岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
おかざきいるか7さい、なつ
磨き上げられた氷面が白い光を放っている。
冷たくて無機質な氷の世界。夏休み期間なのもあって、その日の大須スケートリンクは早くから子供が多かった。リンクを囲むフェンスの向こう側では、上着を羽織った大人たちが談笑している。
氷の上は傷だらけだった。
そこら中に刻まれた
高校生くらいの男女が滑らかにリンクを横断していき、人のいる場所を器用に避けて滑っていく。滑走音と一緒に氷の粒子がキラキラと光った。
(つまんない)
スケートリンクは音が多い。
笑い声、滑走音、転倒音、慌てた大声、檄を飛ばす大声。沢山の音が反響している中を、7才の小学1年生、岡崎いるかはヨロヨロと歩いていた。
スケート靴は履いているが滑ってはいない。そんな恐ろしいことができるわけがない。人間は氷の上だとヌルッと転ぶ。10分前に派手に横回転してしまったいるかのように、氷の上は転ぶのだ。
「いいよー! 上手いじゃない岡崎さん! とってもいい感じだからそのまま続けてみましょうか! みんなも言われた通りに頑張ってみよー!」
「はーい」
「「「はーい!」」」
いるかは幼児の集団に混じって一緒にレッスンを受けていた。フィギュアスケートの練習だ。
膝を少し曲げて、足をちょっと広げてヨチヨチ歩き。傍から見ればペンギン軍団の行進である。やってる方としてはまるで面白くない。楽しんでいる幼児も何人かいたが、いるかはつまらなかった。
(ともだちできないし、つまんない。さむい。ぬるぬるしててきもちわるい。つまんないつまんないつまんない。かえりたいよー)
人間はりくじょうどうぶつだと聞いたことがある。
それなのに、なぜわざわざ氷に乗らなきゃいかんのか、いるかはまるで意味がわからなかった。
なんで自分がこんなことを
お母さんが一緒に出かけようと言ったから喜んでついてきたら、一回も来たことのないスケートリンクに連れてこられて今に至る。久しぶりに公園に連れて行って貰えると期待していたのに、どうしてこんなことに。
「いるか、ペンギンみたいで可愛いわよー! ガンバレー! でも、前が見えてない赤ちゃんペンギンみたい。もっとテキパキ歩けないのー?」
壁の向こう側から母が声をかけてきた。珍しく楽しそうにしているみたいだから、いるかは頑張らなければならぬと思った。
「おめめがつぶれたブサイクなペンギン……」
母はそこまでは言っていないのだが、普段からからかわれることの多い幼女は、ありもしない言葉の裏を読み取った。
7才の子供なりに自分の無様さを受け止め、肩を落として練習に励む。まずは氷の上で自由に歩き回れるようにならなければ、スイスイ滑ったりドカンドスンとジャンプすることは絶対無理だ。ジャンプの擬音がおかしいが、いるかの中でジャンプはパワフルで重々しいイメージだった。
「あしをハのかたちにして、とまらない!」
いるかは焦った。
おかしい。言われた通りにやっているのに、全くストップする気配がない。ぬるぬるが止まらない。足がどんどん開いていって、いたい、死ぬ!
「岡崎さん、逆、逆! 逆ハーになってるわよ!」
んなこと言われてもよくわからん。
こっちは焦ってるんだと憤りながら、いるかはドスッと尻もちをついた。めちゃくちゃ痛い。ジェットコースターに乗せられた時みたいに、視界がグオンッて回って死んだかと思った。
「いたい! いたい! うわああああん! おしりが、おしりがこわれた!」
いるかは氷の上をのたうち回った。
尾てい骨をつたって全身に広がる衝撃、呼吸が一瞬ストップしてしまうほどの激痛! これならまだ、家の階段から転げ落ちた時の方がマシだった。
「それくらいで骨が折れるわけないでしょ! ごめんなさい先生! 無視してもらっていいですから、うちの子は大袈裟なんです!」
「いえいえ、大丈夫ですよお母さん。氷に落ちると本当に痛いんですよ〜。今の転び方なら大丈夫だと思うけど、痛みが落ち着くまで休憩しようね〜」
「いたい!」
いるかはいい子ぶるのも忘れて母を睨んだ。これが大袈裟なもんかと。こんなに痛いんだと泣き叫んでみたが、母は笑いを堪えていた。氷の上で寝返りを打つ娘の姿がツボに入ったらしい。
「い、いるか……なによそのイモムシみたいな……くっ……ちょっとやめて面白いから」
「ぐすっ……いたい!」
「お母さーん! 微笑ましいのはたしかですけど、本当に痛いんですよー?」
この時、いるかは決めた。
二度とスケートなんてやるかと決意したのだが、親に逆らうなら捨てられる覚悟が必要だ。いるかにそこまでの覚悟はなかった。
捨てられたら大変なことになる。
食べるものが買えなくて死ぬ。
家がなくなったら橋の下に住むしかない。
そんなのは嫌だったから、いるかは抵抗せずにスケートを始めた。やるからには頑張ろうと思った。下手クソだって笑いものにされるのは嫌だったので、はじめはめっちゃ頑張った。先生にどんどん質問して意欲満点な生徒を演じ、家でも入門書みたいなのを読み込んだりして、簡単なステップやクロス*1はすぐに覚えた。
「おとーさん、これなんてよむの?」
「なんだそんな簡単なのも読めないのか? これは
ある時、父は優しく教えてくれた。
しかし、なんでかはわからないが怖い空気が生まれた。いるかはとっても辛かった。
命の危機を感じた。
母が持っていたコップが飛んできて、床に直撃して爆発したからだ。恐怖のあまりひっくり返って床に頭を打ち付ける。
「何するんだお前は! 物にあたるんじゃない! なにイライラしてるんだ、子供の前でやめなさい!」
「子供の前で嫌味を言うような父親に言われたくない! 誰がスネかじりよ! 私は育休中なだけなんだけど!? そんなこと言うなら、あなたが子供の世話してよ!」
これは衝撃の事実なのだが、この時の母は『いくじのいろーぜ』という病気だったようだ。
「仕事しかしない人にあれこれ言われたくないわよ! 二人も面倒を見る大変さ、わかる!? わかるわけないわよね、何から何まで私任せなんだから!」
逆上した母はもう一人の幼児を睨んだ。ひっくり返ったいるかの前にやってきて、悲しそうな顔で床を見ている。飛び散ったガラス片を「あぶないから」と拾い上げ、ビニール袋に放り込む。
6才の男児、岡崎
身長は111cm。117cmのいるかよりチビで、この頃はあんまり落ち着きがなかった。
「いった……ささった! ちがぶわーって! ちがぶわーって!」
「なにしてんの! かして! いたい! わたしも ささった!」
「何してんのよ! 危ないからやめなさい!」
「余計なことはしなくていい! お母さんに拾わせなさい! っていうか刺さってないじゃないか。少し切れただけだよ。そんなのは大した怪我じゃないから、絆創膏を貼っておきなさい!」
父も母も別々に居れば優しいのに、家族みんなで集まると些細なことで
もしかしたら、父も『いくじのいろーぜ』なんじゃないか。いるかはハッと可能性に気付いたが、真偽のほどは不明であった。面と向かって聞いたら怖いことが起こりそうだったので、確かめるのは諦めた。仮にそうだったとして、治療法なんてわからかいから無駄だ。勇気を出しても意味がない。
「わたし、もうねる……」
「まだ寝ません! いるかのせいで喧嘩になってるのに、何も思わないの?」
「はぁ……思いやりがないなぁ。いるかがそんなだからお母さんもイライラするんじゃないの?」
「え? え? え???」
両親が言っていることが頻繁によくわからない。
弟もそれは同じだったようで、いるかの前でアホ顔をしていた。石像みたいに固まってるもんだから、どんな顔してるか気になって覗き込んでみたら、本当にアホみたいな顔だった。