岡崎いるかの生存戦略   作:戎韜

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みんなでワイワイ合宿だ!


強化合宿初日①

 帝仁(ていじん)スケートリンクは標高1,350mの野辺山高原の中にある。

 敷地の正面にはダイナミックな八ヶ岳連峰がそびえ立ち、四季折々の景色を拝むことができる。

 今は夏なので深緑だが、生憎の豪雨で見晴らしは悪い。また、周囲には広大な高原野菜の畑、それから落葉松(からまつ)の林が広がっており、のどかで美しい田園風景を見ることができる。繰り返しになるが今は豪雨だから、ちっとものどかではないが。

 そんな素敵な場所にある帝仁スケートリンクの正式名称は、『帝仁アイススケートトレーニングセンター』。その名の通りアスリートのトレーニングに特化しており、宿泊施設の『帝仁ロッヂ』を含む敷地範囲は、おおよそ 10ヘクタール前後。わかりやすく言うと東京ドームよりも広い。

 敷地内は大まかに『帝仁ロッヂ』側と『アイススケートトレーニングセンター』側に分かれる。帝仁ロッヂ側には宿泊施設のほかに講堂やレストラン。弓道場なども併設されており、トレーニングセンター側には広いグランドやローラースケート場。さらにはスポーツジムまでついている豪華な施設。

 流石は国際基準のスケート場にして、日本オリンピック委員会の競技別強化拠点であると言えよう。

 

 

(雰囲気がやばい。めちゃくちゃピリピリしてるなぁ……)

 

 7月23日、土曜日の昼過ぎ。

 集合場所の講堂にやって来た鯨哉(きょうや)はゴクリと息を呑んだ。受付の時点から感じていたが、誰も彼も表情が()()硬い。現在は各々(おのおの)好きな場所に陣取って──椅子に座っているのだが、一部を除いては殺気立ってすらいるように見えた。

 

(特に中学生組が怖い……半分以上はすごい顔してるぞ)

 

 座る場所は自由とのことで、椅子の数は()()

 人数に対して明らかに多いので空席が多い。去年は指示されて男女別に並んだらしいが、今年は『自由でいいですよー』とのこと。

 鯨哉の座っている場所は、教壇から見て右側の最後列から2番目。外側から数えても2番目の席だ。

 

「これ、いつもこんな感じなんですかね……」

「いえ、去年は違いましたよ。一昨年も。ここまで空気が重いということはありませんでした」

 

 左隣にはダリアがいる。手袋まで黒で固めている少女は今日も(うれ)いげな顔立ち。練習着の黒と肌の白のコントラクトの差が激しい──と少年は感想を抱いていたが、姉の目があるので滅多な発言はできない。余計なことは言わないよう気をつけている。

 

「何かあるんですかね、怖いんですけど……」

「さあ、どうなんでしょう。今年は例年に比べてシード権(あらそ)いが接戦なので、それも関係しているのかもしれないですね」

 

 さて、ダリアが口にした『シード権』。

 この合宿でいい成績を残して協会から認めてもらえれば、今年の全日本ノービスに無条件で出場できる。

 

「ノービスAの女子は……ダリアさん含めて5人くらいですか? シード権狙えそうなの」

「ええ。あなたのお姉さんを入れて5人ですね」

 

 そのお姉さんこと岡崎いるかは、二人の後ろで虚無の表情を浮かべていた。隣には誰も座っていない。

 

「……」

 

 目が虚空を見つめているが、朝からこの調子だ。

 自分の世界に入り込んでいるらしく、話しかけても反応が薄い。ダリアはめげずにコミュケーションを試みていたが、かなり早い段階で諦めた。『吐きそうな悪夢見た。しばらくしゃべりたくない』とのことだったので、そっとしておくことを決めたらしい。

 

岡崎(おかざき)鯨哉(きょうや)、あなたは順当にいけば取れるのでは?」

  

 鯨哉は「どうですかねー……」と苦笑した。

 ジュニア以上になるとまた違うのだが、ノービスの場合は前年度の成績で予選スキップはできない。予選免除の資格を得るには、この合宿で好成績を見せて評価されるしかないのだ。ただし人数は若干名。

 とりわけノービスBは男女共に1名か2名。例年の傾向はそんな感じで、年度によっては0ということもある。だから鯨哉はあまり期待していない。現段階では逆立ちしても勝てない相手がいるからだ。ノービスBで2枠貰えれば可能性はあるが、それでも拮抗してくるライバルは何人かいる。簡単にはいかないだろう。

 

蓮華茶(れんげちゃ)組が強すぎるんで、あんまり自信はないですね」

 

 同じ列の反対側を見ると、天才こと聖澤(ひじりざわ)天馬(てんま)を筆頭に蓮華茶FSCの面々が固まって座っていた。手鏡で自分の顔を見つめている綺麗な顔の男子、なぜか目がギンギンで血走っている爽やか系の男子、そんな2人を微妙な顔で見ている身長の高い少年。何やらモジモジしている小柄な男子。みんな全国()()()()()だ。

 

「ああ……そうですね。もともと強いクラブではありますが、去年の全日本ノービスでは……」

「はい。ノービスBの男子は蓮華茶にジャックされました。なんなんですかねあのクラブ、いくらなんでも強すぎるでしょ」

 

 驚くなかれ、昨年の全日本ノービスBの男子は、鯨哉を除いて1位から7位まで全員が蓮華茶FSCの選手だった。ちっちゃい妹と一緒に前の方に座っている菊次郎(きくじろう)少年は、順当に11位だった。

 

「天馬君はわざわざ名古屋まで冷やかしに来るし、地元でも金メダル取らせないとか……なんの嫌がらせなんだか……! ほんと何考えてるかわからない……ほんっとーに……!」  

「まあまあまあまあ」

 

 鯨哉はぎゅっと拳を握り締めた。思い出したら悲しい気分になってきた。表彰台では『フッ、今回も俺の勝ちだね』とか嘲笑(あざわら)ってきたし、あのナルシストは一体どういうつもりなんだか。

 

「私、思ったのですが、名古屋までわざわざ来たということは……あなたのことが大好きなのでは?」

「おぞましいことを言わないでください」

 

 ダリアの憂いげな瞳がきらめいた。

 微笑(びしょう)がとても綺麗だ。しかし、喋っている内容は最悪である。鯨哉は天馬に大好きになられる覚えはない。

 岡崎鯨哉は誰かを毛嫌いすることは少ない。

 だが、それでも聖澤天馬だけは色んな意味でダメだった。大嫌いとかじゃなくて『ダメ』。嫌いというより苦手という感じだ。

 

「前も思ったんですけど、ダリアさんって結構ひどいこと言いますよね……」

「そうですか……それ、いつの話ですか? そこのところ詳しく教えて頂きたいのと、今度から傷ついた時はその時に言ってください。ちゃんと謝罪したいですし、同じことがないよう気をつけるので」

「いや、大丈夫です……悪気ないのはわかってるんで、そもそも僕が気にしすぎてるだけなんで」

「いえいえ、そういうわけにも」

 

 この後は開講式。

 開始まであと10分と少しというところで、ダリアとお喋りしながら待っていると、

 

「──ねえねえ、なんか楽しそうに話してるね? 良かったら私らも混ぜてよ」

 

 前の席に座っていた女子の上半身が、突如としてクルッと後ろを向いた。茶色に染めたロングヘアーをオールバックにして後ろで1本まとめ。活動的な印象の少女のことを、鯨哉は顔も名前も知っていた。

 福岡の高井(たかい)(はら)()()。彼女は去年の全日本ノービスBの女王だ。

 

「いいですよ。どうぞ是非とも遠慮なく、じゃんじゃんお喋りしましょう」

「あははっ、ダリアは相変わらずマイペースだなー」

 

 鯨哉よりも先にダリアが反応した。話しかけてきた少女は朗らかに笑う。二人は中四国九州ブロックで同じなので、大会で会う機会が多いのだとか。

 

「とりまアリガトー。いやー、話しかけるタイミング失っちゃってさー。あっ、その子が岡崎いるかちゃんの弟ねー? わー、似てるねー!」

「あ、はい。僕は弟ですけど、似てはいな」

「私、高井原麒乃(きの)ー! 漢字はキリンだけどキリン扱いはしないでくれると嬉しいな」

「……? はい、わかりました?」

 

 鯨哉はちょっと椅子を後ろに引いた。よく喋る女子である。全日本ノービスで滑っている時はクールな印象があったのだが、もしかしてマシンガントークな人なのだろうか。

 

「あ、そうそう。こっちは金弓(かなゆみ)蜂波(ほなみ)ちゃん! 蜂波って呼んでいいよ!」

 

 麒乃(きの)は左に座っている女子を指さし、「じゃーん」と両手で紹介のポーズを取った。前を向いていた聡明そうな雰囲気の女子が、やや引きつった顔でこちらを向く。

 

「あのさ、私は別に話に入りたいとか言ってない……」

「えー……ご、ごめんね?」

「いや、別に怒ってはないけど……強引なのはやめてって話」

 

 蜂波(ほなみ)と紹介された女子はため息混じりに言った。先程までの強ばりがややマシになって、程なくして苦笑が生まれる。

 

「まあ、よろしく。麒乃ちゃんもそうだけど、君達も余裕そうで羨ましいよ」

 

 彼女は続けて述べた。

 自分は中学生組だし後がないから、とてもじゃないけど平和に談笑する気にはなれないと。

 

「だからゴメンね。ちょっと緊張してるから、私は精神統一してたいから」

「えー……」

 

 麒乃はふくれっ面を作って不満を表現していたが、穂波はプイッと前を向いてしまった。

 鯨哉は彼女のことも知っていた。

 金弓(かなゆみ)蜂波(ほなみ)は去年の全日本ノービスAで4位だった実力者。2018年の全日本ノービスBで靭帯断裂の不運に見舞われ、()()()()()()戻ってこられたのは2020年の春頃。痛めたのは右の足首で、選手生命が終わりかねない大怪我だった。人伝に聞いてから注目して見ていたのだが、今でも万全とは言えない状態が続いている。

 

(優勝候補……だったんだよね。怪我がなければ、今頃はメダル沢山取ってたんだろうな)

 

 小学4年生の時点でトリプルルッツをクリーンに降りることができていた。連続ジャンプに組み込むこともできて、後半に入れられるだけの体力もあったのに、去年は挑戦すらしなかった。

 それでも4位に入れるのだから凄いものだが、これからジュニアに上がることを考えると厳しい。最大の武器だったジャンプの高さが失われ、それに連動して安定感も下がっている。

 

「ご、ごめんねー、うちの穂蜂(ほなみ)ちゃんが……」

「大丈夫ですよ。それに緊張してるのは僕もなので、気持ちはわかるんで」

「そうなの? 君、なんかそんな感じしないけどなー」

「いやいや、遠足気分で来るわけにもいかないですし、それなりに緊張はしてますって」

 

 嘘じゃない。

 鯨哉は色んな意味で緊張している。でも、いつからか自分を客観視する能力が()()鍛えられたから、緊張した次の瞬間には冷静になれているだけだ。

 そう、客観視。本人はそう思っている。それは厳密には客観視ではない、全くの別物なのだが、本人にその自覚はなかった。

 

「ところで麒乃(きの)寧々子(ねねこ)はどこにいるのですか? 姿が見えないようなのですが」

 

 ダリアの口から別の女子の名前が出てきた。

 これも鯨哉は知っている。去年の全日本ノービスで銅メダルだった蓮華茶の女子だ。そういえばどこにも座っていない。蓮華茶グループは固まっているが、ダブルお団子の元気っ子──寧々子だけ姿がなかった。

 

「受付では見かけたはずで、来てはいますよね?」

「うん。もちろん来てるよー。冒険してくるって言ってフラフラどっか行っちゃって、帰ってこないの」

「なるほど…………なるほど?」

 

 ダリアはフムフムと頷き、数秒後にコテンと首をかしげた。今の話が理解できなかったことに時間差で気づいたらしい。鯨哉もよくわからなかった。

 冒険ってなんだ。散策の間違い? 探検かもしれないが、いずれにしても開講式前にやることではない。

 

 

「──寧々子はどこ行ったんだ! もうっ、だからやめとけって言ったのに! こんなんなったら俺が探しに行くしかないやんか!」

 

 蓮華茶の身長の高い男子──多分170cmを越えたくらい──犀川(さいかわ)君が悲痛な声を漏らした。

 彼は駆け足で講堂から出ていったが、果たして開講までに戻ってこられるのだろうか。どことなく苦労人の香りが漂っている6年生男子を、鯨哉(きょうや)は気の毒そうな顔で見送った。 

 

 

────────────────────

 

 

 2時ジャスト。

 開講式の開始時間ピッタリになると、ジャージ姿の大人達が講堂の中に入ってきた。

 先頭はテレビにも出ているおばあちゃん。日本が誇る名コーチ、小林(こばやし)幸子(さちこ)だ。

 

「なんだか空気が重いねぇ。若者がジメジメしてるんじゃないよ、まったく……初日からこれじゃ気が思いやられるってもんだ……ったく」

 

 ブツブツと呟きながら、教壇に向かって進んでいく足取りは軽い。しっかりしている。背筋はピンと伸びているし、70歳とは思えない強い足腰をお持ちのようだ。

 

「うわっ、マジか……」

「寧々子、なんでお前、なんでお前は階段ダッシュとかしてたん? 怒らないから俺に教えて」

 

 戻ってきたダブルお団子系女子、紅熊(くれくま)寧々子が瞳を輝かせる。その隣で疲れきった顔で肩を落とす可哀想な犀川(さいかわ)少年。だが、彼の表情もすぐに明るくなった。

 二人だけではなく、多かれ少なかれ選手達は驚きの反応を見せた。妖怪ババアと呼ばれる老婆の登場に感動したわけではなく、10人を超えるスタッフの列の後方に、前回オリンピックの金メダリストが紛れ込んでいたからだ。

 

「ライリー・フォックス……案内には未定って書いてあった特別講師って、ライリー・フォックスだったのか……マジか」

「キラキラ……キラキラしていますね。キラキラ……もしや彼女もキラキラ党……」

「……ダリアさん?」

 

 よくわからん世界に行ってしまっているダリアはともかく、鯨哉(きょうや)も凄く驚いた。さっきからなぜか無言でこっちを見ている姉のこともともかく、とてもびっくり驚いた。

 ライリー・フォックスは前回オリンピックに16歳の若さで出場し、見事に金メダリストとなった。正真正銘の天才として広く知られていて、祝福の席で引退宣言してそのまま雲隠れしてしまった、そんなお騒がせの人物としても超有名。めちゃくちゃカッコいいスケートができることでも凄く有名。

 とにかく名実共に超絶凄い人物である。あとテレビで見た時よりも美人になってた。鯨哉が最後にライリーを生中継で見たのは、彼女が16歳の時である。

 

 

「フッ……実に美しいねぇ。儚い月のまたたきのようでもあり、情熱的に輝く太陽のようでもある」

 

 天馬が何か言っていたが、どうせ『月みたいに美しくて太陽みたいに綺麗だ』とかほざいてるんだろうと鯨哉は思った。大体(だいたい)合ってた。

 教壇の前に並んだのは、おばあちゃんとライリーを含めて13人。その他のスタッフは講堂の壁際に寄って直立不動の姿勢。暴れんボーイ先生やナッチンなど、引率のコーチ達は後ろの方に固まっていた。

 

 

「──みなさん、まずは遠路はるばるお疲れ様でした。そこまで遠くない方々も、ようこそおいでくださいました。思い返せば1年前、前回の強化合宿が終わってから我々は反省点を洗い出し、洗い出し、洗い出して」

 

 爽やかなオールバックの男性、オリンピアンの大門(だいもん)が大きな声で話し始めた。案内には彼がチーフコーチだと書いてあったが、なんだろう。

 鯨哉は「?」と大門コーチを凝視した。爽やかに汗を流しまくっている。おデコが湿っているのが後ろの方からでもわかる。あれは……冷や汗だ!

 

「洗い出して……っ、とにかく! 頑張っていきましょう! 我々は君達を歓迎する!」

 

 大門はバッと右手を振り上げた。なんの脈絡もない激を飛ばし、爽やかな笑顔で汗を振りまきながら。

 選手達はポカーンとしていた。幸子コーチは悲しげに天井を見つめていた。他のスタッフ達はざわざわしている。そんな状況を厳しい顔で見ていたコーチの一人が、ゆっくりと大門コーチに歩み寄る。

 

「もういいです、チーフ。もう結構なので私が喋りますよ。全く、未だにスピーチ慣れできないとは……全く……」

 

 黒縁眼鏡を指で軽く上下させ、鋭利な瞳をすっと細める。大門よりも理知的な雰囲気で、抑揚に乏しい声で喋る男性。

 彼は枳殻(からたち)周助(しゅうすけ)

 現役時代は最後の最後にオリンピックに出るチャンスがあったが、総合的判断により落選。かつては神童と持て囃されていた時代もあったが、一度もオリンピックに出場できないまま現役を終えた。

 

「改めてまして──皆さん、こんにちは。今回の強化合宿で技術コーチを拝命いたしました、枳殻(からたち)です。先程(さきほど)挨拶があったのはチーフの大門(だいもん)です。何か問題があれば大門まで相談するようにしてください。私は技術的な指導をするのが仕事になりますので、どうぞよろしくお願いしますね」

 

 枳殻(からたち)コーチは悠然と選手達を見渡すと、変わらず落ち着いた声で「さて」と続ける。

 

「知っての通り、本合宿は4日間となります。スケジュールは事前通達した通りですが、追加でいくつかルールを設けることになっています。この後は心構えなど座学の時間から始まりますので、そこで詳しい説明をする予定です。私の方からは以上。叱咤激励は不要でしょう」

 

 なぜなら、ここにいるのは意欲があり、才能もある者だけなのだから。

 無感動な声でそう言って、枳殻(からたち)は後ろに下がった。眉ひとつ動かさずに、ヘッドコーチの老婆に視線を送る。幸子(さちこ)は二度ほど咳払いをすると、気怠(けだる)そうな顔で前に出てきた。

 

 

「──意欲はあっても才能があるとは限らないが」

 

 しわがれた声が講堂に響く。

 老婆の瞼がひくりと吊り上がった。

 

「それならそれで構わない。アタシはそう思っているよ。改めてヘッドコーチの小林だ。アタシのことを妖怪ババアとか呼ぶ不届き者がたまにいるが、同じことをしたら即更迭(こうてつ)! わかったら元気良く返事をするんだ!」

 

 小林ヘッドは張りのある声を放った。

 選手達はざわついた。それを見た小林ヘッドは山姥のような形相で、声のボリュームをぶち上げる。

 

「なんだ! 返事もできないのかい! はいでもうんでもウオォォ! でもいいからなんか言え! アタシが滑ったみたいじゃないか!」

「ウオオオオオオオオッ!」

「おいっ! お前は長久手の生徒だね! 本当に雄叫びをあげる奴があるかっ」

 

 ただひとり、迫真の表情で叫んだ男子が叱られた。

 菊次郎(きくじろう)少年である。彼はビクッと震えると素早く椅子に座り直し、ちっちゃい妹にガンガン蹴られた。恥ずかしいからやめて、多分そういう感情だろう。

 

「コホン! ゴホンッ! ガハッ……はぁ。もういい! とにかくこの合宿は強化合宿だ! 若干名ながら全日本ノービスのシードも選出予定! まずは心構えから叩き込んだ後、体力テストと氷上テスト! 評価は特別講師含めたコーチ8人全員で行う! それじゃ解散! ウダウダと長ったらしい言葉は必要ないからね! アタシが言えるのはこれだけさ! アタシが書いた手紙をちゃんと読んで実行しな! 以上! 解散ッ!」

 

 小林幸子は勢い良く右腕を突き出し、左手でJAPANジャージを脱ぎ去った。直後、困り顔のコーチが声を発する。優しげな顔立ちの男性、今回は指導役として参加する岡山の梟木(きょうぼく)コーチだ。

 

「ちょっと待ってください幸子さん。いきなり話をまとめないでください。まだ我々の自己紹介が済んでいませんし、他に話しておくべきこともあるでしょう?」

 

 幸子コーチは「フンッ」と鼻息を吹いて、元いた場所に戻った。軽快な後ろ歩きで。ややあって「すまんかった!」と右手を上げた。なぜか派手に挙手した。

 その一連の流れを見ていた選手達はざわつき、鯨哉(きょうや)はダリアと顔を見合せた。どちらからともなく、パチパチと瞬きをし合う。

 

「大丈夫ですか、これ……去年は……」

「去年はまともでしたよ。こんなに滅茶苦茶ではありませんでした。なんなんでしょうね、これは」

 

 直後、鯨哉(きょうや)は感じた。

 背後からの圧を。背中がずっしり重くなった気がして、なんだこれはと振り返ってみたら

 

「オイ」

「!‍?」

 

 ここまで無言だったいるかが、無表情で鯨哉の方向を凝視していた。発せられた声は低かった。寝起きの機嫌が悪い時みたいな、そんな汚声。

 

「昨日から思ってたんだけどさ、なんかやけにダリアちゃんと仲良くね。お前、初対面の時はもっとエーティーフィールド凄いよね。どしたん? どっか調子悪いんならホテルに帰れや」

 

 真顔で言われた内容はよくわからん。

 エーティーフィールドとか現実にはないから、というツッコミはともかく、とにかく機嫌が悪そうだ。

 おまけに外向きのキャラも見事に剥がれている。この合宿では粗暴な感じは封印していくスタイル……のつもりだったみたいだが、早くも化けの皮が消え去ってしまっている。

 

「……姉さん、あのさ」

 

 鯨哉(きょうや)は小さく嘆息すると、ジトっとした視線をいるかに送った。

 

「……しょーもないこと気にしてる場合じゃないでしょ。これから沢山評価されるんだから、そろそろテンション上げてかないと」

「うるせえよ」

 

 そして、正論述べたら途中で食い気味に怒られた。

 いるかの機嫌はこのあとすぐに治った──嫌でも集中しなきゃいけないから──ものの、後でネチネチ言われそう。

 今の声のトーンはそうなる可能性が高い。

 長い付き合いの中で、鯨哉はそのことが何となしにわかっていた。声で大体わかるのだ。姉が口にする不満が、どの程度ガチであるのかが。

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