岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
いるかちゃんは前向きに病んでる。
色々な意味で波乱続きだった2日目の初級女子。
どこぞの生真面目な女子の男性観が壊れる
7月20日、火曜日。午後。
ノービスB男子で、
初級女子に比べてかなり人数が少ないが、別におかしなことではない。フィギュアスケートはほかのメジャースポーツに比べて、競技人口が
同年代の選手が
「すごー……い? すごく……ない?」
「どうしたの
現在は4番滑走。
今
名前は
名古屋のノービス男子では2番目の実力者で、髪型と
「うぅーん……でも、きょーや君はもっと高く飛ぶし、あんなにグラグラしてないよ?」
「いや、あのひとと比べちゃダメだって……いつも近くで見てるから、気持ちはスッゴクわかるけど……今滑ってる人は、ノービス男子の中でも上手な方だからね」
夕凪の言っていることは正しい。
菊次郎少年は全日本でも戦える選手だ。3連続のコンビネーションの後はフライングシットスピン。空中で完全に座り姿勢。素早いチェンジフット*3。そして回転速度もしっかり出ており、うまく片足を抱っこするような形で8回転。ノービスBなら十分な技術なはずなのだが、チビッ子達の反応は薄い。
誰かさんのせいで、男子選手に対して目が肥えてしまっているからだ。
「普通に上手だよ、ほら」
「でもさ夕凪、きょーや君ならブロークンレッグまで繋げるよー?」
「だからあのひとを基準にしちゃダメだってば……たしかに今のスピンはびみょうだったけど、前のジャンプで疲れちゃったんじゃないかな?」
ちなみに菊次郎少年の好みのタイプは四葉である。
一目惚れしたらしいが、まるで相手にされていないしクッキーも貰えない。まあ、2年生に恋するなど普通に気持ち悪いから、
果たして
そんなわけがないと鼻で笑っているし、タカをくくっている。
「ほら見て四葉! ダブルアクセルだよ!」
「ん〜、なんかおりるときに手がパタパタしてて微妙……目線こっちだったのはきもちわるい……。あの人、ナルシストだから嫌だよ〜」
「……あ、あははは」
なお、観客席は普通に盛り上がっている。
ロリコンでもナルシストでも、演技自体は立派に全国レベルだ。名港のチビッ子たちに関しては、何度も言うように男子に対して目が肥えすぎているだけ。
そして、それは異性という意味でも同じだった。
そこについても、
(こいつら、高学年は
頼れば時間を割いてくれるのが
岡崎鯨哉とはそういう男子なわけだが、そんな奴がホイホイいると思ってもらったら困る。年齢を重ねても自然発生などしない。
(あんな子供らしくないヤツ、学年上がっても勝手に生えてきたりしないから)
現に
「ナルシストはたしかにイヤだよね……」
「そうだよ〜……気持ち悪いよ〜……夕凪もヘンタイさんにはきをつけなきゃだめだよ? んー、でも、わたしたちに恋愛はまだはやいかな?」
「ど、どうだろうね……年齢はカンケイないんじゃないかな?」
「? どーゆーこと? すきなひといるの? どんなひと? どんなひと?」
「えーっと……か、カワセミ……みたいなひと?」
「? ……? ……?」
チビッ子達は恋バナを始めてしまった。
哀れ、
それはそうと
自爆するんじゃないぞ
──
アナウンスが告げたのは、全日本ノービスでも表彰台が狙えるレベルの高得点。しかし、
ルッツを主体としたジャンプばかりが注目されがちだが、それよりもスケーティングの安定感がノービスのレベルじゃない。今回は70点超えを想定した構成と聞いている。どんな演技を見せてくれるか、
────────────────────
「才能には、運命をかえるチカラがある」
私は変えたとエイヴァは言った。
ちょっとだけ流暢に喋るのは、あらかじめ用意していたからだ。
氷が今日も綺麗だ。
氷はどこでも綺麗だ。アメリカでも日本でも、銀盤はいつだって選手をキラキラさせてくれる。
「そして、あなたは才能を持っている。誰かのために滑らなくいい。あなたのツチカッテきたものは全部、自分のために。いい?」
気が早いが、オリンピックへの戦いは既に始まっている。この子も、この子の姉の方も。
全日本ノービスの結果はとても大切だ。これから協会から選ばれていくための、重要な判断材料のひとつとなる。
「わかってます」
「じゃあ笑おう。笑って。スマイルよ
今日の試合は全日本に繋がってはいないし、この子は既に出場権があるけれど。それでも、手を抜いていい理由にはならない。
やるべきことをひとつひとつクリアしていく。
まずは名港杯で結果を出して、いい気持ちで長野合宿に乗り込むこと。それが今の鯨哉のミッションである。
「オッケーよ。じゃ、がんばろう。いつもどおり。今日も未来を切り開いておいで」
「もちろん。行ってきます」
名前が呼ばれる前に、大きくなった背中がはなれていく。本格的に鯨哉を見るようになってからたった数年。されど数年。
──4番、岡崎
彼くらいの年齢の子供にとっては、1年1年がとても大きい。自分では自覚がないかもしれないけど、日に日に逞しくなっている。
どんどん大人になっていく。内面も顔つきも。周りは褒めているけれど、望んでそうなっているわけではないことを、エイヴァは理解している。
ほとんど顔を見せない両親。色々と難しい家庭。
姉弟で別々のクラブに入れたのは、別に教育熱心で思いやりがあるからではない。最初は父親による母親へのあてつけで、後は金は出すから勝手にしろという感じだったようだ。酷い話である。
(でも、道は自分でつくっていくしかないから。私達はスケーターとして、前に進むしかないの)
自分の力で立てるようになるために、大好きなスケートを極めてのし上がる。自立に繋げる。なんら間違っていない。筋の通った話だ。
エイヴァ自身もそうしてきた。教えられることは沢山あるから、ちゃんと力になれる自信がある。
いつまで続けられるかわからない、と本人は話していたことがあったが、辞める未来など考えないで欲しい。それはいらない。どんな形でもいい。健康なまま続けていけば、絶対にモノになるのだから。
(これからもずっと、こうしておくりだせますように)
さあ、今シーズンの開幕戦。
ささやかな願いと共に、エイヴァは腕組みしている体に力を込めた。初めての生徒。いずれ自分を越えるであろうと期待している最初の教え子。
できれば、5年後も10年後も共に歩んでいきたい。
そうなる未来を夢見ている。
──────────────────
それは無機質な音で始まった。
弓の背で弦を叩くカチカチ音。続けて流れ出すのは、割り切れない5拍子のリズム。そして地を這うような低音である。
さらには、ティンパニーや低音楽器による威圧。
曲のテーマは『戦争をもたらす者』。組曲『惑星』の第1曲『火星』。
振り付けは腕も頭も振って激しく。鯨哉のバランス感覚は天性のもので、ガンガンに踊らせても転ばない。平衡感覚が多少狂ったとしても、そのうえで合わせられるセンスがある。
「これまたガラリと振り付けを変えてきたね。前回見た時は優雅な印象だったけど……」
名城の竜宮コーチが目を細めた。1階フロアで演技を見ていた彼は、「お姉ちゃんに寄せてきたのかな?」と小さな声を漏らした。岡崎いるかはアグレッシブな動きが特徴的な選手である。
「これまたえらい情熱的な……まさか恋か? 四葉ちゃんなんか!?」
これまた1階フロア。キス・アンド・クライを堪能していた少年は、見当違いなことをほざいた。太い眉がピクピクと揺れていた。
5拍子のリズムがオーケストラ全体に波及し、どんどん音が大きくなる。収束して弾けるような。フォルティッシモへの跳ね上がりに合わせるように、右足の
「あっ決まった。ルッツだ」
観客席で夕凪が呟く。踏み切りの時点でほぼ確信したらしく、着氷よりも早く口が動いた。
遅れて拍手が巻き起こる。
右足のバックアウトエッジが力強く氷を捉える。吸い付くような着氷をもって体を支え、即座に左足に重心が移る。スキップするような足取りからの右足の振り上げ。左足の押し込みをもって、ふわりと体が浮き上がった。
「うわ……なんであんなにスムーズに繋げられるんだろ。意味わかんない」
お礼も兼ねて応援に来ていた刹那は、興奮するよりもドン引いた。ルッツからサルコウに繋げるのは難しい*5。今のはエッジワークに自信がないと使えないコンボだ。どちらもシングルジャンプだとしても、刹那はできればやりたくない。
(先生達も言ってた、一級品のルッツ……かぁ)
あの安定感はどうやったら出せるんだろう。繊細なエッジワークができるのは勿論、足首
後は慣性の法則に負けない体幹の強さか。他にも要因は色々あって、何かひとつでも欠けてはいけないのだろう。
(私はひとつひとつクリアしていかなきゃ……ノービスで勝てる選手になるために)
刹那は自分の腕をキュッと握り締めた。心も含めて強い選手になりたい。そう願った。
そして他方。刹那がいる場所から右に10席
(俺もあんなふうになれたら、光と結婚できるかな……)
夕凪の後ろの席でゴクリと唾を飲み込んでいる、鴗鳥さんちの
眼鏡
ファンファーレのような曲調が会場の熱を煽る中、今度はダブルフリップ。からのシングルジャンプは通常とは異なる左足での着氷。間髪入れずに2本目となる3回転ルッツに繋げた。
「はぁ!? なんだ今のコンビネーション! 頭おかしいだろっ、できてもできなくてもっ、やろうとすること自体がっ」
これまた1階フロア。
名城クラウンの若い男性コーチが悲鳴をあげた。彼だけではなく多くのコーチが同じような反応を見せている。それもそのはず、トリプルルッツを最後に持ってくる3連続のコンビネーションなど、難易度は高いわメリットは少ないわで普通やろうとは思わない。
仮にやろうとしても、できない。ルッツの難易度はジャンプの中で2番目に高い。今のは、たとえシニアの選手であっても挑戦は避ける組み合わせだ。
「あー、あのルッツ欲しいなー……つか、なんであんなアグレッシブになってんのあいつ。なんか心境の変化でもあったとか?」
軽く始めていたアップを中断して、いるかは半目でリンクを見ていた。「かわいくねーヤツ」とぼやきつつ、念入りに体を伸ばす。
ノービスの演技時間は2分半。
波が引いていくような音の旋律。演技が後半に入ったことを意味する不協和音の連続。空気が震える音圧の中で、思い切り体を反らせての滑走。頭の上に伸ばした腕の先が、氷の上スレスレを通過するダイナミックなイーグル。
(あれはもうちょいで出来る。もっと腹筋しないと……お腹プニプニしてるって言われるんムカつくし)
まだツマめるとか言われるのは我慢ならない。
いるかが思い出してイラッとしているうちに、演技は最終盤へと。後半での3回転トウループ。流石に疲れたのか着氷やや乱れるも、片手をついて転倒は阻止。
そして最後のジャンプは前に向かっての滑走。その軌道はアクセル以外には有り得ない。ラスト2回転半、しっかりと飛んで、ガツンと降りた。あまり綺麗な着氷ではなかったものの、大きな拍手を受けて最後の技へ。
「オッケーグッジョブよ
キャメルの形でスピンに入り、右足のエッジを持って回る回る。さらに腰を低く落とした上で軸足を変更。今度は左の靴のエッジを握って右足軸のキャメルに移行。
どこからか生じた拍手は一気に広がっていき、その賞賛の音はこの日1番長く、大きく。直立姿勢で3回転を回り切った直後、握り締めた拳を払うようにして演技を締めた。
(あー……頭ぼーっとする)
スパンコール控え目の黒い衣装はビショビショ。タートルネックの部分をパタパタと指で仰ぎながら、
(最後バテた。体力不足だなぁ……体力つかないなぁ)
去年の全日本ノービスほどではなかったが、今回は普段に比べて熱が入った。後輩達にいいものを見せてもらったお陰かもしれない。ジャッジ席の上の方に目をやると、夕凪がヒラヒラと手を振っていた。四葉はちっちゃい手でパチパチしてる。かわいい。
(まあ、最低限はOKだろ。みっともないとこ見せることにならなくて、よかった……そしてホント疲れた)
長く続いている拍手に見送られながら、リンクサイドに戻ってエイヴァ先生に出迎えられる。なお、頭が潰れるかとヒヤリとしてしまうほどのハグ付き。たちまち窒息しかけた。元アスリートの筋力を舐めてはいけない。
「えらい! えらい! あなたはえらい!」
「ふぐぐっ!?」
ちょっとしたハプニングだったが、息がヤバくなることには耐性がある。鯨哉はハグが終わるなり、ケロッとした顔で歩き出した。
「スケートサイコー! ヒューッ!」
「先生。エイヴァせんせー? 「ヒューッ!」……ダメだ。寝不足ハイも合わさって壊れてる」
ハイテンションが止まらないエイヴァ先生の背後、真顔の大男が優しい顔で頷く。ヘッドコーチにしてエイヴァ先生の旦那さん、慎一郎先生である。
「まずはシーズン初戦、お疲れ様でした。いい形で強化合宿に行けそうですね」
「はい。でも、後半少しバテたので……もっと飛ばせるように体力つけます」
「ふう……君は貪欲ですね。コーチとしてはペース配分も考えて欲しいところですが……まあ、反省会は後にしましょう。はやく移動しなければ」
鯨哉は小さく
そして、コーチ達と一緒にキス・アンド・クライへと。二歩、三歩と前に進んだところで、すらりとした高身長の男子とすれ違った。最終滑走の選手だ。
(……なんでわざわざ来たんだか)
名古屋の人間ではない。なんでかは知らないが、わざわざ京都から遠征してきた。西の最強クラブと名高い
「今日はやけにご機嫌だったねえ、岡崎クン」
後ろから聞こえてきたキザったらしい声に、鯨哉は立ち止まった。
ゆっくりと体を反転させると、思い切り眉をひそめる。クリムゾンレッドの衣装を身にまとった男子は、キラキラと微笑んでいた。
喋り方がいちいち芝居かかっているのはキャラ作りなのか、はたまた素なのか。後者だろうなと鯨哉は思っている。
「ご機嫌? ごめん意味わかんない」
彼の名前は
スケートの腕が凄いだけではなく、めちゃくちゃ美形な男子でもある。アイドルみたく固定ファンが沢山いて、既に黄色い歓声がちらほら……。
「フッ……恋でもしたかい?」
ゆったりと細まる星海のような碧眼を、
「ごめん。本当に意味がわかんない」
素っ気ない口調を返すと、彼は呆れた顔で肩を竦めた。
「君はつれない人間だな。そんなことじゃモテないよ?」
「大丈夫大丈夫。相手は選んでるから」
彼は去年のノービスB優勝者だ。話しかけられた鯨哉はついつい塩対応になってしまった。単純に変な人すぎて苦手なのと、なんでわざわざエントリーしてきやがったという二重の意味で。ぶっちゃけ、今回は気持ちよく勝ちたいと思っていた。気分良く合宿に行きたかったのが、この変人のせいでちょっと微妙。
「全く、遠路はるばるやってきた俺に、
「うん、ない」
「そうかい……」
天馬は憐れむような視線を向けてきた。なんでか知らないが同情的な目線だ。それは一体どういう感情なのか、鯨哉には全くもって理解できない。
「うん、ない」
「そうかい……」
「うん、ない」
ちょっと喋っただけでもわかる。
コイツは変な人だと。それと身長が高いのが凄く羨ましい。驚くなかれ。この変人ナルシストは171cmも身長あって、それなのにジャンプガンガン飛べるんだぜ。まあ、仮に魂を交換できたとしたら、入れ替わりたいとか絶対に思わないが。なぜなら顔からしてナルシストで、毎朝
「てんまクン! ひさしぶり〜」
鯨哉の隣。なぜかウズウズしていたエイヴァが元気よく挨拶をした。たしかに久しぶりだ。昨年の全日本ノービス以来。全く喜ばしい気分ではないが。
「フッ……お久しぶりです、ミセス・エイヴァ。今日も美しい瞳ですね。その知的な眼鏡も良くお似合いで、溢れる品性を感じますよ……フッ」
鯨哉のナルシストを見る目が引きつった。
人妻を口説くな。それも旦那さんの前で。
「今から本番でしょ……喋ってる時間ないから早く消えなよ」
「今、消えなよって言ったかい? フッ……どうして君は俺に当たりが強いのかな? これは永遠に解けそうもない、名古屋七不思議のひとつだよ」
「今解いてあげるよ。去年の全日本ノービスでナンパしてたから。あれでもうこの人ダメだってなった。わかったら速やかに消えてお願いだから」
「やっぱり消えろって言ってるね? フッ……シャイな男だ」
ナルシスト天馬はポッ、と顔を紅潮させた。何やら自分を抱きしめる動きを見せている。
「なんで赤くなってんの気持ち悪い」
率直に気色が悪すぎる。それといちいち『フッ……』と笑うのは何なのか。鬱陶しいからやめて欲しいが、指摘しても直さないからもう知らない。
「それじゃあ、俺は氷と仲良くしてくるよ。君もキス・アンド・クライと親交を深めてくるといい」
「普通に喋ってくれない……? ほんとなんなの、そのソシャゲに出てきそうなキャラは」
「なにっ? ギャルゲーだって?」
「ちげーよ。ソシャゲにはギャルゲーもあるけど、僕が言ってるのは別のやつ。興味津々で近寄ってこないでよ気持ち悪い」
シッシッ、と手で追い返すと、
「すまんな……変な奴で。この通りや。すまん」
「いえ、個性的でいいと思います」
慎一郎はポジティブな返しをしていたが、鯨哉は全く良いとは思わない。
強化合宿でナンパを始めたら縄跳びで縛り付けてやろうと考えている。その辺の柱でも自動販売機でも、なんだっていいから。あのナルシストに自由にナンパさせてはいけない。絶対にだ。
(結局、名港ウインドからの金メダルはなしか……厳しいなぁ)
鯨哉は大きく息を吐いて、狭いキス・アンド・クライを見渡す。リンクサイドに設置された採点待機エリア。喜びと悲しみが交わる場所であることから、その呼び名が定着したのは有名な話。
「エイヴァ、君が座って。僕は隣に立っているから」
「ありがとう。さ、
エイヴァに手を引かれて長い椅子に腰を下ろすと、しばし
でも、そういうわけにもいかない。今日はまだ終わっていない。いるかの滑走が残っているから、自分だけさっさと帰るわけにはいかないのだ。
──
ほどなくして点数が出る。
昨日と比べるとややソプラノが効いた女性の声が、誰にでもわかるように結果を伝える。
鯨哉は天井に向かって息を吐いた。
目標としていた得点には、届かなかった。
──78.79。現在の順位は第1位です。
──────────────────
同じ世代のナンバーワンが誰かと聞かれたら、鯨哉は迷いなくこう答える。
天才、
会場の至るところから歓声が上がった。黄色い声援はまるで悲鳴のように、男性の声が何度も重なりどよめきとなった。
構えから斜め45度に向かった前向きの滑走。直線的な軌道から放たれた跳躍は、3回転半をたしかに回り切って、見惚れてしまうような着氷。流れを止めることなく鮮やかな弧を描いた。
「……1本目はトリプルアクセル。やはり簡単には勝たせてくれないか」
慎一郎がガリッと歯軋りの音を鳴らす。
キスクラのすぐ隣のスペースで、
今回も同じ流れだ。
次のジャンプも3回転。鯨哉が後半で飛んだトウループよりも高い。着氷も綺麗だ。すかさず繋げたフライングシットスピンは恐らくレベル4*6。さらに3連続のコンビネーションジャンプ。直後の3回転ループを危なげなく決めてみせると、細かいステップを刻みながら審判団に視線を送る。
「アハハ、よゆうみたいねー……」
「3本目のジャンプ終わった時点で、基礎点だけで1.8差つけられた……ダメだ。このまま離されるな……すみません。今回も負けです」
ノービスBのジャンプは計5本。うち2本まではコンビネーション*7が認められる。
コンビネーションは貴重な得点源。鯨哉は前半でコンビネーションを終わらせたが、天馬はまだ1回しか飛んでいない。
「コラっ。そんなこといわない。てんま君がスゴいのはわかってたよ。でも大丈夫。あなたはちゃんと、たたかうことができるから」
いつか、とエイヴァは言った。
その言葉は嬉しかったが、本当にそうだろうか。
ルッツはできてもアクセルは
仮に他のジャンプが同じレベルで決まったとしても、トリプルアクセルを飛ばれたらどうしようもない。基礎点8.00。たった一発でコンビネーションジャンプ並みの得点が出るのはデカい。今現在、ノービスでトリプルアクセルを飛ぶことができるのはたった1人。他の選手にはない大きすぎる武器だ。
「ダブルアクセル、トリプルトウループ……後半のコンビネーションなのに僕よりクリーンに降りたな……すごい通り越して気持ち悪っ」
結局、最終滑走の
演技終了前の段階で、会場は既に優勝が決まったような雰囲気で。実際そうだった。
アナウンスされた得点は、なんと87.47。アホみたいな高得点が叩き出されてしまい、
────────────────────
外がすっかり暗くなり、星がキラキラとまたたく夜。今年の名港杯がもうすぐ終わる。
ノービスAの男子が閉幕し、最後となるノービスAの女子が始まったのは18時すぎ。現在は20時を少し回ったところ。ここまでの最高得点は77.82。ノーミス不在で迎えた最終滑走で、岡崎いるかは観客の目が覚めるような演技を見せた。
(4本目っ、トリプルサルコウ!)
前半は全て単発の
陽気で軽快な音楽に乗って次々と決めると、フライング姿勢からのシットスピンで死ぬ気で回る。酸欠の頭が更にグチャグチャになっていく感覚。いるかはそれが嫌いではなかった。
アラン・シュトラウス二世が手がけた名曲、『こうもり』は喜歌劇といわれる。簡単に言うと浮気夫が友人のドッキリに引っかかるコメディ。なのだが、そのドッキリというのは『復讐』であり、主人公はかつて友人にひどいことをした。
酔っ払った友人にこうもりの格好をさせて、街中に置き去りにして笑いものにしたのだ。物語の序盤、主人公は役人への侮辱罪で禁固刑を受けてしまう。そこで友人は主人公にこう言った。
──『豚箱に入る前に気晴らしといかないか? 何するかって? 酒と女に決まってるだろう?』
主人公は仮面舞踏会に誘われ、下心丸出しで参加することを決める。しかし、主人公は知らなかった。妻も仮面舞踏会に誘われていることを。魅力的な誘いは友人が企てた復讐劇であり、罠だったのだ。
結果、あろうことか主人公は自分の妻を口説いてしまう。仮面の女の正体が妻とは知らずに。
(──トウループ、アクセル、アクセル! 次っ)
愉快で軽快な音楽に乗って、いるかはコンビネーションジャンプを決めた。
いい曲だ。氷の上で聞くと尚更に。いるかはこのフザケた物語が好きだった。
仮面をつけた妻は、浮気の証拠として夫が持っていた懐中時計を奪う。しかし、不貞に手を染めていたのは妻も同じだった。仮面舞踏会に来る前、妻は元恋人と不倫しており、そこに夫を連行しに来た刑務所長が現れる。
(ダブルサルコウ、最後、ループっ! 降りろ!)
陽気なワルツが慌ただしく鳴り響く中、最後のジャンプ。最後のコンビネーション。
上がれ上がれと自分の腕を引っ張り上げ、ダブルループを回り切る。白い線が何本も見えた。身体中が酸素不足で悲鳴をあげる。そして足に衝撃が走るなりグラリとよろけた。着氷大きく乱れるも、片手をついて転倒は回避。締めのスピンは気力だけ。死ぬ気で回っている最中、なんだか気持ち良かった。全部遠のいていく感覚が、恍惚として、とってもよかった。
(あー、キッツいの、最高……っ)
クラクラする。ユラユラする。どいつもこいつもみんな遠い。みんな私を見てるのに、私はみんなが遠くに見える。このまま一人で死んじゃうんじゃないかって感じ、癖になりそう。
死ぬんなら氷の上で死にたいな。
私を強くしてくれる氷の上で。ほら見てよ実叶ちゃん。あなたが飛べなかった3回転。私、こんなにできるようになったよ。でも、もう見てほしいとは思わなくなったんだ。代わりに見てくれるヤツはいるし、見てって頼む必要もないからすっごく楽。だから、私はもう大丈夫だ。
──不貞が露呈することを嫌った妻は、不倫相手を夫の代わりに差し出した。
クソみたいな物語で笑えた。
翌朝、酔っ払ったみんなが刑務所に集まってくるシーンがあって、それがラスト。そこで主人公は自分の代わりに逮捕されている男を見て激怒。妻の不倫を知ってブチギレるんだけど、そこで懐中時計を見せつけられてキレ返される。
奥さんから、お前も浮気してただろうってね。
奥さん、優しいよね。私だったらそこまで待たないで、間違いなくその場で報復してる。
まあ、私の話はいいんだ。私の話は。
最後に仕掛け人が登場して、こうもりにされたことへの復讐だったとタネ明かし。そこからはもっとメチャクチャな話になって、昨晩の失態も浮気心も、全部シャンパンのせいだって──みんなで歌い始めて大団円。お互いを許し合ってハッピーエンド。世の中、そんな風にメチャクチャだったら良かったのになって、私はいつも思うんだ。だから、この曲が好き。聞いてるだけでムシャクシャして、闘争心がメラメラに燃え上がってくれるから。
──────────────────
「いるか。おつかれー。めっちゃ気合い入ってたじゃん。いつもより燃えてた感じが──」
「──メダル貰ったらすぐ帰るから。別に褒めなくていいよ、ナッチン」
無駄にテンション上げて出迎えてくるコーチに対して、思う。無理して仲良くしようとしなくていいし、仕事だってんなら立ってるだけでいいって。
だって、どんだけ結果出しても、好きになんてなれないでしょ? クソみたいな暴言吐いた女の娘なんか、私だったら口も聞きたくないね。
(事務的にやってくれればいいよ……もし上手くやれそうだなって思っても、気まぐれでぶっ壊されるんだから。そんなの、お互いに疲れるだけでしょ)
他人はしょせん他人だ。
みんな自分と自分の家族のことが大切で、天秤にかけられたら私は選んでもらえない。そんなの、当たり前のことだってわかってる。もし見捨てられても恨むなんて筋違いだってことも。
でも、私は性格が悪いから恨むよ。
仲良くなれば、ずっと味方になってくれるんじゃないかって期待する。それが裏切られたら夜眠れなくなるほど恨んじゃう。そういうのは嫌だし、すごく疲れるから、深い付き合いなんてしたくない。
(誰かを恨むって、疲れる。しんどい)
最近は
(他人はいらない。今は。いつか大人になれたら、そん時は友達くらいは欲しいけど、今はいらない)
ひゅっと寂しい感じになる。
大会が終わる時はいつもそう。
お祭りの最後の寂しさみたいな感覚かな? お祭り系で楽しかった思い出はないから、あくまで想像だけど。
────岡……さんの……、90.67。最終順位は第1位です。
金メダル取っても、ものすごいテンション上がるとかはなかった。今日もいつもと同じ。晴れやかな気分で家に帰れそうもない。
でも、達成感はある。もっとやってやろって気持ちにもなれた。中部ブロックの中で、私の敵はもういない。かつて憧れた人も越えた。後は全日本で勝つだけだ。今年と来年で二連覇して、堂々とジュニアに殴り込んでやる。
──────────────────
表彰式が終わってから、いるかちゃんと写真撮って、なんか色んな人と写真撮って、スケートリンクの入口の扉をくぐった後。
遅いから送ってくれると言ってくれた優しい先生──いるかちゃんのコーチ──を待っていたら、女の人に話しかけられた。僕もいるかちゃんも会ったことがない、知らない人。
「カッコイイとこ見てたよ〜! おばさん感動しちゃった! ねえねえ、写真撮っていい?」
「……だれ? お前、知りあい?」
「いや……知らない」
その女の人は、僕達がオッケーを出す前に写メをパシャパシャして去っていった。盗撮……ではないのかもしれないけど、僕もいるかちゃんも微妙な気持ちになった。まあ、有名になればファンはつくし、結果を出せば出すほど増えていく。謎のおばさんは新たなファン……なのだろうと思うことにした。
「なんだあのオバサン……お前、なに渡されたの?」
いるかちゃんは引きつった顔で視線を落とした。僕の手の中にある赤い袋を凝視している。おばさんが無理やり渡してきた謎の袋だ。恐る恐る中を確認してみると、薄っぺらい封筒が入っていた。
これは……
「いや、お金じゃん。しかも万札じゃん……え、意味わかんない。こわっ」
いるかちゃんは「
封筒の中には1万円札が1枚と、1000円札が1枚。
すごく中途半端だ。そしてめちゃくちゃ不気味だったから、迎えに来てくれたいるかちゃんの先生に相談して、帰ったらお母さんに渡すことに決めた。
話がややこしくなりそうで嫌だけど、黙ってて後で変なことになる方が困るから。1万1,000円はちゃんとお母さんに渡して、その後どうなったのかはわからない。