俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
王城の扉が開かれた瞬間、俺の視覚情報は「色彩」と「輝き」という名の暴力によって蹂躙された。
謁見の間。そう呼ばれるその場所は、俺が生まれ育った村の全財産をかき集めても、床のタイル1枚すら買えないであろう豪華絢爛さに満ちていた。
天井は高く、首が痛くなるほど見上げなければ届かない。そこには、数千のクリスタルガラスを組み合わせた巨大なシャンデリアが吊るされ、外光を取り込んで虹色の光を撒き散らしている。壁には金糸で刺繍されたタペストリー。柱は大理石。
そして、部屋の最奥には、黄金で作られた獅子の玉座が鎮座していた。
(…すげぇ)
俺は口をポカンと開けて、キョロキョロと周囲を見回した。田舎者の反応ではない。これは、熟練の鑑定士としての反応だ。あのシャンデリアの欠片一つで、アンナに新しいドレスを買ってやれる。あの柱の装飾を剥がせば、ベッキーに店を持たせてやれる。
そして、あの玉座の脚一本でもへし折って持ち帰れば、俺は一生クロエの膝枕の上で、高級ブドウを食べ続けるだけの生活が約束される。
(ここは宝の山だ…!如何して、誰にもバレずにここの物品をポケットにねじ込むか。それが問題だ)
俺が窃盗計画を脳内で構築していると、背中をドンと押された。
「前へ」
騎士の低い声。俺は現実に引き戻され、赤い絨毯の上をトボトボと歩き出した。絨毯はふかふかで、まるで雲の上を歩いているようだ。だが、その両脇には、銀色の甲冑に身を包んだ近衛兵たちが、抜き身の槍を持ってズラリと並んでいる。
この道の先にあるのは、栄光の玉座か、それとも処刑台か。
玉座の前まで進むと、俺は作法も分からないまま、とりあえず周囲の真似をして膝をついた。頭を垂れる。視線の先には、磨き上げられた革のブーツが見える。
「面を上げよ、勇者タチバナ」
頭上から降ってきたのは、腹の底に響くような、重厚で威厳に満ちた声だった。俺は恐る恐る顔を上げる。
そこにいたのは、立派な白髭を蓄えた、いかにも「国王」という風貌の初老の男性だった。頭には宝石を散りばめた王冠。身に纏うのは真紅のマント。そして、その瞳は鋭く、俺の心臓の奥底まで見透かすような圧力を放っていた。
(ひぃ!? 目力が強い! 村長とはレベルが違う!)
俺は反射的に目を逸らしたくなったが、なんとか堪える。国王は俺の姿をしげしげと観察し、深く頷いた。
「よくぞ参った。我が国の、いや、この世界の希望よ」
「は、はぁ…」
気の利いた返事の一つもできない。王は、芝居がかった口調で語り始めた。世界がいかに魔王軍の脅威に晒されているか。辺境の村々が焼かれ、無辜の民が涙を流しているか。そして、古の予言にある「聖剣の勇者」が現れるのを、どれほど待ち望んでいたか。
話が長いし内容が重い。
魔王討伐?
世界平和?
そんな壮大なプロジェクトに関わって、俺へのリターンは何だ?
名誉? 死んだら意味がない。
感謝? 腹は膨れない。
俺が求めているのは確実な安全と、具体的な快楽だけだ。王の話が佳境に入った。彼は身を乗り出し、切実な眼差しで俺に訴えかけた。
「勇者タチバナよ。そなたに頼みたい。忌まわしき魔王を討ち滅ぼし、この世界に光を取り戻してはくれまいか!」
ドーンという効果音が聞こえてきそうな、決定的な言葉。俺の思考回路は、光の速さで「拒否」の結論を弾き出した。
(馬鹿言ってるんじゃないよ! 魔王だぞ!?)
冷静に考えてみてほしい。魔王というのは、人類の敵だ。国を滅ぼすような化け物の親玉だ。
対して俺は誰だ?
タチバナだ。ヒモだ。特技は「全力の土下座」と「責任転嫁」だ。戦力比で言えば、太陽と氷砂糖くらいの差がある。勝てるわけがない。行くということは、すなわち死ぬということだ。
俺の人生設計に「英雄的な死」という項目はない。
(断る。絶対に断る。ここで「無理です、俺はただのクズです」と正直に言って、土下座して帰してもらおう。多少罵倒されても、命があれば安いもんだ)
俺は息を吸い込んだ。「謹んでお断り申し上げます」と言うために。
その時だった。
『ここでお断りすれば、貴方の首は胴体と永遠のお別れをすることになりますが、よろしいですか?』
背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。声に出していない。だが、脳に直接響くその声は、俺の隣──誰にも見えない空間に浮遊している、あの銀色の精霊フィリアのものだった。
俺は眼球だけを動かして横を見る。透明化しているはずの彼女だが、俺にははっきりと見える。彼女は俺の横にふわりと浮かび、無表情で、しかし目は笑っていない状態で、部屋の隅を指差していた。
そこにいるのは、王の側近とおぼしき、特に豪奢な鎧を着た騎士たちだ。彼らは全員、剣の柄に手をかけ、殺気だった目で俺を見つめている。もし俺が王の顔に泥を塗るような発言をすれば、彼らは「不敬罪」という正義の御旗を掲げ、躊躇なく俺を斬り刻むだろう。
『彼らは「王への絶対忠誠」を誓った殺人機械です。貴方の「クズな本音」など、彼らの耳には届きません。届くのは「拒絶」という事実のみ』
フィリアの解説は、残酷なまでに的確だった。理詰めで考えろ、タチバナ。
選択肢A:魔王討伐を引き受ける。死亡率は高いが、即死ではない。猶予がある。
選択肢B:ここで断る。死亡率は100%。数秒後に肉塊となる。
天秤にかけるまでもない。俺は「今」生き延びたいのだ。
俺は吸い込んだ息を、言葉にする直前で飲み込んだ。顔が引きつり、冷や汗が滝のように流れ落ちる。断れない。逃げられない。この豪華な広間は、出口のない牢獄だ。
王が、俺の返答を待っている。沈黙が痛い。何か言わなければ、不審に思われる。不審に思われれば、斬られる。
俺は追い詰められたネズミのように、必死で脳味噌を回転させた。
俺はうつむいた。顔を上げていると、恐怖で引きつった表情を見られてしまうからだ。視線は足元の赤い絨毯に落とす。
どうする? なんて言えばいい?
「やります」と即答すれば、嘘くさいと思われるかもしれない。かといって沈黙しすぎれば、王の機嫌を損ねる。
(くそっ! どうすれば一番安全に、かつ円満にこの場を切り抜けられる!?)
俺の身体が、小刻みに震え始めた。これは「武者震い」などという高尚なものではない。単なる「死の恐怖」による生理現象だ。膀胱のあたりがキュッとなり、漏らさないように必死で括約筋を締める。
俺の沈黙を、周囲はどう受け止めているのだろうか。チラリと横目で様子を窺うと、王も、並み居る大臣たちも、固唾を飲んで俺を見守っていた。彼らの目には、俺のこの無様な震えが、全く別のものとして映っているようだった。
「見ろ、彼の手を。震えている」
「ああ。魔王という絶対的な悪を前に、己の無力さを噛み締めているのだ」
「恐怖を知らぬ者は勇者ではない。恐怖を知り、それでもなお立ち向かう者こそが真の勇者…。彼は今、己の恐怖と戦っているのだ」
聞こえてくるひそひそ話に、俺は耳を疑った。好意的すぎる。こいつらの目は節穴か? あるいは、俺のこの情けない姿を「英雄フィルター」越しに見る特殊能力でも持っているのか?
(…待てよ?)
俺の悪知恵が閃いた。彼らがそう勘違いしてくれているなら、それに乗っからない手はない。俺は「ビビっている」のではない。「悩んでいる」のだ。「責任の重さに打ち震えている」のだ。そう演じきれば、少なくとも今は殺されずに済む。そして、たっぷりと支度金や装備をもらってから、隙を見て夜逃げすればいい。
俺は覚悟を決めた。演技の覚悟を。ゆっくりと、重々しく顔を上げる。目には、恐怖で勝手に浮かんでしまった涙をたっぷりと溜めたまま。それは照明の光を反射し、キラキラと美しく輝いたことだろう。
「…恐れながら、申し上げます」
俺の声は震えていた。これも計算だ。半分は本気だけど。
「俺のような田舎育ちの若輩者に、世界を救うなどという大役が務まるのか…正直、自信はありません。怖くて、足がすくんでおります」
まずは「謙虚さ」をアピール。これで同情を誘う。王が痛ましそうな顔をしたのを見て、俺は畳み掛ける。
「ですが…!」
俺は声を張り上げ、一歩前へ踏み出した。
「俺がここで逃げれば、故郷の家族は、愛する者たちは、魔王の炎に焼かれることになるのでしょう! 民の涙が、枯れることはないのでしょう!」
適当な一般論だ。だが、権力者はこういう「民のための自己犠牲」というフレーズに弱い。俺は右手を胸に当て、心臓を鷲掴みにするようなポーズをとった。実際、心臓がバクバクしすぎて痛いのだが。
「このタチバナ…力不足は重々承知の上! しかし、虐げられる人々の希望となるならば…この命、喜んで捧げさせていただきます!」
言い切った。言ってしまった。「命を捧げる」なんて、俺の辞書で一番遠くにある言葉を。内心では「冗談じゃねえ! 命なんて爪の先ほどもやるもんか! ばーかばーか!」と絶叫しながら、俺は王に向かって深く臣下の礼をとった。
「おお…!!」
王が、感極まった声を上げて玉座から立ち上がった。
「聞いたか、皆の者! なんという、なんという覚悟か!」
「素晴らしい! まさに勇者の鑑!」
「己の弱さを認め、その上で他者のために命を懸ける…これぞ、聖なる魂!」
ドッ、と謁見の間が沸いた。大臣たちはハンカチで目頭を押さえ、騎士たちは剣の柄を叩いて称賛のリズムを刻む。誰も疑っていない。俺の目にある涙が「死にたくない涙」であることを。俺の震えが「帰りたい震え」であることを。
ここにいる全員が、俺を「清廉潔白で、慈愛に満ちた聖なる勇者」だと信じ込んでいた。
(ふっ、ちょろい)
俺は伏せた顔の下で、安堵の息をつくと同時に、彼らの単純さを嘲笑った。権力者といえど、所詮は人間。自分たちの見たいものしか見ない。
これで、当面のリスクは回避できた。あとは「準備期間」と称して城に居座り、高価な調度品をこっそり売り払って脱走資金を貯めるだけだ。
「うむ! タチバナよ。そなたの覚悟、しかと受け取った!」
王は階段を降り、俺の肩に手を置いた。その手は熱く、期待に満ちている。
「そなたならば、必ずや魔王を討ち果たし、世界に平和をもたらすと信じている。国庫を開け! 勇者に相応しい最高の装備と、旅の支度を整えよ!」
「ハッ!」
宰相たちが慌ただしく動き出す。俺は心の中でガッツポーズをした。しめしめ、国庫が開くぞ。最高級の装備? 売ればいくらになるんだ? 俺の「英雄ビジネス」のスタートだ。
だが、俺の隣に浮遊する、銀色の監視者の存在を忘れてはならなかった。フィリアは、熱狂する人間たちを冷めた目で見下ろし、俺の脳内にだけ届く声で囁いた。
『見事な詐欺師ぶりですね。舌の根も乾かぬうちに「命を捧げる」とは。その二枚舌、ある意味で才能です』
彼女の言葉には、皮肉と同時に、奇妙な納得が含まれていた。俺は気づかないフリをした。知るか。俺は生きるために嘘をつく。それが俺の正義だ。
『ですが、言った以上は果たしてもらいますよ。言質は取りました。「命を懸ける」と。私が、その言葉の保証人になりましょう』
フィリアの口元が、微かに歪んだように見えた。それは、獲物を追い詰めた捕食者の笑みにも似ていた。
俺の背筋に、再び冷たい汗が流れる。王や大臣たちを騙せても、この精霊だけは騙せない。俺は「勇者」という名の看板と、「フィリア」という名の監視カメラを背負い、逃げ場のない英雄生活へと足を踏み入れてしまったのだ。
「さあ、勇者タチバナよ! まずは身体を休めるがよい! そして明日、運命の仲間たちと引き合わせよう!」
王の声が高らかに響く。
仲間? ああ、どうせ暑苦しい男の騎士とか、偏屈なジジイの魔法使いだろう。俺は適当に相槌を打ちながら、思考を「いかにして脱走するか」という一点に切り替えていた。
■
【王と大臣たちの三人称視点】
重厚な両開きの扉が、衛兵の手によって厳かに閉ざされた。扉の向こうへと消えた勇者タチバナの背中が見えなくなってもなお、謁見の間には、ある種の熱病にも似た興奮の余韻が漂っていた。
玉座に座る国王リチャード三世は、深々と溜め息をついた。それは憂いによるものではなく、極度の緊張から解放された安堵と、予想を遥かに上回る成果を得たことによる満足の息吹であった。
「皆の者、どう見た?」
王の重々しい問いかけが、静まり返った広間に響く。最初に口を開いたのは、白髪の宰相グランデルであった。彼は長年、王の側近として数多の人傑を見てきた古狸であり、その観察眼は鷹のように鋭いと評されている。
「陛下。正直に申し上げまして、私は戦慄いたしました」
グランデルは、興奮を抑えるように震える手で髭を撫でた。
「あの若さ、あの風貌。一見すれば、どこにでもいる村の青年に過ぎません。しかし…彼がこの広間に入室した瞬間の挙動、ご覧になられましたか?」
王は頷く。
「うむ。落ち着きなく、しきりに周囲を見回しておったな」
「左様でございます。凡庸な若者であれば、この王城の絢爛豪華さに圧倒され、視線は上滑りし、ただ呆然とするものです。あるいは、金銀財宝の輝きに目を奪われることでしょう」
宰相は、さも我が意を得たりといった表情で言葉を継いだ。
「しかし、タチバナ殿の視線は違いました。彼はシャンデリアの輝きや、黄金の玉座そのものには目もくれず…『柱の配置』や『窓の位置』、そして『衛兵の配備状況』を瞬時に確認しておりました」
宰相の分析に、周囲の大臣たちが「おお…!」とどよめく。タチバナが実際には『あのシャンデリアはいくらで売れるか』『あそこの柱の金箔は剥がせるか』と値踏みしていただけだという真実など、彼らの高尚な脳内には存在しない。
「あれは、戦士としての本能的な索敵行動です。未知の空間に入った際、瞬時に退路と死角を確認し、戦場の地形を把握しようとする…歴戦の傭兵ですら持ち合わせぬ、天性の危機管理能力と言えましょう。彼にとって、この煌びやかな城でさえも、一歩間違えば戦場になり得るという『常在戦場』の心構えがあるのです」
「なるほど。欲に目が眩むことなく、常に有事を想定しているというわけか」
王は感心したように玉座の肘掛けを叩いた。続いて進み出たのは、この国の財政と兵站を管理する財務大臣だった。彼は常に数字と理屈を重んじる現実主義者だが、その彼もまた、紅潮した顔で熱弁を振るう。
「私が注目いたしましたのは、陛下が魔王討伐を依頼された直後の、あの『沈黙』でございます」
財務大臣は、拳を握りしめた。
「陛下のお言葉に対し、彼は即答を避けました。浅はかな功名心に駆られた若者であれば、二つ返事で『お任せください』と安請け合いするところです。しかし、彼は黙り込み、床を見つめ、数秒間の沈黙を守りました」
「うむ。少々、悩みすぎではないかと不安になったが」
「いいえ陛下! それこそが信頼の証なのです!」
財務大臣は力説する。
「あの数秒の間…彼の脳裏には、膨大なシミュレーションが駆け巡っていたに違いありません。魔王軍の規模、必要となる物資、進軍ルート、そして伴うであろう犠牲…。それら全ての『現実的な困難』を瞬時に計算し、天秤にかけていたのです」
タチバナが実際には『どうやって断れば殺されないか』『どんな言い訳が有効か』を必死に考えていただけだったという事実は、ここでは語られない。
「彼は理解していたのです。魔王討伐という任務が、単なる冒険ごっこではなく、血と鉄と泥にまみれた過酷な事業であることを。だからこそ、軽々しく即答しなかった。あの沈黙は、事の重大さを理解できる高い知性と、責任感の表れでございます!」
「理路整然とした分析だ。確かに、無知な者ほど早く答えるものだからな」
王の心の中で、タチバナの評価はうなぎ登りになっていく。そこに、控えに回っていた王宮騎士隊長ガレインが一歩進み出た。
彼こそ、タチバナを村から連行…護送してきた張本人であり、最も近くで彼を見てきた人物だ。ガレインは胸に手を当て、軍人らしい硬質な声で報告する。
「陛下、私からも証言させていただきたく存じます」
「許す。申してみよ、ガレイン」
「ハッ! 私は彼を村で確保した際、彼が村人たちからどれほど慕われているかを目撃いたしました。娘たちは涙を流し、男たちは敬意を込めて彼を見送っておりました。しかし、タチバナ殿は…一度として後ろを振り返りませんでした」
ガレインの脳裏に、あの時のタチバナの背中が蘇る。実際には「連行される姿を見られたくない」「早く逃げ出したい」という一心で俯いていただけなのだが、ガレインのフィルターを通すと、それは全く別の意味を持つ。
「故郷への未練、愛する者たちとの別れ…それらは、戦士の心を鈍らせる楔となります。彼はそれを理解しているがゆえに、あえて非情に徹し、無言の背中で決意を示したのです。その精神的タフネスは、我が騎士団の精鋭ですら及びません」
そして、ガレインは謁見の間でのタチバナの様子について言及した。
「先ほど、彼の手足が小刻みに震えていたことに、お気づきでしたでしょうか」
「うむ。見ておったぞ。やはり、恐怖を感じていたのではないか?」
王の問いに、ガレインは首を横に振った。
「いいえ、陛下。あれは恐怖による震えではありません。『武者震い』、そして『義憤』による怒りの震えです」
「義憤とな?」
「はい。陛下が語られた、魔王軍に焼かれる村々、虐げられる民の惨状…。タチバナ殿は、その理不尽な暴力に対する激しい怒りを、必死に抑制していたのです。彼の目には涙が浮かんでおりました。あれは、己の身を案じた涙ではありません。会ったこともない民の痛みを我が事のように感じ、魂が共鳴したゆえの、慈悲の涙でございます!」
「なんと…」
王は感嘆の声を漏らした。タチバナが実際には「死にたくない」「帰りたい」という極めて利己的な理由で泣き震えていただけだという真実は、あまりにも美しすぎる誤解によって塗り潰された。
「知略に優れ、責任感に厚く、鋼の精神を持ちながら、民のために涙を流せる慈悲深き心を持つ…。まさに、完璧ではないか」
王は立ち上がり、天井のシャンデリアを見上げた。まるでそこに、タチバナという英雄の輝かしい未来が見えるかのように。
「そして極めつけは、最後のあの言葉だ」
王の声に、大臣たちが居住まいを正す。
『俺のような若輩者に…自信はありません』
『ですが、民の涙を拭う一助となるならば…この命、喜んで捧げさせていただきます!』
「あの言葉に、嘘偽りはなかった」
王は断言した。長年、人の上に立ち、数多くの嘘や
「(断ったら)死ぬ」という切迫感が、彼の言葉に真に迫るリアリティを与え、それを王たちは「(魔王と戦って)死ぬ覚悟」と解釈したのだ。
「自分の弱さを認め、自信がないと正直に吐露する。それは、己の限界を客観視できている証拠だ。その上で、逃げることなく『命を捧げる』と言い切った。…あれほどの覚悟、余は久しく見たことがない」
「私は、不覚にも目頭が熱くなりました」
財務大臣がハンカチで目元を拭う。
「聖剣が彼を選んだ理由、今ならばはっきりと分かります。剣の強さだけではない。その魂の高潔さこそが、聖剣に見初められたのでしょう」
宰相グランデルも深く同意する。広間はタチバナへの称賛と、彼を勇者として迎えたことへの高揚感で満たされていた。
誰も疑わなかった。誰一人として、たった今まで自分たちが絶賛していた青年が、今頃控え室の絨毯の上で「死にたくない。働きたくない」と駄々をこね、精霊に脅迫されて泣いている姿など、想像すらしなかった。
あまりにも都合の良い解釈。
あまりにも完璧な論理のすり替え。
彼らは「自分たちが信じたい勇者像」をタチバナに投影し、勝手に感動し、勝手に期待値を限界まで高めていた。
王は力強く宣言した。
「国庫を開け! この国の持てる最高の装備、最上の魔導具を彼に与えるのだ!」
財務大臣が一礼する。
「ハッ! 予算の上限は設けません。伝説の勇者に相応しい支度を整えさせます!」
「宰相よ」
「ハッ」
「彼と共に旅をする、仲間たちの選定はどうなっている?」
「抜かりありません。王国中から選び抜かれた、才色兼備の英傑たち。剣の腕においては王国の至宝と謳われる『王女殿下』。魔法の理を若くして極めた『天才魔導士』。更に、神の愛娘とも呼ばれる『聖女のごとき僧侶』。現在、中庭にて待機させております」
「うむ。タチバナほどの男に見合う者たちであれば、彼女ら以外にはおらぬだろう」
王は満足げに頷き、未来への希望に瞳を輝かせた。
「タチバナと、三人の英傑たち…。彼らが出会った時、歴史は動くであろう。魔王討伐の悲願、彼らならば必ずや成し遂げてくれると信じている」
王の言葉に、全員が深く頭を垂れる。その場にいる全員が、確信していた。世界は救われる、と。この完璧な勇者、タチバナによって。
こうして、タチバナ本人の意思とは裏腹に、彼を支える(という名目で逃げ道を塞ぐ)最強の布陣と、無限の予算、そして国家規模の重すぎる期待が、着々と準備されていくのであった。
それはまさに、タチバナが望んだ「楽な生活」とは対極にある、英雄という名の強固な檻の完成でもあった。
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