岡崎いるかの生存戦略 作:戎韜
「結束さん大丈夫? ショックよね……せっかく色んなことを手伝ってあげたのに、こんなことになるなんて。子供ってほんと、期待すればするだけ裏切られるっていうか、ままならないわよね」
「……いちばん辛いのは私ではないので。失礼します。先生方とのお話は終わったので、帰りますね。さよなら、岡崎さん」
今日まで当たり前にあったものが、明日も変わらない保証はない。
練習に身が入らない。昨日まで居てくれていた人が、今日からはどこにもいない。これまで茉莉花の手を引いていてくれた人は、明日も明後日もいないのだ。
右足関節外側靭帯損傷。
全治4ヶ月。あくまで目安で、元の状態で滑れるようになるには更に時間を要する。無事に完治したとして、故障前の状態に戻れるとは限らない。
(ほんの一瞬で……どうして……あんなに優しい人が、なんでこんな目に遭わなければいけないの?)
そんなもの、関係ないからに決まっている。
性格が優しかろうが冷酷だろうが、関係ない。
アクシデントは容赦しない。性根が腐った人間であっても力があれば勝ち上がれる。善人が必ずしも報われるとは限らないし、むしろ人の良さが裏目に出る場合もままある。フィギュアスケートだけではなく、世界とはそういうものだ。
茉莉花はそのことを知っている。
だからこそ、とても悲しいし、凄く悔しい。
「茉莉花、今日はもう上がろう。1日くらい休んだって、ジャンプは逃げたりしないよ。全日本ノービスまでは時間がある。大丈夫だから、顔を上げて戻っておいで」
「竜宮先生……でも、じっとしていたくなくて、私……」
「我慢するのもトレーニングのうちさ。後ろめたいという気持ちになるなら、僕のためだと思って休んでおくれ。今の集中力が落ちている状態で怪我でもされたら、僕は立ち直れなくなってしまうよ」
名城クラウンFSCヘッドコーチ、竜宮アキラは穏やかな顔で微笑んでいた。シワをくしゃりと寄せて、にっこりと。次には「ジジイが立ち直れなくなったら大変だよ?」とおどけて。
「茉莉花、戻ってきなさい」
そして、母が歩いてきた。
入口の方で話をしていたのだが、無事に終わったようだ。少し目が赤い。優しい人だから、きっと泣いてしまったのだろうなと思った。
「先生がね、少し三人で話をしましょうと。まずは昨日の反省会をしましょう。でも、その前にゆっくりと昔話でもするのもいいかもしれませんね。そうしましょう。ですから、冷たいところに座っていないで、こっちにおいで」
氷が冷たい。
今日はとてもリンクが寒い。
こうやって転んでしまった時は、実叶がよく大袈裟に引っ張り起こしてくれた。たくさん上手だって褒めてくれた。たくさん可愛いって言ってくれた。はじめてクラブに来てオドオドしていた時、手を引いて輪の中に連れて行ってくれた。今年も一緒に全日本ノービスに行こうって約束していた。
一緒に行きたかった。あの人のスケートを大舞台で見たかったし、頑張っている自分の姿を見て欲しかった。鼻の奥がつんとする。苦しい。
「お見舞い? あー、そうね。みかんでも持って行ってあげれば?」
岡崎
「そんなことよりね、予定してた練習をサボるのはやめてよね。あんたは子供だからピンとこないかもしれないけど、レッスンだってタダじゃないのよ」
はー……と呆れたようにため息をついているが、本日の母は機嫌がいい。なぜだか知らんが優しい。
「でも、みかちゃんが……」
「今日来れないことくらい昨日の時点でわかってたでしょ。終わったことを何をウジウジ言ってるんだか……もうあの子はスケートできないんだから、仲良くするなら茉莉花ちゃんにしときなさい」
「なんで? なんでそんなこというの?」
「おねえちゃんこそ、なに言ってんの? もういいから、おみまい行くならさっさと行こうよ」
特技その2。
事故を事前に感知できる。このまま会話が続いたら母がイラついて空気がブレイクするので、早急にいるかを連れ出さなければならない。
いるかの首根っこをつかんで、グイグイと玄関の方向に引っ張る。
「なにするの! もういいってなにが!」
「なんだろーね。どーでもいいから、おみまい行くよ。お母さん、こういう時ってなんか持ってった方がいいの?」
「はー……じゃあ、お金渡すからコンビニでお菓子でも買ってきなさい。高いやつよ。最近はコンビニでもギフトみたいなの置いてるから」
「わかった。お母さんありがと」
鯨哉は家庭内の争いは嫌いだ。関わりたくない。
だからこうやって逃げる。だって、親に逆らっていい事なんてひとつもないのだから。どっちが正しいとか間違っているとか関係ないのだ。なぜって、大人が白といえば白だし、黒といえば黒だから。
あれこれ話し合うだけ時間の無駄。
小学1年生にして早すぎる達観だった。
「ごめんね。実叶は寝ちゃってるの。誰とも会いたくないって言ってたし……ごめんね」
実叶は昨日から入院することになった。
期間はそこまで長くない。1週間未満だ。
しばらくは1人になりたいと言っているらしく、いるかと
「ありがとうね……ごめんね」
「おばさん、なんでそんなにあやまるの……?」
「いいよ。おねえちゃん、帰ろ」
「でも……」
「めいわくになるから」
鯨哉は実叶の母とは久しぶりに会ったが、なんとなく嫌な感じがした。酷い態度を取られたとかそういうわけではなくて、目を合わせていると悲しくなる感じ。名港ウインドで最初に仲良くなった子のお母さんによく似ていた。その子とは1ヶ月も経たずにギクシャクして、今はあんまり喋らない。
「……わかった。さよなら、おばさん。おだいじにって、みかちゃんに」
「ええ。ありがとう、いるかちゃん。きょうや君も。ばいばい」
「はい。
しばらくはスケートのことは考えさせたくないから、来ないで欲しい。最後にそう言われた。
「アイス買ってきたわよー。いるか、熱下がったー?」
「大丈夫ー。ありがとうお母さん!」
あの日から4年が過ぎた。
結束家の人とは一度も会っていない。