俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
悪夢の翌朝と王家の迎え - (タチバナ視点)
人間には、「防衛機制」という素晴らしい機能が備わっている。過度なストレスや、受け入れがたい現実に直面した際、脳が勝手に記憶を改変したり、あるいは「なかったこと」にして心の平穏を保とうとする機能だ。俺はこの機能を、誰よりも高度に発達させてきた自負がある。
だからこそ、断言できる。昨日の出来事は夢だ。それも、たちの悪い悪夢の類だ。
「ふわぁ、よく寝た」
俺は小屋の硬いベッドの上で、大袈裟なほど大きなあくびをして目を覚ました。板の隙間から差し込む朝日が、空中に舞う埃をキラキラと照らしている。外からは鶏の鳴き声と、遠くで牛が鳴くのどかな音が聞こえてくる。いつも通りの平和で退屈で、そして愛すべき朝だ。
俺は天井のシミを見つめながら、論理的に昨日の記憶を整理する。
まず第一に、俺が森へ行ったこと。これは事実だ。金目の物を探すという崇高な目的があった。そこから先がおかしい。
苔むした台座? 伝説の聖剣?
そんなものが、俺の散歩コースごときに落ちているはずがない。もしあったなら、俺より先に鼻の利く野盗や冒険者が見つけて持ち去っているに決まっている。確率論的にあり得ないのだ。
次に、あの声だ。『最低ですね』だの『豚の方が理性的』だの、俺の人格を全否定する幻聴。あれは、日頃の運動不足がたたって、森の急な坂道を登った際に酸欠になった脳が見せた幻覚に過ぎない。
医学的に見ても、急激な有酸素運動は思考力の低下を招く。俺のような繊細な芸術品のような肉体を持つ人間にとって、森の散歩はもはや極地探検と同義なのだ。
そして最後に、村人たちの反応だ。俺を「勇者」と呼び、胴上げした記憶。これはもう、完全に俺の自意識過剰が見せた願望夢だ。俺は心の奥底で、ちやほヤされたいと願っていた。それが歪んだ形で夢に出てきただけだ。
冷静に考えてみろ。この俺が勇者? 「勇気」という単語の意味すら知らず、「自己犠牲」と聞けば蕁麻疹が出るこの俺が? ハッ、あり得ない。絶対にあり得ない。太陽が西から昇って東で爆発するくらいあり得ない。
「よし。結論が出た」
俺はポンと手を打ち、ニヤリと笑った。
「昨日は森の入口で疲れて昼寝をして、変な夢を見て帰ってきた。それだけのことだ」
完璧な論理だ。非の打ち所がない。俺は布団を跳ね除け、軽やかな動きでベッドから降りた。
今日は快晴だ。まずはアンナのところへ行って、「昨日変な夢を見て寝覚めが悪いんだ」と甘えてみよう。きっと彼女は心配して、特製のハーブティーを淹れてくれるはずだ。次にベッキーのところへ行き、焼き立てのパンをねだる。そして昼過ぎにはクロエの膝枕で二度寝だ。
ああ、なんて完璧なスケジュールなんだ。これが人生だ。これが正解だ。俺は鼻歌交じりに、粗末な木の扉に手をかけた。
「さてと、今日も一日、全力で怠けるとするか!」
俺は勢いよく扉を開け放った、その瞬間。俺の目の前に広がっていた「完璧な日常」は、音を立てて崩れ去った。
「…は?」
俺の口から、間抜けな音が漏れる。そこにあるはずの、見慣れたあぜ道。そこにあるはずの、のんびりと歩く鶏たち。それらは全て、圧倒的な「暴力」と「権力」の壁によって遮断されていた。
目の前に、鉄の壁があった。いや、違う。それは人間だ。頭のてっぺんからつま先まで、一点の隙もなく磨き上げられた銀色のフルプレートアーマーに身を包んだ、巨人のような騎士たちが、俺の小屋を取り囲むように整列していたのだ。
その数、ざっと十人。彼らが腰に下げている剣は、村の鍛冶屋が作る農具のようなナマクラではない。人を殺すために研ぎ澄まされた、本物の「武器」だ。
そして、その騎士たちの後ろには、場違いにも程がある豪華絢爛な馬車が鎮座していた。漆塗りの車体に、金箔で施された王家の紋章。窓にはビロードのカーテン。車輪一つとっても、俺の小屋より高価そうに見える。四頭立ての白馬が、鼻息荒く蹄を鳴らしている。その音だけで、俺の心臓は縮み上がった。
「…え、なに? 幻覚? まだ夢の続き?」
俺が頬をつねろうとした時、先頭に立っていた騎士が一歩前に進み出た。兜のバイザーを下ろしており、その表情は見えない。だが、そこから発せられる冷徹で抑揚のない声は、これが紛れもない現実であることを告げていた。
「勇者タチバナ殿とお見受けする」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「勇者」。その単語を聞いた瞬間、俺が必死に構築した「昨日は夢だった理論」が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。嘘だろ。マジなのか。あの村人たちの熱狂も聖剣も、全部現実だったっていうのか。
「国王陛下より、招集の命を受けて参上した。直ちに王城へご同行願いたい」
騎士の言葉は、「お願い」という形をとっているが、その実態は「命令」であり、さらに言えば「連行」の宣告だった。同行願いたい、ではない。連れて行く、と言っているのだ。
俺の脳内が、かつてない速度で計算を開始する。
状況:王城への呼び出し。
理由:勇者として認定されたため。
予測される結末:魔王とかいう化け物と戦わされる。死亡率100%。快適なヒモ生活の終了。
(冗談じゃない! 死んでたまるか! 俺はこれから、クロエの膝枕で寝る予定があるんだよ!)
俺の生存本能が警報を鳴らす。逃げろ。拒否しろ。何としても、この馬車に乗ってはならない。乗ったら最後、俺の人生は「勇者」という名のデスマーチ・レールに乗せられてしまう!
俺は引きつった笑顔を貼り付け、腰を低くして揉み手をしながら言った。
「あ、いやぁ〜、ご苦労様です、騎士様。わざわざこんな辺境まで。でもですね、ちょっと人違いと言いますか、勇者だなんてとんでもない!」
「…」
騎士は沈黙したまま、微動だにしない。その鉄仮面の奥から、品定めするような視線を感じる。
「それにですね! 実は俺、今朝からすっごく腹の具合が悪くて! いやもう、立てないくらい痛いんですよ! 伝染病かもしれない! ほら、俺に近づくと騎士様の高貴な鎧に菌がついちゃうかも!」
俺は大袈裟に腹を押さえ、「痛い痛い」と顔をしかめてみせた。我ながら名演技だ。これで「では日を改めよう」となれば、その隙に夜逃げができる。隣の国へでも逃げて、名前を変えて別人として生きればいい。
しかし、俺の完璧な演技に対する騎士の反応は、あまりにも冷淡だったらしい。
「体調不良か。ならば好都合だ」
「へ?」
騎士はガシャリと金属音を立てて、腰の剣の柄に手を置いた。その動作は自然でありながら、明確な「脅し」を含んでいた。
「王城には、国内最高峰の治癒術師や医師が揃っている。貴殿の腹痛など、瞬きする間に完治するだろう。…もちろん、歩けないのであれば、我々がお運びするが?」
「お運びする」という言葉が、「手足を縛って荷物のように放り込む」という意味に聞こえたのは、決して俺の被害妄想ではないはずだ。騎士の言葉には、「『NO』という選択肢は用意されていない」という無言の圧力が込められていた。
俺は、彼の腰にある剣を見つめた。そして、周囲を取り囲む屈強な騎士たちの筋肉を見つめた。最後に、自分のプヨプヨとした二の腕と、人生で一度も喧嘩に勝ったことのないひ弱な拳を見つめた。
勝算:ゼロ。
逃走成功率:マイナス無限大。
逆らった場合の予想ダメージ:全治三ヶ月、あるいは斬首。
(…詰んだ)
俺の心の中で、何かがポッキリと折れる音がした。ここでの正解は一つしかない。俺のような、長い物に巻かれることで生き延びてきた人種にとって、圧倒的な暴力装置である「国家権力」に逆らうことは自殺行為だ。とりあえず従うフリをして、隙を見て逃げ出すしかない。
そう、これは戦略的撤退だ。決してビビっているわけではない。
俺は腹を押さえていた手をスッと離し、姿勢を正した。そして、まるで最初からそうするつもりだったかのような、殊勝な顔を作った。
「…あ、いや、今の一瞬で治りました。奇跡的な回復力です。さすが勇者ですね、俺」
「それは重畳。では」
騎士は顎で馬車をしゃくった。さっさと乗れ、家畜。そう言われている気がした。俺はトボトボと、屠殺場へ引かれていく子羊のような足取りで歩き出した。周囲には、いつの間にか村人たちが集まってきていた。アンナ、ベッキー、クロエの姿もある。
「タチバナ! いってらっしゃい!」
「王様のお迎えなんてすごい! 立派な勇者様になって帰ってきてね!」
「…待ってる」
彼女たちは涙を流し、ハンカチを振っている。俺が「連行」されていることに気づかず、栄光への旅立ちだと信じて疑っていないのだ。
(違うんだ…俺は行きたくないんだ…! 助けてくれアンナ! 「タチバナは生活能力がないから無理です!」って言ってくれよ!)
心の中で絶叫しながら、俺は馬車のステップに足をかけた。従者がうやうやしく扉を開ける。その中は、外見以上に広くて豪華だった。だが、俺にはその赤いビロードのシートが、棺桶の内張りにしか見えなかった。
俺が乗り込むと、重厚な扉がバタン! と閉ざされた。それは、俺の「自由」と「平和」が完全に断絶された音だった。
「…終わった」
馬車が動き出す振動と共に、俺はふかふかのシートに深々と沈み込んだ。頭を抱え、絶望のポーズをとる。
「俺の楽園は終わった…。王城なんて行きたくない。魔王なんて知らない。俺はただ、昼まで寝て暮らしたかっただけなのに…これから俺はどうなるんだ…?」
窓の外を流れる村の景色が、涙で滲んで見える。さようなら、俺の昼寝スポット。さようなら、俺の都合の良い女たち。もし帰ってこられたとしても、それはきっと俺が死んで骨になった時だ。
「はぁぁぁ…。神様、俺が何をしたっていうんですか。ちょっと不純な動機で剣を抜いただけじゃないですか。それだけで、なんでこんな目に…」
俺がブツブツと呪詛を吐き出した。
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