岡崎いるかの生存戦略   作:戎韜

20 / 25
次から本編2。合宿編終了まで。1よりはかなり短くなると思います。


エピローグ《共に歩む》

 長野合宿の前日の早朝。

 エイヴァは鯨哉のコンディションが問題ないか確認して、短時間でレッスンを切り上げた。

 断じて職務放棄ではない。

 この日は軽めの練習にしておいて、残りの時間で今後の話をすることになっていたのだ。まず、このままの指導方針でいいのか。これまではあまり口出ししないでやってきていて、基本的に細かく指導するのは質問された時だけ。後は本人が周りが見えなくなっている時も口を出すが、そういうケースはこれまであまりなかった。

 

「たとえばー、もっとキビシクしてほしい、とか……」

「ないです。今のままでいいです。アクセルの件も納得してるんで……」

 

 ホームリンクの談話スペースで、エイヴァは「そっかー」と小さく笑った。寝不足により顔色は相変わらず悪いが、心は充実している。

 すっかり家庭の母になってしまった今。家事と夜泣きに翻弄される日々。異国での生活。たまーに現役が恋しくなる時もあるが、この子の滑る姿を見ているとスッキリ吹き飛ぶ。特にルッツはノービス選手とは思えないレベルの出来栄えなので、時間が許せばずっと見ていられる自信がある。

 

「アクセルはこのまま、本数を絞って練習します。先生の言う通り、()()()

「ウンウン」

 

 エイヴァのレッスンはかなり自由だ。鯨哉が自分で計画性を持って取り組めているのもあって、あれをやれこれをやれとは基本言わない。技術的な口出しが少ないことと合わせて、ほかのコーチから見れば()()とも言われかねない現状だが、これはエイヴァが好むスタイルである。

 もちろん相手を見て教え方は変えるし、誰に対してもガッツリ自主性に任せたりはしない。相性が良くて結果もついてきているから、鯨哉に関しては変える必要がないというだけ。

 

「速度も高さも足りてるから、後はもう感覚的なところですもんね……」

「そうね〜。でも、あせらなくていいよ? ジャンプはミズモノ。いきなりブワッてくるの」

 

 そんな中でも、アクセルジャンプに関しては制限を付けている。高さも速度も十分で、踏み切りまでの流れもできている。それなのになにかかズレると言って上手く飛べない。苦手意識が染み付いてしまっていて、それが中々に厄介だ。

 後はもう感覚的なもの。これが別のコーチであれば、『できるまでやれ』と言うパターンもあるだろうが、エイヴァは『できなそうならまた明日』。転んだだけ上手くなるなら心を鬼にする価値もあるが、ジャンプというのは気合と根性で飛ぶものではない。自分で『あ、いける』という感覚を掴まなければ、どれだけ転んでのたうち回っても徒労に終わる。

 

「あせらない。練習でも、大会でも、わたしはいつも、嬉しい気持ちだから」

「あはは、わかってます。……天馬君に負けるのは嫌ですけどね。金メダル持って高笑いされてるイメージが……いや、ただの想像っていうか被害妄想ですけど」

「アハハハハ!」

「なんでエイヴァ先生が高笑いするの?」

 

 寝不足ハイでノリの良さをアピールしてみたのだが、少年の反応は冷ややかだった。エイヴァは反省した。子供というのは喜ばせるのが難しい。家ではたまに変人扱いされることがあるが、白い目で見るのはやめて欲しい。主に理凰(りおう)。ベッドの下に隠れておどかしてみたところ、本気でドン引かれた。昨日の夜のことだ。

 

「アハハ、ゴメンゴメン……あっ、あのね。ルッツ。合宿で言われるかも。あれ、やりすぎって」

 

 軽い口調で謝った後、自分の足を指さして身振り手振り。少しでも伝わりやすいように補足する。日本語が完璧になる日はまだ遠い。まあボディランゲージは万能だから何とかはなるが、いつまでもこれでいいとは思っていない。

 

「あー、指摘されそうですよね……。エッジ倒しすぎだって。ぶっちゃけ、今みたくギリギリ攻めなくても3回転ルッツは飛べますし、言われるのは仕方ないって思ってます」

「ウンウン」

 

 鯨哉は椅子ごと横を向くと、左脚を伸ばしてカクカクと足首を動かす。

 大前提として、ルッツというのは特殊なジャンプだ。前向きに踏み切るアクセルとはまた別の意味で。

 ルッツは左足で滑って右足のトゥを突くことで飛び上がるジャンプだ。まあそれはいいとして、滑走の軌跡が描く弧の方向と、回転の方向が逆になる。だから勢いがつけにくいし、それに加えてエッジの扱いも難易度が高い。

 

「左足のアウトエッジをかたむけると、カーブは強くなって、勢いがでるけど」

「傾ければ反発力は出るけど、やりすぎると足首を痛める原因になる。トウを突いた時の衝撃に負けて捻っちゃったり、そもそも滑ってる時に氷にひっかかりすぎちゃったり……まあ、そうなんですよね」

 

 ルッツが成功と見なされるための重要なポイントのひとつは、踏み切りの直前まで綺麗なアウトサイドの弧を描き続けているかどうか。5度でも10度でもいいからアウトサイドに傾いているかが大切で、それが内側に乗ってしまったり垂直になってしまったりすると、エッジエラー判定*1となる。

 多くの選手はその『アウトを保てる限界の浅い角度』を狙って跳んでおり、体が出来上がっていないノービスクラスは特にそうだ。その中で、鯨哉の場合は40度近くもエッジを傾ける、アホみたいに攻める。そのお陰で出来栄え点は期待できるが、身体的な負荷が非常に高いリスキーなやり方と言えよう。普通のコーチならノービス選手にそんな滑り方は教えない。まあ、エイヴァが仕込んだわけではないけれど。

 

「でも、あなたなら大丈夫よ。カラダは悲鳴をあげてない。ほかの人はムリだけど、あなたはできる」

 

 このまま技術を更に高めていけば、いずれはもっと凄いルッツが飛べるようになるだろう。エイヴァもルッツは得意だったが、4回転まではできなかった。この子なら、いずれできるようになると思っている。

 しかし、焦ってはいけない。

 まだまだ成長期で、今年に入ってから身長が伸びるペースが上がっている。体型の変化とジャンプは切り離すことはできない関係だ。身長が大きく伸びたことで、それまで飛べていたジャンプが飛べなくなるというパターンはよくある。怪我にも繋がる場合が多いから、大技に挑むにあたってはタイミングを考えなければならない。

 

「いい? あなたはできる。だから──変えたくないなら、変えなくてもいいよ」 

「はい、変えません。ほかのコーチがどう言うかはわかんないですけど、先生がオッケーだって言うなら僕はそれを信じます。それに、僕も大丈夫だって思っていますし」

 

 鯨哉はテーブルに置かれているペットボトルに手を伸ばした。ゆっくりと蓋を開けて口付けると、少しだけ残っていたお茶を飲み干す。

 ほっと笑みが漏れた。今日はよく笑う。とても機嫌が良さそうだ。

 

「ふふ、合宿たのしみ?」

「とっても、すごく楽しみです。外泊ってワクワクしません? ワクワクするんですよ!」

 

 それはなにより。

 エイヴァはころころと笑い返した。

 去年はトラブルがあって参加出来ず悔しい思いをしたが、今年は準備万端。楽しい事ばかりではないだろうが、有意義な合宿になることを祈っている。

 

「家に帰らなくてもいいんですよ、4日間も! いや、今日も入れたら5日も!」

「エッ」

「食器洗いはしなくていいし、寝ぼけた姉さんがベッドに飛び込んでくることもない! いいことしかないですよ、外泊って!」

「エッ……」

 

 エイヴァは言葉を失った。年齢相応に可愛いところもあるなあ、とか思ってたらちょっと違ったようだ。

 これが普通の家の子なら何も思わないだろうが、鯨哉が言うと闇を感じる。エイヴァは悲しくなった。この少年、最初の頃は家のことに関して自分からは絶対に触れなかった。心配されたくなかったらしい。だが、現在は完全にバレている。

 主に愚かな父親のせいだ。そして、どうあがいても心配されると悟った鯨哉は、あえてネタにすることで大丈夫ですアピールをするようになった。本人は笑いに変えているつもりのようだが、エイヴァにはブラックジョークにしか聞こえない。

 

「お皿ないって素敵ですよ! きったねえ食べ方した後の父さんのお皿!」

「ソウネ! ステキね! アハハッ!」

 

 しかし、エイヴァは乗るしかない。

 自分が深刻になると彼を悲しませてしまう。だからハイテンションになるしかなく、ここに慎一郎がいなくて本当に良かった。なぜなら追加で事故が発生するからだ。クソ真面目な顔で『食べ方が汚いのですか?』とか言いかねない。夫のことはとても愛しているし優しい人だと思っているが、こういうデリケートなシーンでは爆弾と化すことがある。

 

「でもお皿はあるよ! だってお皿がないと、おりょうり食べれないんだよ!」

「あっ、そっかぁ! はははっ!」

 

 それはそうとお皿関係で最近なにかあったのだろうか。お皿の話を始めた瞬間、異常な速度で様子がおかしくなった少年を見ながら、エイヴァは思った。

 とりあえずこの子に幸あれ。将来はいいお嫁さんの家に婿入りできますように。エイヴァは母の気持ちで神に祈った。アーメン。

 

 

 

────────────────

 

 

 

 野辺山は高原地帯だ。

 所在は長野県の南牧村(みなみまきむら)

 標高は1,300〜1,500mで人口は約3,000人。

 日本有数の冷涼な高原野菜産地もあり、夏でも涼しいので過ごしやすい。レタスやキャベツの生産や酪農が盛んな、広大な景色が広がる田舎である。

 

「うわ……めっちゃ降ってるなぁ。これ、明日は大丈夫かな?」

 

 そんな自然豊かな場所に、帝仁(ていじん)スケートリンクはある。60m×30mの屋内リンクは世界公認規格。ショートトラックのワールドカップや全日本選手権も開催される世界基準の施設だ。

 観客の収容人数は約1,000人。その向こう側にある窓を見上げながら、ジャージ姿の金髪美人、ライリー・フォックスは(つぶや)いた。

 

「みんな来れるのかなー、心配」

 

 絡めていた指を組み替え、手のひらを返して前方に突き出す。

 しなやかな腕を伸ばしている、彼女は元選手だ。

 それも前回オリンピックの金メダリスト。

 アメリカ代表フィギュアスケートの女子シングルで五輪に初出場初優勝。祝福の記者会見で引退宣言をして本当に現役を辞めてしまった、超絶お騒がせな人物でもある。なお、引退に関しては周囲に相談していなかった。特に親を含む親戚関係は大パニックに陥ったのだとか。

 

「なに、台風が来てるわけじゃない。心配ご無用ってやつさ」

 

 そう言って不遜な笑みを浮かべるのは、明日からの合宿でヘッドコーチを務める女性だ。老婆だ。今月頭に70歳を迎えた正真正銘のババアだ。そして他人をウワッと言わせる地獄耳の持ち主でもある。呟きを拾われたライリーはビクッとした。

 

「よ、よく聞こえましたね……アハハ」

「ハン、ババアの地獄耳()めんなってんだ」

 

 彼女は日本フィギュアスケート協会の大御所にして、死なない山姥(やまんば)と恐れられる女、小林(こばやし)幸子(さちこ)。今から20年ほど前、日本初のオリンピックメダリストを育成した後、数多くの有名選手を育ててきた実績がある。

 

「しかし、たしかに酷い雨だね」

  

 幸子はうっすらと目を細めた。

 外は真夏とは思えぬ冷気に包まれている。見上げる空は分厚い暗雲に隙間なく埋め尽くされ、昼間であることを疑うほどに辺りは暗い。

 

大門(だいもん)。おい、大門(だいもん)。天気予報では明日は晴れだったよなぁ?」 

 

 ババアの体がくるりと回る。年季を感じさせるスケート靴が、綺麗に体を回転させる。彼女が立っているのは氷の上であった。おまけにピョンっと小さくジャンプまでやってのける。紛れもない妖怪ババアである。普通の70歳がそんな真似をすれば転ぶだけでは済まず、最悪(ある)けない体になるだろう。

 

「おい大門(だいもん)! 反応が遅いんだよ! アタシが聞いてるんだからさっさと答えな!」

 

 彼女が怒鳴りつけている方向。がっちりとした体型の男性が、リンクサイドのフェンスに体を預けている。彫りの深い特徴的な顔立ち。

 身長は170cmを少し越えたくらい。

 羽織っているジャージの肩には日の丸の刺繍が刻まれており、彼は日本代表のコーチである。

 

「あー、今調べてますから……全く、あなたときたら。本当にせっかちな人ですね。年齢も年齢なんですから、少しは丸くなったらどうなんですか……ったくもう、俺が現役の時から変わらない。やかましいったらないですよホント」

 

 2002年のバンクーバー五輪で日本代表に選出された、元男子シングルの実力派選手、大門(だいもん)柊弥(しゅうや)

 気だるげにタブレットを弄る彼は、世間的には爽やかで元気な人間として認知されている。実際に性格は前向きでアクの少ない人物でもあるのだが、妖怪ババアがやかましいと愚痴っぽくなる。

 

「いや、明日も雨ですよ。幸子(さちこ)先生。どの天気予報見たんです? まさかとは思いますけどボケたりしてないっすよね……」

「おいコラ大門ッ! 誰が痴呆(ボケ)ババアだ! おい大門ッ! 恩師に向かってどういうつもりじゃオンドリャア大門(ダイモン)ッ!」

 

 老婆は氷の上で絶叫した。

 ライリーは『ヒェッ』と悲鳴を漏らしかけた。髪がウジャウジャと浮き上がるような幻影が見えたような気がした。まさに妖怪というか山姥である。

 

「ああもう本当にやかましい! 大門大門って叫ばないで下さいよ! つかライリーさんの前でギャーギャー騒ぐな! 日本のフィギュアスケート協会ヤバいって思われたらどーすんですか!」

「フンッ、いい子ぶってるんじゃないよ! 最初の大会で点数に納得いかなくて暴れたこと、アタシは墓に入っても忘れないからねぇ!」

「あー! あーーー! 何の話だ! いつの話だ!! ネチネチババアはこれだから嫌なんだ!」

 

 頭を抱えて上半身をブンブンブンッ、と振り回している成人男性。そんな彼を指さして「ボーケボーケ」と幼稚な悪口を連呼している老婆。二人のやり取りを眺めながら、ライリーは思った。

 

(ヘッドコーチと技術チーフのキャラが濃すぎる……こんなんでも協会から凄い信頼あるんだもんなぁ。ていうか何だかんだ仲良しだよね?)

 

 両者は長い師弟関係にある。

 小林幸子は大門がオリンピックに出場した時のコーチで、その関係は最初から最後までだった。彼は幼少期に幸子に弟子入りして以降、ただの一度もコーチを変えることはなかった。

 フィギュアスケート部門の強化部長の三池(みいけ)という女性も同じで、幸子のもとでオリンピック出場。彼女の場合は日本人初のフィギュアスケート女子シングルでメダリストになった。他にも幸子に世話になった人間は沢山いて、そのほとんどが関係良好と聞いている。

 

(実績だけじゃなくて、人望もあるっぽいんだよね。まあ、よく思ってない人も一定数いるみたいだけど)

 

 ライリーはロビーの方向に体を向けた。ブロンドの長髪がふわりと清らかな香りを放つ。

 澄んだ碧眼は細身の男性を映していた。

 身長は大門よりも少し高い。顔立ちはシャープな方向に整っており、かけている黒縁眼鏡も合わせて理知的な印象を受ける。

 

(コーチの枳殻(からたち)さん。あの人、なんかトゲトゲしてて苦手なんだよね〜)

 

 小さな足音を鳴らしながら、彼はライリーの前まで歩いてきた。

 眼鏡の向こう側で涙袋が(かす)かに揺れる。

 彼、枳殻(からたち)はヘッドとチーフを一瞥した後、ライリーに向かって呆れた顔を向けた。

 

「申し訳ありませんね」

 

 そして、軽く頭を下げて謝罪してきた。

 その表情は憮然としていて、声色は冷たい。

 

「えっと、何が……でしょうか?」

「私は強化部長に進言したのですよ。非常識かつ時代遅れのヘッドコーチと、そんな人間に顎で使われているようなチーフコーチ。今回こそは外してもらうように……と。結果はこれですが」

 

 小さな口からため息が漏れ、「忖度での組閣など恥を知った方がいい」と愚痴も出てきた。

 どう考えても問題発言なわけだが、ライリーは無用なトラブルは御免である。何も言わずに愛想笑いをして流した。

 

(下らない争いに巻き込まないで欲しいな〜。私の仕事は大人の面倒を見ることじゃないから)

 

 ライリーは辟易とした。

 今回わざわざ長野まで来たのは、協会から要請を受けて特別講師として合宿に参加するため。今年に入って東京で念願だった自分のクラブを作って、生徒も何人か見つけてテンションが上がっていたところ、ノービスの選抜合宿にお招きを受けることになった。

 かなり前のめりに。だって、才能のある子供達とスケートできるのは最高だし。それに、日本でやっていく以上は協会とは仲良くしておきたい──という狙いもあって、ライリーは二つ返事でオファーを受けた。

 それならどんな子が来るのかなー、と去年の資料や直近のデータとかも漁ったりしてみて、かなりテンション高めにやって来た。結果、コーチ陣を筆頭にスタッフが全体的に癖があることが発覚した。そして今、ライリーは少しだけダウナーになっている。

 

(コーチとトレーナー含めて13人。他のスタッフを入れるともっといるけど、なーんか人間関係がよろしくないんだよなぁ。悪い方向に癖が目立つ人が何人かいて、自分の派閥を作ってる感じで)

 

 目の前の男、枳殻(からたち)もそのひとりだ。

 あからさまにヘッドとチーフを毛嫌いしていて、隙あらばライリーを自分の側に引き込もうとしてくる。

 顔合わせの時に思っきり愛嬌をばらまいたのがまずかったか。全力の笑顔でわかりますー、を連呼してしまったから、あれで脈があると思われたのかも。

 

「実際、ライリーさんはどう思います?」

「何が……でしょうか?」

「ヘッドの小林はたしかに優秀な指導者()()()。私もお世話になっていた。それは否定しませんが、時代は変わるものでしょう? 最近のトレンドにも疎い節がありますし、そろそろ後進に席を譲ってもいいと思うのですがね……」

 

 枳殻は眼鏡に指をあてて目を閉じると、懊悩(おうのう)とした様子で嘆息した。瞑目したまま「アメリカではありえないのでは?」と続ける。

 ライリーもため息を漏らしたいところだった、が、ゴクンと飲み込んでおいた。巻き込まれたくないのが第一。それが無理だとしても、今のところはどっちの味方をするつもりもない。この人達のことを、ライリーはまだ知っているとは言えないから。

 

「んー、どうなんですかね。技術的指導だけがヘッドの仕事じゃないですから。そっちに()()()()()良くない結果が生まれることもありますし」

 

 それとなく考えを述べる。失礼にならない程度にはっきりと。

 今の話は事実だ。

 いくら技術的に優れた指導ができるコーチが集まったとしても、人間性に難があるとよろしくない問題が起こったりする。

 

(そういえば苦い思い出……発狂した子に殴られたこと、あったなー……私の先生はそういう時に限っていなくて、後は役立ずの大人ばっかりで本当に大変だった……おっとやめよう。気分がどんどん暗くなっちゃう)

 

 こういった期間限定の強化合宿というのは難しくて、普段一緒にやっていない人間同士だからこそ、スケート以外で問題が発生しやすい。

 そんな時、精神的支柱になれる存在は必要だ。   

 

「ライリーさんが言っていることが、私にはよくわかりません」

「はい?」 

「コーチの仕事という話です。技術的指導以外に何があるのです? どんな綺麗事を並べても、勝てなければ選手は納得などしませんよ。だってそうでしょう。最も結果に拘っているのは選手自身だ」

 

 ライリーはこくりと頷いた。

 何やらしたり顔を向けられているが、選手が結果に拘るのは笑えるくらいに当たり前だ。そして、この人は頭の良い話はできない相手だと判断した。

 ライリーは別に、コーチ全てに対しての考えを述べたわけではない。意図して話をごちゃつかせているのなら単純に嫌な奴だし、そうでないのなら論理的な話ができない人間ということになる。

 

「それはそうでしょうね。私もそうでしたし。まあ、今回のことはそうですねー……適材適所……とか? そういう納得の仕方もアリなんじゃないですか?」

「は……適材適所ですか。物は言いようですね。ライリーさんはポジティブな言い回しがお上手なようだ」

「はぁ、ドウモアリガトウゴザイマス……?」

 

 とにもかくにも、ライリーは思ってしまう。

 同じ指導側の大人に敵意を向けている暇があるのなら、子供達のデータでも念入りに確認しろよと。

 極論、大人同士の事情なんて()()()()()()()

 大切なのは選手だけだ。フィギュアスケートに限らずスポーツは全てそうだと思うが、やるのは選手で競技は選手のためにあるのである。だから、馬鹿な大人の足の引っ張り合いなんて無駄なだけ。ライリーがこの世で大嫌いなもののひとつが、反吐が出るほど下らない大人の大人のための事情である。

 

(ひぇっ、地獄耳のおばあちゃんがこっち見てる……仲間だと思われたらどうしよう……)

 

 なお、ずば抜けた聴力(ジゴクミミ)の持ち主の小林ヘッドは、ガンギマった顔でライリーを見ていた。この事を寝に持たれて虐められたりしたら最悪だ。ヤダなコワイなどーしようとライリーは焦った。

 

 

──────────────────

 

 

 

 2021年度、全国有望新人発掘合宿に参加予定の選手各位。

 概要および変更点は別紙参照。

 本合宿に参加するにあたっては、以下の点について遵守徹底すること。

 

 ・誠実な行動を意識する。

 ・意志の表現を心がける。

 ・世界を広げる努力をする。

 ・何事も考える癖をつける。

 

 されど諸君は結果の世界に生きている。

 努力の正当性を担保するのは最終的な結果である。

 ただし、時として栄光は納得に劣る。納得なき栄光は望ましいとは言えない。これらの意味をしっかりと考え、自分の中に落とし込み、肝に銘じること。

 たった4日。されど4日。諸君にとって有意義な時間になるよう願っています──第20回全国有望新人発掘合宿、ヘッドコーチ、小林幸子。

 

 

──────────────────

 

 

 名古屋駅から北東へと。勢い良く走行していく特急に、大きな雨粒が間断なく降り注いでいる。

 お父さんの鶴の一声によって、僕達は長野で前泊することになった。『社会人ならリスク管理は当たり前だから』って言ってたけど、自分達が引率するわけじゃないのに無責任すぎる。

 

「どんどん田舎景色になってくな……晴れてりゃさぞ見晴らしが良さそうだが」

 

 僕の隣。窓際の席で、引率の雉多(きじた)先生があくびを漏らす。この特急は座席回転ができるので、正面にはいるかちゃん、右斜め前にはいるかちゃんの引率の先生が座っている。先生達は1週間前の時点で前泊要請されて、慌てて宿泊場所を取ってくれた。

 全部おまかせしたって後から聞いたんだけど、申し訳なさすぎる。せめてホテルの予約くらいしろ。

 

「大雨洪水警報でてるみたいですよ、雉多(きじた)先生……」

 

 現在の時刻は午後5時前。既に長野県に入っており、もうすぐ塩尻駅につく。そこで乗り換えた後、1時間ほど経ったらまた乗り換え。野辺山まで行くには小淵沢 (こぶちさわ)という駅からローカル線に乗らなきゃいけない。

 それはそうと、なんか空気が重い。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

 

 名港と名城に別れて座ってるんだけど、向こう側の会話がほとんどない。ピアスいっぱいつけてる女の先生で、いるかちゃんは『ナッチン』と呼んでいる。

 なんでも、おっぱいが大きくなりすぎたせいでジャンプが飛べなくなって引退……とても悲しい過去を持っているらしい。僕がナッチン先生について知っていることはそれくらいだ。とてもじゃないけど会話のネタにはできない。

 

「えーっと、いるか。……さ、最近どう?」

「は……? 別に、普通だよ?」

「そ、そっかー……ハハハ」

 

 そして今、始まった会話が一瞬で終わった。

 なんなんだこれ。名港杯の帰りに車で送ってもらった時も思ったけど、この二人かなりギクシャクしてないか? いるかちゃんは『すきでもきらいでもない』って言ってたはずだけど、どう見ても嫌いな人にする態度だ。これはひどい。

 

「おいナッチン……流石にもうスルーできねえぞ。なんだよそのクソセンスなトークは……お前、そういうキャラだっけ?」

「ち、ちがわい! アグッ」

 

 きじた先生のツッコミに言い返そうとして、ナッチン先生が下を噛んだ。派手にガブリっていったな大丈夫か……?

 

「姉さん……なんでそんな態度悪いの? 車の中では()()まともに会話してたのに」

「別に普通なんだけど、なに?」

 

 いるかちゃんはすまし顔で聞き返してきた。

 いや、なにってこっちのセリフなんだけど。

 今日は朝からやたらピリピリしてたから、その流れであんま仲良くない先生への塩対応が加速している……まあそんなところか? それはそれとしても、ナッチン先生の様子がおかしいんだよなぁ。あからさまに顔色(うかが)ってるのがわかる。こういうの、いるかちゃんには逆効果にしかならない。

 

(いるかちゃんから聞いてた感じ、そこまで相性最悪って印象じゃなかったのに……もしかしてお母さんに何か言われたのか? お母さんからは何も聞いてないけど……ここで確かめるわけにもいかないしなぁ)

 

 お母さんに何か言われましたか? なんて質問したら空気が凍ること間違いなしだ。何も無かったとしてもいるかちゃんが怒るだろうし、仮に何かあったのだとしたらナッチン先生が多分もっとキョドる。

 

「うげぇ、舌いたいよー……」

「子供か……ったく血出てんじゃねえか? 水買ってきてやるから、お前はうがいしてこい。バイキン入ったら大変だろーが」

「なっ……か、神かよ! 私おがむわって……イタタタ……」

「アホなこと言ってねーで早くトイレ行ってこい」

 

 きじた先生はクソみたいに面倒くさそうに、手の甲をシッシッと払った。仕草も口調もつっけんどんではあるけど、優しさを隠せてないんだよなぁ。

 言ってる内容にしても、水買いに行こうとしてる行動にしても。現役時代からめっちゃモテてたって納得だなー。いちいちあざといって名港の子達が言ってたけど、すっごい納得してしまう。

 

(竜宮先生は午前中のうちに現地入りしてるんだよな……一緒に行ければ良かったんだけど)

 

 いるかちゃんは竜宮先生には頭が上がらない的なこと言ってたから、いてくれたらこの空気も多少はマシだっただろう。まあ、実際に指導するコーチ達と早目に話をしたいってことだから仕方ない。

 竜宮先生は指導コーチとしての参加だ。

 ナッチン先生ときじた先生はあくまで引率。合宿中の指導は基本しない。どんなことやってるのか見て、持ち帰ってくるのが大きな仕事のひとつらしい。

 

(二人ともいなくなったから、今のうちに聞いてみるか……?)

 

 きじた先生が水を買いに席を立ったタイミングで、ちらりといるかちゃんに目線をやる。仏頂面で携帯いじってるから、話しかけても無視されそうだ。

 でも聞かないとわかんないし、不機嫌対応覚悟で突撃するしか。僕は『フーッ』と決意を固めて、いるかちゃんに声をかけようとした

 

 

「なあなあ! 岡崎岡崎ぃ! ここ座ってもええ!? 四葉ちゃんの写真見せてーや! 四葉の写真ー!」

「ゲッ」

 

 その時、通路を歩いてきたクリムゾンレッドの髪の男子が近寄ってきた。豪快な眉毛が素敵な長久手フラワーの有望株、名港杯にも出てた猿渡(さわたり)菊次郎(きくじろう)だ。

 彼も前乗りすることにしていたらしく、最悪なことに同じ特急に乗っていた。しかも間が悪い。席が空いたタイミングで通りかかるとか、なんて迷惑な人間なのか。

 

「ダメだから。そこ、先生たちの席」

「えー、いけずぅー! 岡崎のいけずぅー! 四葉ちゃんの写真」

「うるさいよ。ちょっと黙ろうか」

「なあ、なんなんこいつ。気持ち悪いんだけど」

 

 いるかちゃんのコメカミに筋が生まれた。そりゃそうなるよね。君はほんと迷惑な人間だよ、菊次郎くん……。今、ただでさえ低かった評価がダダ下がってるから、早くいなくなってくれると助かる。

 

「岡崎ぃ! いるかちゃんが塩対応すぎる!」

「名前で呼ぶんじゃねえよ、クソガキ」

「ヒッ……ひ、人殺しの目ぇっ」

 

 いるかちゃんの瞳孔が開く中、僕は無言で立ち上がった。何も言わずに菊次郎さんの肩を掴み、グイグイと引っ張る。こうなったら強制退場させてやる。さっさと自分の席に帰れ!

 

「なっ、なにをするんやっ、俺はただ四葉ちゃんのっ」

「四葉にはもっといい人がいるから。ていうか、菊次郎くんだけは絶対にダメ。ゆーなもりいなちゃんも言ってた。あいつを四葉に近寄らせるなって」

 

 菊次郎くんは名港では要注意人物として認識されている。ロリコンかつストーカー気質のヤベー奴として、名港女子達はとても警戒しているのだ。実際、同性の僕から見ても大分ヤバイ。

 会う度に四葉の写真を要求してくる時点で、もう言いようがないほど気色が悪い。まだ小学2年生だからね? アウトでしょどう考えても。

 

「そ、そんなぁっ、酷いわ自分ら!」

「酷いのはお前の頭の中だ! いいからさっさと自分の席に帰りなさい! 妹も一緒に来てるんだよね? お兄ちゃんが変態とか最悪でしょ! もっと真面目に生きてお願いだから!」

「フグゥッ!? ひ、ひどすぎる……あんまりやぁ」

 

 泣きついてきてもダメなものはダメだ。どんだけスケートが上手くてもアウトなものはアウトです。

 これならまだ天馬(てんま)君の方がマシだ。

 あれはあれでとんでもないナルシストだし、何かと上から目線だし、大会でナンパしたりもするけども。それでも、小学2年生とチューしたがったりはしないから。

 

「この車両だよね! はいサヨナラ、じゃあまた向こうでね!」

「っっ、どうせお前にはわからへんわっ! ちっちゃい女の子ってめっちゃええやん! それだけでかわいいやん! 年上の何がいいって言うんやぁ!」

 

 僕はそっと彼に背を向けた。

 ブチ切れた顔の妹が背後に立っているのが見えたから、きっとめちゃくちゃ叱ってくれるだろう。菊次郎くんの妹は無口だけど、兄みたいな非常識な人間が大嫌いで身内の恥さらしだと思っている。よく叱ってくれているから、今回も任せて大丈夫だろう。それに長久手の先生もいるだろうし。

 

(ロリコンとかろくなもんじゃない……ろくなもんじゃない)

 

 四葉は真面目に怯えているから、本当にろくなものではない。最初の頃はまだ笑い話にできていたが、最近は段々とキツくなってきた。

 さて、彼のおかげでいるかちゃんに聞けなかった。

 ほんと余計なことしかしないな。まさか特急の中でまでこんな事故を起こすとか、ある意味ほんと凄い人だと思うよ。褒めてないよ。

 

 

────────────────

 

 

 なんなんこいつ。

 岡崎いるかは引きつった。

 変態が消えたと思って安心していたら、別の変な奴が寄ってきた。やかましいロリコンよりはマシだが、それでも歓迎できるわけじゃない。

 顔が可愛いのは良いとしても、それだけで仲良くしようとかなるわけがなかった。寄ってきたのは顔は知ってる程度の女子であった。

 

「名古屋からでも前泊するものなのですね。あ、私は岡山で遠方なので仕方なく」

「待って待って、私は何も聞いてないよ? なんで急に普通に会話始めるの?」

「ところで犬派ですか、猫派ですか?」

「いや、なんのはなし?」

「律儀な忠犬と勝手気ままな猫ちゃん、私はどちらも捨て難いのですが……」

「ちょっと、話聞いてよ……」

 

 お姫様みたいに可愛い女子だが、それはそれだ。

 大人しそうな見た目に反して喋りすぎ。しかもグイグイ来すぎ。ノリが完全に友達のそれだが、実際の関係は顔見知り以下である。

 

「? きちんと聞いていますよ? ああ、ごめんなさい。私、去年からあなたを狙って……仲良くなりたいと思ってまして」

 

 今、狙ってたって言いかけた。

 確実に言いかけて言い直した。なんだこいつ怖い。

 可愛いけど闇を感じる。いるかはちょっぴり恐怖しながら、引きつった顔で声を返す。

 

「仲良くって……いや、その前に私の話を聞いてないよね。一方的に喋ってくるよね」

「? ちゃんと聞いていますよ? ところで瞳がとても綺麗ですね。星空のような美しい瞳……やはり私の目に間違いはなかったようです」

「いや間違いまくってるんだって。言動とか行動とか色々さぁ」

 

 岡山の烏羽(からすば)ダリア。

 彼女はいるかと同い年で、去年の全日本ノービスで準優勝していた。会場で話しかけられたが、いるかは負けた悔しさでイラついていたので無視した。うん、やはり顔見知り以下である。

 

「ああ、そうそう……私の席はあなたの先生にお譲りしましたので、私がそこに座っても?」

「うん。お譲りしてたね。私の目の前で。ナッチンふざけんな……なんでいきなり去ってんの」

 

 なお、戻ってきたナッチンはダリアからの交渉を受けた結果、アッサリと席を交換して去っていった。

 これに関しては完全にいるかの自業自得である。 

 冷たくしている自覚はあるので、そこに関してナッチンを責めるつもりはなかった。まあ、そうは思っていても口が勝手に動いて、クソみたいなセリフを吐いてしまったが。

 

「では失礼します」

「失礼なのはおまっ……あなただよね。ねえほんとなんなの怖いんだけど」

 

 ちなみに、いるかは誰彼(だれかれ)構わずにぶっきらぼうな口調で喋ったりはしない。同じクラブの嫌いな奴ら相手の場合は別だが、学校ではわりと普通にしている。スケート関係でも、他のクラブの人間に対してはできるだけ普通を心がけている。これでも一応、他人の目は気になるのである。

 

「あれっ、ナッチン先生は?」

 

 そうこうしている間に弟が帰ってきた。

 不思議そうな顔でいるか達を見ている。そりゃそうだろう。ナッチンが消えて謎の女が現れたのだから、何も疑問に思わない方がおかしい。

 

「どっかいったよ……きじた先生はナッチン追いかけて行って戻ってこない。ほら、お水わたしに」

「あ、そうなの……まあ良かったじゃん。なんか気まずそうだったし、こっちの方がいいでしょ」

「そんなわけないだろ。お前なんなん……なんでそうなるんだよ」

 

 鯨哉はアッサリと納得すると、何食わぬ顔で自分の席に腰を下ろした。いるかは頭を抱えた。このよくわからん状況について、受け入れるのが早すぎである。

 つか自己紹介くらいしないのか。烏羽ダリアは有名だし、いるかと鯨哉の会話の中で名前が出たことも何回かある。それにしたって喋ったこともない相手なんだから、もうちょいなんかあるだろうに。

 

「あ、二人でお喋りしてていいよ。邪魔だったら僕は菊次郎くんシメてくるけど……」

「待てやめろ行かないで。変態はほっといてここにいていいから。なんか怖いのこいつ。2人きりにしないでマジで」

 

 いるかの精神は早くもゴリゴリ削られていた。

 まだ始まってすらいないのに、現地に向かっている途中で既に疲れてきた。鯨哉はダリアと全く喋らない──喋ってくれない。しかも、この烏羽ダリア、シカトすると悲しそうな顔で見つめてくる。

 

「……」

「うっ……」

 

 可愛い生物に見つめられると罪悪感が湧いてくる。

 家庭内の問題によるチンピラ方面に成長しつつあるいるかではあるが、本来の性格は非道でも冷酷でもなく、可愛い物体が好きな年頃の女の子である。そしてグイグイ来られると意外と弱かったりもするので、ダリアとは相性が悪かった。

 これが事情を知られていて、かつ近すぎる相手──たとえば茉莉花(まりか)なら心を鬼にして突っぱねることができるのだが、今回は見事にタジタジになった。弟は助けてくれなかった。だから、帰ったら仕返しをすることを決意した。

 

 

 

──────────────

 

 

 

 ざあざあ、ざあざあ。

 空は暗雲だらけ。雨がやまない。

 降り止まない雨はないという言葉があるが、本当にそうだろうか。ライリーは老婆の話に耳を傾けながら、ふと思った。

 

「恥ずかしい話だけどね、お察しの通りアタシらも色々あるんだ。思うところはあるだろうが、アンタは選手の指導さえ頑張ってくれればいい。厳しさを取っ払うことはできないけどね、それでも一人でも少なければいいと思ってる」

 

 去年よりも一人でも、折れる子が少なければ。

 しわがれた声で幸子は続けた。リンク内に備え付けられている綺麗な面談室。少し話でもしようかと言われて、ライリーはここに連れてこられた。

 

「やっぱり、絶望する子もいるんですね」

 

 言葉足らずな人だ。

 ちゃんと喋ってみてすぐわかった。去年どんな形で合宿が進み、終わったのか。資料では目を通したが、現場の温度感をライリーは知らない。詳しい説明も受けていない。でも今のでわかった。

 ここに集められるのは、言わばノービスクラスのエリート組。ほとんどの選手が少なからず自信もプライドも持っている。でも、上には上がいて、間近で同じ練習をすれば嫌でも実感させられる。

 

「ジュニアに上がれば、ここから更にレベルが上がる。シニアまで行けばもっと。ノービスの段階で絶対勝てないと思うような相手が沢山いたら、後ろ向きにもなりますよね──きちんと考えれば考えるほど」

 

 幸子は「そうだねぇ」と、水滴だらけの窓に向かって声を発した。ここに大門はいないし、あの性格の悪そうなコーチもいない。

 

「でもねぇ、続けていくことができれば、大逆転だってあるんだよ。ただし、確率は限りなく低いけどね。そんなこと、アタシらに言われなくったって選手はわかってるさ。小学校4年生くらいになれば、将来について考えられる頭はあるんだ。たとえ朧気なものだとしても、イメージはできるんだよ」

 

 それに各々(おのおの)事情もある。そして、それらの事情はこちらから言わせれば()()()()

 静かな声で幸子は続けた。強化合宿の目的はあくまで、将来国を背負って戦うことのできる可能性のある選手を見出し、今後に向けての足がかりにすること。

 毎年、ついてこれなくなる選手は何人かいる。技術的にも精神的にも。皆が皆、選考時点のコンデションではないし、周りに圧倒されて心が折れてしまう者もいる。

 

「そうですね。そのとおりだと思います。子供って、大人が思ってるより子供じゃなくて、ちゃんと考えているものですから」

 

 1日程につき約40名の大所帯。

 全員が充実して終わることができた試しは、今まで一度もなかったのだという。

 

「それがわかっているなら、アンタには細かいことは言わなくていいね。改めてよろしく頼むよ。アタシらはそこまで選手に優しくはできない。ノービスであっても戦いは既に始まっているんだ。今どき体罰なんかはありえないけどね、その分、大人は昔よりもシビアになった……淡泊さ。歯に衣着せぬ言い方をすると、()()()()()()()()()。根本はそういうスタンスだからねぇ」 

 

 そして、ここに来るような連中というのは、スケートで上に行きたいと思っている奴がほとんど。協会からしても、そういう選手達のために組んでいる合宿。

 もちろん相応の費用も発生している。そんな中で()()()選手に根気強く付き合ったりはしないし、後ろ向きに合宿を終えることになったとしても自己責任。

 

「現役時代、アンタは楽しそうにスケートをしていたね。実際に会ってみてもそこまで印象は変わらなかった。そのままで、深く考えないで、好きにやってみておくれ。アンタみたいなタイプはアタシらの中にはいないから、そうしてくれると助かる」

 

 ライリーは小さく頷いた。 

 元々そういうつもりだった。現役時代は半分くらいは演技だったし、今もそれは変わらないが、そうやって言ってもらえることは悪い気分ではなかった。

 それにしても、スケートリンクで怒鳴り散らしていた時とは全く印象が違う。この人も色んな顔を使い分けているのかもしれないと、ライリーは思った。引き出しも多そうだ。日本スケート界の大御所の呼び名は伊達ではないのだろう。

 

「さて、真面目くさった話はここまでにしようか。広州五輪の時の話でも聞かせておくれよ。アタシはオリンピックには出られなかったし、大門にしても枳殻(からたち)にしても、金メダルまでは取らせてやることができなかった。初めて日本女子でメダル取った……強化部長の三池(みいけ)もそうだが、アタシ自身も教え子達にしても、てっぺんからの景色は知らないのさ」

 

 それに近年のオリンピックの雰囲気も知らない。

 知らないことがあるから教えて欲しい。そう言ってコロコロと笑う老婆は、何歳になっても学ぶ意欲に満ちているらしい。

 やはり只者じゃないな、とライリーは感心した。

 そういえば、去年まではノービスAとBを完全に分けていたところ、今年からはBからAに少人数ながら合流させている。その変更はこの人主導だったと聞いているし、色々と考えているのは間違いなさそう。

 

(ひとまず、ヘッドコーチはしっかりしてるみたいで良かった。でも同僚に対してはすんごい厳しいらしいから、更迭されないように気を付けないとな〜)

 

 ライリーは微笑みつつも肩を竦めた。

 小林幸子はコーチに対し、指導レベルの要求が高いことで有名だ。過去には意識の低いコーチが寝坊して遅刻したことがあって、速攻で更迭されたらしい。

 だから、ライリーはあることを決めている。

 この合宿中はお酒飲みすぎない。金メダリストが更迭されたとか一生の恥になってしまう。絶対にそんなことにはなってたまるかと、ライリーは心で誓っていた。

*1
減点

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。