side 『ヘレナ・ブラウン』
アマン村を出てすぐに、極光が瞬いた。
走りながら振り返ると、信じられないほど巨大な青白い半球状の光が膨れ上がっていた。
「前を向け。オレたちがやるべきことは、走り続けることだ」
回復薬の効果で多少マシな体になった兄貴が、冷静に諫めてくる。
背後で膨れ上がる魔力の炎も、兄貴の方がより詳しくその概要を感じ取っている筈だが、驚く素振りを全く見せない。
しかし、『魔女』が現れた際には、存在感以上に驚いていた。
もしかしたら、あの場にいた私以外の全員が『魔女』について知っていたのかもしれない。
…一旦、考えないことにした。
あまり通ったことの無い道を、母や親父から聞いたうろ覚えの道を、ひたすら走り続ける。
シルベスまでの距離は、実はそこまで離れていない。
恐らく、休憩などの時間を一切考えなければ、半日走り続けて到着できる距離にある。
…しかし、ふとした瞬間に、母の記憶や、遠い思い出の中の親父のことを考えてしまう。
もっと、ちゃんと話をしていれば良かったのかもしれない。
もっと、真面目に生きていれば良かったのかもしれない。
今も、生きるために必要な情報なのに、ほとんど覚えていないような記憶を頼りにして道を走っている。
自分自身を愚かしく思う。
ひたすら涙が出てくる。
全部見捨てて、逃げることしか出来ないのに、まだ自分のために悲しく思う余裕のある自分自身を、殴り潰したい気分になる。
そうやって、自分が救われることしか考えられないことに、腹が立つ。
「…クソ」
隣で悪態を吐く兄貴も、多分、似たようなことを考えている。
私たちが重要な任務を任されていることは分かっているが、兄貴自身があの場で逃げるしかなかった事実は拭えない。
責任を、問われるかもしれない。
若しくは、生きて帰ってきたことを喜ばれるかもしれない。
親父たちが騎士団でどんな立場に居たのか等について、私は何も知らないが、兄貴は村に残った騎士たちが担っていた仕事の穴埋めをすることになるだろう。その時に、この逃亡がどのようなに受け止められ方をするのか、私には何も分からない。
ふと空を見ると、太陽が沈みかけ、星が夜空に輝いていた。
夜に道を出歩くなんて、普段であれば自殺しに行くようなことなのだが、今回はそうも言っていられない。
もしかしたら、何かしらの伝令がシルベスから出るかもしれない。
若しくは、旅をしている誰かとすれ違うかもしれない。
その時に、出来る限りシルベスの近くでなければ、『魔女』がすべてを踏み潰すかもしれない。
脅威が未知数である以上、私たちは私たちが出来る最善を尽くすしかない。
急いで火を起こして松明とし、再び道を走り始めた。
走り始めてどれだけ経っても、暗い森が続いている。
これは賭けだ。
私たちが無事に『シルベス』に辿り着くか、『魔女』が私たちを殺すかの二択だ。
賭け金は私たちの命で、勝っても何も返ってこない。
今、この瞬間に、森から出てきた獣の牙が私を切り裂くかもしれない。
私たちが走っている意味が、無くなってしまうかもしれない。
そんなことを考え出した時だった。
「…ヘレナ、松明をくれ」
「…分かった」
何かに気付いた兄貴が明かりを欲したので適当な枯れ枝を集めて火を移し、周りを見渡した。
道の脇にある藪や木々が赤く照らされるが、何も見当たらない。
そして最後に、元来た道を照らすと、目の前に青い火の玉があった。
「出たああああ!」
「走れ!」
「あら、こんばんは」
ヤバイヤバイヤバイヤバイ、お化けコワイお化けコワイお化けコワイお化けコワイ……じゃなかった。
『魔女』に追いつかれた。非常に不味い状況だろう。
後ろで鉄同士がぶつかるような鋭い音が響き出した。
兄貴が残って応戦している。
であれば、私は早く逃げなければ。
まだ、シルベスまでの道のりの半分程度しか進んでいない。
私が逃げても、無駄かもしれない。
弱気な考えが私の足を止めようとする。
それでも、最善を尽くさないと、村のみんなに申し訳が立たない!
考えるより足を動かせ。
悔いるのはあとにしろ。
動かなければ、何も始まらない。
死にたくないなら生きればいい。
生きるために必要な一歩を踏み出し続けろ。
暫く走り続けて音も聞こえなくなってきた頃、ふと道の脇を見ると、松明の灯りが人影を淡く照らし出した。
すべてが報われるような喜びと共に、私は人影に声を掛けようとした。
「こんばんは、また会ったわね」
「う、うあ、あ」
呻くような声が口から出てくる。
驚きと絶望で、開いた口が塞がらない。
目眩がして、数歩よろめく。
声を掛けようとした人影は『魔女』だった。
松明の灯りと、魔力の灯りが淡く交差している。二つの灯りに照らされた『魔女』の両手からは、曖昧な色の液体が滴っていた。
辺りに鉄臭い匂いが漂い、視線が交錯する。
『魔女』が向ける視線に気付いた瞬間、時間が止まったような感覚を覚えた。
「貴方…最近会ったことがあるような気がするわね。ああほら、井戸を覗いてたでしょ?」
「あ、ああ、あ、はい。た、多分そうです」
「やっぱり!それじゃあ、」
苦しまずに逝かせてあげる。
私の方に手が伸びてくる。体が固まって、後ろに避けることすら出来ない。嫌だ。死にたくない。嘘だ。これは嘘だ。まだ運命の出会いをしていない。家族との思い出らしい思い出も作れていない。親父のように剣を扱ってない。カッコいい騎士のようになりたい。母のように優しく生きたい。お淑やかに過ごせるようになりたい。美味しいご飯を美味しいっていいながら食べたい。綺麗な景色に見とれて一日過ごしてみたい。思い出話を誰かに話したい。誰かの思い出を聞いてみたい。嬉しい感情を全力で表現したい。憂鬱な感情を誰かに吐き出したい。優しい感情を誰かに向けてみたい。憎い感情を誰かから向けられてもいい。誰かに好意を伝えてみたい。誰かに寄り添って支え合いたい。世界中の幸せをひたすら見て回りたい。身近な人の悲しみを受け止められるようになりたい。悲しみを悲しみとして受け入れたい。村のみんなをしっかり弔いたい。家族にちゃんとお別れを言いたい。
まだ生きたい。生きていきたい。
…ああ、手が、止まってくれない。
ごめん、全部、守れなかった。
「どおりゃああああああ!!!」
奇声と共に、『魔女』の腕を剣が両断した。
希望のバトンが、絶望を断ち切る。