岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
スケートを始めた翌年の3月。
いるかはキレた。
母がトイレに行っている隙をついて、ビシバシベシと両手を振るう。
いつものスケートリンクの氷の上にて。
ふざけんなこのやろう、このっ、このっ、おもいしれチビ! みたいな暴言を吐きながら、いるかは弟をシバいていた。
「ずるい、ふざけんな、からだこうかんしろ!」
「こうかんなんて、できるか!」
ベチベチベチベチベチ。
両手のパーで頭と顔をベチベチペチ!
本気で弟をどつくわけにはいかないので、せめて怒っている意思表示をする。やられている方はほとんど痛くないようで、呆れ顔で「ばかあほまぬけ」とほざいていた。
「ばかとかいうな! アホのまぬけはおまえだ! すぐできるとか、ずるい! わたしは、はんとしかかったのに!」
「ご……ごめんね?」
「あやまられるの、むかつく!」
周りの大人達は優しい目で二人を見て、「ほほえましいわねー」とか、よくわからんことを言っていた。
いるかは何も微笑ましくない。心は荒れ狂っていた。ブチ切れたイルカの鳴き声*1でも発しそうな剣幕で弟を睨む。
「しかたないじゃん、できちゃったんだし……」
「できちゃうな、ぼけ!」
いるかは普段はいい子ぶっているが、実際は口が悪かった。それはさておき、本日から弟もレッスンに参加することになった。父が「お姉ちゃんばっかり可哀想だろ」とか言い出したせいだ。
まあ、一緒にやるのは嫌じゃなかった。
いるかは友達関係が安定しないので、何しても関係が切れない弟と居るのは気が楽だ。どうせ自分の方が上手なのは決まっているんだし、ここはおねえちゃんとして教えてあげようと上から目線でいたのだが、このボケはやってくれやがった。
「なんでできちゃうの! なんで! ずるい! かわれ!」
「こんどはいたい! ひっぱらないで、うでがもげる!」
いるかは激怒していた。
半年かかってやっとできた1回転ジャンプを、弟は初日のうちにできてしまった件について。
ペンギン歩きは教えられなくてもやりやがったし、在りし日のいるかのように尻が壊れることもなかった。なんとなくスーッと滑って、なんとなくステップ踏んで、なんとなくクルッと1回転してしまった。
コーチや保護者達は凄く褒めていたし、いるかのお母さんも喜んでいた。いるかは自分の頑張りが全部否定されて存在価値が奪われ、みんなに笑われている気がした。考えすぎである。
「だったら、わたしは2回転、2回転やってやる……2回転!」
「いるかちゃんダメよ! やめなさい! 焦ってメチャクチャな練習したら怪我しちゃう!」
しかし、人生とはどこでどう好転するかわからないものである。自尊心を破壊されたいるかは、目の色を変えて練習に打ち込むようになった。それまでも頑張ってはいたが、尻に火がついて集中力がおかしなことになって、人生初の覚醒。
4月に入ってすぐに2回転ジャンプ*2を成功させると、祝ってくれた弟に向かって中指を立てた。実にろくでもない行動でありおねえちゃん大失格の悪行だが、弟、
「おまえのほうがへたくそ! わたしのほうがじょうずなの! わかった!?」
「うん……わかった」
いるかは何回も「できないと要らない子になる」と話していたので、アホみたいに追い詰められていたことをわかっていたのだ。これが普通の家庭なら弟も「かんがえすぎだよ、あはは」とかヘラヘラしていただろうが、岡崎家は普通ではない。その証拠に『お姉ちゃんが下手クソってどうなの?』とか母親が言っちゃっていた。そりゃあ子供は悩んでしまう。
後に黒歴史となる出来事だが、この時のいるかは生きるか死ぬかの瀬戸際にいるような気持ちだった。
「わっ、すごいすごい! 2回転だよね今の! 私はすっごく苦労したのに〜! もういっかいやって! よっかいもっかい!」
「えっ」
弟に向かって自分の凄さを力説していると、近くにいたお姉さんが話しかけてきた。
とてもフレンドリーな人で、いるかは彼女のことを知っていた。スケートリンクでは複数のクラブが練習していることが多くて、上手な人が沢山いる。彼女はいつも目立っている特に上手い人で、顔がお姫様みたいに可愛かった。
名前は
実叶は名古屋の強豪クラブ、
「もういっかい見たいなぁ! やってやって! 早くー!」
「や、やる!」
いきなりグイグイ来られて困惑する一方、褒められて超うれしい気持ちになった。フワフワポカポカした気持ちで2回転ジャンプを披露すると、実叶はめちゃくちゃキラキラな瞳で見つめてくる。
「すごーい! 天才だ!!!」
ぜったい凄い選手になれるよ! 私よりぜったい才能ある! オリンピック出れる! 仲良くしよう! お友達になって!
その他にもポジティブな言葉をガンガンぶつけられて、いるかは舞い上がった。ダメ押しで手を握られて、好感度はいきなり限界突破。
興奮しすぎて流血してしまった。鼻から。
「はぁはぁ……」
「いるかちゃん! 鼻血! 鼻血が出てるよ! 大丈夫!? 体調わるい!?」
「(ぼー……)」
普通の子供ならそこまで過剰反応はしなかっただろうが、いるかは愛情と友達関係に飢えていた。
弟が真顔でティッシュを持ってきてくれたが、感動とドキドキで動くことができず、実叶が心配して拭いてくれた。
ちょっとしたアクシデントはあったものの、実叶とは無事に仲良くなり、生まれて初めて普通の友達ができた。いるかは嬉しかった。
「クラブ入ってないの勿体ないよ〜! 一緒にやろう? 私は毎日ここにいるから、一緒にスケートやろう!」
「やる!」
とは言ったものの、全てはお母さん次第。不安になったいるかだったが、話はとてもスムーズに進んだ。
実叶が上手いことやってくれたのだ。
いるかの母に突撃してあーだこーだと力説すると、他の保護者も巻き込んで「才能あるんです!」と胸を張って豪語。実叶は昨年の全日本ノービス*3に出場した有望株としても有名で、そんな子がここまで言うのなら、と母はあっさり認めてくれた。
「凄いですよ岡崎さん。うちの子なんて2回転できるようになるまで2年もかかったんですよ!」
「うちはもう少し短かったですけど、1年以内は無理でしたね。そうそう、実叶ちゃんは見る目あるんですよ!」
「それにすごくいい子で!」
「お母さんのめぐみさんも良い人よね。娘がこんなにできるのに、鼻にかけたようなとこがひとつもなくて……たまに差し入れのクッキーくれるし」
先輩ママたちにチヤホヤされている母は、とても嬉しそうにしていた。そのおかげで、いるかは褒めて貰えてテンションが上がった。
「へ、へえ、そうなんですか。良かったじゃない、いるか。頑張ってたもんね。お母さん嬉しいわ」
「うん! ありがとうお母さん!」
こうして本格的にクラブに入ることになり、いるかの中での実叶ちゃんへの好感度は振り切れた。
さらに嬉しいことは続く。親同士が上手いこと仲良くなってくれたお陰で、結束家に遊びに行く機会ができたのだ。イラついている人は誰もいないし実叶ちゃんは天使だし、結束家は天国だった。
嫌われないように全力でいい子になることを、いるかは胸に誓った。嫌われたら出入り禁止になって絶交される。だから笑顔、素直、元気を心がけて頑張ることにして、その甲斐あっているかはとても可愛がってもらうことができた。実叶の妹にベタベタ触られてイライラしたが、嫌われたくないので頑張った。
「いるかばっかり不平等じゃないか?
「本人が少し考えたいって言うから、無理にやらせることないでしょ。それに、スケートはお金かかるんだからね。本格的にやるっていう話になったら、
ある日の夜、父と母がそんな会話をしていた。
いるかの心は冷めていた。やりたいならやればいいし、やりたくないならやらなきゃいい。お金がどうとかは考えたくなかった。自分がズルしてる気持ちになって辛かったから、目を背けた。
せっかくできた居場所を失いたくない。
弟に何と思われようと、この時ばかりは譲れなかった。これは後からわかったことだが、弟は猫のことを考えていた。悲しそうに窓の外を見ていたから罪悪感が凄かったのだが、可愛がっていた猫が行方不明になって心配していたらしい。後日、猫は近所のおばさんの家で見つかった。野良じゃなくて飼い猫だったのだ。
「寝ても覚めてもお金お金って、共働きだから協力していくべきなんじゃないの?」
「協力してるじゃない。いるかの教育費用は私が出してる。こっちは約束を守ってるのに、あなたはなあなあにしようとしてるでしょ。契約違反されてるのは私なんだからね」
「わかったわかった。
「だったら言われる前に動きなさいよ」
「お前は本当に思いやりがなくなったね」
後日、弟は父に連れられてクラブ見学に出かけた。
父は「お金出すのはこっちだから」と名城とは別のクラブに弟を入れて、母がキレた。送迎は母親任せだったからだ。姉と弟を別々の先に、それもリンクの拠点まで異なっているクラブに入れるなど、非効率極まりない。父と母はかなり揉めていたが、最終的にはなあなあになった。
その話をしていたのは深夜。
いるかは聞かなかったことにした。お互いに好きな場所で頑張るのが一番。それに、同じ空間にいると面倒を見なきゃいけないから、別々の方が気が楽だったのだ。家にいる時は構わないが、外では実叶ちゃんと遊ぶのに集中したい。いい子にもしなきゃいけないしで、いるかは大変だったのである。
────小話(1)『イナゴ』
お父さんがイナゴの佃煮を大量に持って帰ってきた。イナゴとは虫だ。田んぼを飛び回っているバッタみたいなアイツらである。
どれだけ瞬きしてみても、完全にイナゴだ。
そのままの形で残っている、羽、脚、触角。一目で昆虫とわかる衝撃的な見た目。ヌメヌメとした飴色の光沢感が気持ち悪さを煽ってくる。
これを食えと。いるかは口に入れた瞬間に吐き出してしまう自信があった。しかし、煮詰められたイナゴは24匹もいる。会社の同僚が田舎からお土産で持ってきたそうだが、なんて迷惑な話だろうか。
「僕も食べたけど美味しかったよ? いるか、食わず嫌いはダメだ。食べ物に失礼でもあるから、食べなさい」
「……」
母は自分の部屋に引きこもってしまい出てこない。
「冗談じゃないわ」と怒って1匹も食べなかった。
いるかも食べたくない。でも、父は何がなんでも食べさせようとしてくる。理不尽だ。理不尽はよくあることだが、グロいのは無理だった。
「食べてみなって。家族にも食べさせるって言って貰ってきたんだから、食べなきゃ相手に失礼だろう」
「た、食べるよ……」
絶対無理だと震えていたら、横に座っていた弟がお箸でカチカチと音を鳴らした。「ウレシイナァ」と笑っているが、汗がすごい。はっきり聞き取れるほど息が乱れている。
いるかはぎょっとして弟を見た。
お前、バッタ嫌いなのに正気か? この形の虫が大嫌いなくせして、信じられなかった。まさか、辛いこでもあって頭が壊れてしまったのだろうか。
「い、いくぞ……っ、ごく! ガブ! ガッフ! ガッフ!」
「おー、いい食べっぷりだな
「ゴク、ゴク、ゴクッ!? ゲホゲホ! ゴクッ!」
「こら、ちゃんと噛みなさい。ストップストップ。そんなに食べたらいるかの分がなくなるだろう。しかもなんでそんなに嫌そうなんだ!」
弟は何を考えているのか、次々とイナゴを口に運んでは飲み込んでいった。ほぼ噛んでいない。咀嚼動作が明らかに少なかった。だから死にそうな顔で何回も
真っ赤だった顔が蒼白に変わっていくのを見て、いるかは怯えた。流石にやばい。このままじゃ死んじゃうかもしれないと。
「わ、私も食べる……ストップ! もう食べちゃダメだって死んじゃうよ!?」
「……………………おえっ」
いるかは覚悟を決めて弟の箸をぶんどり、残りの2匹を食べた。するとどうだろうか。意外にも味は甘くて美味しい。目を瞑って食べれば結構いけるのではないだろうか。
しかし、呑気なことを言っていられるのも2匹という少量だったからだ。ドカ食いした弟は味とかわからなかったようで、深夜に飛び起きてトイレで吐いてた。
一旦は我慢したものの、やっぱりダメだったのだ。
マジで死ぬんじゃないかと苦しみ方を目にして、いるかは泣いた。もう少し食べてあげれば良かったと。