俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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前半がタチバナ、後半がフィリア視点となります。初めての試みなので、違和感あれば遠慮なく感想お願いします。


聖剣の精霊 - (タチバナ視点)(フィリア視点)

 馬車が動き出してしばらく、俺は豪奢な赤いビロードの座席に深く沈み込んだまま、死んだ魚のような目で天井の木目を見つめていた。車輪が石畳を転がる音だけが、ゴロゴロと腹の底に響く。

 

 この振動は、俺を王都という名の処刑場へと運ぶカウントダウンの刻み音だ。

 

 

「はぁ、なんてことだ」

 

 

 俺は重いため息をつく。この座席の柔らかさはどうだ。まるで雲の上に座っているかのような、極上の座り心地。クッションの中には、おそらく最高級の水鳥の羽毛が惜しみなく使われているのだろう。表皮を覆う布地も、肌触りの良い一級品の絹織物だ。

 

 本来であれば、俺のような怠惰を愛する人種にとって、これは至福の空間であるはずだ。

 

 だが今の俺には、この柔らかさが「真綿で首を絞められる」感覚にしか思えない。これは椅子ではない。人間を無力化し、思考を奪い、抵抗の意思を削ぎ落とすための、甘い罠だ。

 

 俺は指先で窓のカーテンを少しだけめくった。外には、並走する騎士たちの銀色の鎧が見える。彼らは無言だ。バイザーの下で何を考えているのか分からないが、少なくとも俺が「トイレに行きたいので降ろしてくれ」と言って逃走しようとしたら、即座にその鉄塊のような腕で拘束する準備ができていることだけは確かだ。

 

 俺はパッとカーテンを閉じた。逃げ場はない。

 

 

「よし、冷静になろう。パニックは思考の敵だ」

 

 

 俺は自らに言い聞かせ、腕を組んで目を閉じた。状況は絶望的だが、まだ終わりではない。俺の頭脳は、村一番の回転数を誇るのだ。

 

 王城に着けば、まずは王様とかいう権力者との面会があるだろう。そこで俺は、徹底的に「無能」を演じればいい。

 

 

『剣なんて振れません』

『血を見ると失神します』

『夜はおねしょが治りません』

 

 

 そうやって生理的な嫌悪感を抱かせるレベルの駄目人間をアピールすれば、向こうから「お前などいらん、帰れ」と言い渡される可能性は高い。

 

 むしろそうあるべきだ。世界を救う勇者が、おねしょをする成人男性であってたまるか。王国の威信に関わる。

 

 

「そうだ、その線で行こう。俺は無能だ。役立たずだ。穀潰しだ。それを堂々と証明してやる」

 

 

 俺はニヤリと笑った。これぞ逆転の発想。村では隠していた本性を、王都ではフルオープンにするのだ。そうすれば、俺は晴れて「勇者失格」の烙印を押され、村へ強制送還される。そうしたらまた、アンナに嘘泣きして慰めてもらえばいい。

 

 完璧な計画だ。俺の未来に、再び希望の光が差し込んできた──。

 

 

「…ん?」

 

 

 違和感があった。俺の向かい側。誰も座っていないはずの空席。そこの空気が、陽炎のように歪んでいた。

 

 最初は、窓から差し込む光の悪戯かと思った。あるいは、馬車の揺れで俺の三半規管がおかしくなったのかと。

 

 だが違う。その揺らめきは、光の屈折などという物理現象ではない。もっと根本的な、何もない空間に異物が無理やり割り込んでくるような、生理的な不快感を伴う現象だった。

 

 

「な、なんだ…?」

 

 

 俺は背筋を伸ばし、目を凝らす。揺らめきは急速に収束し、輪郭を形成していく。それは人の形をしていた。華奢な、少女のシルエット。やがて、光の粒子が定着すると、そこには信じられないものが「鎮座」していた。

 

 銀色の長い髪。月の光をそのまま糸にして織り上げたような、幻想的な色彩。透き通るような白い肌は、血の通った人間というよりは、白磁の人形に近い。そして、その顔立ちは、芸術家が生涯をかけて彫り上げた彫像のように整っているが、そこには感情という温度が欠片も存在しなかった。

 

 彼女の足は、床から数センチほど浮いていた。幽霊のように。いや、それ以上に俺を戦慄させたのは、彼女がその細い腕に抱えている「物」だった。

 

 

 古びた鞘。

 鈍く光る銀色の柄。

 そして、柄頭に埋め込まれた、親指大の深紅の宝石。

 

 

 間違いない。昨日の俺が森で見つけ、「金になる」と歓喜し、その後変な声にビビって全力で森の奥へ放り投げた、あの「聖剣」だ。

 

 

「っ…!」

 

 

 俺の喉が引きつる。心臓が早鐘を打つどころか、胸郭を突き破って逃げ出そうとするほど暴れ出した。

 

 なぜ、ここにある? 俺は捨てたはずだ。所有権は放棄した。拾得物の権利も主張しないと決めた。なのに、なぜこの密室の馬車の中に、捨てたはずのゴミが戻ってきている? しかも、得体の知れない銀色の少女付きで。

 

 少女の瞼が、ゆっくりと上がった。そこに現れたのは、深い底なしの紫水晶のような瞳だった。その瞳は、俺という人間を映しているようでいて、その実、道端に転がる小石か、あるいは生ゴミを見るような、冷徹で無機質な光を湛えていた。

 

 

「ひっ…!」

 

 

 俺の喉の奥から、空気が圧縮されたような無様な音が漏れる。その女──いや、精霊らしきものは、俺が恐怖で硬直しているのを気にする様子もなく、俺の真正面、本来ならば誰もいないはずの空中に、ふわりと浮遊していた。重力を無視したその存在感。そして何より、彼女の腕に抱かれた、あの忌々しい剣。

 

 

「う、うわあああああっ!?」

 

 

 俺の理性という名のダムが決壊した。俺は馬車の中だということも忘れ、喉が裂けんばかりの絶叫を上げて、座席の隅へ飛び退いた。背中をビロードの壁に押し付け、膝を抱えてガタガタと震える。

 

 

「で、出たあああああ! 悪霊だ! やっぱり悪霊じゃねえか!」

 

 

 俺は指差し、喚き散らす。狭い密室。逃げ場のない空間。そこに現れた因縁の物体。これはホラーだ。俺が一番苦手とする、理屈の通じない超常現象だ。

 

 

「なんでだよ! 俺は捨てたぞ! 所有権は放棄したんだよ! なのに、なんで馬車の中まで追いかけてきやがった!」

 

 

 これはストーカー行為だ。あるいは、不法投棄に対する執拗な報復か? いや待て。俺は森に「返した」だけだ。自然のものを自然に還しただけだ。それをわざわざ拾って追いかけてくるとは、なんと執念深い! 

 

 俺の半狂乱の抗議に対し、銀色の少女は、眉一つ動かさなかった。彼女は俺の無様な姿を一瞥すると、唇を一切動かすことなく、あの冷たく透き通った声を、俺の脳内に直接響かせてきた。

 

 

『…騒々しいですね』

 

 頭蓋骨の内側で、鈴を転がしたような、しかし絶対零度の冷たさを含んだ声が反響する。耳を塞いでも意味がない。脳に直接データを流し込まれているような感覚だ。

 

 

『少しは落ち着いたらどうですか? 豚』

「ぶっ、豚ぁ!?」

『失礼。訂正します。豚の方がまだ、出荷の時以外は静かですし、食料としての価値があります。貴方にはそれすらありません』

 

 

 罵倒だ。悪霊に罵倒された。しかも具体的かつ的確な比較論を用いて。俺は涙目になりながら、クッションを盾にして抗議する。

 

「な、なんだお前は! 幽霊か! 妖怪か! 俺に取り憑いて何をしようってんだ! 金か? 金なら持ってないぞ!」

『悪霊でも妖怪でもありません。私はこの聖剣に宿る精霊、名はフィリア』

 

 

 彼女──フィリアと名乗った精霊は、無重力の状態でスッと姿勢を正した。まるで貴族の侍女のような、洗練された所作だ。

 

 だが、その目は死んでいる。

 

 

『貴方が昨日、下劣な金銭欲に駆られて引き抜き、その後、臆病風に吹かれて投げ捨てた、この聖剣の管理者です』

「聖剣の…精霊…?」

 

 

 俺は瞬きをした。話には聞いたことがある。伝説の武器には、精霊や意思が宿ることがあると。だが、そんな高尚な存在が、なぜ俺なんかに付き纏う? 

 

 

「だ、だったら話は早い! おい精霊、俺はお前を解放してやったんだぞ? 感謝されるならともかく、憑りつかれる謂れはない! さっさと森へ帰れ! 俺はこれから王都で『無能な男』を演じて、村へ帰る計画があるんだ!」

 

 

 俺の完璧な「無能偽装作戦」に、こんなオーパーツが紛れ込んでいては邪魔で仕方がない。剣を持っているだけで、「やる気がある」と誤解されてしまうではないか。

 

 俺の言葉に、フィリアは初めて反応を示した。彼女は小首を傾げ、ゴミを見るような目で俺を見下ろしたのだ。

 

 

『解放? 貴方の思考回路は、随分と都合よく出来ているのですね』

「なんだと?」

『貴方は剣を抜きました。その瞬間、貴方の生体情報は聖剣のマスターとして登録されました。これは契約です。一度成立した契約は、貴方の死、あるいは聖剣の破壊によってしか破棄されません』

「はぁ!? 登録!? してないぞ! 同意書のサインもしてないし、拇印も押してない!」

 

 

 俺は叫んだ。契約というのは、双方の合意があって初めて成立するものだ。俺はただ「抜けるかな?」と試しただけだ。例えるなら試着。試着した服を「袖を通したから買え」と強要するのは、悪徳商法の手口そのものではないか! 

 

 

「詐欺だ! 不当な契約だ! 俺は認めんぞ!」

『認めようと認めまいと、事実は変わりません』

 

 

 フィリアは淡々と、事務的に告げる。

 

 

『貴方が剣を捨てて逃走した後、聖剣は自動転移機能により、貴方の座標を追尾しました。貴方が地の果てへ逃げようと、この剣は常に貴方の傍らに在り続けます』

「呪いの装備じゃねえか!?」

 

 

 俺は頭を抱えた。自動追尾機能付きの剣。聞こえはいいが、要するに「捨てても捨てても戻ってくる人形」と同じ怪奇現象だ。俺の平穏な人生に、とんでもない爆弾が固定されてしまった。

 

 

「じゃ、じゃあ何か? 俺がこれからトイレに行く時も、風呂に入る時も、お前はずっとそこにいるのか?」

『私は剣に宿る意識体です。剣が存在する限り、視覚・聴覚は常に共有されています』

「プライバシーの侵害だ! 訴えてやる!」

 

 

 俺はクッションを投げつけた。だが、クッションはフィリアの体をすり抜け、虚しく反対側の座席に落ちた。物理攻撃無効。霊体だから当然か。

 

 

『安心なさい。貴方の貧相な裸体や、汚らわしい排泄行為になど、微塵も興味はありません。必要ない時は感覚を遮断します』

「そういう問題じゃない!」

 

 

 俺は頭を抱えて唸った。詰んだ。騎士団による物理的な包囲に加え、精霊による霊的な監視。逃げ道は完全に塞がれた。

 

 ふと、俺はあることに気づいた。こいつは、俺の思考を読んでいる。昨日の森でもそうだった。俺が口に出していない「金儲け」の計画を、こいつは正確に言い当てた。

 

「おい。もしかして、今俺が考えてることも、全部筒抜けなのか?」

 

 

 俺が恐る恐る尋ねると、フィリアは無表情のまま頷いた。

 

 

『ええ。貴方の思考は、聞きたくもないのに流れ込んできます。先ほど考えていた、「王城でわざとおねしょをして無能を演じ、村へ強制送還される計画」…でしたか?』

「ぐっ…!」

 

 

 顔から火が出るかと思った。恥ずかしい。おねしょ計画を精霊に暴露される羞恥心。

 

 

『呆れ果てました。数多の英雄を導いてきましたが、保身のために自身の尊厳を汚物で汚そうとする勇者は、貴方が初めてです』

「う、うるさい! 生きるためならプライドなんて安いもんだ! 大体な、俺は勇者になりたいなんて一言も言ってない! 間違いだ! 人選ミスだ!」

 

 

 俺は開き直って叫んだ。そうだ、俺は被害者だ。勇者にされてしまった、可哀想な一般村民だ。

 

 

「なぁ、お前からも王様に言ってくれよ。『こいつは勇者の器じゃない、ただのゴミです』って。そうすれば俺は解放されるだろ?」

 

 

 俺は縋るような目でフィリアを見た。彼女なら、俺を一番理解しているはずだ。

 

 フィリアは、紫色の瞳で俺をじっと見つめ返した。そして、小さく溜息をついた──ように見えた。

 

 

『…確かに、貴方はゴミです。魂の色が濁りきっています』

「だろ!? だったら!」

『ですが、貴方には一つだけ、歴代の勇者すら凌駕する資質があります』

「え?」

 

 

 予想外の言葉に、俺は呆気にとられた。俺に資質? 才能? まさか、俺の隠された潜在能力が、この精霊には見えているというのか? 

 

 

『それは、「生への執着」と「逃走への熱意」です』

「……は?」

『貴方は、自分が生き延びるためなら、どんな嘘でもつき、どんな恥でも晒し、どんな手段でも使うでしょう。その泥臭い生存本能こそが、今の歪んだ世界で生き残るための、唯一の武器になるかもしれません』

 

 

 フィリアは、聖剣を抱き直した。その姿は、神々しくもあり、同時に俺への「死刑宣告」を下す裁判官のようでもあった。

 

 

『諦めなさい、タチバナ。貴方は逃げられません。私がいる限り、貴方は「勇者」として振る舞い、戦い、そして魔王を討つのです』

「嫌だ! 絶対に嫌だ! 俺は戦わないぞ!」

『戦わなければ、死ぬだけです』

 

 

 彼女は冷徹に言い放った。

 

 

『魔王軍は、聖剣の波長を感知します。貴方が剣を捨てようと、彼らは貴方を「勇者」として認識し、殺しに来るでしょう。貴方が村に帰れば、村が焼き払われます。貴方が逃げれば、逃げた先が焦土と化します』

 

「…っ!」

 

 

 俺は言葉を失った。それは、俺が一番恐れている「俺のせいで俺の居場所がなくなる」という未来図だ。

 

 

『戦うのが嫌なら、それでも構いません。ですが、その時は私も守りません。どうぞ、その貧弱な体で、魔物の爪に引き裂かれてください』

 

 

 脅しではない。彼女はただ、未来の事実を淡々と述べているだけだ。俺はガタガタと震えながら、座席の上で小さくなった。逃げられない。物理的にも、社会的にも、そして運命的にも。俺は完全に、「勇者」という名の檻に閉じ込められてしまったのだ。

 

 

『さあ、覚悟を決めなさい。…いえ、覚悟など貴方には無縁でしたね。せめて、見苦しくない程度の悲鳴を上げる練習でもしておきなさい』

 

 

 フィリアはそう言い捨てると、ふわりと姿を薄れさせ、俺の視界から消えた。気配は消えない。俺のすぐ傍、手の届く範囲に、彼女と聖剣が存在しているという冷たい感覚だけが、呪いのように残っていた。

 

 馬車は進む。王都へ。

 

 俺の望まない、血と戦いと、勘違いに彩られた地獄の未来へ向かって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

【フィリア視点】

 

 物質界には、絶対的な「理」が存在する。水が低い方へ流れるように、太陽が東から昇るように。聖剣もまた、古の契約に基づいた法則に従って稼働する、一種の「摂理」そのものである。その摂理の一つに、『所有者座標への自動回帰』という術式が組み込まれていた。

 

 聖剣は、一度主と定めた存在から離れることはできない。物理的な距離が発生した場合、空間そのものを歪曲し、最短経路で主の元へと収束する。それは愛情や忠誠といった不確定な感情によるものではなく、魔術的な引力による必然だ。

 

 ゆえに、精霊フィリアにとって、この移動は瞬きをするよりも容易い事務的な処理に過ぎなかった。

 

 

 空間転移完了。

 座標固定、確認。

 対象との距離、ゼロ。

 

 

 フィリアの意識が再び物質界の情報を拾い始めた時、彼女は既に豪奢な馬車の内部に存在していた。彼女はまず、自身の周囲に「認識阻害の結界」を展開した。これは周囲の光を屈折させ、音を遮断し、気配を希薄にする術だ。人間ごときの知覚能力では、彼女がそこに「いる」ことさえ気づけない。

 

 

(観察を再開します)

 

 

 フィリアは、冷徹な紫水晶の瞳で、目の前の男──今代の聖剣の所有者、タチバナをスキャンした。

 

 彼は、深紅のビロードで覆われた柔らかい座席に、だらしなく身体を沈み込ませていた。その表情は、先ほど森で聖剣を投げ捨てた時のパニック状態とは打って変わり、安堵に緩みきっている。

 

「助かった」「これで逃げ切れる」という、彼の顔に張り付いた筋肉の弛緩具合。そして呼気の成分から、彼が現状に対して「危機」ではなく「解決」を見出していることは明白だった。

 

 

(愚鈍ですね)

 

 

 フィリアは感情を挟まず、事実としてそう評価した。彼は現在、国家権力によって拘束され、未知の場所へと搬送されている最中だ。通常の人間であれば、将来への不安や、故郷を離れる寂寥感に苛まれる場面である。

 

 しかし、この個体は違う。豪奢な椅子の座り心地に感け、あろうことか「快適だ」とすら感じている。生存本能が欠落しているのか、あるいは単に想像力が欠如しているのか。

 

 フィリアは、聖剣と契約者の間に結ばれた「魂のパス」を通じて、彼の表層思考にアクセスした。これは覗き見ではない。管理者が、端末の状態を把握するための正当なメンテナンス行為である。

 

 

『よし、王城に着いたら、まずは徹底的に無能を演じる』

『剣なんて重くて持てません、血を見たら気絶します、と言い訳を並べて…』

『そうだ。決定打が必要だ。夜尿だ』

『いい歳をした男が、夜ごとおねしょを垂れ流す。これだ。これなら生理的な嫌悪感を抱かれて、即刻追放間違いなし! 完璧な作戦だ!』

(…)

 

 

 フィリアの思考領域に、深い沈黙が流れた。呆れ、という感情回路があるならば、今頃焼き切れていただろう。

 

「夜尿偽装作戦」。それは、自らの社会的尊厳と人間としての矜持を排泄物で汚すことで、英雄としての責務から逃走しようとする、極めて卑劣かつ前代未聞の戦術だった。

 

 過去に数百人の勇者を見てきたが、このような発想に至った者は一人もいない。彼らは皆、己を良く見せようとし、弱きを助けようとし、そしてその高潔さゆえに散っていった。

 

 対して、このタチバナという個体はどうか。魂の色が濁っている。欲望、保身、怠惰。聖なる因子など、塵ほども見当たらない。聖剣の選定システムに致命的なエラーが発生したとしか思えない人選だ。本来ならば、即座に契約を破棄し、別の適格者を探すべき事案である。

 

 だが、聖剣の契約術式は絶対だ。一度彼が生体登録されてしまった以上、彼が死ぬまでは変更が効かない。ならば、この「不良品」を如何にして運用し、魔王討伐というミッションを完遂させるか。

 

 それが管理者であるフィリアに課せられたタスクだった。

 

 

(…接触を開始します)

 

 

 フィリアは音もなく、認識阻害の結界を解除した。空気中のマナが振動し、彼女の姿が陽炎のように揺らめきながら実体化する。

 

 タチバナが、その異変に気づいた。彼は組んでいた足を止め、間の抜けた顔でこちらを凝視した。

 

 

 銀色の髪。

 浮遊する身体。

 そして、自分が腕に抱えている「捨てたはずの聖剣」。

 

 

 彼の瞳孔が極限まで開き、呼吸が停止する。恐怖の反応だ。ここまでは想定通りである。

 

 

「う、うわあああああああああああっ!?」

 

 

 タチバナは、鼓膜を劈くような絶叫を上げた。彼はバネ仕掛けのように跳ね起き、座席の隅へと飛び退いた。狭い馬車の中で、背中を壁に押し付け、ガタガタと震えている。

 

 

「で、出たあああああ! 悪霊だ! やっぱり悪霊じゃねえか! なんでだよ! 俺は捨てたぞ! 所有権は放棄したんだよ! なのに、なんで馬車の中まで追いかけてきやがった!」

 

 

 タチバナは手近にあったクッションを掴み、力任せに投げつけてきた。フィリアは避けることすらしなかった。クッションは彼女の半透明の身体をすり抜け、何の手ごたえもなく反対側の座席へと転がった。

 

 

(物理干渉無効。この現象を見てもなお、罵倒を続けるのですか)

 

 

 フィリアは彼の学習能力の低さに嘆息しつつ、訂正のために思考送信を行った。

 

 

『騒々しいですね。少しは落ち着いたらどうですか。豚』

「ぶっ、豚ぁ!?」

『失礼。訂正します。豚の方がまだ、食料としての利用価値がある分、貴方より高尚な存在でした』

 

 

 フィリアは淡々と事実を述べた。彼女にとって、タチバナの価値は現時点では家畜以下だ。タチバナは涙目になりながら、子供のように喚き散らす。

 

 

「な、なんだお前は! 幽霊か! 妖怪か! 俺に取り憑いて何をしようってんだ! 金か? 金なら持ってないぞ!」

『悪霊でも妖怪でもありません。私はこの聖剣に宿る精霊、名はフィリア』

 

 

 フィリアは、無重力の空中で優雅に一礼した。形式上の挨拶は、管理者としてのプロトコルだ。

 

 

『貴方が昨日、金欲しさに引き抜き、その後、臆病風に吹かれて不法投棄した、この聖剣の管理者です』

「聖剣の…精霊…? だ、だったら話は早い! おい精霊、俺はお前を解放してやったんだぞ? さっさと森へ帰れ! 俺はこれから王都で『無能な男』を演じて、村へ帰る計画があるんだ!」

 

 

 彼はまだ、状況を理解していない。この期に及んで、聖剣との関係を「話し合い」や「一方的な放棄」で解消できると考えている。人間社会の契約──紙切れ一枚で破棄できるような脆弱な約束事──と同じ感覚なのだ。

 

 フィリアは、その認識の甘さを正すべく、冷徹な論理を展開した。

 

 

『解放? 貴方の思考回路は、随分と都合よく出来ているのですね』

「なんだと?」

『貴方は剣を抜きました。その瞬間、貴方の生体魔力、魂の波長、そして血液情報は聖剣の核に焼き付けられ、マスターとして登録されました』

 

 

 フィリアは、タチバナの目を直視する。紫水晶の瞳は、一切の揺らぎを見せない。

 

 

『これは「契約」という名の、不可逆的な物理融合です。例えるなら、貴方の心臓を別のものと取り替えたようなもの。一度接続されれば、それを切り離すことは、貴方の「死」を意味します』

「はぁ!? 登録!? してないぞ! 同意書のサインもしてない!」

『サインなど不要です。「抜いた」という行為そのものが、宇宙で最も重い同意の印。貴方がそれをどう思おうと、法則は覆りません』

 

 

 タチバナの顔色が、青を通り越して土気色に変わっていく。ようやく、事の重大さが浸透し始めたようだ。

 

『貴方が剣を捨てて逃走した後、聖剣は「所有者座標への自動回帰機能」を発動しました。貴方が地の果てへ逃げようと、あるいは次元の彼方へ隠れようと、この剣は常に物理法則を無視して貴方の傍らに在り続けます』

「呪いの装備じゃねえか!」

『便利な機能と呼びなさい』

 

 

 タチバナは頭を抱えて呻いた。彼の絶望の味は、フィリアにとって実に興味深いサンプルだった。これまでの勇者は、ここで「ならば運命を受け入れよう」と覚悟を決めるか、「なぜ私なのか」と運命を呪うかのどちらかだった。

 

 だが、タチバナは違う。彼は「どうすれば逃げられるか」「どうすれば責任を回避できるか」という一点のみに全精力を注いでいる。

 

「おい。もしかして、今俺が考えてることも、全部筒抜けなのか?」

 

 

 彼が恐る恐る尋ねてきた。フィリアは隠すことなく頷いた。情報は開示すべきだ。その方が、彼を管理しやすい。

 

『ええ。貴方の思考は、聞きたくもないのに流れ込んできます。先ほど構築していた、「王城で排泄物を垂れ流して無能を証明する作戦」…でしたか?』

「ぐっ…!」

『呆れ果てました。歴代の勇者の中で、保身のために尊厳をドブに捨てようとしたのは、貴方が初めてです』

「う、うるさい! 生きるためならプライドなんて安いもんだ!」

 

 

 彼は開き直って叫んだ。その言葉を聞いた瞬間、フィリアの中で一つの「仮説」が確立された。

 

 

(…生きるためなら、プライドを捨てる)

 

 

 歴代の勇者たちは、高潔だった。彼らはプライドを守るために戦い、仲間を守るために身を呈し、そしてその高潔さゆえに、魔王に届く前に命を落とすことも少なくなかった。「逃げる」という選択肢を持たないがゆえの、早すぎる死。

 

 だが、このタチバナはどうだ。彼は、生き残るためならば、泥水を啜り、嘘をつき、他者を盾にし、自分の股間を濡らすことさえ厭わない。その異常なまでの「生への執着」。そして、危機を回避しようとする「逃走への情熱」。

 

 

(…もしかすると)

 

 

 フィリアの演算回路が、新たな可能性を導き出した。魔王という絶対的な死の象徴に対抗できるのは、高潔な英雄ではないのかもしれない。ゴキブリのようにしぶとく、泥を這いずってでも生き延びようとする、この「クズ」のような生存本能こそが、あるいは最後まで生き残るための鍵になるのではないか。

 

 彼は勇者にはなれない。だが、生存者としては、特級の資質を持っている。

 

 フィリアはタチバナを見る目を変えた。ゴミを見る目から、リサイクル可能な資源を見る目へ。

 

 

『タチバナ。貴方は確かに、魂の腐ったゴミです』

「だろ!? だったら解放してくれ!」

『いいえ。だからこそ、使い道があります』

 

 

 フィリアは、抱えていた聖剣を胸元で強く抱いた。

 

 

『貴方のその、「死にたくない」という卑しい執念。それこそが、貴方が歴代の勇者を凌駕する唯一の才能です』

「…は?」

『諦めなさい。貴方は逃げられません。私がいる限り、聖剣の機能は貴方を逃がさない』

 

 

 フィリアは、冷徹な管理官としての口調で宣告した。これは交渉ではない。運用方針の通達だ。

 

 

『魔王軍は、聖剣の波動を感知して襲い掛かってきます。貴方が剣を捨てても、彼らは貴方を標的として認識し、殺しに来るでしょう。貴方が村に帰れば、村が焦土と化します』

 

 

 タチバナの目が恐怖で見開かれる。自分のせいで、自分の居場所がなくなるという未来。彼にとって最も恐れるシナリオだ。

 

 

『戦うのが嫌なら、逃げ回っても構いません。ですが、その結果訪れる死に関しては、私は一切関与しません。どうぞ、その貧弱な肉体で、魔物の餌になってください』

「っ!」

 

 

 彼はガタガタと震え、小さくなった。理解したようだ。彼に自由意志はない。彼にあるのは、「戦って生き延びるか」「逃げて死ぬか」の二択のみ。そして、彼のような臆病者がどちらを選ぶかは明白だ。

 

『さあ、覚悟を決めなさい…いえ、貴方に覚悟など期待しませんね。せめて、無様に逃げ惑う準備だけでもしておきなさい。私の管理下で、死ぬ気で生き延びてみせなさい』

 

 

 フィリアはそう言い捨てると、物質界への投影濃度を下げ、姿を薄れさせた。視覚情報からは消える。だが、感覚共有のパスは繋いだままだ。

 

 

(これから忙しくなりそうです)

 

 

 フィリアは、震える主を見つめながら、新たな運用プログラムの構築を開始した。

 

 この臆病な家畜を、魔王の喉元まで連れて行くための、強制と脅迫に満ちた長い旅路の始まりだった。




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