岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
テンション上げて書けました。
「あの品のない子達を何とかしてくれませんか? 先生はうちの子のコーチですよね。聞こえるように悪口を言ってくるなんて全く
名城クラウンがホームリンクとしている大須スケートリンク。その会議室に不穏な空気が漂っていた。
クラブの生徒、岡崎いるかの母親が鋭い眼光を娘の担当コーチに向けている。口から出てくるのは歯に衣着せぬ過激な言葉だ。他の保護者の目がないこともあって、常日頃から溜め込んでいたであろう不満が爆発する。
「ちょっと、聞いてるんですか先生。どう考えても悪いのは向こうですよね?」
コーチの女性は後ずさったが、背中の後ろに残っているスペースはなかった。壁際である。彼女は追い詰められていたのだ。冷や汗ダラダラ。今すぐ大声を出して逃げ出したい気分だ。
こうなってしまった原因は一部の女子達による岡崎いるかへの嫌がらせ。クラブとしても注意するなどの対処は行っているのだが、大人の目がないところでは悪口大会とかしているようだ。本日の岡崎ママはたまたま聞いてしまったらしい。そして、担当コーチをとっ捕まえて詰め始めたというわけだ。
「向こうが悪いですよね? 黙られると困るんですけど、何とか言ったらどうなんですか?」
「そ、それは加害者が悪いに決まってますけど……我々としては仲直りのサポートまではできません。全体練習の時、当事者同士は引き離すようにしてますし、他にも配慮はしてるつもりで」
「どうして被害者側が肩身の狭い思いをしなければいけないんですか? そちらの対応って、向こうに罰を与えてはいませんよね。なんで平等に扱われなきゃいけないんですか?」
コーチの女性は言葉に詰まった。
嫌がらせはよくない。幼稚園児でも知ってる当たり前のことで、容認しているつもりは一切ない。
もちろん厳重注意すべき事項なわけだが、大前提としてここは学校ではない。常に大人が張り付いていることなどできないし、自主練習の時間まで見張っているのは不可能である。それでも出来る限りの配慮はしているつもりなのだが、ぶっちゃけしんどい。
何がどうシンドいのかというと、この母親がとてもシンドい。無神経なことを平気で大声で言うものだから、周りのママ達から反感を買ってしまっている。子供達からも変な親として認識されていて、ほんとにマジで変なのだ。勘違いで叱られた生徒はめちゃくちゃショックを受けていた。親がそういうことをしているから、娘の人間関係が余計に悪くなるのだ。
(いるかも敵作りやすい性格ではあるけど、今みたいな状況になったのは母親のせいだ)
コーチからしたら、もうほんと勘弁してって感じ。
何回も苦情が入っているほどで、それとなく注意しているのだが効果なし。実にシンドい。
「あ、あの〜……」
「辞めさせてくれませんか?」
「は、はいぃ……?」
「辞めさせてくださいって言ったんです。あんな非常識な生徒達は辞めさせてくれませんか? うちの子とどっちが価値があるかは、火を見るより明らかでしょ。中学生にもなって2回転にも苦戦しているような子達、クラブにいても役に立たないですよね」
(……おいおい)
女性コーチは喉から変な声が出かけた。顔の筋肉に緊張が走ったことを自覚して、岡崎ママの肩をぐっと押し返す。暴力ではない。邪魔だからどいて欲しかっただけだ。追い詰められすぎて狭いし。
「は? なんですか?」
「壁際に追い込まれすぎて窮屈だったんで。すみませんね……話をするなら椅子に座ってにしましょうよ。大人なら普通はそうしますよね?」
「はあ……まあ、それもそうですね……大人なら。先生、一言多いって言われません?」
「へへ……すいません」
のそのそと歩いて扉の近くまで移動する。逃げ出すためではなく照明の電気をつけるためだ。スイッチオンにする前に詰問が始まったので、会議室は暗いままだったのである。
「結論から言いますと、どちらか一方に辞めてもらうことはできません。それと、将来性を理由にして生徒を切り捨てることは有り得ません。この件に関してはヘッドコーチの
「納得いきません。あの子たちが全国レベルならわかりますよ。茉莉花ちゃんみたいな子なら、特別扱いされていてもわかります。スポーツも社会もそういうものですからね。でも、あの子たちは優遇されるに値しない低レベルな」
「以前もお伝えしたはずですよね。実力があるかと言って
言ってやったぜ、と心の中でガッツポーズを決めた瞬間、震え上がった。
岡崎ママの瞳からハイライトが消えたからだ。
顔が影に包まれてる気がした。気のせいだが、それくらい怖かった。ただならぬ雰囲気であった。
「ああ、ダメね。あなたじゃ話にならないわ。目上の人への礼儀も知らないコーチなんて、ねえ?」
冷たい声が心を突き刺してきた。
あなたみたいな人が子供に教えたりできるのかしら、と。普通に考えれば全く筋の通っていない糾弾だったが、彼女は自分に自信がなかった。指導は上手く伝わらないし保護者達とも上手にやれない。結果、担当生徒は岡崎いるかのひとりだけ。前任のコーチが扱い切れなくないと悩んでいたところ、誰でもいいから生徒が欲しかったから引き受けさせてもらった。
これまでは何人か受け持ったが、いるか以外は全滅済み。向こうから担当変更を言い渡されてしまい、これで自信が持てるわけがなかった。
「そういえば噂で聞いたんだけど、あなたジャンプができなくなって引退したんでしょう? それなのに教え方も評判悪いみたいだし……おかしいわよね。どうしてあなたみたいな人が担当なの? うちの子、名城のノービスクラスではダントツで1番なのに。まともなコーチをつけないなんて、クラブは何考えてるの?」
「……は、ははっ、それは……デスネ」
強く言い返したのが余程カンに触ったのか、岡崎ママは痛烈な嫌味を吐いてきた。コーチの女性は震えながら思った。これはネチネチどころか、もはやドロドロのグチョグチョである……と。自分で考えててしょーもねぇと笑えた。喉から乾いた笑いが出た。
「ねえ、もごもごしていないで……ハッキリ仰ってくださいよ先生。目を見てお喋りもできないの?」
「……」
これがコーチになりたての頃の自分なら、ブチ切れて舌戦に挑んでいたことだろう。だが、この時はすっかり弱気になっていたのでできなかった。彼女にとってはその方が良かったのかもしれない。
なぜなら、戦闘態勢に入ったが最後、解雇上等で暴言を吐きまくってしまうから。彼女は本来、とても喧嘩っ早い女性だった。
「ヘッドコーチを呼んで。あなたじゃ話にならないから。ああ……コーチを変えて貰えるよう、忘れずにお願いしておきますね。指導力がなくて人間的にも問題のある人に、レッスン料なんて支払いたくないので」
「っ……へへ……わかりました。よんできまーす」
妙齢の女性コーチは一瞬だけ怒りの炎を瞳に灯し、次の瞬間にはヘコヘコと頭を垂れた。
へらへら笑いながら会議室を後にする。
また生徒を失ってしまうことになるが、このまま話し続けて暴力沙汰を起こすよりはマシだ。これ以上ネチネチグチョグチョ言われたら、髪の毛つかんでぶん殴ってしまう自信があった。警察のお世話になって人生を棒に振るのは勘弁だった。
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クラブには友達を作りに来てるわけじゃない。
歳の近い奴らとは蹴落とし合うわけだし、ヘラヘラ仲良くなんてやってられない。いつからか
最終的にはみんな敵。オリンピックに行くために倒さなきゃいけない。敵だから仲良くできなくても悲しくないし、嫌がらせをされても苦しくない。敵だから無条件で大嫌い。なんか違うってのはわかってるけど、そう思ってれば楽だった。
間違ってるって言われるかもしれない。考えを改めろって叱られるかもしれない。でも、世の中なんて間違ってる事の方が多いじゃん。私ばっかり責めないで欲しい。お前は敵だなんて実際に言ったことはないし、思うくらいは許して欲しい。
私は誰に言い訳しているだろう──。
「あー、無理だ……何回やっても踏み切りがゴミだ……合わない」
無意識のうちに顔が下に向いていた。
少し伸ばし始めた前髪をつたって、汗の雫が氷に落ちる。銀盤は今日も綺麗だ。憎たらしいほどキラキラしてる。
肩が痛い。ズキズキする。
変な落ち方をしたせいかな。できるイメージが全く湧かないわ、トリプルアクセル。
(もしできれば、全日本ノービスで優勝狙える……でもダメだなこれは。頭でどう考えようと体がわかってるんだ……思いっきりいったら怪我しそうだって)
3回転の最難関、トリプルアクセル。
もちろん高得点。そしてノービスのルールではアクセル系のジャンプは必ず1本は飛ばなきゃいけないから、トリプルアクセルができればめちゃくちゃ大きな武器になる。ダブルアクセルの基礎点3.30に比べて、トリプルアクセルは8.00。倍以上。
(先生、できるかもって言ってたんだよな……ジャンプの高さも回転速度も足りてるって……)
でも、そう甘くはない。
アクセル系のジャンプは他とは踏み切りが大きく違う。前向きに踏み切る。だから、感覚が合わなくて苦手な選手はとても多いし、前に踏み切って後ろ向きに降りるから実質3回転半。
感覚が掴めてダブルアクセルまではできても、トリプルアクセルは無理だって選手がほとんどで、プラス半回転必要なのが大きな理由だと言われている。
シニアまで見渡してみても、降りられる選手の方が少ない大技。
今年のノービスAの選手の中で飛べるのは1人だけ。
福岡のヤツだ。ノーミスでいったら私が負ける。その時点で金メダルはなくて、総合的に見てやばそうなのがあと数人、そいつらにジャンプで差をつけるためにもトリプルアクセル欲しかったけど、そう甘くはないわな。
「いるかちゃん」
「……なに、茉莉花さん」
名港クラウンの姫がやって来た。
黙々と自主練してたのを切り上げて、私の前まで滑ってきた。茉莉花さん。
虫も殺せないような優しい顔してるくせに、スケートの実力はエグい。茉莉花さんは、トリプルアクセルを降りられる数少ない選手のひとりだ。それなのに、金メダルを取った経験は
「どんどんバラバラになってきていますよ。アクセルの練習はそこまでにしておいた方がいいと思います。焦ってはいけませんよ。今ある武器──3回転ルッツでも、あなたは十分に表彰台を狙えるはずです」
ふふ、と天使みたいな微笑を浮かべる。
私はこの人が苦手だ。こうして並んでると惨めな気持ちになる。それに、茉莉花さんの接し方って無償の愛って感じで、居心地悪くなるっていうか、どう反応したらいいかわからない。
人間として嫌いとかじゃないんだ。
でも、こうやって構われるのはシンドい。悪態ついても寄ってくるから、我慢するしかないんだけどさ。
流石に暴言浴びせる気にならないし、んなことしたら追い払った後に自己嫌悪で死にたくなる。苦手ではあっても嫌いじゃないから。
「トリプルルッツね……どうかな。感触悪くはないんだけど、10回やったら3、4回は転ぶよ?」
はじめて降りられたのは今年の5月。そこからずっと飛びやすい感覚は続いてるけど、そのわりに成功率が上がってこない。2回に1回は転ぶ計算だ。まあ、トリプルアクセルに手を出そうとしてる時点で、高難易度構成上等の姿勢なわけだけど。
ルッツはアクセルの次に点数が高い。
3回転でいくか2回転でいくか。限界まで上を狙うなら3回転の一択だけど、コケた時はメンタルと一緒に順位も転げ落ちるんだろうな。
「大切なのは練習の10割ではありません。決めるべき時に決め切る能力があるかどうか。いるかちゃんは数をこなすタイプですよね。たしかに磨き上げていくことも大切ですが、あなたのルッツは技術的に弄るべき箇所がありません。ですからここはあえて、練習で飛ぶ本数を減らしてみては?」
「は? 練習減らしてどうすんの……意味わかんない」
口から冷ややかな声が出た。
お褒めいただいて光栄だけど、やればやるだけ技術は上がるに決まってるんだし自信もつく。決め切る能力ってのは結局、技術と自信に裏打ちされるものなんじゃないの?
試合で練習と同じようにできるために、何回も何回も飛ぶんだろ。そうやって体に覚え込ませて、あんだけやったんだっていう自信もつける。ビビったら終わりだからね。
「ふう……いるかちゃんは可愛い癖がありますよね。他人からのアドバイスを聞き流す……」
ウェーブロングな髪をふわりと浮かせて、茉莉花さんの視線が斜め下に向いた。
シュン……って擬音が聞こえたぞ、今。
あっダメだこれ、そこはかとない罪悪感が……。
てか可愛くないだろ私の癖。逆の立場だったら頭ひっぱたきたくなるやつだ。弟がそんな感じの時あるからすげーわかる。だったら直せって話だよね。知ってる。
「……ご、ごめんって。でも、なんていうか……上手く言えないんだけど」
それにしても。
ああ、やりづらい。
こんな問答、無視して逃げればいいのに。
「あっ、私は一向に構いませんからね。聞き流されるようでしたら、聞きたいと言って頂けるまで諭し続ければ良いのですから」
居心地悪すぎてドキドキしてたら、天使の微笑が復活した。なに。今の冗談のつもりだったとか? だとしたら分かりづらいからやめて欲しい。本気で落ち込んで一瞬で立ち直ったのだとしたら、この人の精神構造がどうなってるのかめっちゃ不思議。
「……いや、しつこいのはちょっと」
「ふふふ、私は全く気にしません。大丈夫ですよ」
「茉莉花さんじゃなくて、私が嫌なんだよ!」
会話たまに噛み合わないし、頭の造りが根本的に違うのかもしれない。
理解できない人間。だから苦手で接し方がよくわからなくて……でも、いい人だ。それはわかる。
「話を戻させていただきますね〜」
「あれ、普通に話つづけんの……?」
「技術を磨くために本数を重ねることは間違ってはいません。ですが、今のいるかちゃんは行き過ぎているような気がするのです」
「……いや、成功率が上がってこないんだから、練習するしかないじゃん」
自主練してる他の奴らが何回も横を通過する。どうせ茉莉花さんのこと心配してるか、岡崎うぜえとでも思ってるんだろうな。そういやお母さんどこいったんだろ。あんまチョロチョロしないで欲しいんだよね。また余計なこと言ってよそのお母さん怒らせて、子供を通じて私が不利益
うちのお母さんは人を不愉快にさせる才能がある。
口に出したらアウトなのかセーフなのか。そこの線引きがかなり怪しくて、引退が決まってる子の前で『うちの子と違って頭がいいのね。無理だってわかってるなら別のことをした方がいいもの』とか言っちゃうレベル。流石に本人に面と向かっては言わないけど、それでも
「それですよそれ。いるかちゃん、成功率だけではないんですよ? 構成に入れるかそうでないかの判断というのは、練習の成功率だけではないのです」
「あー、そうなの?」
いけね別のこと考えて上の空になってた。
これも私の悪い癖だ。人と喋ってる時に色んなことが頭の中に浮かんできて、考えがまとまらなくなるの。よくないってわかってるんだけど、気をつけてても無意識のうちにそうなっちゃうんだよな。
で、茉莉花さんは何が言いたいんだろ。
構成入れるかどうかの判断材料って、練習の成功率以外にはなくない? 私はそれしか知らないんだけど。
「そうですよ? 先程もお話したでしょう? 決めるべき時に決め切る能力があるかどうか。あると判断できれば、私は構成に入れています。トリプルアクセルもそうです。3本飛んだとしたら、最初の1本が成功すればそれでよし。逆に最後の1本を意識することもありますけど……」
何本とか決めてはないけど、私だって本番のつもりではやってる。今の話だけじゃ、違いがよく分からない。
「……えーっと、つまり?」
「つまり、ここは何がなんでも決めなければダメ。そういう心構えで何回かやってみて、意図したところで決めきれるかテストする。同じようなことはされているのかもしれませんが、私から見るといるかちゃんの練習は
茉莉花さんは続けて言った。
どんなに集中して本番のつもりを心がけても、本数が増えれば増えるだけ
「今お話したのは、構成に入れるにあたっての成功率以外の根拠。そして、あなたがもっと上手くなるための選択肢のひとつです。方法はひとつではありませんし、強制するつもりはありません。もとより、私はそんな権利は持っておりませんので……ふふふ」
たしかに。
全部ガチなつもりでも、ガチで30本飛んだらどれかは雑になるもんな……。体が疲れてたら無意識に抜いちゃうこともあるし。
なんか言われてみたら当たり前のことなんだけど、なんで今まで気づかなかったんだろ。同じようなこと先生が言ってたような気がするけど……ダメだすっかり忘れてたわ。
「ん……なんかスっと入ってきたかも」
「それは何よりです。先生にも同じような事を言われていたかもしれませんが、これからはもう少しだけ……ちゃんと聞くことができれば良いですね」
「あ、うん……」
え、なに。今の確信じみた言い方。先生の話も上の空で聞き流してたの、バレてる? まさか先生に愚痴られたりしたとか……ないよな流石に。
私のコーチは変な人だ。口は軽い。
でも、生徒に生徒の愚痴言うとか、いくらなんでもなぁ? ないわな。そこは信じたい。
「では、伝えたいことは以上ですので」
「……その、ありがとう」
茉莉花さんは私に背を向けた。
手袋を脱いでリンクサイドの方を見ている。雰囲気的にひと休みしてくる感じかな?
綺麗な後ろ姿だ。スラッとしてる。
手足長いんだよな、この人。
「訂正させてください」
「は? えっと……なにを?」
そのまま立ち去るんかと思ったら、話はまだ続くらしい。今の話にまずいところはなかったと思うんだけど……ダメだ全くわからん。
困惑していると、茉莉花さんは頭を傾けてチラリとこちらを見た。
「ちゃんと聞かなくていいと思いますよ。今はまだ。だっているかちゃん、
「!」
ヒュンって心臓が縮む感覚。
ビビる理由なんてどこにもないのに、めちゃくちゃバツが悪くなった。適当な言い訳が口から飛び出しそうになって、我慢する。
「それなら、無理をしなくてもいいんです。大丈夫。ちゃんとした大人の人なら、わかってくれるはずですから。敵になったりしません。だから、大丈夫」
頭がジンジンした。
私はお母さんに似て沸点が低い。
おかしいとこもお母さん譲りだ。今の話の流れで、イラッとした。
「では、今度こそ私はこれで。今日は用事があるので帰ります」
「……あっそ。大会近いのに、呑気だね」
私は目を伏せた。
みじめで居た堪れなくて。湧き上がってくる罪悪感から逃れるように、下を向いた。だから、茉莉花さんがどんな顔をしてるのかはわからなかった。
口を開けば悪態。嫌味な言い方。
こういう時、親子だなって実感してすごく嫌だ。私が人と関わりたくない理由のひとつだ。
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夜。
貸切の邦和スケートリンクに、美しい曲が流れていた。凛としたピアノの音色は、空気を浄化するように響き渡る。さざ波のようなバイオリンの旋律。温かなチェロの低音。清らかなフルートの音。
曲名は『Dawn in Abyss』。
幾重にも重なる音の波は、暗闇と氷に包まれた厳しい冬を。そしてやがて訪れる雪解けの光を。壮大な大自然の景色を連想させた。
「ワー、イイカンジ! しゅうまつ、大会もいまのでいこーよ!」
「いかないです。今年は使わないって決めたんで」
「ガクッ」
頼りない日本語で頑張って喋っている女性コーチ、エイヴァは大袈裟に肩を落とした。
ガクンッと上半身を揺らしたせいで眼鏡がずれて、危うく飛んでいきそうになる。
「わわっ!」
「なにしてるんですかー……もう……」
「んー、まんぞくまんぞくっ。えーっと、スケートだいじょぶ。けがしちゃダメだよー?」
「……」
エイヴァは日本語がまだ怪しい。
だが、何が言いたいかはわかるレベルではあるので、スケートを教わるにあたってはそこまで不自由したことはなかった。伝わりにくいニュアンスが上手く日本語にできなくても、何となく身振り手振りで『あーなるほど』って理解できるし。
「ルッツ、グレート! よくできたな?」
「いきなりワイルドですね……よくできたね、の方がいいですよ。可愛い。やさしい。やわらかい」
「やわらかい?」
「あったかいってことです」
「うーん、むずかしいなぁ」
エイヴァに見てもらう場合、こういった日本語学習のシーンが何度もある。結構楽しい。一方的に施されるだけじゃなくて、自分の方からも力になれることがあると実感できて鯨哉は嬉しい。
「ふふっ、でも、すこしはやい。ぎりぎり。からだひらくの……ね?」
「ですよねー……気をつけます」
回っている時はギリギリまで体は締めておかなければならないし、それが少し早めに緩んだから3回転ルッツが危うく回転不足になりかけた。一応回りきって降りたものの、無駄に勢いを殺してしまったせいで滑らかな繋ぎができなかったし、反省。
「あとー、目の方角ね。下はダメ。体くずれるから。ジャッジアピール注意」
「悪い癖が治らない……すみません」
エイヴァは視線を下に落とし、ほんのわずかに上体を前に傾けた。取るに足らない小さなズレに見えるが、氷の上では命取りになる。
そして、フィギュアスケートは採点競技であり、芸術的なスポーツだ。
ジャッジへの視線送りは重要な技術。そうすることで心に訴えることができる。
ジャッジアピールという。
上のレベルで活躍する選手の多くが取り入れているテクニックだ。ノービスレベルだと滑って飛んで回ってで一杯一杯な選手が多く、そこまで気が回らないし回せない。
「わたし、じゃない。ぼくはここだよって、アピールするの。あなたはとても素敵な子。わたしはたくさんの人にあなたという人を知ってね、っておもう。ジャッジじゃない人にも、ね?」
「はい。ありがとうございます。勇気でる」
エイヴァ・ロドリゲスは現役時代、会場を沸かせる演技が魅力的な選手だった。ただ高いジャンプを飛んで4回転を降りるだけじゃない。観客だけではなくジャッジすら楽しませることのできる、華やかなスケーターだった。
鴗鳥慎一郎と同じ超一流。
鯨哉が最初に憧れたのは鴗鳥慎一郎だったが、今はエイヴァのことも同じくらい好きだ。
『鯨哉くんの練習おわり? じゃあもう帰ろうよ……俺、お腹空いた』
『りおう! なんで急にやる気無くなってるの!? 何があったのよ、もうっ』
ロビーの方から
発した言語はポルトガル語だ。多分。二人で話す時はポルトガル語らしい。彼はインターナショナルに通っていたことから、母国語の日本語に加えてポルトガル語と英語も話すことができる。
さらにスケートも上手いので、世の中は不公平だと鯨哉はひそかに妬んでいる。
「
「なにもないよ……別に、いつものことだし」
何がいつものことなのだろうか。
何となく予想はついたが念のため。聞かせてみなよ聞かせてよ聞かせろオラーとダル絡みしてみたら、やっぱりな答えが返ってきた。
「どうせ勝てないし、名港杯は出ない……2回転持ってる奴が3人もいるんだよ。恥晒すだけだから、ヤダ」
「……」
エイヴァは悲しそうな顔で息子を見ている。聞き取りは完璧にできる彼女なので、今何を言ったのかは正確に理解できたはずだ。
「銀メダリストの息子のくせに、大したことないとか言われるんだよ。やだよ。絶対ヤダ」
彼はたまにこういう状態になる。
銀メダリストの父親で母親もオリンピック経験者。
フィギュアスケートのサラブレッドのくせして、自分はこの程度しかできない。恥ずかしい。イヤだと駄々をこねることがある。
スケートを始めた頃は純粋に楽しんでいたのだが、周りから血筋のことを言われすぎたせいで、嫌でも気になるようになってしまったようだ。名港の生徒達は馬鹿にしたりはしないが、褒め言葉であったとしても今の
こうなってしまったきっかけは、他のクラブの生徒に「二世は大したことない」、とか言われていたのを聞いてしまったから。本人曰くトラウマらしい。
「サラブレッドのムダづかいとかいわれるんだ……」
「それ言ったの誰? 連れてきなよ。いいよ、僕がバトルしてあげても」
険しい顔の
ぶん殴ってやるから連れてこい。
そういうことである。
「!? いやいや! 言われてない言われてない! いわれるんじゃないかって……」
「じゃあその時は連れてきな。ボッコボコにしてあげるよ。ボッコボコに」
悩める少年を元気づけるべく、力こぶを顔に近づけてニコリと微笑む。
「おかしいでしょ! なんなの!? きょうや君そういうキャラじゃなくない!? ケンカとかしなそうじゃん!」
「姉さんとはたまにするよ。お互いに見える場所は殴らないけどね。後々で面倒くさくなるから」
なお、今言ったことは事実だ。いるかとは暴力で語り合うことがたまにある。鯨哉の右膝のちょい上には裂けたような跡があるのだが、姉のせいである。何をされたのかは、怖いから忘れることにしている。
「ヴァ、ヴァイオレンスなシスター……?」
「岡崎いるか怖いよ……あの人、たまに見るけど目つき悪いもん……きょうや君、殺されそうになったらウチに逃げて来てよ? 大人しく殺されちゃダメだからね!?」
エイヴァと理凰は手を取りあって震えている。
愉快な親子である。
仲が良さそうで何よりだ。
「姉さんとは上手くいってるから大丈夫。そんなことより、バカにしてくる奴がいたら呼んでね。冗談抜きで。そういう陰湿な人と一緒の氷に乗りたくないから。だから大丈夫だから名港杯でようか」
「うん……わかったアリガト。……ん!? なんかサラッと言った! だましうちだ!」
そして問題は解決した。
りおう少年は大会に出る。
言質は取ったからこれで安心。
なんかギャーギャーわめいてるけど別にいい。他人の目を気にして貴重な試合をひとつ捨てるなんて、そんな勿体ないことはしてはいけない。
「オリンピック行くんでしょ。だったら出れる経験を積む機会を捨てちゃダメ。冷やかしてくる奴がいたら僕が退場させるから大丈夫。話はまとまったから帰ろっか」
「いや、オリンピックって……母さんっ、なんとか言ってよ! きょうや君たまにおかしいんだよ! やたらとゴーインなんだよ!」
「りおう……銀メダリスト2世とかかんけいない。あなたは私の宝物。あいしてるよ!」
「ぼくもあいしてるよ……きもいな」
「なんなのこのノリ! もういいよ! わかったからやめてよ恥ずかしいよ!」
こうして、少年の悩みはゴリ押しでどこかに殴り飛ばされ、予定通り大会に出ることが決まった。
本当に単なるゴリ押しと悪ノリであった。
────────────────
「ねえねえ、質問。どうしてりんなちゃんばっかり色々おしえてあげてるの?」
鯨哉は押し黙った。
練習終わりに夕凪に呼び止められたから振り向いてみたら、なぜか彼女は真顔だった。口から飛び出してきたのは妙な質問だった。
「あれっ、なんで黙ってるの? あっ、ちがうよ? ダメって言ってるわけじゃなくて、でも、一緒にオリンピック行こうねって約束したのに、私にはあんまり教えようとしないなって思って。ところで、いつからりんなちゃんと仲良しになったんだっけ?」
真顔、変わらず。
声のトーン、一定。
不思議である不可解である。質問の内容から察すると、構って貰えなくて拗ねているという解釈もできるが、
「ねー、なんで黙ってるの? 言いにくいことでもあるの? 大丈夫だよー。なんとなく聞いてみただけだから、ほら、だいじょぶだから早く言って?」
「……」
夕凪はいい子で優等生である。
扱いに困ったことなど今まで一度たりともなかったが、だからこそ様子がおかしいと対応に迷う。
ずっと真顔なのがちょっと不気味だし怖い。
鯨哉は本気かつ深刻に頭を悩ませ、とりあえず優しい感じで接することに決めた。
「大層な事情はないよー? たまに遊びに行った時に色々聞かれるから、その延長線で自主練でも教えてるの。仲良しってほどでもないと思うよ?」
「へぇー! そうなんだ!」
夕凪は真顔で納得して去っていった。
声のトーンは変わらず。おかしな様子が元に戻ることはなく、回答ミスったかもしれないと焦る。
不安だから、帰ったら誰かに相談しよう。1番近いところだと姉だが、それはなし。いるかちゃんはダメだ。デリカシーがないから。