岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
アスリートにとって食事はとても重要だ。
糖質、タンパク質、ミネラル
──食事を軽んじる者に選手としての未来はない(もちろん個人差あり)。
とあるスポーツ栄養士の至言である。
とにかくまずは食べなきゃダメで、病気じゃないなら何も食べないのはアウトです。仮に気持ち悪かったとしても何かしら口に入れましょう。そうしないとトレーニングで傷んだ体はそのままで、筋肉が回復せずに怪我します。
「急いで食べる必要はないですからね。時間かかってもいいって
閑散とした食堂で
現在は夕食
「すみません……
ダリアはじっとお
黒真珠のような瞳はいつにも増して無感情だ。吸い込まれた光は反射することなく、さながらブラックホールのごとしである。
「人より食が細いとしんどいですよね」
少年の柔い声が静かな空間に溶ける。
ダリアはすっと目線を上げた。姉に似た綺麗な瞳の中は読めない。わかりづらい。そこに映っているのはあからさまに弱い自分だ。
情けない。合宿に来て年下に気を遣われているなんて恥ずかしい。ハッキリ言って
「体力に関しても簡単にはいかないですよね。少し頑張ったくらいでつくものでもないし。でも、僕たちにはまだまだ時間があるから、苦手な部分は時間をかけて普通にしていけばいいんです」
率直に、気休めだとダリアは思った。
競技者としてトップ層を走り続けるためには、普通では不足だ。平均的ではダメで、ダリアは既にそのラインは越えている。というかここに来ている面々はみんなそうだ。
「飛び抜けた体力が欲しいです。それなら疲労で食事に影響が出たりも少ないでしょうし、あなたみたいな人のことは羨ましい限りですね」
そして、時間がたっぷりあるわけがない。
中学に入ったらあっという間にジュニアで、そこで結果が残せなければ進退を考えなければならない。
他のスポーツに比べて、フィギュアスケートは費用面での負担がバカにならない。一部の超裕福な家庭を除いては、やりたいというだけで続けていいものじゃない。昔はわからなかったが、今はわかる。
「僕だって昔は食が細かったし、体力だって姉さんの方があったんですよ?」
「そうなのですか?」
「そうですよ」
少年は苦笑いをしてそう言うと、残っていた湯豆腐の欠片を口に運んだ。
「もっと食べろってよく言われてたんですけど、そんな簡単にできないって思ってましたね。大食いな人の感覚で言われても困るって」
「へえ……」
今のも気休めだろうか? ダリアはじっと彼を観察してみたが、やっぱりよくわからなかった。目は口ほどに物を言うという言葉があるが、この子に関しては当てはまらない。とにかくわかりづらい。
「でも、コツコツやってたら疲れてても食べられるようになったし、今じゃ体力バカみたいになっちゃったので」
「なっちゃったとは……良いことじゃないですか。体力バカ」
「バカって言われるのはちょっと……」
「あなたが言ったんですよね……」
男子と話している時は表情が豊かに見えることもあるが、ダリア相手だと妙に落ち着いている。
(まあ、実際に会って話す機会はなかったですし、上の学年の女子相手なら壁があっても仕方がない。これが同じクラブなら全然違ったのかもしれませんが、こんなものなのでしょうね)
彼との付き合いはそれほど長くはなく、まだ1年も経っていない。第一印象は不審者だった。女子トイレの前を行ったり来たりしているのを目撃したのが最初で、その時は怖い人かと思った。トイレの方をチラチラ見ていたし、他にも挙動不審だったし。
(あれはまさしく奇行でした。驚きでしたね。全日本ノービスに変態が紛れ込んでいたものかと……)
女子トイレの前で不審者オーラを放つ男子。ぶっちゃけ関わりたくないと思ったのだが、話しかけられてしまったのでやむを得ず対応することに。
及び腰で話を聞いてみたら、姉が
『アクセルフリップトウループーシネシネシネシネクソヤロウ』
奥の個室から聞こえてきた。
ノックしてみたらドアを蹴られてダリアは逃げた。
トイレットペーパーが上から降ってきたのもあって、ダッシュで逃げた。
その後は外で待機していた
いるかのことは演技を見ていて『いいなー』と思ったから、友達になりたいと思ったのだ。トイレ騒動の時は気配が不穏すぎたのでやめておいたが、いつか友達になってもらおうと考えていた。
だから、今回は良い機会なのだが、いきなり無茶苦茶に負荷をかけられたせいでダリアは死にそう。今日のメニューが明日も続いたら、本当に倒れてしまうかもしれなかった。
「ふう、おかげで食べ切れそうです。ありがとうございます。一人で食べ続けていたら、こっそり捨てていたかもしれません」
ダリアはほっと吐息をもらした。
焼き魚やら味噌汁やら、うどんやら味の薄い鶏肉やら、オレンジっぽい果物やら。量も質もエネルギー補給にはバッチリすぎるレシピも、どうにかこうにかなくなりそう。途中から『消え失せろ』と心の中で唱えていた
「あー、姉さんは実際に捨てたことあったなぁ……あの人、昔は今より好き嫌い多かったんで。めちゃくちゃ怒られてもっと嫌いになりましたけどね、桃のクリームケーキ?」
「桃のクリームケーキ?」
「うちの姉、桃が嫌いなんですよ。今でも。でも、お母さんが好きでよく桃関係のやつを買ってくるんです。仕方ないんでこっそり代わりに食べてあげるんですけど、そのせいで僕も桃が嫌いになりそう……ドカ食いするものじゃないですからね、桃って」
ダリアは『おや?』と引っかかるものを感じたが、それを口に出すよりも先に
「──そろそろ時間になりますので、食べきれない人は申し出て下さい! 隠れて部屋に持ち帰ったり、捨てたりするのは禁止です! 怒ったりはしないので正直に言ってくださいね!」
眼鏡の女性トレーナーが食堂に入ってきて、張りのある声を響かせた。
ダリアはまたしてもホッとした。
残っていた中の何人かはダメそうだが、自分は何とか完食できた。
無駄な時間に付き合わせてしまったのだから、それくらいはしないと悪いだろう。
「じゃあ移動しますか。もう少しで座学が始まりますし……」
鯨哉は軽く目を
あと10分ほどで夜間座学が始まり、それが終わったら就寝時間となる。開始までは数少ない自由時間で、
ただしリーダーを押し付けられた人達は別。個室に集められて連絡事項などを聞いて、後でメンバーに共有しなければならない。他に仕事があるのかは不明。
なお、携帯やゲームは禁止。集合時に没収されており、布団の中で弄るのも不可。夜更かし
「居眠りとかしたら凄く怒られそうだけど、眠くなってきましたね……」
「そうですね。私は今すぐにでも眠れそうですが、お互いに気をつけましょう。居眠りをして体がビクンってなるやつ、あれはとても恥ずかしいので」
あれは夜更かしをした日の翌日、机を膝で蹴り上げてしまった時の感覚が忘れられない。クラス全員の視線が殺到してダリアは死にそうになった。
「あー、恥ずかしいですよね。僕の場合は前の席のタッツミーがビビって床にダイブしちゃって、教科書を持って歩いてた先生も派手にコケて、めちゃくちゃ気まずい思いもしました」
鯨哉は食器を持って立ち上がると、遠い目で窓の方向を見つめた。暗黒の空からはまだ雨が降り続いていて、水音は昼間よりも激しい。
それはそうと、この子も経験者のようだ。
あの半分寝てる時に体がビクってなるやつ。
「それは……大惨事ですね」
「でしょう? あ、タッツミーっていうのはサッカーやってるけど野球の方が上手い男子で、苗字が辰巳だからタッツミー……どうでもいいですねすみません」
「いえいえいえ、私のことは気にせずに、好きなことを好きなだけ話してください」
あれは経験者にしかわからない痛みと恥辱がある。
ダリアはなんだか親近感が湧いた。こういう話をもっと聞きたいと思っているのだが、普段は当たり障りのない文章ばかり送ってくるのでつまらない。
外向けの顔というのは文章越しでも伝わってくるものだ。この合宿後は少しは変わってくれると有り難い。ダリアはそう思った。
────────────────
夜間座学は栄養の話だった。
明日からの食事はビュッフェ形式に変更になることご先に触れられ、その次に推奨される栄養素のバランスや盛り付け方。偏った食事だと
『偏った食事バランス、行き過ぎた食事制限、それらは疲労骨折に繋がるので絶対に避けてください。疲労骨折は恐ろしいですよ。
無表情でしゃべり続ける講師役の女性は怖かった。
声まで無機質ということはなかったが、なんというかこう、雰囲気と顔に迫力があった。本人は脅かしているつもりは……あるのかもしれなかった。
なぜなら、恐ろしいとか怖いとかいう負のワードを口にする際、やたらと声に力が入っていたから。
ともあれ栄養学の話は何事もなく終わり、その時点で時刻は21:30。後は着替えて寝るだけとなった。
「なあ
消灯時間は22:00である。つまりロビーで無駄話をしている時間はないのだが、そんな中でとても深刻な顔で質問してきた男子が一人。
キラキラした澄んだ瞳の京都在住、蓮華茶FSCの
「なあ聞いてるか? お前って女子が好きなのか?」
「いや、どうしたの大丈夫? 目は澄み渡ってるけど喋ってる内容はケッコー少しおかしいよ?」
隼翔とは同じCグループだ。これから同じ部屋で就寝となるのだが、その前に話があると呼び止められて今の状況になっている。
体力トレーニングの時は寝不足ハイが臨界突破していた彼だが、強制的に休息を取らされたことで目の血走りは消えていた。しかし、口から出てくる言葉は引き続きよくわからない内容である。
「俺は真剣に聞いてるんだよ。ほら、これから4日間おなじグループだろ? 一緒にいることも多くなるし、お互いのことを知っておいた方がいいだろう?」
「それはそうだけど、質問がおかしい。それとわざわざ廊下で話さなくてもいいじゃん」
「いや、先に確かめておきたくて……」
「え、なんで深刻になるの……怖いんだけど」
これが単に女好きのクソヤロウだと思われているのならまだいいが──そう思われることを歓迎はしないが──今の質問の仕方はちょっと微妙だった。
具体的には男が好きなんじゃないかと警戒されていそうで、そうだとしたらかなりヘコむ。ちなみにちゃんと女の子は好きである。鯨哉にそっちの
「なーに下らないことを言っているんだよ、蓮華茶の
鯨哉が答えるより先に、身長176cmの長身男子が声を発した。一緒に立ち止まっていた名古屋の
「リーダー! 変な呼び方すんなよ! そこは普通に名前か苗字だけでいいだろ!」
「俺をリーダーと呼ぶな!」
蓮太郎の細い顔が激しく震えた。体ごと眼鏡も一緒に。生真面目な少年は自分のことで精一杯らしく、たとえ大した仕事がなくてもリーダー
「はぁ……とにかく、こんなとこで下らない質問してるんじゃないよ。岡崎が女子が好きって、そりゃそうに決まってるだろ」
「待って高峰さん、どういうことでしょうか。スッゴイ引っかかる言い方だったんですけど」
「え、引っかかるもクソもないでしょ……だってお前、名港のハーレム野郎って呼ばれてるじゃん」
「は!?」
何言ってんだこいつ。眼鏡の位置を直しつつ、蓮太郎はそんな顔をしていた。
鯨哉はビックリである。初耳だ。誰がそんな根も葉もない噂を流しているのか。まさかアンチ岡崎鯨哉とか存在するのだろうか。少し背筋が寒くなった?
「そうなの!? そうなん!? リーダーそこ詳しく!」
「だからリーダーって言うな! はぁ……こいつ女子に囲まれてること多いんだよ。名港のちびっ子達とか、シニアのりいなちゃんとか」
「そうなん!? 他には!? 他には!?」
「ちょっと二人とも、ここで話す話じゃないよね。別に部屋の中でもいいよね」
「名城の岡崎姉は実際に姉だからともかく、最近だと3年生の
「どういうことだよ岡崎!?」
「それはこっちが聞きたいよ! 性癖ぶっ壊したってなんだ!」
鯨哉は衝撃に全身を撃ち抜かれて、堪らず崩れ落ちそうになった。
まるで意味がわからない。
刹那とはまともな
いい子みたいだから頑張って欲しいとは思うけども、優先度的には名港のちびっ子達の方が上である。
「あのさぁ岡崎。自覚しろって。お前のご奉仕の基準はガバガバなの。おかしいの」
「なにが! なにがですか先輩!」
「いきなりよくわからんノリになるな。背筋伸ばして手を後ろに回すな。ゴリゴリの体育会系じゃないだろ、お前……」
と、微妙にズレている
「何でもかんでも何とかしてあげようとするだろ、お前。基本的に誰が相手でも。俺からしたら見境がぶっ壊れてる。普通できないよそんなこと。だって恩を仇で返されるとか普通にあるし、徒労に終わっちゃうことだってあるだろう? 自分の時間には限りがあるし、なんでもかんでもはできないしな」
しばし考え込んでいた鯨哉は、ボンヤリとした顔に変わる。僅かに口を開くと、「あぁ」と声を漏らした。
そういえば、同じようなことを暴れんボーイ先生に言われたことがあった。いるかには苦言を呈されたこともあった。蓮太郎は呆れ顔だ。嫌悪している感じではなく、純粋に理解に苦しんでいる──ように見えた。
「1回聞いてみたかったんだけど、なんでお前ってそこまでできるの? 無駄だとか思わないの? チビッ子に構うこととか。まさか本気で光源氏とか目指してるわけじゃないだろう?」
「目指してません」
「だったらなんでよ。まあ、話したくないならいいけど」
別に言いたくないわけじゃない。
鯨哉は苦笑している蓮太郎の目を見て、思っていることを素直に述べる。
「その時やっとかないと後悔しそうなことは、なるべくやっときたいんですよ。後でモヤモヤするし、それに、いつまでできるかもわからないし」
「なんか模範解答だなぁ……んー、まあ、上に上がれば上がるほど忙しくはなるから、他人に構ってられなくなるのはたしかだけども……」
蓮太郎は小さく嘆息した。
ポリポリと頭を
「別に喧嘩売ろうってわけじゃないんだ。ほんとに。単純に聞いてみたかっただけ」
「大丈夫です。そんな風には感じなかったですよ」
「それはなにより。じゃあ部屋に戻るか。って
ピリッとしていた空気が和らぎ、蓮太郎は部屋がある方向に顔を向けた。鯨哉も続こうと体を動かしたのだが、なにやら
半開きの口でフリーズしている。さっきまでハイテンションだったのに、どうした。
「なんか……話がよくわかんなくて、つまんなかった。内輪ネタって残酷だ……」
「……それは、ごめん。俺達が悪かった」
具体的には刹那の下りのあたりから、酷く疎外感を覚えていたらしい。それは悪いことした。どう考えても落ち込みすぎだが、とりあえず二人は謝った。
「僕もごめん、わかる話をしよう。わかる話を」
「そうだな。おい鷗田。ところでお前って好きな子いる?」
「二人ともいい人だな! えっと、俺はいとこのマキちゃんが好き……って何言わせんねん!」
そしていきなりの関西弁発動。ちなみにいとこと結婚することは可能である。隼翔に幸あれと鯨哉は祈った。アーメン。
(関西の人ってやっぱりノリがいいんだなぁ)
色々あったが一件落着。
さあ寝るぞたっぷり寝るぞ。鯨哉は
「高峰くーん。高峰さんちの高峰くーん。悪いんだけど
鯨哉達の背中の方向から、女子の声が飛んできた。
一斉に振り向いた三人のことを見ているのは、ジャージ姿の金髪女子である。身長は
(この人……)
鯨哉は反射的に身構える。
体力テスト中、彼女の顔はしっかり覚えた。ヘッドコーチに向かってブレスレットを投げつけていたから、嫌でも印象に残っている。
ただしそれよりも前から注目はしていて、その理由は彼女の苗字にあった。
「あれ、
蓮太郎は慣れた様子で声を返す。
どうやら面識があるらしい。同じ学年ということで、去年も喋る機会があったのかもしれない。
「岡崎いるかの弟。いやさー、ひななちゃんが足踏みつけたって言ってたから、ちゃんと謝っときたいんだよねー。まだ少し時間あるよね? 消灯時間には返すから、少し貸してくれないかなー?」
気の強そうな瞳が
刀根山
鯨哉は合宿前から彼女を警戒していた。姉妹仲がどうなのかは不明だが、仲が良いのだとしたら姉の方も口撃してくるんじゃないかと。できれば関わりたくないと思っていたのだが、やっぱりというか向こうから接触してきてしまった。
「あー、ひななちゃんね。足踏みつけたって、岡崎なにしたん」
「んー、よくわかんないけど。とりあえずその子を貸してよ。大丈夫大丈夫。私は
なんでそこで金弓の名前が出てくるんだろうか。
福岡パークFSCの中学1年生、
「いちいちあいつを引き合いに出さないでくれる……ハァ。わかったよ。岡崎、少し付き合ってやってくれる? こいつ結構しつこいから、拒否ったら付き纏われるかも。話があるならさっさと終わらせといた方がいいよ」
蓮太郎はかったるそうに軽く首を回すと、「ほら行ってこい」と
『いいこと教えてやる。あいつ顔はいいし、おっぱいもデカいから、目の保養にはなるぞ』
『……間に合ってます』
ついでにどーでもいい情報を囁いてきた。
これまでの名古屋生活の中で、高峰蓮太郎とはあまり関わりがなかったが、真面目そうに見えて実はムッツリな性格なのかもしれない。鯨哉は新たな気付きを得たが、何の役にも立たなさそうであった。
それにあれだ。たしかに顔は整っているしおっぱいもでかいが、残念ながらあんまり興味ない。人間にはそれぞれ好みがあるものだし、大きけりゃいいというものではないのだ。ちなみに鯨哉は全く重要視していない。そこは人それぞれなのだ。
「さあ俺達は部屋に帰るかー。岡崎って女難の運命だな。なんかよくわかった気がするわー」
「リーダー! 俺、クワガタ探しに行きたい!」
「ダメに決まってるだろ何言ってんだ」
「カブトムシも捨て難いんだけど、どっちがいいと思う!?」
「おいまて落ち着け。お前ってほんと少年だよな。マジで永遠の少年って感じ」
なんか聞こえてきたが、鯨哉は無視した。
「あはは変な奴らー。じゃあ少し
人気のなくなったロビーに高い声が溶ける。
刀根山が勢い良く頭を下げると、ポニーテールが激しく揺れた。他にも揺れていそうなものがあったが、そこに関して岡崎鯨哉はほとんど、あんまり興味ない。
「名港ウィンドの岡崎鯨哉です……別に、怒ってはないんで。だから大丈夫ですよ」
ただし、平常心でいられるかというと、違った。
先程から心臓の鼓動が早い。気付いたら両手の手のひらが湿っている。年上女子の容姿に惹かれて……とかではない。そうであったならまだ納得できたが、これは異性に対するドキドキではなかった。この時点で確信を持てたのはそこまで。
「怒ってないの? 意味不明に足を踏まれたのに? いやいや嘘でしょ」
刀根山
「本当です。怒るだけの理由、ないですもん」
でも、そんな気にはならなかった。
どうせ会う機会はほとんどないわけだし、本気で怒るだけ
絶対にありえないが、名港のちびっ子達が同じようなことをしたら本気で怒る。あの子達にはクソみたいな人間になって欲しくないから。疲れても気分が悪くなったとしても、叱らなきゃいけないと思う。あの子達に対しては。
「だから大丈夫ですよ。でも、普通は怒られるんでやめさせた方がいいですよ。ああいうのは」
「そっか。なるほどなるほど。そっかそっか。ごめんごめん。ごめんねー? ちゃんと言っとくよ。でもそっか。なるほどなるほど。そっかそっかぁ」
刀根山はまた頭を下げた。先程よりも小さく。
顔を上げるなり同じ言葉を
鯨哉は自分の体が強ばるのがわかった。
(攻撃的に来られてるわけじゃない……けどめちゃくちゃ気まずい。すごい逃げたい。なんだこれ)
気まずい。
そう気まずいのだ。
これなら罵倒されている方がマシだと思えるほど、とにかく気まずくて仕方がない。初対面の女子にこんな感想を抱いたことは人生初。普通に生きていたらこんなことはないのではないかと思う。
「なんだかなぁ。君にこんなこと言うのは筋違い……うーん、どうしよう?」
ふと、刀根山は表情を緩めた。
気の強そうな吊り目を少し細めて、ゆったりと首をもたげる。星の海を散りばめたような瞳。似ていないなと
「なんですか? 言いたいことがあるなら大丈夫ですよ。話してくれて」
ともかく、せっかく時間を作ったのだ。
中途半端に解散したら意味がない。時間はまだ少しある。何かあるなら全部言ってもらった方がいい。そう思って話の続きを
「……」
「……」
閉じてしまった口はすぐには開かず、仕方ないので待ちの姿勢。鯨哉は目をそらさないようにだけ気をつけつつ、彼女が話し出すのを待った。
時間にして10秒足らず。とても大きな突風が建物を揺らした。沈黙が終わる。
「君はさ」
「はい?」
「あー、違う違う。そうじゃなくって」
軽い口調だ。でも気まずい。
頭に鈍い痛みを感じる。
とにかく気まずい。頭が全体的に痛い。どれだけ天気が悪くても頭痛になったことなんてないのに。
「これは単なる世間話なんだけど」
「はい」
「ところでカマキリとか好き? 私はまあまあ好きだよ。でもクワガタの方がいいかなぁ」
どっちが好きと質問されて、鯨哉は「クワガタ」と答えた。アッサリと口が動いた。どうでもいい話だと思ったからだ。
「あはは。気が合うねー」
それにしてもよく笑う。
ヘッドコーチにブチ切れていたのと同一人物とは思えない。まあ、あんな煽り方をされれば誰だってイラッとはするだろうが。
「そうそう、さっきは金弓さんが優しいって言ったけどね。私はあの人
「……はい? いや、悪口大会でも始める気ですか……?」
一転、今度は眉間にシワを寄せた。
金弓が嫌いだとか言い出した。蓮太郎との会話の中で名前が出てきた女子だ。開校式の時に
待て待て待て、と鯨哉はゆっくり後ずさる。悪口仲間になるつもりはない。勘弁して欲しかった。
「そういうわけじゃないよー。いやね、中学生組は結構いろいろあってさ、去年はかなりヤバめのイジメとかあったんだよね。ここで」
やったのは無視。それだけ。
大人達の見ていないところでひたすら無視。それだけのことで人間は簡単に追い詰められる。刀根山の口調は相変わらず軽いが、言っている内容はえぐい。
鯨哉は黙って耳を傾けた。この手の話は苦手だし、登場人物達のことは何も知らない。軽率にあれこれ言いたくはなかった。
「その時に干されたのが金弓さんで、助けてあげたのが高峰くん。あいつあれでも気遣い出来る人だから、本人にはわからないように、かつイジメが酷くならないように頑張ってたよ」
幸いにもヘッドコーチが人格者だったから、協力して上手いことやることができたらしい。集団での無視は三日目でなくなり、主犯格の数人から仕返しをされることもなかったとのこと。
ただしその後にもまだ問題があって
「それなのに、普通に、下心とかなーんもなしに話しかけた高峰くんを、無視したからねー。彼女」
それはないでしょー、と刀根山は笑った。
声を押し殺すように口に手を当てて。
「ふふっ、足痛そうにしてたのを大丈夫って言っただけなのに、無視して軽く舌打ちしたから。あはは、別に怒ってるわけじゃないよ? 彼女も焦りとか怒りとか色々あっただろうし。でも私は思うのよ。何も知らないからって許されることじゃないよー? って」
これは何の話だったか。
妹とは何の関係もない世間話。そういえばそろそろ本気で時間がないはずだ。
「知ってたらもう少しマシな対応があったんだと思う。でも知らなかった。知らなかったから仕方ないよねって、高峰さんちの高峰くんは言ってたけどねー」
ロビーにかけられている時計を見た。そろそろ部屋に戻らなければならない。良かった。この気まずい時間が終わってくれるとホッとした。
「おっと20時55分だ」
「そうですね」
刀根山は「やべー」と反対側の通路を見た。
声のトーンは変わらず軽い。朗らかだ。楽しそうだ。でも違和感が凄い。今の話の流れの中。ずっと明るい口調なのが逆に気持ち悪く思えてしまう。
「じゃあそろそろ解散しよっか」
「ですね。満足して貰えたかはわかりませんけど」
「いやいや、私は満足だよ。新しい人と喋るのは楽しいからね、満足満足」
刀根山は体を翻した。が、すぐに足は動き出すことはなく、立ち止まったまま「あっ」と声を発する。
既に歩きだそうとしていた鯨哉は足を止めて、彼女の方に体を向けた。見えたのは後ろ姿。刀根山はポニーテールの後ろに両手を回し、やはり軽い口調で、言った。
「
喋り終わるや否や、彼女は通路の奥へと消えていった。ロビーを挟んで東側が女子エリア、西側が男子エリアだ。行き来するのは禁止。当たり前だ。
ざあざあ、ごー、っと。
雨と風が本当に酷い。明日もグラウンドでの陸上トレーニングは無理そうだ。暗黒の空は嫌いだから、早く晴れて欲しいと鯨哉は思った。
(……戻ろう。何が言いたいのかよくわからなかったけど、満足したならそれでいいだろ)
脈絡がない話し方をする人で、正直に言うと苦手なタイプだった。おまけに意味深なことを言い残すという後味の悪さ。
知らなかったから仕方ない。世界で一番嫌いな言葉。それをわざわざ伝えてくる意味は? あえて最後に話した意図は?
(わかるわけない。ただでさえ知らない相手なのに……寝よ寝よ。考えちゃダメなやつだ)
ブンブンと顔を振って部屋のドアを開ける。
それにしても、と気持ちを切り替えて、思う。
(高峰さんって好きな人いたのか。いや、そうと決まったわけじゃないけど、多分そうだよなぁ……)
そして、姉が怯えなければいいなと心配になった。
ポケットから折りたたんでおいたプリントを取り出し、広げる。
あの刀根山さんはいるかと同じグループで、同じ4人部屋である。ああいう意味不明な人間はかなり苦手なタイプだから、気疲れしてイライラしなければ良いなと思った。
ダリアに迷惑かけることにもなってしまうし、暴れるとかは本当マジでやめて欲しかった。必要とあらば腹パンも受け入れても構わない。だからお願いだから普通にしててくれ。鯨哉は祈った。アーメン。