岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
『自覚が足りないよ自覚が』
夏の気配が近づいてきた頃だった。
ゲリラ豪雨の後にすっごく綺麗な月が出た日。
珍しくきょーや君のお父さんが迎えに来てたから、私は挨拶しようと思って、できなかった。
『自覚だよ、自覚。養ってもらってるって自覚』
なんか怒ってるみたいだったから、気付いた時には車の後ろに隠れちゃってた。すっごい高そうな車で……うっかり頭ぶつけそうになって焦った。
駐車場に停まってる車をへこませたりしたら、パパもママもへこんでしまうこと間違いなし。しゅうりひよーもかかるし、大変なことになってしまう。
『お金。出してもらってるって自覚がさ。歩いて帰れる距離なのに迎えが必要とか甘えすぎだよ。お母さんはどう考えてるのか知らないけど、お前もいるかも送迎とかいらないと思うよ。安くない習い事させてもらって送り迎えもとか、どんなボンボンだって話だ』
きょーや君のお父さん、声は静かだったけど怖かった。言ってることはなんかおかしかった。試合には来たことないし、お迎えだって滅多に来ることないのに、なんであんなに偉そうなんだろうって思った。
『そうだよね。お母さんには改めて言っとくよ。送り迎えは大丈夫だから、休みの日くらい父さんを休ませてあげてねって』
『頼むよほんと。はぁ……帰ったらアイツの相手しといてくれる? ネチネチうるさいから、父さん今日は外でご飯食べてくから』
話の流れてきに、家庭環境……よくないのかなって心配になった。でも、きょーや君は全然怖がってない感じで、車に乗り込んだお父さんとバイバイしてた。
どう考えてもおかしい。
ちょっと変とかじゃなくて、やばいレベルでくるってると思って、いてもたってもいられなくなった私は『ぐえっ』と飛び出したんだ。穴につまずいてスッテンコロリン。コンクリに思っきし手をついた私を、きょーや君はすごくビビった顔で見てた。
『りんな、なにしてんの!? 手! 皮とか骨とか大丈夫!?』
『大丈夫! 爪が変な方向にまがったけど、ダイジョブ!』
『大丈夫じゃないそれ! 見せなさい!』
私のひとさし指の爪は生きていた。
変な線が入っちゃったけど剥がれることはなくて、ちょっぴり内出血したくらい。
だいたい、爪なんてどうでもいい。
もしふっとんだとしても生えてくるんだし。そんなことより、私の関心はあのモンスターお父さんのことでいっぱいだった。
ぎゃくたいとか、されていたら、どうしよう。
されてないのってストレートに聞いてみたら、きょーや君はケラケラ笑ってた。
『虐待とかされてたら警察行ってる。大丈夫だよ。うちは少し変わってるだけ。外から見ると心配されることもあるけど、そんな大したことじゃないから。それに、いるかちゃんン゛っ……姉さんがいるから、僕はあの家で良かったと思ってるよ?』
別にお姉ちゃんをちゃん付けで呼んでもいいのに、きょーや君は嫌みたいだ。たまにうっかり素が出て焦って言い直す流れ。私的におもしろいやつだ。
してきすると嫌がるから、私はいつもスルーしてる。
『そうなの? でも、おかしいよ。すっごい変。それに、お母さんも変なんだったら、いるかちゃんいない時はジゴクなんじゃないの?』
『そんなこともないよ。ほんと大丈夫だから気にしないで。はぁ……こんなしょーもないこと話してる時間が
きょーや君は右手を自分の肩において、ぐりぐりと力を入れた。首からはポキポキ音がした。私がはじめて見る、本気でめんどうくさそうな仕草だった。
きらわれたと思った。
だって目が、目がやばかった。こわかった。
『め、めんどくさかった……?』
『あー……大丈夫。気にしないで』
絶対に大丈夫そうではなかった。
すっごくめんどくさそうだった。
やっぱり嫌われたんだと思った。
はじめましての時からずっと優しくしてもらってたけど、考えてみれば無理して私と絡む必要ない。
なんとなく流れでなかよしの状態が続いてて、私の中での友達度は高かったけど……きょーや君ってだれにでもそうだし。やばいどうしよう距離おかれてしまうって、死にそうな気持ちになった。なかよしな人にきらわれるのはシンドい。つらいものだから。
『もしかして、ため息が嫌だった? ごめんね?』
でも、大丈夫だった。
下向いてたら、いつの間にか普段の優しい先輩に戻ってたの。ケロッとしてた。
『あ、あやまらなくていいよ〜。こっちこそごめんね!』
なんかこの時モヤッと、引っかかることあったんだけど、私は言わなかった。
この時点ではきらわれた疑惑はきえてなかったし、しつこくするの怖かったの。
それからは特に何もなくて、次の日からはいつもどおり。きょーや君はみんなのお兄ちゃんって感じで、誰かちかよって行ってもメンドくさがらずにお話したり、練習に付き合ってあげたり。きょーや君は何も変わらなかったんだけど、私にはちょっとだけ変化があった。
『私がうまくなったら私はうれしいし、パパもママもよろこぶし、きょーや君もうれしいって言ってたから、もっとがんばりたい』
みんなハッピーになれるなら、しんどい練習でもがんばりたいと思うようになった。
頑張らなきゃ、って焦ってた気持ちが、ポジティブな方向に変わったんだ。
それに、きょーや君は
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なんか調子いいから構成にアクセル入れたいっす。
練習じゃグダグダな時もあったけど、今ならいける気がしまっす〜。みたいなことを生徒が言い出したので、それも大会直前にほざき始めたので、暴れんボーイ先生こと
「無理に決まってんだろ。今でも攻めた構成なんだぞ。そこに安定感クソザコのアクセルなんかぶっこめるか。ただでさえノーミスできたらスゲーってとこに、博打でアクセル入れるとか流石の俺でもできねーよ」
申川りんなはギュッと拳を握り締め、「うー……」と小動物みたく唸っている。んなことしたってダメである。可愛いがダメだ。コーチとしては認められない。
(捨て身でいかなきゃって試合はたしかにあるがな……言っちまえば初級の
なんとなくいけそう、というだけで安定感の乏しいジャンプは構成できない。それに先程も話したが、予定の構成はそもそも攻めている。
「苦手なコンビネーションを初っ端に入れる代わりに、難しいルッツとフリップを連続で飛ばなきゃいけない。後にずらすと今度は体力が不安だからな……それなのに最後のスピンの難易度を上げてる。初級はほぼほぼシットスピンかアップライトのとこ、お前はフライング足換えキャメルだ。リスクの方がデカいから普通はやらない。まあ、お前はやりたいみたいだし、俺もいけるって判断はしてるが……」
スピンはジャンプとは違う。規定の回転数に満たないと即0点になる。また、回転速度が遅いと判断されれば
バッジテスト初級レベルだと、まだキャメル*1が不安定──もしくはできない選手がほとんどなので、必然的にシットスピンかアップライトスピンばかりになる。
どちらも基礎点は1.1点。
対してフライング足換えキャメルは1.7。同じ点数でフライングシットスピンというものがあるが、りんなは『キャメルがいいですやりやすいです』とのこと。
ちょっと意味のわからん感覚だ。
姿勢上、フライングシットスピンの方が安定しやすく転倒のリスクも下がる。加えて足換えまでつけると更に難易度が上がってやりにくいはずなのだが、わけのわからん女である。
「でも、もっといける気がしてて……私、かくせいしてるような気がするんです」
りんなはクワッと目を見開いた。
くだらない事でメソメソしているかと思えば、なんかの拍子に吹っ切れると、イケイケガンガンなノリになってしまうことも。担当コーチとしては、二重人格の線を疑っている。
とにかくアクセルはなしだ。
輝也は弄っていたタブレットの画面を落とした。ただでさえ鋭い瞳を、ほんの少しだけ吊り上げる。
「ダメだ。なんとなくいけそうで決められるほど、公式戦は甘かねえよ」
フィギュアスケートは確率のスポーツだ。
単発で1本だけの勝負なら博打を打つのもアリだろうが、初級のジャンプはコンビネーションのコンボ分*2を除いて計4本。
予定に入っているルッツとフリップは完璧とはいえない
「ルッツとフリップが成功率80パー。アクセルが40パーだとして、全部決められる確率わかるか? 25パーくらいだ。体力のこと考えると確実にもっと下がる。だとしたら、わかんだろ。ルッツとフリップを何としてでも決めて、後は自信あるジャンプをしっかり決める。それでうまくいけば、台乗りは無理でも5位以内は狙える」
「……はい」
もちろん、他がコケれば表彰台の可能性はある。今回は2回転持ちが3人いる──しかもシングルアクセルもできる──から、ノーミスでいった場合はそいつらには絶対に勝てない。
「お前が頑張ってんのは知ってる。だから、俺もお前を勝たせてやりたい。だが、それ以上にボロボロにならないよう構成を組んでるつもりだ。間違っても大爆死なんてさせたくないんだよ」
輝也はりんなの目を見て、真摯に諭しかけた。
そしてこうも伝えた。これ以上の冒険は無謀を通り越して単なるアホだ、と。
りんなは真顔でコクコクと頷き、ジャージのポケットに手を入れた。ゴソゴソ中を漁った後、取り出したのは袋に入ったクッキーだった。バッキバキにひび割れている鳥さんのバタークッキーだ。
「ありがとうございます……たくさんかんがえてくれて、うれしいんでお礼……よかったらこれ、食べてください」
輝也は冷たい視線を注いだ。
取り出した衝撃で更にバッキバキに砕けてしまった、シュールな鳥さん型のバタークッキーを。
「いらん」
「そんなっ!? これ、おいしいのにっ」
そして低い声で吐き捨てた。不要であると。
りんなはショックを受けていたが、いらないものはいらない。触ってみたらなんかあったかいし、余計に食べる気が失せた。
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スケーターにとっての夏は大切な期間だ。
秋になれば大会ラッシュが始まる。昇級試験であったり新技や新たなプログラムであったり、余裕を持って何かに取り組むことのできる最後のチャンス。
そんな時期に開催される『名港杯』はそこそこ歴史があって、今年は12回目の開催となる。ローカル大会ではあるものの、エントリーは初球から選手権レベル*3まで幅広く*4、競技にかかる日程は3日にも及ぶ。
開催時期はシーズン開幕直後。
新たなシーズンに挑むにあたって、選手達は新技であったり新しいプログラムを見せてくれる。お披露目の場としても注目度が高い大会だ。
「へー、見に行くんだ。自分の練習そっちのけで後輩女子の応援ですか。余裕だねぇ」
「男子もいるから……姉さんは仲良くしてる後輩とかいないわけ? 応援したいなって感じの」
さて、7月18日の日曜日。
名港杯の初日である。本日のトップバッターは初級女子。男子はその後。更に2級3級と続いて、ジュニアとシニアのショートプログラムも行われる*5。
「応援したい奴とか、いるわけないだろ。最終的に自分以外は敵だぞ」
「そうなんだけど、間違いはないけど……」
鯨哉はいるかと一緒に家を出て、マンションの下までやってきた。朝起きた時からこの調子だ。
なんでか知らんがご機嫌ななめ。やたらとネチネチ絡んでくるから、ちょいと
「なに? 間違ってないならよくね。私が正しいってことだよね」
「そうだね。それでいいよ、もう」
「あ? 舐めてんのか?」
「もうヤダこれ。何言ってもキレられるやつじゃん」
鯨哉は実際に両手で頭を抱えた。「あー」とどんよりお空を睨んでいたら、目の前からいるかが消えた。
バッと振り返ると、鯨哉のことを完全に無視して歩き出している。スケートリンクの方角に向かって。なんて自分勝手な姉だろうか。性格直せとは思ってないが、一応それっぽく怒っておく。
「なんなん! 感じが悪いんだけど!」
いるかは無視した。振り向かない。
鯨哉は胸がムカムカしたので、もっと言葉をキツくすることにした。逃げられると追いかけたくなるのが人の
「シカトはよくないよね。クソ女って呼ぶぞ! 重たいくせにサバサバ系気取りのクソ女!」
「いいよー」
いるかは振り返った。通常時は
マジで貞子みたいだったので、鯨哉は震えた。
ガッツリロングヘアーではなく、セミロングの貞子だ。どっちにしろ恐ろしいことに変わりはない。
「それじゃ夜は一緒に寝ようね。髪の毛ぜんぶ抜いてハゲにしてやるから。あ、縄跳びって縛れるんだよ知ってた?」
「絶対にそれは嫌だ。せめて腹パンにして」
「わかった。じゃあそれで」
「うん。じゃあ気をつけて。鳥のフンとか落とされないように」
「そっちも。トラックとかに
いるかは呆れたように鼻を鳴らして、止めていた足を動かし始めた。
鯨哉もリンクの方向に歩き出す。
とても胸がドキドキしていた。髪を抜かれたことは未だかつてないが、流石にそこまで凶悪な真似はしないだろう。しないよね。そうであってくださいお願しますと。