な滑らかさで敵陣へと飛び込んでいく。
そこから先は、俺にとって純粋な地獄の始まりだった。聖剣に宿る魔術の理が、俺の筋肉と骨格を強制的に操作し、歴代の英雄たちが培ってきた究極の剣技を、この貧弱な身体で再現させようとする。
右から振り下ろされる棍棒。普通なら恐怖で竦み上がる場面だが、俺の身体は勝手に半歩だけ斜めに踏み込み、最小限の動きでそれを躱した。そして、その回避の勢いをそのまま殺さず、手首を信じられない角度に返して、左側にいた別のゴブリンの首を刎ね飛ばす。
「ひぃぃぃぃっ! 関節が! 俺の手首がちぎれるぅぅぅ!」
俺は泣き叫びながら、視界がぐるぐると振り回される暴力的な回転運動に耐えていた。聖剣の力は確かに無敵かもしれない。だが、その無敵の動きを強制的にやらされる俺の肉体は、ただの運動不足のヒモ男なのだ。一流の剣士の動きを素人が真似ればどうなるか。当然、筋肉は悲鳴を上げ、関節は限界を超えて軋む。
背後から迫る短剣の気配。俺の意思では全く気づいていないのに、俺の身体はピタリと動きを止め、後ろも見ずに聖剣の柄頭を勢いよく背後へ突き出した。ゴツッ、という鈍い音と共に、敵の顔面が陥没する感触が腕に伝わる。そのまま腕が勝手に反転し、心臓を後ろ手で一突き。
「やめてえええええ! 血が! 汚い血が飛んでくるぅぅぅ!」
俺は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ひたすらに命乞いと泣き言を叫び続けていた。魔物は怖い。だが、自分の身体が自分の制御を離れ、勝手に殺戮を繰り広げているこの状況も、同じくらいに恐ろしい。
おまけに、この聖剣の仕掛けは無駄に気を使っているのか、それとも精霊フィリアが血の汚れを嫌っているのか、ゴブリンから吹き出す返り血を浴びないように、俺の身体をいちいち跳躍させたり、ありえない角度で背を逸らせたりして回避させるのだ。
そのたびに俺の腹筋と背筋は千切れそうになり、胃袋の中身が口から飛び出しそうになる。
「う、うげぇぇぇっ! 酔う! 目が回るぅぅぅ!」
俺はただただ、この理不尽な拷問が早く終わることだけを願って、涙目で絶叫し続けた。敵を斬り伏せるたびに、剣を通して伝わる生々しい肉の感触と骨を断つ振動が、俺の精神を確実に削っていく。
外から見れば、それは月光のように美しく、無駄のない完璧な剣舞に見えたかもしれない。
だが、その内側で踊らされている俺本人は、ただひたすらに「死にたくない」という恐怖と、「もう勘弁してくれ」という絶望に支配され、顔を醜く引きつらせて泣き叫んでいるだけの、哀れな操り人形であった。
やがて、最後の一匹が唐竹割りにされ、ドサリと地面に崩れ落ちた。周囲の魔物の気配が完全に消滅した瞬間、俺の身体を拘束していた目に見えない魔術の糸が、プツリと切れた。
「あ、がっ…!」
コントロールが戻った途端、全身の筋肉から一斉に悲鳴が上がった。俺は呼吸すらまともにできず、ぜえぜえと肩を上下させながら、まるで悪夢から目覚めたばかりのように虚ろな目で周囲を見回した。原型を留めないゴブリンの死体の山。そして、その中央に立つ俺。
俺の膝は再び力を失い、俺は血だまりを避けるようにして、その場にへたり込んだ。
(死ぬかと思った…なんだあのふざけた機能は。剣技の前に、俺の筋肉が断裂して死ぬところだったぞ…!)
心臓は早鐘を打ち、全身から脂汗が滝のように流れ落ちている。息を整えることすら困難なほどの疲労と恐怖。俺が地面に手をついて荒い息を吐いていると、背後から恐る恐る近づいてくる足音が聞こえた。
アリシア、メグ、セシリアの三人だ。
俺は引きつった顔で彼女たちを見上げた。さぞや呆れているだろう。戦闘が始まった途端に腰を抜かし、その後は涙と鼻水を撒き散らしながら「死にたくなーい!」と叫び狂っていたのだ。
勇者の威厳など、欠片も残っていない。幻滅されて当然だ。見捨てられても文句は言えない。
だが、彼女たちの表情は、俺の予想とは全く異なるものだった。
アリシアの瞳は、まるで神の奇跡を目の当たりにしたかのような、深い畏怖と熱狂に震えている。
メグは、興奮で顔を紅潮させ、信じられないものを見るように俺を見つめている。
セシリアに至っては、両手を胸に当て、俺の悲惨な顔を見て、今にも泣き出しそうなほど痛ましげな表情を浮かべていた。
(…なんだ? なんでそんな目をしてるんだ?)
俺は荒い息を吐き出しながら、地面にへたり込んだまま三人の顔を交互に見上げた。彼女たちの瞳に浮かんでいるのは、呆れでも軽蔑でも幻滅でもなかった。
それどころか、王女騎士のアリシアは、まるで神の御業を目の当たりにしたかのような深い畏怖と熱狂に肩を震わせている。
天才魔法使いのメグは、頬を真っ赤に紅潮させ、信じられないほどの宝物を発見したようなキラキラとした目で俺を見つめている。
そして僧侶のセシリアに至っては、両手を胸の前で固く組み、俺の顔を見て今にも泣き出しそうなほど痛ましげな、それでいて底知れぬ慈愛に満ちた表情を浮かべていた。
理屈に合わない。どう考えてもおかしい。俺はたった今、戦闘が始まった瞬間に恐怖で腰を抜かし、尻餅をついたのだ。そこから先は、聖剣に宿る理不尽な魔術の仕掛けによって身体を強制的に操られ、俺の意志など一ミリも介在しないままゴブリンの群れを切り刻まされただけである。
その間、俺はひたすら「死にたくない」「腕がちぎれる」「血が飛んでくるからやめてくれ」と、無様に涙と鼻水を撒き散らして泣き叫んでいた。
傭兵団や討伐隊の指揮官が、もし戦場のど真ん中でそんな無様な真似を晒せばどうなるか。部下からの信頼は瞬時に底を打ち、反乱が起きるか、その場で見捨てられても文句は言えない。それが厳しい現実というものだ。
俺はてっきり、「なんだこの役立たずは」と唾を吐き捨てられ、この魔物がうごめく街道のど真ん中に置き去りにされることすら覚悟していた。
それなのに、なんだこの熱に浮かされたような視線は。俺が動揺と疲労で言葉を発せらずにいると、最初に動いたのはアリシアだった。彼女は、まだ微かに震える足取りで俺の正面に進み出ると、騎士としての最上級の礼──片膝を突き、頭を深く垂れる姿勢をとった。
「お、お見事でした! タチバナ様」
アリシアの声は、抑えきれない興奮で微かに震えていた。
「あの神速の剣技、しかとこの目に焼き付けさせていただきました! 予備動作を一切排し、最短の軌道で敵の急所のみを穿つ…王宮の剣術指南役すらも凌駕する、まさに神域の絶技。我が未熟な剣の腕が、ひどく恥ずかしく思えるほどでした」
(…え? あ、うん)
俺は喉の奥で曖昧な音を鳴らした。まあ、剣技が凄まじかったのは事実だ。なにせ聖剣が勝手にやったのだから。だが、問題はそこではない。俺のあの情けない悲鳴とへっぴり腰をどう説明するつもりだ?
アリシアは顔を上げ、真剣そのもののサファイアの瞳で俺を真っ直ぐに射抜いた。
「ですが、どうしてもお伺いしたい儀がございます。なぜ…なぜタチバナ様は、戦闘の端緒において、あえて腰を抜かすような『隙』を見せられたのですか? そして…戦闘中に発しておられた、あの『悲痛な声』には、どのような戦術的意図が隠されていたのでしょうか…?」
(ギクッ…!)
俺の心臓が、恐怖とは別の意味で大きく跳ねた。来た。突っ込まれた。当然の疑問だ。どう言い訳する?
「いや、普通にビビって腰を抜かしただけです」なんて正直に言えば、今度こそ俺のメッキは剥がれ落ちる。この優秀な肉盾…もとい、美少女たちを繋ぎ止めておくためには、ここで何らかの「もっともらしい嘘」をでっち上げなければならない。
俺の脳内算盤が高速で弾かれるが、極度の疲労と恐怖の余韻で、まともな言い訳が一つも浮かんでこない。どうする? 腹痛のフリをするか? いや、さっき王城で使ったばかりだ。
俺が冷や汗を流し、引きつった顔で視線を泳がせていると、不意にメグが「わかった!」と弾んだ声を上げた。
「わざと弱いフリをして、敵を油断させて引きつける作戦だったんだよね! あの声も、そのための『音響による心理誘導』でしょ!」
(……は?)
俺の思考が、一瞬だけ完全に停止した。メグは、自分の推理に絶対の自信を持っているらしく、誇らしげに胸を張りながらアリシアに向かって解説を始めた。
「アリシアも知ってるでしょ、ゴブリンって頭は悪いけど、すごく狡猾で臆病な魔物だってこと。もし相手が自分たちより圧倒的に強いって分かったら、あいつらすぐに森の中へ散り散りに逃げ込んじゃうじゃない? もし勇者様が、最初からあんな神様みたいな剣気を出して突っ込んでいたら、何匹かは討ち漏らして、後で馬車を夜襲されるとか、面倒なことになってたはずだよ」
(なるほど!?)
俺の頭の中で、雷が落ちたような衝撃が走った。理路整然としている。あまりにも完璧な戦術理論だ。
確かにその通りだ。ゴブリンのような卑小な魔物は、強者と見れば逃げに徹する。森の中に逃げ込まれれば、それを一匹ずつ追いかけて索敵し、討伐しなければならない。そんなことをすれば膨大な時間と体力を浪費することになる。
「だから勇者様は、わざと腰を抜かして見せたんだ! そしてあえて『死にたくない!』って情けない声で叫んだんだよ! 敵に『こいつはただの素人だ、まぐれで剣を持ってるだけの弱い獲物だ』って錯覚させるためにね! 恐怖の声を上げることで敵の警戒心を完全に解き、逃走という選択肢を奪って、全員を自分の射程距離のど真ん中に釘付けにしたんだ! 音声を使った戦術的欺瞞…うわー、えげつなーい! でも、超クールで合理的!」
(て、天才かよお前は…!)
俺は内心で、メグに向かって両手を合わせて拝み倒した。そうだその通りだ! 俺はビビって泣き叫んでいたんじゃない。敵を逃がさず、一網打尽にするために、己の身を餌にするという極めて高度な心理戦を仕掛けていたのだ!
俺の無様な醜態が、メグの天才的な頭脳というフィルターを通ることで、一瞬にして「深遠なる兵法」へと変換されてしまった。こんなにも都合の良い解釈があるだろうか。俺はただ震えていただけなのに、勝手に軍師レベルの評価を与えられている。
メグの解説を聞いたアリシアは、ハッと息を呑み目を見開いた。
「なるほど。自身の身と声を餌にして敵を一点に集め、最小限の動きで殲滅する。圧倒的な実力と、刃が届く距離感を完全に掌握していなければ成立しない、死地を歩くような戦術! なんと恐ろしく、そして理にかなった策か!」
アリシアは深く納得したように頷いた。よっしゃ、これで乗り切れた。俺は内心で安堵の息を吐きかけた。だが、アリシアの生真面目な瞳は、まだ俺を捉えて離さなかった。
「しかし、メグ。私は勇者様が『腕がちぎれる』という苦悶の声を上げられるのを、確かにこの耳で聞いた。敵を欺くためだけにしては、あまりにも生々しい苦痛に満ちていた。あれは…演技だけではないはずだ」
(ギクッ…!)
俺は再び肩を震わせた。アリシアよ、お前の耳は良すぎる。確かに俺はそう叫んだ。聖剣の理不尽な強制起動のせいで、俺の腕の関節は本当にちぎれるかと思うほど痛かったのだから。
アリシアは、騎士としての見地から、真剣そのものの表情で俺の腕を見つめた。
「人間の骨格と筋肉には、耐えられる負荷の限界がある。聖剣の絶大な力を引き出し、物理法則を無視したかのような神速の連撃を放てば、当然、肉体には自己破壊に等しい反動が返ってくるはず。勇者様は、ご自身の筋繊維が断裂し、関節が外れかけるほどの激痛を、文字通りその身に引き受けておられたのだ。あの叫びは、演技などではない。極限の苦痛に耐え抜き、それでもなお我々を守るために剣を振るい続けた、真の戦士の咆哮だ…!」
(お、おおおお!?)
俺はまたしても、内心で驚愕の声を上げた。なんという素晴らしい理屈だ! 俺の筋肉が悲鳴を上げていたのは、単に俺が極度の運動不足で軟弱なヒモ男だからだ。だが、アリシアの騎士としての専門知識を通せば、それは「強大すぎる力を使うための、肉体的な代償」という、極めてヒロイックで悲劇的な理由にすり替わるのだ。
俺が痛がって泣き叫んでいたのは、俺が弱虫だからじゃない。常人なら気絶するほどの激痛を、仲間を守るためにあえて一人で背負い、耐え忍んでいたからなのだ!
(そうだ、その通りだアリシア! 俺の体はボロボロだ! だからこれからの旅では、絶対に俺を戦わせるなよ! 俺の体が壊れてしまうからな!)
俺は自分の軟弱さを正当化し、今後の戦闘を全力で回避するための完璧な言い訳を、彼女自身に構築させたことに、心の底から歓喜した。すると今度は、胸の前で手を組んでいたセシリアが、大きなエメラルドグリーンの瞳からポロリと涙をこぼし、深く頷いた。
「それだけではありませんわ、アリシアさん、メグさん。タチバナ様は確かに、『やめてくれ』とも仰っていました…。あれは、敵に向けた言葉ではありません。奪う命への、悲痛な哀悼です」
(…はい?)
俺の思考が、三度停止する。やめてくれと言ったのは、ゴブリンの汚い血が俺の新しい服に飛んでくるのが嫌だったからだ。それ以外に理由はない。だが、セシリアの慈愛に満ちた解釈は、俺のその身勝手な理由を、神聖な領域へと無理やり引きずり上げていく。
「魔物とはいえ、命を散らすことには変わりありません。争いを憎むタチバナ様のお優しい心は、敵を斬るたびに血の涙を流しておられたのです。ご自身の肉体が壊れる痛みと、命を奪うことへの心の痛み。その二つの重圧が、あのような悲痛な叫びとなって表れたのですね…。それほどまでの苦しみを抱えながら、私たちのために、ご自身の手を血で汚してくださった…」
セシリアは涙声で語り終えると、俺に向かって深々と、まるで聖人に向かって祈りを捧げるように頭を下げた。
「……」
俺は、開いた口が塞がらなかった。
心理戦による戦術的欺瞞。
限界を超えた力の代償。
奪う命への哀悼と自己犠牲。
三人の少女たちの間で、俺の「ただ腰を抜かし、痛いと泣き叫び、血を嫌がっていただけ」という見苦しい行動が、極めて高度で、悲劇的で、慈愛に満ちた英雄の姿として、完全に一つの「真実」として組み上がってしまったのだ。
全ての視線が、答えを待つように俺へと注がれる。期待に満ちた、純粋で熱い三対の瞳。俺の疲労困憊して土気色になった顔や、まだ恐怖で小刻みに震えている腕は、もはや彼女たちには「激痛と悲しみに耐え抜いた名残」として、あまりにも強い説得力を持って映っている。
俺は、どうするべきか一瞬だけ迷った。ここで「いや、全部お前たちの勘違いだ。俺はただビビってただけのクズだぞ」と正直に告白するか?
否。断じて否だ。そんなことをすれば、俺は呆れられ、この危険な街道の真ん中に放り出されるかもしれない。生存確率を最大化するためには、この圧倒的に有利な「勘違い」という波に、全力で乗るしかない。
俺は、まだ悪夢から覚めきらないような、引きつった顔のまま、震える足に力を込めてゆっくりと立ち上がった。足元がふらつくが、それもまた「激闘の代償」として彼女たちの目に映るだろう。
俺は手にした聖剣の刀身を軽く振って、そこに残っていた魔物の脂と血の汚れを払い落とした。俺としては、ただ剣を鞘に納める前に汚れを落としたかっただけなのだが、その動作すらも、今の彼女たちには「洗練された戦士の残心」に見えているはずだ。
俺は三人の期待の眼差しを前にして、深く重々しい溜め息を一つ吐いた。そして、視線を少しだけ伏せ、感情を一切交えずに、ただ一言、ぽつりと呟いた。
「まあ、こんなものか」
この言葉の真意は、「あんなに苦しい思いをしたのに、終わってみればあっけないものだな。もう二度とやりたくない」という、ただの愚痴である。だが、今の彼女たちのフィルターを通せば、この言葉がどう響くか、俺には完全に理解できていた。
(ほら、どうだ? あれだけの心理戦を指揮し、肉体が壊れるほどの激痛に耐え、敵を瞬時に殲滅しておきながら、全く自分の手柄を誇ることもなく、『こんなものか』と事もなげに言い捨てる。…どう考えても、底知れない実力を隠し持った、謙虚で最高にクールな強者のセリフにしか聞こえないだろう?)
案の定であった。俺がその言葉を落とした瞬間、三人の少女たちは、ハッと息を呑んだ。
「やはり…!」
「かっこいい…!」
「タチバナ様…!」
彼女たちの瞳に浮かんだのは、自分たちの推論が完全に正しかったという確信と、俺という存在に対する、もはや信仰にも近い絶対的な忠誠と好意の光であった。
俺は、無表情を装いながら、内心で激しくガッツポーズを決めた。勝った。完全勝利だ。俺は一滴の汗もかかず(冷や汗は滝のようにかいたが)、自らの意志で剣を振るうこともなく、ただ泣き叫んでいただけなのに、彼女たちの中で俺は「完璧な英雄」として完成してしまったのだ。
ふっ、なんだか気分がイイ。
『あれが完璧な英雄ですかwww』
ふっ、フィリアは死刑だ。
ここまで読んでくださりありがとうございます。感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので、是非よろしくお願いします(๑˃́ꇴ˂̀๑)