岡崎いるかの生存戦略   作:戎韜

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名港杯『初級女子FS①』

『コーチ変えてもらうよう言ったんだけどさ』

 

 先日、クソ親お母さんに言われた。

 ヘッドコーチにもクレーム入れたらしい。でも説得されて、今シーズンはこのままで良いってなったんだって。それはまあ、良かった。私としてはコーチ変えるとかないから。とっても信頼してる人だからヤダ! とかじゃなくて、時期が悪い。

 シーズン始まったこのタイミングはない。

 だから現状維持でひと安心。めでたしめでたしって、そんなわけあるか!

 

(お母さん達の私を見る目がやばい。悪口言ってた奴らは近付くと逃げるようになったし、まあそれはいいとして……コーチから腫れ物に触るみたいにされるようになった。マジ無理。別のリンクで練習したい)

 

 ただでさえ私だけ異物って感じだったのに、今や汚物……腐ったミカンみたいに見られてるかも。うちのクソ親お母さんってちょっとアレで……言ってやったぜくらいの自信満々な顔で、他のお母さん方に自慢げに話してたらしいよ。

 やばいわ鋼メンタル最強かよ。

 お前ら頭おかしいよって言われても、返す言葉もございませんって思うわ。流石の茉莉花(まりか)さんも引いてたくらいだし。

 

(きょう)にはまだ言ってないみたいだけど……)

 

 クソ親お母さんの愚行について、弟はまだ聞いてないみたいだ。知ってたら今朝みたいな悪口は言ってこないはずだから、本当に知らないんだと思う。でもバレるのは時間の問題だから、そうなった時の反応が楽しみだな。

 死んで詫びるとか言い出すかもしれない。

 私は優しいから普通に許すけども、土下座くらいは欲しいところだ。言えばするだろうし、自分からやるかもな。お姉さまをいい気分にさせる方法を知ってるからね、奴は。ムカつくから褒めないけど、かなりよくできたルームメイトだよ。

 

(それはともかく…これ、コーチ変える変えない以前に、クラブに居続けるのキツくないか?)

 

 どう考えてもキツいわな。しかし、私はやらせてもらってる立場なので選択肢などない。スケート続けるためには、針のむしろでもここでやっていくしかない。フィギュアスケートが個人競技で良かった。団体スポーツだったら流石に辞めてた。やろうとしてもイジメ発生するだろうな。

 

(……クラブでの人間関係とか、結果には何の関係もないんだ。私はちゃんと全国レベルでやれてる。今は我慢して我慢して……いつか、絶対(ぜったい)人生変えてやる) 

 

 リンクサイドが遠く見える。

 コーチが何か言ってるけど、全く耳に入ってこない。雑音にしか聞こえない。別にいい。どうせ面倒くさいって思ってんだろうし、仲良くする必要なんかないんだから。

 

「いるかー! ちょっとダレてんぞー! 疲れてきてるなら休んでいいよー!」

 

 上手くやろうと頑張ったって、こうやって気まずい感じになる。私は悪くないのにね。やってられるかって話だ。馬鹿馬鹿(ばかばか)しいから、大人に媚びるのはヤメヤメ。このクラブでやっていくためにはコーチに嫌われるのはマズい。そう考えて頑張ってきたけど、もうやめる。

 

(それにあれだよ。どうせみんな上っ面だけだから。どんな親切な大人でも、いつ突き放されるかわからない。期待するだけ疲れるだけ)

 

 何かとしつこい茉莉花(まりか)さんだって、何かあったら離れていくのはきっと同じ。あの人のお母さんもいい人ではあるけど、どいつもこいつも所詮(しょせん)は他人だ。そして、他人に期待するとどんな思いをすることになるか、私は随分(ずいぶん)と前から知っている。

 

(あんだけ良くしてくれてたのに、今はすれ違っても目すら合わせてくれないからな。他人っていうのは結局、そんなもんなんだと思う)

 

 こっちが悪いってのは重々承知してても、(てのひら)を返されたような気持ちになってシンドい。

 こういう話になると、どっかのおばさんを真っ先に思い出す。実叶(みか)ちゃんともども、二度と(しゃべ)ることはないだろう。別に恨んじゃいないけど、金輪際(こんりんざい)関わることはないよねって話。私、滑ってる最中に何考えてんのかな。

 クソ親お母さんのせいで集中できない。

 無性にイラつく。目に入るもん全部ムカつく。どいつもこいつもクソったれだ。

 

 

 

──────────────────────

 

 

 午前7時を少し回った頃。

 名古屋のスケートファンならお馴染(なじみ)邦和(ほうわ)スケートリンクにて、メガネが素敵な白人女性がジャンプをかました。

 

「グッモーニンスケートリンク! イエイッ!」

 

 位置としてはジャッジ席の真向かい、リンクのど真ん中。まだ閑散としている観客席の最前列で、手すりから身を乗り出してタオルを回す。

 コンサートにでもやってきたかのようなテンションだが、氷の上にはまだ誰もいない。

 

「フゥーッ!」

 

 さらに奇声を発する白人美女。誰がどう見ても様子がおかしい彼女は、名港ウインドのアシスタントコーチ、エイヴァ先生である。

 

「みんな調子よさそう〜、ガンバレ〜!」

 

 氷の上には誰もいないのだが、彼女は銀盤の上に向かって叫んでいる。常人では見えない何かが見えているのかもしれない。

 ありえる、と鯨哉は思った。

 エイヴァ先生の目の下には大きなクマ。普段から肌の白い彼女ではあるが、現在の顔色は白を通り越してちょっと青い。

 

「イエーイ!」

 

 これぞ寝不足High。

 彼女には夜泣きする1歳児の娘がいる。

 名前は汐恩(しおん)。寝付きは悪いし夜中に泣き叫ぶため、エイヴァが熟睡するのは不可能。酷い時は一睡もできずに朝を迎えてしまうことも。本日は気付いたら4時だったので、もういいやと寝ないで会場に来たらしい。

 

「エイヴァ、エイヴァ。しおんの面倒なら私も見るから、もっとちゃんと睡眠とろう?」

 

 と優しい言葉をかけるのは、お姫様のような女の子だった。ともすれば痛いと言われかねない、ヒラッヒラのお子様用ドレスを着ている。まあ、ちゃんと似合っているから良いのだが。

 

「だいじょうぶ〜アハハ」

「目が死んでるよ……?」

 

 最前列の席に座っていた少女は、心配そうにエイヴァの隣に移動してきた。

 彼女の名前は狼嵜(かみさき)(ひかる)

 現在は小学2年生で、住んでいるのは鴗鳥家。血は繋がっていないが、事情があって永遠の居候なのだとか。実の娘のように育てられているので、満ち足りた日々を送っているようだ。

 

「ひかるはやさしいね〜。ゼッタイ素敵なおよめさんになる〜。(きょう)もおもうよね?」

「はい。王子様は理凰(りおう)かな?」

 

 鯨哉はエイヴァの隣で振り返り、静かに座っている理凰(りおう)を見やった。真顔で膝の上に両手を乗せて、とても良い姿勢。カチコチである。男子の出番はまだ先なのに、既に緊張で石像と化している。

 本日はまずは四人で観戦予定。途中で理凰は抜けるが、演技が終わったクラブメイト達は寄ってくるのかもしれない。寄ってこないかもしれない。そこはなんとも言えない鯨哉だったが、とにかく理凰がカチコチすぎて心配であった。

 

(ひかるちゃん見に来てるから、余計にハラハラドキドキしてるんだろうな……いじったから可哀想だから、そっとしとこう)

 

 彼は同居している狼嵜光に恋をしている。本人は(かたく)なに認めようとしないが、鯨哉(きょうや)にはお見通しだ。光の前でやたらと格好つけようとするし、ひざまずいてジュースのペットボトルを渡そうとするし、そんなもん察せない方がおかしい。

 

「りおうはイケメンになるよ〜。光ちゃん、今から予約しといた方がいいかもよ?」

「フッ……アハハハハ! きょうや君おもしろーい!」

「……んっ?」

 

 光は可愛らしい顔をバッと下に向けて、お腹に手をあてて笑っている。どうやらウケたらしいが、鯨哉はボケたつもりはない。今の言葉のどこに面白要素があったというのか。りおうの心を傷つけたら大変なので、この話は打ち切りとすることにした。

 

「フフッ……ご、ごめん。ほんとおもしろくて……コホンッ……そうそう、初級の優勝は誰になるかな〜? やっぱり夕凪(ゆうな)ちゃん?」

 

 光はわざとらしく咳払いをすると、「どう思う?」、と軽く首をかしげた。光は()()名港の生徒ではないもののスケート好きで、ちょくちょく理凰(りおう)に教えて貰っている。練習を(のぞ)きに来ることもあるため、鯨哉(きょうや)を含む名港の生徒の何人かとは面識がある。

 

「どうかな。夕凪(ゆうな)の他に2回転持ちが2人いるからね。名城の足利(あしかが)刹那(せつな)ちゃんと豊橋の子。夕凪もそうだけど、その2人も初級レベルじゃないから大変だ」

 

 名城といえば姉の後輩になるわけだが、何の絡みもないし興味もないとのこと。だからどんな人間かもわからないそうだ。試しに聞いてみたら予想通りの答えが返ってきたので、思わず笑ってしまった鯨哉だった。それはそうと今晩は殺されないように気をつけなければいけない。今になって煽ったことを後悔しているが、腹水は盆に返らない。

 

「へー。他には他には?」

「りんながキレッキレだから、いい線いくかも」

 

 ここ1週間の申川りんなは好調をキープ……どころの話ではなく、誇張表現なしでキレッキレだった。ジャンプは高いしスピンは速い。相変わらずアクセルの安定感はないが、それ以外はかなりいい感じに仕上がっている。アクセルが間に合えば良かったのだが、こればかりは仕方ない。

 りんなは去年から今年の途中まで完全休養していた。単純に時間が足りなかったのだ。

 

「そっかぁー。りんなちゃんって綺麗なスケートするよね。でも2回転はないんでしょ?」

「うん。まあ、そのうちできるようになるよ。フィジカルはもう持ってるわけだし」

「そうなの?」

「高さも速度も足りてると思うよ。でも、本人がいまいちピンときてないし、なんかジャンプ自体に苦手意識があるっぽいんだよね。特にアクセル。陸の上では余裕で出来てるくせに、氷に乗るとできない。技術的なことは頭でわかってても、無意識の動作で上手くいかないんだ」

 

 原因はいくつかあるのだろう。去年の名港杯で大失敗して最下位転落したこと。その直後に足のコンディション不良で苦しみ、どうにかしようと無理に練習した時、ジャンプの転倒で更に痛めた。結果的に復帰までの時間が伸びてしまって……飛ぶこと自体が怖いのかもしれない。

 

「ふーん。そういうものなんだ。なんだかもったいないね。意識のせいで飛べないって」

「メンタル弱いって言うのは簡単だけど、これが結構むずかしくてね。僕も含めて、そういう選手は多いと思うよ」

 

 言いながら手すりを撫でるとひんやり冷たい。背筋も冷たいような気がしたから振り返ってみると、眼鏡の美少年がこちらを見ていた。

 理凰である。

 少し目を離した隙に頭を抱えている。物理的に両手で頭を掴んで、追い詰められた顔で鯨哉のことを凝視していた。目はウルウルしていて、体はプルプルと震えている。

 

「きょ、きょうや君は……すきなひといるよね?」

 

 その声色は絶望感たっぷりであった。 

 もしかしなくても嫉妬している。この理凰くん、鯨哉(きょうや)が光と話していると高確率でこういう状態になってしまう。まるで余裕がない。見ていて悲しくなるし、居た堪れない気持ちにもなる。だからやめて欲しいのだが、普通にできるならとっくにやっているだろう。

 

「す、すきなひとぉ……ッ」

「いるから落ち着いて。すごく好きな人いるから。だから落ち着いてくださいお願いほんと怖いから」

「だれかおしえてくれたらいいよっ!」

 

 理凰ではなく光が声を発した。鯨哉は危うく答えそうになってしまった。

 この狼嵜光ちゃん、年齢のわりにきちんとしていて、敬語も使おうと思えば使えるし、空気を読んで立ち回ることもできる偉い子だ。一方でちょっと小悪魔なところもあって、特技のひとつは『不意打ち』。誘導尋問してくる時もあるから、鯨哉としては油断ならないと感じている。

 

「じゃあ教えてあげるよ。好きな人は(らん)ねーちゃん」

「そっかー。きょうや君って頭脳は大人だったんだねー。もしかして行ったところで必ず殺人事件が起こったりする?」

「するするー」

「わぁ大変だ! 麻酔銃うちこんであげるねー」

「違うから。コナンくん麻酔銃打たれる側じゃないから」

 

 いきなり空気感が掴みづらくなったりもするし、頭の中で何を考えているかは不明である。まだスケートを本格的に始める前なのに、やたら技術的に詳しかったり不思議な点もあったりと、よくわからんところが多い。

 

「っ、な、仲良い……そんな……」

「理凰。りおう。ゾンビみたいにフラフラと迫ってこないで。怖い」

「アハハハハ! ほんとだゾンビみたーい! 私、きょうや君の背中の後ろに隠れるー!」

「やめろ修羅場を楽しむんじゃない!」

 

 光は「きゃー」と近寄ってきたが、話がややこしくなるからお断りである。絶望している理凰を見て面白がっているのは明らかで、やっぱこの子あんまり性格良くないんじゃないかと思った。  

 

(なんだろ。趣味が悪いってやつ?)

 

 いるかお姉ちゃんも悪趣味だから、鯨哉(きゃうや)は趣味の悪さには慣れている。でも、慣れている=大歓迎なわけではないし、少年の心を弄ぶなんて可哀想がすぎる。

 

「そういやエイヴァ先生は……んっ!‍?」

 

 気配が消えたことを不審に思い、観客席を見てみると、エイヴァは寝てた。

 

「大丈夫だよ時間になったら起きるから。エイヴァはね、すごいの。体内アラームセットできるんだよ!」

「おー。それはすごい! すごいねー?」

 

 謎に2人で「「おー」」、と小さく拍手をする中、理凰は椅子とキスをしていた。顔面を椅子に押し付けて悲しんでいたのだ。

 放っておいたら魂が全部抜けちゃいそうだったので、鯨哉(きょうや)は優しく肩に手を置いて、先輩として慰めた。

 

 

 

────────────────────────

 

 

 

 はじめてきちんと受け持った生徒が、最初の大会で全てのジャンプを失敗。ヘロヘロになって戻ってきた翌日にはシンスプリント*1が悪化。休養期間中に焦って自主練して別の箇所まで痛めてしまい、大切な時間を無駄にした。

 雉多(きじた)輝也(しょうや)がコーチとして見てきたものの全てだ。

 尊敬している鴗鳥慎一郎に誘われてコーチになったがいいが、何もかもが上手くいかずここまできた。

 ぶっちゃけた話、途中からは億劫になった。

 どれだけ真剣に考えて話しても、伝わらない、わかってくれない、レッスンでの集中力が続かない。モチベーションが安定しない。挙げ出せばキリがないほど、イラッとしたことは多かった。

 

輝也(しょうや)君は優しい人です。だから、私は君と一緒にやりたいと思った』

『いや、わかりませんって……どう考えても向いてないでしょう。俺はそこまで大人にはなれませんよ』

 

 ある時、慎一郎と食事に行った時の会話。

 自分でコーチ失格だと思いながらも、この人に嘘はつきたくなかったから、言った。

 

『最後はコーチなんてアテにしてなかった。何言われても全部シカトしてましたもん。無断で構成変えたことも1回や2回じゃない。そんな俺が、言えないでしょ。生徒に言うこと聞けなんて』

 

 現役時代が後半に差し掛かった頃、コーチというものに不信感を抱くようになった。大きな故障をした時、あからさまに素っ気なくされたことがあって、その時に思ってしまったのだ。

 簡単に(てのひら)返すんだったらもう知らねえ、こっちは自分の為だけにやらせてもらうわ──と。

 その人は3人目のコーチだった。

 結局、喧嘩別れして、最初に師事した女性コーチのところに戻って……その時には荒れに荒れていたから、最後まで衝突がたえなかった。

 

『でも、俺はコーチだ。あなたの顔に泥を塗るわけにはいかないから、どうにかしようとやってます。でも、俺はりんなとは合わない。良かれと思ってやったことが全部、裏目に出る。生徒ボロボロにするコーチなんか要らないでしょう。だから、変えてください』 

 

 間違いなく才能はある。足腰が強い。柔らかい。生まれ持ったバネがある。意外にメンタルが強い。スケート好きで笑顔が可愛い。幼いながらも手足が長くて見栄えがする。良いところは沢山わかるのに、やることなすことマイナスの結果になってしまう。

 

『それに、イラッとするんです……子供じみてるって言われるでしょうけど、休むって約束してたくせに勝手に自主練して、バカみてーにもっと怪我して……慰める気にもならなかった……コーチとしてダメでしょ。だから、変えてください。俺にガキは無理なんです』

 

 つまり相性が悪い。そして、相性が良くないコーチに師事していても、選手は幸せになれない。自分の過去の経験からそう思わずにはいられなくて、恥を忍んで『変えて欲しい』と頼んだ。

 

『いえ、変えるつもりはありません』

 

 でも、却下された。

 

『──絶対に変えて欲しくない。りんな君もご両親もそう話しています。心配もしていました。良くないことが続いて、君が悩んでいるのは伝わっているんです。コーチが抱える罪悪感は選手にもご両親にも関係ない。それは肝に銘じておいてください』

 

 気遣われるのは褒められたことではない、と静かに叱られて、更に言われた。

 今度はにっこりと顔にシワを刻み、ともすれば老人のような笑みを浮かべて。慎一郎はオリンピック銀メダリストである一方、スケートの実力とは別に老け顔にも定評のある男だった。

 

『あなたは義理堅くて優しい人です。とても凄い探究心を持ったスケーターでもあった。そして、ハッキリと物申すことのできる才能がある。そう、才能です。私はそこも頼りにしているんですよ』

 

 慎一郎は新たな肉を輝也(しょうや)の皿に取り分けると、更に深みのある声を響かせた。高いしゃぶしゃぶ屋なのに、慎一郎はひたすら後輩に肉を食わせ、自分は野菜ばかりを食べていた。

 

『リハビリに明け暮れることの多かった私に、君は色んな話をしてくれましたね。現役が少しでも長くなるようにと、気遣ってくれました。そして何より、ハッキリと言葉で伝えてくれた。まだ私のスケートを見ていたいし、信じてもいると。自分が勝つまで辞められたら困るとも。時に手厳しい言葉もありましたが、全てが私の救いになってくれた』

 

 

 あなたは誰かを支え、救うことのできる人間だ──。

 

 

 慎一郎はそう言って、ようやく肉を食べ始めた。

 何も言い返すことはできず、輝也もよそって貰った肉を食った。室内はとても暖房がきいていた。外はどことなく切ない雰囲気で、もうすぐ大晦日という季節だった。

 

 

『君は自分の振る舞いについても悩んでいるようですが……大人だからといって、コーチだからといって聖人である必要はないんですよ。至らないところがあって当たり前。補い合えばいいのです。人間なのですから。それに、そのために私がいる』

 

 生徒にフォローされているような情けないヘッドコーチだが、力になって欲しい。

 輝也は改めて頭を下げられて、それがテーブルについてしまうほど低かったので、慌てた。

 

『ちょ! 土下座もどきはやめてください! 困りますってホント!』

 

 あれから年が変わって、りんながスケートリンクに戻ってきて、あっという間に2度目の名港杯。

 去年のトラウマじみた惨敗を払拭するためにも、出来る限り上の順位に導いてやりたい。そのためにはギャンブルなんてさせられない。らしくないと言われようが、取れる順位を確実に取らせる。

 輝也(しょうや)はそのように決めていた。

 

 

──────────────────────

 

 

 氷の上では強くいたい。

 りんなは最近そう思っている。

 人前に出るのは恥ずかしいし、失敗するのはとても怖い。できなかった経験が増えていくたび、応援してくれる両親や先生への罪悪感が増えていく。でも、好きなことを好きなだけやらせてもらっているんだから、せめて氷の上では。この銀盤の上に出てきたのなら、情けない姿は見せたくない。

 子供っぽくてメソメソしてて、ダメだってわかってるのに変えられない。そんな恥ずかしい自分だけど、せめて大好きなスケートをしている時だけは。

 

 

「後でアイス買ってやるから、何にすんのか考えながらやってこい」

「そんなことしたら、転びそう……」

「いいんだよ転んだって。アイス何にすんのかは重要だろ。アイスって言っても色々あるんだ。高いの買えばいいとか思ってるやつはアホだ。何が食いたいのかが大切なんだろ」

「えーっと、どういうこと?」

「俺にもわからん。本当にアイスのこと考えながら滑るなよ。それで転んだら泣くに泣けねぇ」

「なんなの!‍?」

 

 競技開始直前。

 りんなは4分間練習を終えて、リンクサイドに戻ってきていた。これで、名前が呼ばれたら試合開始。最後の打ち合わせタイムなわけだが、きじた先生はアイスの単語を4回も言った。この大切な時に適当すぎると、りんなは肩を落としたが、先生はいつも通りのキザな笑みを浮かべている。

 

「──普通に転ぶ分には構わねえ。また1からやり直せばいい。また積み上げればいい。俺はお前が気が済むまで付き合ってやるから、ビビる必要は全くねえよ」

 

 普段は素っ気ない人間が見せるストレートな気遣い。女子ならウットリしてしまいそうなところだが、そんな暇もなく名前が呼ばれた。

 

 

『1番、申川(さるかわ)りんなさん。名港ウインドFSC』 

 

 開幕を告げる場内アナウンスと共に背中を叩かれ、開始位置へと。

 

「おら、行ってこい! お前がナンバーワンだ! 滑り終わった時点でナンバーワンだ!」

「そりゃそうだよ!」

 

 りんなは吹き出しそうになった。

 コーチも緊張しているのかもしれない。

 1番滑走が滑り終わったら、そりゃあ一時的にナンバーワンで間違いない。そして、できれば少しでも長く、あのキラキラしたキス・アンド・クライに座っていたい。

 

(人、増えてきた……まわり見えてる。なんか、いけそう!)

 

 さざ波のような拍手の音が鮮明に聞こえる。

 シンプルな黒い衣装が冷風になびいている。ブラックスワンのイメージと言われたけど、よくわかっていないけどっ、とりあえず大人っぽいからヨシ!

 右手の位置、胸にあてて淑女のポーズ、ヨシ! 

 もろもろ多分オッケーそうだから、ヨシ!

 

(とりあえずいけそうだから、ヨシ!)

 

 拍手が鳴り止み、一瞬の静寂が破られる。

 

「──っ」

 

 曲は轟音と共に始まった。

 体がフワフワするのを我慢して、エッジで氷をしっかり押し込む。オーケストラがト短調を強打する。轟く男性の合唱。すぐに女の声が重なり、音が激しくぶつかり合った。

 選曲したのは映画『ラクリモサ』より『Dies Irae』。

 音楽のジェットコースターとも評される激しい曲で、りんなは聞いててワクワクする。

 

(1本目、コンビネーション……まずはシングルサルコウ!)

 

 氷がぐんぐん体を押してくれる。足が軽い。いつもよりもスピードが出ている気がする。

 想像していたようなガチガチの緊張感はなくて、むしろ速攻で楽しくなってきた。パニックな感じの曲に合わせて踊るの超楽しい。

 円を描くような起動から、後ろ向きの踏切り姿勢に入る。いける。思っきりやればきっと()()()()()()()()

 

(これいける! いけるいけるいけ──るぅッ!)

 

 左足が氷に吸い付くような感覚。いつもは抑えこもうと必死なのに、そこまでの力みは必要なかった。右足の振り上げと共に飛び上がる。

 ハの字の形からの跳躍。槍のような形になって、回る、回った。視界が猛烈に回転する中で両手を上げる。いつもより速く光の線が錯綜して、あっという間に衝撃がきた。

 直前、遠くで悲鳴が聞こえた。

 

 

「──────っっ!‍?」

 

 

 足と()

 ()()()

 衝撃が襲ってきたのは全て。

 つまり転倒。だが絶望していたら試合が終わる。

 痛みを感じるよりも早く血の気が引いて、しかし何事もなかったような顔で起き上がる。

 

(〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、まだまだ! リカバリーはしっかりやる!)

 

 励ましの拍手はまばら。

 会場はざわついていた。いきなり可哀想とか思われているかもだが、まだここから取り返す。

 りんなはめげるとごろかメラメラと燃え上がり、氷を蹴る音を響かせた。

 

 

 

──────────────────────

 

 

 

 転倒。

 誰がどう見ても転倒。

 よってGOEは大減点。予定していたコンビネーションは後に回すしかなくなり、いきなり構成を変えなければいけなくなった。応援している者としては頭を抱えざるを得ない展開。そのはずなのだが、鯨哉(きょうや)は悲鳴どころか少しも声を漏らさなかった。

 立ち上がって演技続行している少女を、食い入るように見つめている。呆然とした表情で。

 

「……」

「ダウングレード……じゃないよね。回りきってたと思うんだけど……」

 

 右側に座っている光に言われて、我に返ったように口を開く。

 

「っ……そうね。2()()()サルコウ。転倒はしたけどちゃんと回り切ってた」

 

 嘘だろ、と顔が引きつる。 

 これは流石に予想していない。予定では1発目のジャンプはシングルサルコウ+シングルトウループ。なんでいきなり回転数が増えたりするのか。

 きっとコーチも意味不明だろう。その証拠に暴れんボーイ先生はパクパク口を動かしている。まるで打ち上げられた熱帯魚のようだ。姉の影響もあって、鯨哉は熱帯魚が好きである。

 

「きょうや君。わたし思ったんだけど……思っきりやったら回っちゃった……とかじゃない?」

「……僕にはわかんない。理解できない。感動したけど、それよりビビっちゃって、どうしていいかわかんない」

 

 お次はシングルフリップ。

 りんなは気分良さそうに音楽に乗って飛び上がり、クリーンに降りた。今度は1回転だった。

 練習でもあんまり見た事のない見事な着氷だった。

 1番滑走で泣きわめいてた女は何処に?

 

「きょーや君。りんなちゃんって異常に本番に強かったりする?」

「わかんない」

 

 とにかく頑張れ。

 ダウングレード*2なければ上位進出ある。

 鯨哉は祈るようにエールを送った。

 

 

 

 

 

*1
すねを覆う筋肉が炎症を起こした状態

*2
回転数不足と判定された場合の減点

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