岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
いのりさんが遠いぜ……いるかちゃん待っててね。
どのスポーツでもよく言われる。
やってしまったものは仕方がない。ミスしてしまった後にどうするのかが重要であると。フィギュアスケートにおいてもそれは同じで、起こってしまったミスをどうカバーするか。上手く立て直すことは、選手としての腕の見せどころである。
(ふーむ。いいね彼女。いきなり失敗から始まってどうなるかと思ったが、転んだとは思えないほど生き生きと演技できている)
いずれも氷を撫でるような柔らかい着氷。
最初の2回転サルコウこそ力任せな印象を受けたが、その後は上手く力が抜けて安定している。スケーティングにスピードは出ているし、ジャンプの回転速度も初級にしては十分なもの。それでいて動きがゆったりとして見えるのは、体の動きによるもの。特に腕の使い方。指先まで広く使えているからだろう。
(さて、ラスト1本。しっかり決めれば点数伸びるぞ。がんばれがんばれ)
やはり疲れてきているのだろう。動きがややバタバタしてきている感があるが、それでも丁寧に滑ろうという意識が伝わってくる。
苦しい中で雑にならないことはとても大切。
(速度は出しても駆け足にはならない。そうそう。しっかり手を広げて魅せるんだ。初級レベルでそれができる子は少ない)
幼い選手ばかりの初級クラスにおいて、最後まで高い集中力を維持できることは、それだけでも価値がある。本人の資質があるのは勿論だが、コーチの教えも良いんだろうと彼は思った。
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フィギュアスケートは採点競技。
近年は昔に比べて採点システムが改良されており、評価の透明性と可視化が進んでいる。その一例として、以前は『総合的な表現力』といういかにも曖昧な項目があったが、現在はより具体的な3つの項目*1で数値化されるようになった。
とはいえ、審判の印象が全く反映されない、完璧な機械的な採点になっているかというと、答えは
「ビックリ2回転以外はリカバリー含めて完璧。これ、思ってたより点数伸びるかもしれないですね」
「ええ。そうですね。転倒の減点を完全に取り返しただけではなく、2本目のジャンプ以降は見事な安定感でした。ジャッジの心象も悪くないはずです」
リンクサイドにて、慎一郎は満足そうに頷いた。
ここまで来れれば転倒は大きな問題にはならない。
そのことは輝也もわかっているようだ。中盤以降でミスをすると演技が遮られたと判断されて、演技構成点が伸びないケースが多々ある。逆に冒頭での失敗の後に完璧に滑ることができれば、演技構成点的にはそこまでのダメージにはなりにくい。
(初級女子の演技時間は約1分……雰囲気を取り返すための時間があまりにも少ない。そう考えると、転倒が冒頭だったのは不幸中の幸い)
まあ、それでもコーチとしては安心はできない。
輝也は声こそ落ち着いていたが、最後まで気は抜けないと念を送っていた。
(手拍子を貰うことができている。誇っていいですよ、りんな君)
最後のスピン前の振り付けのところで、場内から乾いた手拍子の音が響き始めた。
良い演技だったと観客が認めている証。
「なんか、久しぶりっすね……」
「なにがですか?」
「あいつが俺が見てる前で、俺の目を気にしないでガンガン滑ってるの……去年やらかしてから、なんか硬かったんですよね、ずっと……」
輝也は目を細めていた。
彼なりの葛藤が見て取れたが、話は大会が終わってから聞くことにしよう。自分たちはコーチで、教え子達の戦いはまだまだ続いていくのだから。
慎一郎は輝也の肩に手を置き、ぐっと握りしめた。
「それなら、これが良い機会になりますよ。必ず」
「いたたたた! 痛いっす! 握力ヤバっ……」
「ふふ、失礼しました……つい、力が入ってしまって」
さあ最後しっかり。慎一郎は迫真の表情で念を送った。周りからは普段とあまり変わらない真顔に見えていたが、本人は力んでいた。
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リンクの中央、まだあどけなさが残る背中が、一気に加速した。前向きのカーブで氷を深く削り、意を決したように右足で力強く氷を蹴り上げる。
「おっ、けっこう高い!」
観客席で光が声をあげる中、小さな体がふわりと宙に浮いた。空中で左右の足を入れ替える。着氷の瞬間、ガリッと氷を噛む音が響くが、
氷の上にTの字が生まれる。
まだ少しぐらつくけれど、必死にヒップのラインを保とうと踏ん張る。せめぎあう男性音と女性音が曲のフィナーレを告げる中で、遠心力に負けまいと耐える。回る華奢な体。ポニーテールが
──完走。
今度は手拍子ではなく激しい拍手が生まれる。
観客の反応は正直だった。自分が選手である者はもちろん、何度もスケートを観戦して目が肥えている人達、そしてよくわかっていない観戦者達も。誰が見ても良かったと感じた結果、自然と会場全体から拍手が生まれた。観客席の熱が明らかに上がった。
「スッゲー、飛んでたぞ今!」
「途中は完璧だったし、これどうなるの?」
「い、いきなり高得点かも……去年はもっと静かなスタートだったのに……名港の生徒すごー……」
口々に驚きの声を発しているのは、
演技中に名城ではああだこうだと話をしていた。名港はどんな練習してるんだろう、とも。特別なことはしていないと思った鯨哉だったが、それはともかく
「はぁ……めちゃくちゃだった。あの子、僕が思ってたより遥かに大物だったのかも」
両膝の上に両肘を乗せて前のめり、頭を抱えて疲労困憊のポーズ。
たった1分なのに凄い疲れた。
シングルジャンプのコンビネーションがまさかの2回転になって、派手な転倒。その後はフリップをクリーンに降りたかと思えば、何を思ったのかあんまり得意じゃないループのコンビネーションでリカバリー*2。さらに2本目に予定していたルッツを4本目に持ってきて……結論、準備してた構成はめちゃくちゃだった。
見ている方としては、心臓が縮んだ後もずっとハラハラ。暴れんボーイ先生はリアクションに困っているようで、変な笑いでりんなのことを出迎えていた。
「わーお……わーお……わーお……」
「エイヴァ先生?」
エイヴァ先生はわーおを連呼する呪いにかかってしまったようで、先程からわーおしか言っていない。日本語で表現するための
なお、
「きょーや君は何点くらい出ると思う?」
「最初の2回転が回転不足取られてなければ……9点台は硬いと思う。後はPCSがどれだけ伸びるかだけど……」
転倒は正直そこまで痛くない。
一般的にフィギュアスケートの転倒はマイナス1点とされているが、初級クラスのマイナスは0.2点。それならば、普通に1回転サルコウを飛ぶよりも、転倒の2回転サルコウの方が0.6点も高い。
2回転サルコウの基礎点は1.3点。1回転だと0.6点である。転倒した挙げ句にダウングレード*3を取られると話は別だが、今回は回り切っていた……ように見えた。
「あ、点数出るね」
「審判のみなさん、頼むよー……」
ザザ……とノイズ音が場内に流れた。
マイクにスイッチが入るや否や、名前と点数が落ち着いた声で読み上げられる。
──
どっっ、と。
アナウンスが終わる前にざわめきが起こった。
鯨哉は信じられないと言わんばかりの顔で、パチパチと瞬きする。光が「おー!」と可もなく不可もないリアクションを見せる中、エイヴァは「ワーオ!」とバンザイしていた。
「うぉい10点超えてるじゃないの!? ウワァダメだ優勝消えたー!」
「おっ、落ち着けよ……なに、そんなすごいの?」
「すっごくすごいよー……すごいってかヤバい。あー、うちの子達大丈夫かなぁ……これ、飲まれなきゃいいけど……」
と、凄さに絶望していたり、そもそもよくわかっていなかったりする名城クラウンの保護者達。
鯨哉は後輩の頑張りを喜びつつも、
10点越えは
そしてここ3年、10点以上で表彰台に乗れなかった選手はいない。何より、いきなり高得点の壁を作られてしまったことは、他の選手からすれば大きなプレッシャーになるだろう。それも優勝候補ですらない選手によって。
──2番、
次の選手がアナウンスされて、硬い面持ちでリンクの中央に向かっていく。
鯨哉達と同じ名港の選手で、学年はりんなと同じ3年生。チャラチャラした雰囲気の女子だ。練習を休むことが多いこともあって、鯨哉とは関わることがあまりない。やる気もあんまり感じられないから積極的に声はかけていないのだが、それでも後輩は後輩。
頑張って欲しいとは思うが、この予想外の雰囲気の中でどうなるか。
「……」
「きょーや君? どうしたの? なんかお腹痛そうな顔してるよ」
「お腹いたいのは理凰ね。いや、ちょっと心配だなと思ってさ……意識しちゃうと崩れそうだなって」
はっきり言って、あの子が10点を越えるのは無理だ。奇跡というのは最低限の技術とフィジカルがあって初めて起こる。
りんなが
対して、今から滑る少女は、練習嫌いでセンスもあるとは言えない選手。それでも納得して滑走を終えたいなら、余計なことを考えずに今できることをしっかりやるべき。
「──うわっ、またいきなり転んだ! さっきと一緒かよ!」
リンクに鈍い音が響き渡り、後ろで見ているパパさんが叫んだ。
1本目のシングルフリップが失敗したのだ。転倒。
鯨哉は首を横に振る。同じじゃあない、と。
2回転ではなく1回転の転倒。それも踏み切りを誤って回転数が足りていなかった。この場合、ノーバリューといって基礎点が0点になる。GOEだけ大減点を食らう最悪なパターンだ。
「フリップなんて練習ではほぼ転んでないだろ……次は? コンビネーションはどこで入れる……?」
「あ、だめだ。フワってなった」
浮き上がった少女の体は、光が言い終わる前に着氷した。軽く浮いただけの不格好なジャンプ。少女の顔が絶望に歪んだのが見えた。序盤での大失点。それも取り戻すのが不可能なほどの。
それでもリンクに出た以上は誰も助けてくれない。
親が見に来ているのかは知らない。でも友達が応援しているのはたしかで、勝てなくてもなんでも立て直さなきゃいけない。それは少女もわかっているようで、目を拭って次のジャンプに向かって滑る。
「ヤケクソって感じだね……それに、なんか会場の熱が冷めちゃったような?」
光は大きな瞳でぐるりと周りを見渡した。「変な感じだね〜」と呑気な声を発する。
観客というのは正直だ。素晴らしい演技をすれば拍手をくれるし、みすぼらしい滑りを見せれば落胆する。「あー」とか「かわいそう」とか好き勝手な感想を声に乗せる。それらは全て選手に届く訳ではないが、光が言ったように雰囲気は生まれる。
エールも勿論あるが、頑張れと声をかけられている側は正直つらい。
「最後のジャンプも単独だったね。一応、降りたけど」
「シングルトウループ……だけど、コンビネーションに繋げられなかった。きっついな、これは」
1分は本当にあっという間だ。
ジャンプをことごとくミスした少女は、フラフラになりながらスピンを終えて、ヘロヘロでリンクサイドに戻っていく。慎一郎が何か声をかけているが、きっと頭の中は真っ白だろう。
──
本日2度目の点数を告げるアナウンス。
今度は想定より遥かに低い。4点台となると確実に下の方。大惨敗。
氷は残酷だ。いくら練習不足とはいえ、こんな結果に終わるほど下手くそなわけじゃないのに。
「……わたし、ちょっといってくるね」
「エイヴァ先生?」
「ホラ、わたし、まだね、
立ち上がってリンクを見つめていると、エイヴァに声をかけられた。フォローに行ってくるとのこと。続けて「りおうもみてくる。ひかるのことよろしく」、と言い残し、下の階に繋がる通路の方向に歩いて行った。
鯨哉は「よろしくお願いします」と頷く。
その方がいいだろう。まだ名港の生徒は何人も滑走が残っている。慎一郎にしても他のアシスタントコーチにしても、1人にかかりっきりにはなれない。
「エイヴァ行っちゃったね。それじゃ試合の解説よろしくっ。わたし、スケートのこともっと知りたいんだ〜」
光ちゃんは呑気な声を発して、長い前髪をくるくると弄っている。マイペースな子である。
まあ、解説するのは構わないけども、果たして必要あるのかは疑問なところだ。鯨哉の見立てでは、この子はかなりスケートに詳しいと思うのだが。なぜか理凰や他の子の前では『わたし初心者だよ〜』みたいな振る舞いをしているが、こうして喋ってると近い目線で話ができる。知識がないとできないことだ。
「いいけど、何が聞きたいの?」
「だから解説だってば〜。はい。解説の岡崎さん。次に滑る子は何を気をつけるべきでしょう?」
光は右手で拳を作り、「はいっ」と鯨哉の顔に向けてきた。恐らく空気マイクのつもりだろう。光ちゃんはマイペースな他にもノリが良いという特徴がある。
「雰囲気に負けないことですかね〜。いや、戦っちゃダメなんですけどね」
「敬語やめてよ気持ち悪い」
「なんでいきなり辛く当たるの? せっかく乗ってあげたのに……」
あと、何気に発言が直球すぎて心を抉ってくることがしばしば。これも
「あはは。ごめんごめん。えっと、雰囲気と戦っちゃダメってどういうこと?」
「緊張すんな平常心でやれ! って言われても無理じゃん? そんなこと言われたら余計に意識しちゃうし。だから、意識しないことを考えるより、全力で演技に集中するべきだってこと」
「なるほど〜。なんかわかるかも〜」
本当にわかってんのか? と疑問に思ってしまうような適当な返事だったが、それを指摘しようとは思わなかった。
3番滑走の少女は最初のジャンプこそ決めたが、2回目と3回目で連続転倒。最後のジャンプでどうにかループ+ループのコンビネーションを成功させるも、全体を通して安定感に乏しかった印象。
──
当然、点数は伸びない。
りんなが悪いわけではないし、よく頑張ったと誇らしい気持ちなのは変わらないものの……嫌な流れだと思った。早い段階で高得点を叩き出されてしまうと、後続の選手の演技がおかしくなる。そういうケースは実際によくあることで、それも第1滑走ともなれば威力は大きいはずである。
追い越してやろうと力みすぎてもダメ。
絶対勝てないと気落ちするのも良くない。とにかく意識するべきではないのだが、初級クラスの出場選手はまだそこまでメンタルが出来上がってはいない。
「頑張れルクス組ー! あなたたちはこれで最後なんだから、やり切って来るのよー!」
「ガンバレー!」
「みんな見てるぞー!」
近くの席に陣取っていた大人達から声が飛ぶ。大須リンクを拠点にしているルクス東山の保護者達だ。最後ということはこれで引退ということか。シーズン始まったばかりではあるが、区切りをつけるタイミングは人それぞれ。ならばせめて納得のいく滑りをして欲しいところだが、残念ながらそうはならなかった。
──村山さんの得点、5.38。現在の順位は第3位です。
──山梨さんの得点、3.83。現在の順位は第6位です。
入り方が明らかに硬い。振り付けがぎこちない。音楽とズレる。連続ジャンプが決まらない。着氷が乱れる。簡単なエッジの使い方を間違える。スピンの回転数が足りなくなって失点する。
どの程度のレベルの子達なのかはわからないが、泣きながら戻って行く姿を見るに、練習ではしないようなミスを連発したか。
「きょーや君、なんか解説してよ。最下位入れ替わったけど」
「……ジャンプって、つま先……トゥをついて飛ぶパターンと靴の
「うんうん」
「ルッツとフリップは間違えやすい。さっきのルクス東山の1人目の子、バックのインサイドエッジでルッツを飛んだけど、ルッツは外側……アウトサイドエッジで飛ばなきゃいけないってルールがある。まあ、知ってるだろうけど」
「知ってるけど、別にいいよ〜。それじゃあさ、ルッツが得意なきょーや君は、どうやって間違えないようにしてるの?」
光の疑問に答えながら競技を見守る。
第1グループの滑走が終わって、第2グループの本番前練習──4分間練習が始まった。
「どうやって予防してるの? エッジエラー」
「間違えるとか間違えないとか、予防してどうこうの話じゃないよ。無意識にできるようになるまで練習したから、体が覚えてる感じ。飛ぶ時に考えるのは、回転数が足りなくなった時の想定だけ」
「足りなかったらどうするの?」
「踏み切りの姿勢になった時には大体わかるから、なんかズレてそうなら無理やり増やす。もしくは減らしてコンビネーションにする」
「えー、頭おかしいよ。飛ぶ直前に回転数変えるとか無理じゃない? そんなことしようとしたら、踏み切り自体が上手くできなくない?」
「全部のジャンプでやるのは無理だけどね、ルッツならできるんだ。てか、光ちゃんってスケート初心者だよね? 質問が的確すぎるような……」
「あはは! 気のせいだよ〜! って言いたいところなんだけど……実はちょっと頑張って勉強してるんだ。でも、みんなには言わないでね。生意気だとか思われたらやだから、お願い」
光ちゃんはあざとい上目遣いである。
くりっとした瞳から感じる、謎の底知れなさはともかく、とにかく四葉が心配だ。断じて過保護なわけではなく、今回の名港杯はちょっと雰囲気がヤバい。
2番滑走が作った負の流れが止まらず、りんなを除いて未だに7点台すら出ていない。ミスの連鎖は止まるどころか6番滑走で
シングルジャンプを簡単な順に全て単発で飛んで、最後にシットスピン*4で終えても5点は超える。コンビネーションができなかったとしてもそれくらいの点数は出るのだ。
「聞いてる? お願い!」
「ごめんごめん聞いてるから迫ってこないで。なんだろ、理凰もたまに距離感バグってるんだけど、鴗鳥家の人ってみんな近い人達なの? エイヴァ先生は違うけど、慎一郎先生もその傾向あるし……」
気付けば、光の体は半分以上も鯨哉の席に侵入してきていた。体勢がおかしいし距離感もおかしい。ちなみに光だけではない。今言ったとおり、エイヴァ以外の鴗鳥さんは同じような節が見られる。
「? わかんない〜。そんなことよりいいの? 四葉ちゃんと夕凪ちゃんに声かけなくて。ほら、すっごい流れ悪いし」
光は姿勢正しく席に座り直すと、「ん」とリンクの方向を指さした。上目遣い這い寄りモードは終了したらしい。スイッチの切り替えが激しい少女である。
「四葉とは朝ちょっと話したから。大丈夫。夕凪は順番回ってきたら声かけるよ。信用してるからって何も言わないのは良くないし……良くないってわかったからさ」
どんな形で順番が回ってきたとしても、自分が狙ってる点数を取りにいくだけ。そんな話はしたが、大した効果はないと思う。そもそも慎一郎がついているのだ。それでダメならどうしようもない。
ただ、夕凪に関しては、大丈夫そうだからって何も言わないと変な感じになる。たしかに去年まではダントツで構っていたのに、ここ半年くらいは何かを教えるということがグッと減った。考えてみれば薄情に映っているかもと思ったので、今回は最初に会った頃のようなノリ──子供扱い全開な感じで応援しようと思っている。
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「雰囲気とかじゃないから。下手クソだから転ぶんだって、そこんとこ……なんでわっかんないかなー?」
「なんなのあんた。いきなりムカつくこと言い出して、ケンカ売ってんの?」
名城クラウンFSC所属、最終滑走予定の
本番待ちで軽く体をあたためていたら、いつの間にやら怖い修羅場が発生していた。お人形さんみたいな可愛い子と、刹那と同じ名城クラウンの女子選手──
さなは刹那の1学年下の2年生。ハキハキした子できっと将来は美人さん。美人さんは関係ないが、争いを好むような子ではない。それが目を吊り上げて応戦している。これは只事ではない。怖い。
「ほんとのこと言ってるだけじゃん? 下手クソなんだよどいつもこいつも。まあウチにとっては助かるけどねー。ザコが沢山いてくれた方がいいし。どうせあんたも大したことないんでしょ? 名城クラウンって言ってもピンキリだもんね。みんながみんな栗尾根茉莉花と岡崎いるかみたいとかありえないし、私が知らない時点であんたはざこ!」
さなの右の拳からヤバい音が鳴った。
刹那は柱の裏に隠れようとしたが、ダンボール箱が置いてあって無理だった。殴り合いとかになったらどうしよう。こういう時に限ってコーチはトイレに行っているし、向こうのコーチは何してるんだ?
「あんた、スケート靴でぶん殴ってあげよっか?」
「さ、さなちゃん……まずいって……やめなよ」
スケート靴は凶器である。ブレードでぶん殴ったりしたら肌が裂けてしまう。
刹那は意を決して止めに入った。
二人の間に割って入り、カチコチとした動きで敵の方に顔を向ける。お人形さんみたく可愛い少女だが、こいつは間違いなく敵である。スケートで競うという意味ではなく、人間的に敵だと思った。
「刹那ちゃん……いや、本当に殴ったりしないし」
「そ、そっか……それなら良かった」
さなの言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろす。これなら何とかなるかも。刹那はゴクリと唾を飲み込み、このまま一件落着、とはならなかった。
敵の口撃が、今度は刹那に向いたのだ。
「あー、あんたは知ってる。優勝候補じゃん。でもなんか大したことなさそうだね〜」
「えっ」
「だって今からガチガチじゃん。つか1番滑走の奴が終わった瞬間からガッチガチ。どんだけ自分に自信ないの? そんなんじゃ表彰台落ちするんじゃない? 私、10点台出すよ?」
「えっ……」
刹那は後ずさった。
細すぎるとコーチに心配された体が、ぐらりと仰け反って転びそうになる。
ヒュッと喉から変な音が出た。
怖い。口撃されていることがではなく、失敗して表彰台落ちすることがとても怖い。小綺麗な顔がヒクヒクと小刻みに震える。
「あんたも3年生よね。わざわざ初級に残留してるのって金メダル欲しいからでしょ。本当は1級より上も合格できるのに、わざわざ初級で止めて初級でエントリーしてきて、表彰台落ちとか笑えるよね?」
「……」
お人形さんみたいな少女は、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。あからさまな挑発だ。相手をする必要なんてない、品のない
「えぇっと、なに? なんで私は怒られてるの?」
「怒ってるんじゃなくて、事実を言ってるだけ〜。あははっ。目ぇ泳いでるじゃん。そんな怖いなら棄権しちゃいなよ。ジャンプミスったら10点にはとどかないよ〜? もう10点出した奴いるし、私も出すし、たぶん名港の子も出してくると思うけど、あんたは大丈夫? 負けて恥かくならやめといた方がいいんじゃない〜?」
「……」
しかし、生真面目な刹那には効果てきめんで、いまはご指摘の通りのガチガチ緊張状態。思い切り真に受けてしまい、刹那はフラフラと後ろに向かって歩き始めた。
「……へ、へへ」
「刹那ちゃん!? ちょっとあんた! どこの選手よ! コーチはどこ! だれかこのブスをだまらせて!」
「は? 今なんつったブスはてめーだろ! ニワトリみたいなぶっっさいくな顔しやがって!」
「あんたほんとぶっころすよ!?」
そして、本当に殴り合いが始まるかと思われた刹那、トイレからコーチが戻ってきた。若い男性コーチは血相を変えて走ってくると、掴み合い寸前だった二人の間に割って入った。
「──バカやめろさな! つーかひなはどこ行ったんだよ! そして君のコーチはどこだよ!? おかしいだろ好戦的すぎるだろ!
程なくして向こうのコーチもやって来て、暴力沙汰への発展は阻止された。さなは最後まで相手を睨みつけてはいたが、ひとまず一件落着。
コーチの男性はさなを落ち着かせつつ、怯えていた刹那もフォローしようとしたのだが
「……アレ? 刹那どこいった?」
「えっ、しらない。え、きえた? トイレ?」
刹那は
さなは妹のひなと合流して全てのトイレを探したが、どの個室にもいなかった。
まだ若い男性コーチは焦った。
優勝候補、