俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
馬車の車輪が石畳を擦る甲高い音を立てて、急停止した。その激しい揺れが収まるよりも早く、王女騎士アリシアは腰の白銀の剣に手を当てて、車外へと飛び出した。
彼女の洗練されたサファイアブルーの瞳が、前方の街道を塞ぐ異形の群れを、瞬時に正確に捉える。
緑色の汚らしい肌に醜悪な顔つきを持ち、粗末な革鎧と錆びた武器を身につけた、魔物ゴブリンの群れであった。彼らは知能こそ低いものの、集団で狩りを行う狡猾な性質を持っており、旅人にとっては決して侮れない脅威である。
アリシアは呼吸を一つ整え、冷徹な戦術家の視点で敵の戦力を即座に分析した。
「数は十二。武装は主に棍棒と短剣。遠距離攻撃の手段は見当たりません」
彼女の凛とした声が、後から馬車を降りてきたメグとセシリアに状況を伝達する。
「私が前衛を務め敵の進行を食い止める。メグは私の後方から魔法による範囲制圧支援を。セシリアは後方待機しつつ全体の負傷状況の把握と回復を頼む」
それは王宮騎士団で培われた、戦術の定石に則った完璧な役割分担であった。天才魔法使いのメグが、手にした先端に赤い魔石の輝く短杖をくるりと回して構える。
「了解! あたしの魔法で一網打尽にしてあげるから任せといて!」
心優しい僧侶のセシリアも、純白の法衣の裾を僅かに持ち上げ、両手を胸の前で固く組んで祈りの姿勢をとった。
「お任せください。皆様のお命は私が必ずお守りいたします」
三人はそれぞれの武器と魔力を構え、迎撃の態勢を整えた。そして彼女たちの視線は、自然とパーティの絶対的な指揮官である勇者タチバナへと集まった。
「タチバナ様。ご指示を」
アリシアが彼に向けて静かに問いかける。彼女はタチバナがどのような深遠な策を講じるのか、期待に胸を膨らませていた。
敵は単なるゴブリンの群れである。伝説の聖剣に選ばれた彼にとって、この程度の魔物は物の数ではないはずだ。だからこそ、彼がこの局面でどのような采配を振るうのかが、彼女たちにとっての重要な指針となる。
しかし勇者は何も言わなかった。タチバナは馬車の扉の側に立ち、血の気の引いた蒼白な顔でゴブリンの群れをただひたすらに凝視していた。
彼の視線は宙を彷徨い、その細い膝は小刻みにそして不規則に震えているように見えた。その姿はまるで圧倒的な恐怖に縛り付けられ、声すら発することができない脆弱な一般人のようである。
アリシアの心に一瞬だけ疑念の影が過った。
(…まさか、怯えていらっしゃるのか?)
だが、彼女は即座にその考えを、自身の理性によって力強く否定した。
(いや、ありえない。あのお方がこの程度の低級な魔物ごときに、恐怖を抱くはずがない。あの震えは戦場に満ちる血の匂いに反応した、戦士としての武者震いだ。あるいは我々の力を試すために、あえて沈黙を守っておられるのだ)
隣で短杖を構えるメグもまた、タチバナの沈黙の真意を測りかねて小首を傾げた。
(あれ…? どうしたんだろ勇者様。何も指示を出さないってことは、もしかしてあたしたちの実力を試してるのかな? 自分の手を煩わせるまでもないから、お前たちだけでやってみろっていうテスト?)
メグの琥珀色の瞳に負けん気の炎が宿る。セシリアはタチバナの青ざめた横顔を見つめ、胸が締め付けられるような切なさを感じていた。
(タチバナ様…。きっと、何か深いお考えがあるのですね。無闇に命を奪うことを良しとしない、お優しい心があの魔物たちにすら、慈悲をかけようと葛藤しておられるのだわ)
三人が三者三様の極めて好意的な推測を巡らせていた、その時であった。彼女たちの視界の中で、信じられない光景が展開された。勇者タチバナの震えていた膝がガクンと突然力を失い、彼はそのまま地面にへたり込むようにして、無様に尻餅をついてしまったのだ。
「っ!?」
アリシアたちがそのあまりにも不可解で情けなくも見える行動に、息を飲んだ。前方のゴブリンたちがその姿を見て勝機を見出したかのように、下卑た甲高い奇声を上げて一斉に笑い声を上げた。
指揮官が地面に倒れ伏したという絶好の隙を見逃すほど、ゴブリンは愚かではなかった。群れの先頭にいた一際体格の良いゴブリンが、血走った目を爛々と輝かせ、太い棍棒を大きく振り上げてタチバナへと躍りかかった。
「しまった!」
アリシアが自らの戦術的判断の遅れを悔やみ、タチバナを庇うために地面を蹴って前へ出ようとした。その刹那であった。
閃光が走った。それは、文字通りの光の筋であった。腰を抜かして地面に尻餅をついたままの極めて不安定で不格好な体勢。そこからタチバナの右腕だけが、まるで意志を持った別の生き物であるかのように、滑らかにしなったのだ。
彼の右手に握られていた古びた鞘から、白銀の刃が目で追うことすら不可能な神速の軌跡を描いて、抜き放たれた。
スパァンという、乾いた硬質な音が街道に響き渡った。
アリシアが瞬きをした次の瞬間には、襲いかかってきた巨大なゴブリンの身体が斜め上下に真っ二つに両断され、汚黒い血を撒き散らしながら左右に崩れ落ちていた。
「…え?」
メグの口から間の抜けた声が漏れる。三人がその信じ難い光景に呆気にとられている間に、タチバナの身体がまるで目に見えない糸に引き上げられるかのように、不自然なほど滑らかに立ち上がった。そしてアリシアたちが次の行動に移るよりも早く、彼はゴブリンの群れの中心へと単騎で突進していったのだ。
そこから先は、もはや戦闘と呼べる代物ではなかった。それは絶対的な強者による、極めて機械的で一方的な蹂躙劇であった。彼の振るう聖剣は、夜空に煌めく月光の軌跡を描くかのように、次々とゴブリンたちの急所を正確に切り裂いていく。
右から迫る棍棒の一撃を剣の腹で受け流し、その相手の突進力を利用してコマのように回転しながら、左にいる敵の首を流麗に刎ね飛ばす。
背後の死角からの短剣による奇襲に対しては、全く振り向くことすらなく、剣の柄頭で敵の顔面を正確に打ち砕き、そのまま手首を返して心臓を後ろ手で一突きにする。
アリシアはその圧倒的な光景から、目が離せなかった。彼女は王国の最高峰の剣術師範から、英才教育を受けた身である。だからこそ、タチバナの動きがいかに物理法則の極致にあるかを理解できた。
彼の剣技には、予備動作というものが一切存在しない。剣を振るう際の筋肉の収縮や重心の移動といった、人間が必ず行うはずの動作が完全に省略されているのだ。
全ての攻撃が最短距離かつ最速の速度で、敵の生命活動を停止させるためだけに最適化されている。無駄な力が一切入っていないからこそ、彼の刃は風の抵抗すら受けずに、空間そのものを切断するように滑っていく。
(なんという…なんという剣技だ。あれが、聖剣に選ばれし者の力。尻餅をついたのは敵の攻撃の軌道を下に誘導し、自身の抜刀の遠心力を最大化するための、極めて計算された布石だったというのか)
アリシアの背筋を畏怖の粟立ちが駆け抜ける。しかし三人がその神がかり的な剣技以上に驚愕したのは、敵を圧倒的な力で蹂躙し続けるタチバナ本人の顔に浮かぶ表情であった。彼の顔は恐怖と絶望に激しく引きつり、両目には大粒の涙が浮かんでいたのだ。
さらに彼の口は大きく見開かれ、何かを必死に叫び続けているように見える。激しい金属音と魔物の断末魔の悲鳴にかき消されて、その声の詳細は聞き取ることはできない。しかし、その表情は闘志に燃える強者のそれでも冷酷な殺戮者のそれでもなく、まるで地獄の底で命乞いをする弱者のようにしか見えなかった。
(あれは…一体…?)
アリシアの論理的な思考回路が激しい混乱をきたす。
(なぜあのような悲痛な表情をされているのだ。あれほどの神域の剣技を振るいながら、敵を圧倒しているというのに)
メグもまた杖を持ったまま固まっていた。
(すごい…あたしの魔法を詠唱する隙すらない。でも、あの泣きそうな顔は何? どうして、あんなに怯えたみたいな顔をしてるの?)
セシリアは胸の前で手を組みながら、その光景に深く心を痛めていた。
(タチバナ様…。あの苦悶に満ちた表情。きっと聖剣の絶大な力を引き出すために、ご自身の肉体と精神に想像を絶するほどの過酷な代償を、支払っていらっしゃるのですね。そして、奪われていく命の悲鳴を、ご自身の魂で受け止めておられるのだわ)
三人は目の前で凄まじい速度で繰り広げられる血みどろの美しき剣舞とそれに、全くそぐわない勇者の悲惨な表情とのあまりの乖離に、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
飛び散る魔物の血の一滴すら、その純白の衣服に浴びることなく、タチバナはまるで自動化された殺戮兵器のように、群れを完全に沈黙させるまで、その不可解な舞を止めることはなかった。
敵を全て倒した、タチバナの荒い息遣いだけが聞こえる。最初にその沈黙を破り、彼に声をかけたのは、騎士として純粋な探求心を抑えきれなくなったアリシアだった。彼女は、紅潮した頬を隠すこともせず、一歩前に進み出た。
「お、お見事でした、タチバナ様! あの神速の剣技、しかとこの目に焼き付けさせていただきました!」
アリシアの声は、尊敬と興奮で微かに震えている。
「ですが、どうしてもお伺いしたい儀がございます。なぜ、最初にあえて腰を抜かすような隙を見せられたのですか? そして…戦闘中に発しておられた、あの『声』には、どのような戦術的意図が隠されていたのでしょうか…?」
アリシアの問いは、極めて真剣なものであった。彼女の鍛え抜かれた聴覚は、激しい剣戟とゴブリンの断末魔のノイズの中に混じって、タチバナが発していた言葉を断片的に拾い上げていたのだ。
『イヤだ』『死にたくない』『腕がちぎれる』『やめてくれ』。
それは、どう聞いても恐怖に泣き叫ぶ弱者の命乞いであり、常人であれば情けないと軽蔑する場面かもしれない。しかし、目の前で敵を一方的に蹂躙し尽くしたという絶対的な「結果」が、その言葉の表面的な意味を完全に否定していた。
圧倒的な強者が、なぜあえて命乞いのような叫びを上げたのか。その矛盾を、アリシアはどうしても解き明かしたかった。
アリシアの言葉を聞いて、タチバナの肩がビクッと跳ねた。彼はゆっくりとこちらを振り返る。その顔はひどく青ざめ、頬は引きつっており、何か言い訳を探すように視線を泳がせているように見えた。
タチバナが言葉を発するよりも早く、メグが「わかった!」と声を上げ、目を輝かせてアリシアの疑問に答えた。
「わざと弱いフリをして、敵を油断させて引きつける作戦だったんだよ! あの声も、そのための『音響による心理誘導』でしょ!」
メグは自身の得意とする戦術理論を当てはめ、得意げに解説を始める。
「ほら、ゴブリンって狡猾だから、相手が自分たちより圧倒的に強いと分かったら、すぐに森の中へ散り散りに逃げ込んじゃうじゃない? もし勇者様が最初から強者のオーラを出して無双していたら、何匹かは討ち漏らして、後で面倒なことになってたはずだよ」
メグの琥珀色の瞳が、タチバナの知性に感嘆するように輝く。
「だから、勇者様はわざと腰を抜かし、あえて『死にたくない!』って情けない声で泣き叫んだんだ! 敵に『こいつはただの素人だ、まぐれで剣を振り回しているだけの弱い獲物だ』って錯覚させるためにね! 恐怖の声を上げることで敵の警戒心を完全に解き、逃走という選択肢を奪って、全員を自分の射程距離に釘付けにしたんだよ。音声を使った戦術的欺瞞。うわー、えげつなーい! でも、戦術としては超クールで合理的!」
メグの理路整然とした説明に、アリシアはハッと息を呑んだ。
「なるほど…! 自身の身と声を餌にして敵を一点に集め、最小限の動きで殲滅する。圧倒的な実力と、刃が届く距離感を完全に掌握していなければ成立しない、極めて高度な心理戦…! なんと恐ろしい策か!」
アリシアは深く納得した。しかし、彼女にはまだ一つだけ腑に落ちない点があった。
「だが、メグ。私は『腕がちぎれる』という苦悶の声も確かに聞いた。敵を欺くためだけにしては、あまりにも生々しい苦痛に満ちていた。あれは演技だけではないはずだ」
アリシアは、騎士としての見地から真剣な表情で語る。
「人間の骨格と筋肉には限界がある。聖剣の絶大な力を引き出し、物理法則を無視したかのような神速の連撃を放てば、当然、肉体には自己破壊に等しい負荷がかかる。彼は、筋繊維が断裂し、関節が外れかけるほどの激痛を、文字通りその身に引き受けておられたのだ。あの叫びは、演技などではない。極限の苦痛に耐え抜き、それでもなお我々を守るために剣を振るい続けた、戦士の魂の咆哮だ…!」
アリシアの推論に、今度はセシリアが涙ぐみながら深く頷いた。彼女は両手を胸に当て、祈るような姿勢でタチバナの背中を見つめた。
「それだけではありませんわ、アリシアさん、メグさん。タチバナ様は確かに、『やめてくれ』とも仰っていました…。あれは、敵に向けた言葉ではありません。奪う命への、悲痛な哀悼です」
セシリアの慈愛に満ちた解釈が、三人の勘違いをさらに神聖な領域へと昇華させる。
「魔物とはいえ、命を散らすことには変わりありません。争いを憎む勇者様のお優しい心は、敵を斬るたびに血の涙を流しておられたのです。ご自身の肉体が壊れる痛みと、命を奪うことへの心の痛み。その二つの重圧が、あのような悲痛な叫びとなって表れたのですね……。それほどまでの苦しみを抱えながら、私たちのために…」
三人の少女たちの間で、タチバナの「ただ腰を抜かし、恐怖で泣き叫んでいただけ」という見苦しい行動が、極めて高度な戦術的布石であり、肉体の限界を超える戦士の代償であり、そして命の尊さを知る聖人の苦悩であるという、完璧な「勘違い」の方程式として組み上がってしまった。
全ての視線が、答えを待つようにタチバナへと注がれる。期待に満ちた、純粋で熱い三対の瞳。タチバナの疲労困憊して青ざめた顔色は、彼女たちには「激痛と悲しみに耐え抜いた名残」として、あまりにも説得力を持って映っていた。
タチバナは、まるでまだ悪夢から覚めきらないような、引きつった顔でゆっくりと立ち上がった。彼は、手にした聖剣の刀身を軽く振って、そこに残っていた魔物の脂を払い落とした。その腕はまだ恐怖で小刻みに震えていたが、もはや彼女たちには「限界を超えた筋肉の痙攣」にしか見えない。
タチバナは、三人の期待の眼差しを前にして、深くため息をつき、ただ一言、ぽつりと呟いた。
「…まあ、こんなものか」
それは、己の意志とは無関係に暴走した聖剣への恨み言であり、これ以上何かを弁明しても無駄だという諦めであり、とにかくこの場を適当に誤魔化すための、中身のない一言であった。
だが、三人の耳には、その言葉の響きが全く違って聞こえた。あれだけの心理戦を指揮し、肉体が壊れるほどの激痛に耐え、敵を瞬時に殲滅しておきながら、全く誇ることもなく、「こんなものか」と事もなげに言い捨てる。
それは、絶対的な強者だけが口にすることを許される、あまりにも謙虚で、そして己の実力の底すら見せていないことを示唆する、恐るべき言葉であった。
(やはり…!)
三人は、その短い一言に、自分たちの論理的解釈が全て正しかったのだと確信する。
この日、この瞬間。血塗られた静寂の街道で。アリシア、メグ、セシリアの三人の心の中に、「勇者タチバナ」という、底知れぬ実力と深遠な戦術眼、そして自己犠牲の優しさを隠し持つ英雄の姿が、もはや誰にも覆すことのできない揺るぎない真実として、完全に刻み込まれたのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので、是非よろしくお願いします(๑˃́ꇴ˂̀๑)