岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
『コーチ変えてもらうよう言ったんだけどさ』
先日、クソ親お母さんに言われた。
ヘッドコーチにもクレーム入れたらしい。でも説得されて、今シーズンはこのままで良いってなったんだって。それはまあ、良かった。私としてはコーチ変えるとかないから。とっても信頼してる人だからヤダ! とかじゃなくて、時期が悪い。
シーズン始まったこのタイミングはない。
だから現状維持でひと安心。めでたしめでたしって、そんなわけあるか!
(お母さん達の私を見る目がやばい。悪口言ってた奴らは近付くと逃げるようになったし、まあそれはいいとして……コーチから腫れ物に触るみたいにされるようになった。マジ無理。別のリンクで練習したい)
ただでさえ私だけ異物って感じだったのに、今や汚物……腐ったミカンみたいに見られてるかも。うちのクソ親お母さんってちょっとアレで……言ってやったぜくらいの自信満々な顔で、他のお母さん方に自慢げに話してたらしいよ。
やばいわ鋼メンタル最強かよ。
お前ら頭おかしいよって言われても、返す言葉もございませんって思うわ。流石の
(
クソ親お母さんの愚行について、弟はまだ聞いてないみたいだ。知ってたら今朝みたいな悪口は言ってこないはずだから、本当に知らないんだと思う。でもバレるのは時間の問題だから、そうなった時の反応が楽しみだな。
死んで詫びるとか言い出すかもしれない。
私は優しいから普通に許すけども、土下座くらいは欲しいところだ。言えばするだろうし、自分からやるかもな。お姉さまをいい気分にさせる方法を知ってるからね、奴は。ムカつくから褒めないけど、かなりよくできたルームメイトだよ。
(それはともかく…これ、コーチ変える変えない以前に、クラブに居続けるのキツくないか?)
どう考えてもキツいわな。しかし、私はやらせてもらってる立場なので選択肢などない。スケート続けるためには、針のむしろでもここでやっていくしかない。フィギュアスケートが個人競技で良かった。団体スポーツだったら流石に辞めてた。やろうとしてもイジメ発生するだろうな。
(……クラブでの人間関係とか、結果には何の関係もないんだ。私はちゃんと全国レベルでやれてる。今は我慢して我慢して……いつか、
リンクサイドが遠く見える。
コーチが何か言ってるけど、全く耳に入ってこない。雑音にしか聞こえない。別にいい。どうせ面倒くさいって思ってんだろうし、仲良くする必要なんかないんだから。
「いるかー! ちょっとダレてんぞー! 疲れてきてるなら休んでいいよー!」
上手くやろうと頑張ったって、こうやって気まずい感じになる。私は悪くないのにね。やってられるかって話だ。
(それにあれだよ。どうせみんな上っ面だけだから。どんな親切な大人でも、いつ突き放されるかわからない。期待するだけ疲れるだけ)
何かとしつこい
(あんだけ良くしてくれてたのに、今はすれ違っても目すら合わせてくれないからな。他人っていうのは結局、そんなもんなんだと思う)
こっちが悪いってのは重々承知してても、
こういう話になると、どっかのおばさんを真っ先に思い出す。
クソ親お母さんのせいで集中できない。
無性にイラつく。目に入るもん全部ムカつく。どいつもこいつもクソったれだ。
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午前7時を少し回った頃。
名古屋のスケートファンならお
「グッモーニンスケートリンク! イエイッ!」
位置としてはジャッジ席の真向かい、リンクのど真ん中。まだ閑散としている観客席の最前列で、手すりから身を乗り出してタオルを回す。
コンサートにでもやってきたかのようなテンションだが、氷の上にはまだ誰もいない。
「フゥーッ!」
さらに奇声を発する白人美女。誰がどう見ても様子がおかしい彼女は、名港ウインドのアシスタントコーチ、エイヴァ先生である。
「みんな調子よさそう〜、ガンバレ〜!」
氷の上には誰もいないのだが、彼女は銀盤の上に向かって叫んでいる。常人では見えない何かが見えているのかもしれない。
ありえる、と鯨哉は思った。
エイヴァ先生の目の下には大きなクマ。普段から肌の白い彼女ではあるが、現在の顔色は白を通り越してちょっと青い。
「イエーイ!」
これぞ寝不足High。
彼女には夜泣きする1歳児の娘がいる。
名前は
「エイヴァ、エイヴァ。しおんの面倒なら私も見るから、もっとちゃんと睡眠とろう?」
と優しい言葉をかけるのは、お姫様のような女の子だった。ともすれば痛いと言われかねない、ヒラッヒラのお子様用ドレスを着ている。まあ、ちゃんと似合っているから良いのだが。
「だいじょうぶ〜アハハ」
「目が死んでるよ……?」
最前列の席に座っていた少女は、心配そうにエイヴァの隣に移動してきた。
彼女の名前は
現在は小学2年生で、住んでいるのは鴗鳥家。血は繋がっていないが、事情があって永遠の居候なのだとか。実の娘のように育てられているので、満ち足りた日々を送っているようだ。
「ひかるはやさしいね〜。ゼッタイ素敵なおよめさんになる〜。
「はい。王子様は
鯨哉はエイヴァの隣で振り返り、静かに座っている
本日はまずは四人で観戦予定。途中で理凰は抜けるが、演技が終わったクラブメイト達は寄ってくるのかもしれない。寄ってこないかもしれない。そこはなんとも言えない鯨哉だったが、とにかく理凰がカチコチすぎて心配であった。
(ひかるちゃん見に来てるから、余計にハラハラドキドキしてるんだろうな……いじったから可哀想だから、そっとしとこう)
彼は同居している狼嵜光に恋をしている。本人は
「りおうはイケメンになるよ〜。光ちゃん、今から予約しといた方がいいかもよ?」
「フッ……アハハハハ! きょうや君おもしろーい!」
「……んっ?」
光は可愛らしい顔をバッと下に向けて、お腹に手をあてて笑っている。どうやらウケたらしいが、鯨哉はボケたつもりはない。今の言葉のどこに面白要素があったというのか。りおうの心を傷つけたら大変なので、この話は打ち切りとすることにした。
「フフッ……ご、ごめん。ほんとおもしろくて……コホンッ……そうそう、初級の優勝は誰になるかな〜? やっぱり
光はわざとらしく咳払いをすると、「どう思う?」、と軽く首をかしげた。光は
「どうかな。
名城といえば姉の後輩になるわけだが、何の絡みもないし興味もないとのこと。だからどんな人間かもわからないそうだ。試しに聞いてみたら予想通りの答えが返ってきたので、思わず笑ってしまった鯨哉だった。それはそうと今晩は殺されないように気をつけなければいけない。今になって煽ったことを後悔しているが、腹水は盆に返らない。
「へー。他には他には?」
「りんながキレッキレだから、いい線いくかも」
ここ1週間の申川りんなは好調をキープ……どころの話ではなく、誇張表現なしでキレッキレだった。ジャンプは高いしスピンは速い。相変わらずアクセルの安定感はないが、それ以外はかなりいい感じに仕上がっている。アクセルが間に合えば良かったのだが、こればかりは仕方ない。
りんなは去年から今年の途中まで完全休養していた。単純に時間が足りなかったのだ。
「そっかぁー。りんなちゃんって綺麗なスケートするよね。でも2回転はないんでしょ?」
「うん。まあ、そのうちできるようになるよ。フィジカルはもう持ってるわけだし」
「そうなの?」
「高さも速度も足りてると思うよ。でも、本人がいまいちピンときてないし、なんかジャンプ自体に苦手意識があるっぽいんだよね。特にアクセル。陸の上では余裕で出来てるくせに、氷に乗るとできない。技術的なことは頭でわかってても、無意識の動作で上手くいかないんだ」
原因はいくつかあるのだろう。去年の名港杯で大失敗して最下位転落したこと。その直後に足のコンディション不良で苦しみ、どうにかしようと無理に練習した時、ジャンプの転倒で更に痛めた。結果的に復帰までの時間が伸びてしまって……飛ぶこと自体が怖いのかもしれない。
「ふーん。そういうものなんだ。なんだかもったいないね。意識のせいで飛べないって」
「メンタル弱いって言うのは簡単だけど、これが結構むずかしくてね。僕も含めて、そういう選手は多いと思うよ」
言いながら手すりを撫でるとひんやり冷たい。背筋も冷たいような気がしたから振り返ってみると、眼鏡の美少年がこちらを見ていた。
理凰である。
少し目を離した隙に頭を抱えている。物理的に両手で頭を掴んで、追い詰められた顔で鯨哉のことを凝視していた。目はウルウルしていて、体はプルプルと震えている。
「きょ、きょうや君は……すきなひといるよね?」
その声色は絶望感たっぷりであった。
もしかしなくても嫉妬している。この理凰くん、
「す、すきなひとぉ……ッ」
「いるから落ち着いて。すごく好きな人いるから。だから落ち着いてくださいお願いほんと怖いから」
「だれかおしえてくれたらいいよっ!」
理凰ではなく光が声を発した。鯨哉は危うく答えそうになってしまった。
この狼嵜光ちゃん、年齢のわりにきちんとしていて、敬語も使おうと思えば使えるし、空気を読んで立ち回ることもできる偉い子だ。一方でちょっと小悪魔なところもあって、特技のひとつは『不意打ち』。誘導尋問してくる時もあるから、鯨哉としては油断ならないと感じている。
「じゃあ教えてあげるよ。好きな人は
「そっかー。きょうや君って頭脳は大人だったんだねー。もしかして行ったところで必ず殺人事件が起こったりする?」
「するするー」
「わぁ大変だ! 麻酔銃うちこんであげるねー」
「違うから。コナンくん麻酔銃打たれる側じゃないから」
いきなり空気感が掴みづらくなったりもするし、頭の中で何を考えているかは不明である。まだスケートを本格的に始める前なのに、やたら技術的に詳しかったり不思議な点もあったりと、よくわからんところが多い。
「っ、な、仲良い……そんな……」
「理凰。りおう。ゾンビみたいにフラフラと迫ってこないで。怖い」
「アハハハハ! ほんとだゾンビみたーい! 私、きょうや君の背中の後ろに隠れるー!」
「やめろ修羅場を楽しむんじゃない!」
光は「きゃー」と近寄ってきたが、話がややこしくなるからお断りである。絶望している理凰を見て面白がっているのは明らかで、やっぱこの子あんまり性格良くないんじゃないかと思った。
(なんだろ。趣味が悪いってやつ?)
いるかお姉ちゃんも悪趣味だから、
「そういやエイヴァ先生は……んっ!?」
気配が消えたことを不審に思い、観客席を見てみると、エイヴァは寝てた。
「大丈夫だよ時間になったら起きるから。エイヴァはね、すごいの。体内アラームセットできるんだよ!」
「おー。それはすごい! すごいねー?」
謎に2人で「「おー」」、と小さく拍手をする中、理凰は椅子とキスをしていた。顔面を椅子に押し付けて悲しんでいたのだ。
放っておいたら魂が全部抜けちゃいそうだったので、
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はじめてきちんと受け持った生徒が、最初の大会で全てのジャンプを失敗。ヘロヘロになって戻ってきた翌日にはシンスプリント*1が悪化。休養期間中に焦って自主練して別の箇所まで痛めてしまい、大切な時間を無駄にした。
尊敬している鴗鳥慎一郎に誘われてコーチになったがいいが、何もかもが上手くいかずここまできた。
ぶっちゃけた話、途中からは億劫になった。
どれだけ真剣に考えて話しても、伝わらない、わかってくれない、レッスンでの集中力が続かない。モチベーションが安定しない。挙げ出せばキリがないほど、イラッとしたことは多かった。
『
『いや、わかりませんって……どう考えても向いてないでしょう。俺はそこまで大人にはなれませんよ』
ある時、慎一郎と食事に行った時の会話。
自分でコーチ失格だと思いながらも、この人に嘘はつきたくなかったから、言った。
『最後はコーチなんてアテにしてなかった。何言われても全部シカトしてましたもん。無断で構成変えたことも1回や2回じゃない。そんな俺が、言えないでしょ。生徒に言うこと聞けなんて』
現役時代が後半に差し掛かった頃、コーチというものに不信感を抱くようになった。大きな故障をした時、あからさまに素っ気なくされたことがあって、その時に思ってしまったのだ。
簡単に
その人は3人目のコーチだった。
結局、喧嘩別れして、最初に師事した女性コーチのところに戻って……その時には荒れに荒れていたから、最後まで衝突がたえなかった。
『でも、俺はコーチだ。あなたの顔に泥を塗るわけにはいかないから、どうにかしようとやってます。でも、俺はりんなとは合わない。良かれと思ってやったことが全部、裏目に出る。生徒ボロボロにするコーチなんか要らないでしょう。だから、変えてください』
間違いなく才能はある。足腰が強い。柔らかい。生まれ持ったバネがある。意外にメンタルが強い。スケート好きで笑顔が可愛い。幼いながらも手足が長くて見栄えがする。良いところは沢山わかるのに、やることなすことマイナスの結果になってしまう。
『それに、イラッとするんです……子供じみてるって言われるでしょうけど、休むって約束してたくせに勝手に自主練して、バカみてーにもっと怪我して……慰める気にもならなかった……コーチとしてダメでしょ。だから、変えてください。俺にガキは無理なんです』
つまり相性が悪い。そして、相性が良くないコーチに師事していても、選手は幸せになれない。自分の過去の経験からそう思わずにはいられなくて、恥を忍んで『変えて欲しい』と頼んだ。
『いえ、変えるつもりはありません』
でも、却下された。
『──絶対に変えて欲しくない。りんな君もご両親もそう話しています。心配もしていました。良くないことが続いて、君が悩んでいるのは伝わっているんです。コーチが抱える罪悪感は選手にもご両親にも関係ない。それは肝に銘じておいてください』
気遣われるのは褒められたことではない、と静かに叱られて、更に言われた。
今度はにっこりと顔にシワを刻み、ともすれば老人のような笑みを浮かべて。慎一郎はオリンピック銀メダリストである一方、スケートの実力とは別に老け顔にも定評のある男だった。
『あなたは義理堅くて優しい人です。とても凄い探究心を持ったスケーターでもあった。そして、ハッキリと物申すことのできる才能がある。そう、才能です。私はそこも頼りにしているんですよ』
慎一郎は新たな肉を
『リハビリに明け暮れることの多かった私に、君は色んな話をしてくれましたね。現役が少しでも長くなるようにと、気遣ってくれました。そして何より、ハッキリと言葉で伝えてくれた。まだ私のスケートを見ていたいし、信じてもいると。自分が勝つまで辞められたら困るとも。時に手厳しい言葉もありましたが、全てが私の救いになってくれた』
あなたは誰かを支え、救うことのできる人間だ──。
慎一郎はそう言って、ようやく肉を食べ始めた。
何も言い返すことはできず、輝也もよそって貰った肉を食った。室内はとても暖房がきいていた。外はどことなく切ない雰囲気で、もうすぐ大晦日という季節だった。
『君は自分の振る舞いについても悩んでいるようですが……大人だからといって、コーチだからといって聖人である必要はないんですよ。至らないところがあって当たり前。補い合えばいいのです。人間なのですから。それに、そのために私がいる』
生徒にフォローされているような情けないヘッドコーチだが、力になって欲しい。
輝也は改めて頭を下げられて、それがテーブルについてしまうほど低かったので、慌てた。
『ちょ! 土下座もどきはやめてください! 困りますってホント!』
あれから年が変わって、りんながスケートリンクに戻ってきて、あっという間に2度目の名港杯。
去年のトラウマじみた惨敗を払拭するためにも、出来る限り上の順位に導いてやりたい。そのためにはギャンブルなんてさせられない。らしくないと言われようが、取れる順位を確実に取らせる。
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氷の上では強くいたい。
りんなは最近そう思っている。
人前に出るのは恥ずかしいし、失敗するのはとても怖い。できなかった経験が増えていくたび、応援してくれる両親や先生への罪悪感が増えていく。でも、好きなことを好きなだけやらせてもらっているんだから、せめて氷の上では。この銀盤の上に出てきたのなら、情けない姿は見せたくない。
子供っぽくてメソメソしてて、ダメだってわかってるのに変えられない。そんな恥ずかしい自分だけど、せめて大好きなスケートをしている時だけは。
「後でアイス買ってやるから、何にすんのか考えながらやってこい」
「そんなことしたら、転びそう……」
「いいんだよ転んだって。アイス何にすんのかは重要だろ。アイスって言っても色々あるんだ。高いの買えばいいとか思ってるやつはアホだ。何が食いたいのかが大切なんだろ」
「えーっと、どういうこと?」
「俺にもわからん。本当にアイスのこと考えながら滑るなよ。それで転んだら泣くに泣けねぇ」
「なんなの!?」
競技開始直前。
りんなは4分間練習を終えて、リンクサイドに戻ってきていた。これで、名前が呼ばれたら試合開始。最後の打ち合わせタイムなわけだが、きじた先生はアイスの単語を4回も言った。この大切な時に適当すぎると、りんなは肩を落としたが、先生はいつも通りのキザな笑みを浮かべている。
「──普通に転ぶ分には構わねえ。また1からやり直せばいい。また積み上げればいい。俺はお前が気が済むまで付き合ってやるから、ビビる必要は全くねえよ」
普段は素っ気ない人間が見せるストレートな気遣い。女子ならウットリしてしまいそうなところだが、そんな暇もなく名前が呼ばれた。
『1番、
開幕を告げる場内アナウンスと共に背中を叩かれ、開始位置へと。
「おら、行ってこい! お前がナンバーワンだ! 滑り終わった時点でナンバーワンだ!」
「そりゃそうだよ!」
りんなは吹き出しそうになった。
コーチも緊張しているのかもしれない。
1番滑走が滑り終わったら、そりゃあ一時的にナンバーワンで間違いない。そして、できれば少しでも長く、あのキラキラしたキス・アンド・クライに座っていたい。
(人、増えてきた……まわり見えてる。なんか、いけそう!)
さざ波のような拍手の音が鮮明に聞こえる。
シンプルな黒い衣装が冷風になびいている。ブラックスワンのイメージと言われたけど、よくわかっていないけどっ、とりあえず大人っぽいからヨシ!
右手の位置、胸にあてて淑女のポーズ、ヨシ!
もろもろ多分オッケーそうだから、ヨシ!
(とりあえずいけそうだから、ヨシ!)
拍手が鳴り止み、一瞬の静寂が破られる。
「──っ」
曲は轟音と共に始まった。
体がフワフワするのを我慢して、エッジで氷をしっかり押し込む。オーケストラがト短調を強打する。轟く男性の合唱。すぐに女の声が重なり、音が激しくぶつかり合った。
選曲したのは映画『ラクリモサ』より『Dies Irae』。
音楽のジェットコースターとも評される激しい曲で、りんなは聞いててワクワクする。
(1本目、コンビネーション……まずはシングルサルコウ!)
氷がぐんぐん体を押してくれる。足が軽い。いつもよりもスピードが出ている気がする。
想像していたようなガチガチの緊張感はなくて、むしろ速攻で楽しくなってきた。パニックな感じの曲に合わせて踊るの超楽しい。
円を描くような起動から、後ろ向きの踏切り姿勢に入る。いける。思っきりやればきっと
(これいける! いけるいけるいけ──るぅッ!)
左足が氷に吸い付くような感覚。いつもは抑えこもうと必死なのに、そこまでの力みは必要なかった。右足の振り上げと共に飛び上がる。
ハの字の形からの跳躍。槍のような形になって、回る、回った。視界が猛烈に回転する中で両手を上げる。いつもより速く光の線が錯綜して、あっという間に衝撃がきた。
直前、遠くで悲鳴が聞こえた。
「──────っっ!?」
足と
衝撃が襲ってきたのは全て。
つまり転倒。だが絶望していたら試合が終わる。
痛みを感じるよりも早く血の気が引いて、しかし何事もなかったような顔で起き上がる。
(〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、まだまだ! リカバリーはしっかりやる!)
励ましの拍手はまばら。
会場はざわついていた。いきなり可哀想とか思われているかもだが、まだここから取り返す。
りんなはめげるとごろかメラメラと燃え上がり、氷を蹴る音を響かせた。
──────────────────────
転倒。
誰がどう見ても転倒。
よってGOEは大減点。予定していたコンビネーションは後に回すしかなくなり、いきなり構成を変えなければいけなくなった。応援している者としては頭を抱えざるを得ない展開。そのはずなのだが、
立ち上がって演技続行している少女を、食い入るように見つめている。呆然とした表情で。
「……」
「ダウングレード……じゃないよね。回りきってたと思うんだけど……」
右側に座っている光に言われて、我に返ったように口を開く。
「っ……そうね。
嘘だろ、と顔が引きつる。
これは流石に予想していない。予定では1発目のジャンプはシングルサルコウ+シングルトウループ。なんでいきなり回転数が増えたりするのか。
きっとコーチも意味不明だろう。その証拠に暴れんボーイ先生はパクパク口を動かしている。まるで打ち上げられた熱帯魚のようだ。姉の影響もあって、鯨哉は熱帯魚が好きである。
「きょうや君。わたし思ったんだけど……思っきりやったら回っちゃった……とかじゃない?」
「……僕にはわかんない。理解できない。感動したけど、それよりビビっちゃって、どうしていいかわかんない」
お次はシングルフリップ。
りんなは気分良さそうに音楽に乗って飛び上がり、クリーンに降りた。今度は1回転だった。
練習でもあんまり見た事のない見事な着氷だった。
1番滑走で泣きわめいてた女は何処に?
「きょーや君。りんなちゃんって異常に本番に強かったりする?」
「わかんない」
とにかく頑張れ。
ダウングレード*2なければ上位進出ある。
鯨哉は祈るようにエールを送った。