これは、技術が進歩した近未来の物語。
多くの人々が「電脳化処置」を受け、生まれた時から神経とネットワークを直結して生活している。
視界には常に情報層が重なり、思考一つで通信や検索が可能だ。現実とネットの境界はもはや意識されることも少ない。
人々は常にネットワークと共にあり“オフライン”という言葉は過去の遺物となりつつあった。
そんな時代の発展の中、ゲームもまた例に漏れず進歩していた。
かつてのテレビ画面の中だけで遊ぶゲームは姿を消し、今や主流は意識そのものを仮想世界へ接続する《フルダイブ型》である。
視覚、聴覚、触覚までリアルにされた仮想世界で、人々は現実と似た“もう一つの世界”を楽しんでいる。
しかし最近、そのフルダイブゲーム界隈で奇妙な都市伝説が囁かれ始めていた。
製作者不明の謎のフリーゲーム――。
タイトルは『Avatar』
入手方法は一つだけ。ある日、突然届く正体不明のメールに添付されているという。
ゲーム内容はよくあるMMORPG。
だが、ネットの海に散見される真偽不明の書き込みには奇妙な共通点があった。
「あれは、ゲームじゃない」
現実と見紛う景色。
完全に再現された五感。
そして、今の技術ではあり得ない“何か”。
大企業ですら開発できないはずの代物が、なぜ“フリーゲーム”として配布されているのか。
そして、書き込んだ者全てが口を揃えこう言った。
――まるで“異世界”のようだったと…。
Connect:01「繋がった⇄日」
街を彩るホログラムの広告が、茜色の夕陽と混じり合い、街道を幻想的に照らしていた。
その光の中を僕、高校二年生の檜山空は、制服を泥で汚しよろついた足取りで歩いている。
店先の窓に映る殴られた腹部を庇うように丸めた僕の背中はひどく小さく見えた。
―――ギャハハ!お〜い、穀潰し!まだ生きてますか〜?
「………っ」
脳裏にこびり付いて離れないイジメグループ達のゲラゲラとした不快な笑い声。
その笑い声に、腹部にズキンと走る鈍い痛みが奔り、今日の嫌な記憶を呼び起こす……。
・
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「むぐっ…!?」
顔を踏みつけられ、強制的に地面に這いつくばらされた。冷たい泥が口の中に流れ込み、土と鉄の味が舌に広がる。
鼻が詰まって息ができず、必死に顔を上げようとすると、すぐに別の足が頭を押しつけた。
「ほら、もっと顔突っ込めって。は~いブクブク~。水に顔をつける練習しましょうね~」
這いつくばる僕の頭上からグループのリーダー 佐藤の不快な声が降ってくる。
周囲の不良たちは、空中に浮かぶ半透明のパネルを弄りながら楽しげに笑っている。何を見ているのか何をしているのか考えなくても分かってしまった。
その一枚が視界の端に捉える。そこに映っていたのは泥にまみれて地面に這いつくばる無様な僕の姿だった。
「動画撮れてる?ちゃんと顔が見えるように撮れよ」
「ギャハハハ!よく撮れてんじゃん!あとでデータ回せよな!」
「母親にも見せてやろうぜ。今日も息子がトモダチと仲よく遊んでますーーってな!」
ドゴッ!
「ぐふっ!?」
鋭い衝撃が腹部を襲う。
さっきよりも力が込められた蹴りに、吐き気が込み上げる。
「うぶっ……ぅあ……」
「ナイッシュー!!!」
「ギャハハ!」
うめき声をあげて蹲る僕を見て、佐藤達は愉快そうに笑う。他の連中も佐藤に続けと、腹、背中、太ももに容赦なく蹴りが浴びせてきた。
降りかかる暴力の雨。僕はただ体を小さく丸め、腕で頭を守ることしかできない。
抵抗すればもっと長引く。泣き叫べば「うるせえ」とさらに酷くなる。
だから僕は、歯を食いしばって耐えるしかなかった。
うずくまる僕を見下ろす佐藤がしゃがみ込み、僕の髪を乱暴に掴み上げる。
「――がっ!?」
髪を引っ張られる痛みに顔を歪ませた。
そんな泥まみれの僕の顔を無理やり自分の方に向け、佐藤は満足そうにニヤニヤと笑いながら囁く。
「お前の母ちゃん可哀想だな。こんなの養っててさ。お前がいなければ少しは楽なんじゃね?」
「っ……!」
心ないその言葉が、ひどく胸に突き刺さった。
目頭が熱くなるのを必死に堪える。
泣いたらもっと楽しい玩具にされることを、僕は痛いほど知っていたから。
歯を食いしばり、ただひたすらに耐えた。この理不尽な暴力が終わるのを……。
・
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・
「っ痛いなぁ……」
先ほどまでの理不尽な暴力の回想にふけっていると、ズキズキと痛みが腹部に走り、現実に引き戻された。
僕は思わず小さく呻き声を漏らす。
呼吸をするたびに肺の奥まで響く鈍痛と、肌に張り付く泥の不快感。
人気のない場所に呼び出されては、殴る蹴るの暴行を受ける日々……。
それがクラスメイトの不良グループによる日常的な虐めの象徴だった。
元々内気な性格の僕に抵抗する気概なんて持ち合わせてない。
それに、僕にはそれ以外にも事情があった。
家は母子家庭で、母は自分のために毎日遅くまで必死に働いて帰ってくる。
自分が虐められているなんて、絶対に打ち明けられなかった。
ただでさえ生活はぎりぎりなんだ。これ以上母に心配をかけたくない。
母さんだってこんなに辛いのに、いつも僕の前では優しく笑ってくれている母さんに余計な負担をかけさせたくなかった。
でも、それが佐藤達には丁度良かったんだと思う。
よくある話だ。社会的弱い立場の人間が虐めの標的になる。
僕の性格や家庭の事情に目をつけられて、不良グループにとって僕は格好の標的だったと言うだけの話……。
行き交う通行人は、誰一人としてズタボロの僕を気に留めない。煌びやかな街の喧騒の中で、自分だけが完全に取り残されたような気がした。
それが、僕にとって何よりも悲しくて、孤独だった…。
『――今朝未明。原因不明による心肺停止した男性が自宅で発見されました。これにより今月だけで原因不明の連続不審死による死亡者は三名となり――』
最近、世間を騒がしている連続不審死事件。
死亡した人間はどれも原因不明の心肺停止で、自宅で発見されるという不気味な事件だ。
ここ最近では、ほぼ毎日のようにこのニュースが流れていて、僕のクラスメイトの間でも話題に出ることもあった。
街頭に響く無機質なニュースの声。
物騒だな…。
そう思いつつも自分には関わりのない非日常な出来事に興味を示すことはなく、ただ聞き流しながらよろよろと歩いて行く。
『死亡した犠牲者の共通点はどれもフルダイブ型のゲームをプレイしていた痕跡があり――』
「……」
ふと、自分にとって身近な単語を耳にして僕はピタリと歩みを止めた。顔を上げると巨大なスクリーンにはアナウンサーの顔が映し出されている。
『警察は何らかのコンピューターウイルスによるサイバーテロの可能性も視野に入れて捜査を進めており―――』
物騒な単語が次々と流れて来るが、でも僕が気になったのはその事じゃない。
「ゲーム、か……」
僕にとって、ゲームは特別な存在だ。
この虐められる辛い日々を耐えるための最後の心の拠り所。
そして、何より小さい頃に死んでしまった父さんとの、かけがえのない思い出でもあった。
父さんもゲームが大好きで、生きていた頃は休みの日になると、よく僕と一緒に古いゲーム機で遊んでくれた。
家はとても裕福とは言えなくて、遊んでいたゲーム機も父さんが子供の頃から使っていたボロボロのやつだった。
今じゃ骨董品と呼べるくらい古臭い機械だけど、あのテレビ画面の光とコントローラーの感触は、僕にとって宝物みたいなものだった。
父さんが病気で亡くなってからは生活がもっと苦しくなった。
住んでいた家も、家具も、ほとんど売り払ってしまった。でも、あの古いゲーム機だけは絶対に手放さなかった。手放したくなかった……。
だってあれは、僕と父さんを繋ぐ唯一の思い出だったから…。
「帰ろう…」
いつの間にかニュースも次の話題へと切り替わっており、興味を失った空はスクリーンから視線を戻して歩き出す――。
ドンッ!
「うわっ!?」
「おっと、これは失礼」
ニュースに意識を奪われていた空は、前方から歩いてきた男性とぶつかり、その衝撃で尻もちをついてしまう。鈍い痛みが全身に走り、腹部の傷がズキリと主張する。
「いっつつ……」
痛みに顔を顰めていると、眼鏡を掛けたスーツ姿の男性は慌てた様子で手を差し伸べてきた。
「すまないね。君、怪我はないかい?」
差し出された手を見て、僕はぼんやりと男性を見上げた。二十代後半だろうか?若そうな見た目に反して、その身に纏うスーツは驚くほど上質で一分の隙もなく着こなされていた。
けれど、その顔立ちはビジネスマン特有の鋭さはなく、眼鏡のレンズ越しにはやんわりと優しげで僕を心配そうな眼差しを向けていた。
「あのっ……えっと…その……」
喉が詰まって、うまく声が出てこない。 頭の中では「大丈夫です」「すみません」といった普通の言葉が浮かんでいるのに、口が動いてくれない。虐められるようになってから、クラスメイトは誰も僕と目を合わせようとしなくなった。
まともに会話してくれる人なんて母さんくらいのものだ。
だから、こんな風に普通に心配してくれる声が随分と久しぶりに感じて……僕はただ俯いたまま、何も言えなくなってしまった。
「…うん?どうしたんだい?随分と顔色が悪いようだが」
突然の言葉に慌てて顔を上げると、男が心配そうに僕を見ていた。その優しい眼差しに、僕はハッと我に返る。
ちゃんと謝らないと……!
じっとこちらを見つめてくる表情は、初対面だというのに、こんなズタボロの僕を本気で心配してくれているようだった。
それが分かった瞬間、少し緊張がほぐれたのか、ようやく口が動いてくれた。
「あっ、いえ……大丈夫です。すみません、僕が前を見てなくて…」
僕は慌てて謝罪し、差し出された手を取ろうとした。
だけど、自分の手が泥で汚れていることに気づき、咄嗟に手を引っ込める。
いけない。こんな高そうなスーツを着てるのに、こんな汚れた手で触わっちゃ駄目だ。
しかし、男性はそんな僕の躊躇いなど意に介する様子もなく、僕の汚れた手をそっと、しかし力強く握った。
「いや、こちらこそ。僕もニュースに気を取られていたようだ」
そう言って、男性は苦笑する。
ふと、男性は視線を僕の服へと落とす。
そして僕の制服に付着した泥がただ転んだだけではつかないような汚れ方をしていること、僕が無意識に腹部を庇う仕草をしていることに気づいた。
彼の穏やかな眼差しに微かな懸念の色が宿る。
「…君、やっぱり怪我してるじゃないか。大丈夫かい?」
「こ、これは違うんです…!僕は大丈夫ですから…!」
虐められてできた傷だなんて、絶対に言えるわけがない。
僕は心配する男性から逃げるように、慌てて一歩後ずさった。
僕の明確な拒絶に男性はそれ以上は追求しようとはせず、伸ばしかけていた手を静かに下ろす。
「…そうか。無理はしないようにね」
男性は最後に「すまなかったね」と、もう一度優しく謝罪を述べた。
僕はそれ以上何も言えず、ただ俯いたままよろよろとその場を離れた。
逃げるように数歩歩いたところで、ふと背中に視線を感じチラリと後ろを振り返る。
「………」
男性はまだそこに立ったまま、じっと僕の方を見ていた。
夕陽の強い光が、男性の眼鏡に反射して白く輝かせている。
表情はまるで見えなかった。
あのグラスの奥で、彼はどんな顔をしていたのだろう。
僕は慌てて視線を逸らし足早にその場を去った。
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家に着く頃には、日はすっかり落ちていた。体の痛みを押し殺しながら、僕はドアに手をかける。
「……ただいま」
暗い廊下の奥へ向かって、声が吸い込まれていく。
返事はない。
明かりも無く音の消えた家は、どこか他人の家みたいに静まり返っていて――その静けさが、やけに重かった。
…母さんは、まだ帰っていない。
僕は泥まみれの制服のまま、リビングへ向かった。
明かりのついていない部屋。テーブルの上には母の字で書かれたメモが置いてあった。
『おかえり、空。
今日も遅くなりそうだから、冷蔵庫に晩御飯入れてあるから温めて食べてね。
母より』
その文字を見た瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
さっきの言葉が、頭にこびりついて離れない。
――お前の母ちゃん可哀想だな。こんなの養っててさ。お前がいなければ少しは楽なんじゃね?
「……」
僕は何も言えないまま、書き置きから視線を逸らす。母さんは何も知らない。僕が毎日どんな目に遭っているのかも。どんなふうに笑われているのかも。
「……それでいい。母さんに余計な心配をさせないで済むんだから」
そう思っているはずなのに…。
胸の奥がざわつく。
母さんに何も言えない自分が、なんだか惨めで、情けなくて、息苦しい。
僕は冷蔵庫から母が用意してくれたおかずを取り出し、電子レンジで温めた。味噌汁と焼き魚、野菜の煮物。
いつも通り丁寧に作ってくれているのに、今日はほとんど味を感じなかった。
機械的に箸を動かし、10分もかからずに食事を終えた。
食器を簡単に洗ってから、泥まみれの制服のまま自分の部屋へ向かった。
自室へ戻り、ドアを静かに閉めると、ようやく緊張の糸がぷつりと切れた。
これまで張りつめていたものが、一気に崩れ落ちる。
腹部の痛み、泥の冷たさ、佐藤たちの笑い声、母への罪悪感――。
全てが一度にのしかかり、体の奥にどっと疲労が流れ込んだ。
僕はドアに背中を預け、ズルズルと床に座り込む。
膝を抱え、壁に寄りかかったまま、動く気力も湧かない。
立ち上がるのも億劫で、ただぼんやりと床を眺めていると、視界の端に古びたゲーム機が映り込んだ。
「……父さん」
鉛のように重い身体に鞭を打ち、ずるずると這うようにして古びたゲーム機へと手を伸ばした。
埃をかぶったそれを手に取ると、冷たい感触が掌に伝わってくる。
その瞬間、ふと、あの頃の暖かな日々が蘇った。
――どうだ、空。ゲームって面白いだろ?
父さんは笑顔で、コントローラーを握る僕の手を優しく包み込んだ。
小さな部屋で、父さんと二人、画面の光に照らされながら笑い合う。
倒せないボスに悪戦苦闘したり、レアなアイテムを見つけては喜んだり。
そんな何でもない時間が、ただ楽しかった。
父さんは、ゲームに夢中になっている僕の横顔を、目を細めて見ていた。
あれが、僕にとって一番大切な思い出だ。
――ゲームにはな、もう一つの世界が広がっているんだぞ。
父さんの声が、耳の奥で優しく響く。
――あなた!空も!もう晩御飯ですよ!
母さんの声が遠くから聞こえてきて、父さんが「あと少しだけな」といたずらっぽく笑いながら僕にウィンクする。
僕もつられて笑うと、母さんに「もう!二人とも!」と怒られたっけ……。
あの温かい時間は、もう二度と戻らない。
僕は懐かしむように、ゲーム機のプラスチックを指でなぞった。
軽く埃を払うように撫でてから、起動スイッチを押す。
シン…。
「……あれ?」
反応がない。
電源アダプタがちゃんと繋がっていることを確信してから、もう一度押してみる。やはり、うんともすんともしない。
先ほどまでの暖かな気持ちが、サーッと血の気と一緒に引いていく……。
「……え、嘘? 嘘だよね!?」
顔が真っ青になるのが自分でもわかった。
指が震えながら、何度も何度も起動スイッチを押す。
何十回押しても、画面は暗いまま。電源ランプすら点かない。
「なんで……どうして…っ!?昨日までちゃんと動いてたのにっ!」
古びたプラスチックの感触が、急に冷たくて、死体のように感じられた。
父さんとの思い出が詰まった大切なゲーム機が、まるで全ての命を失ったように沈黙している。
心臓がバクバクと激しく暴れ始めた。
たまたま、点かなかっただけ……だよね?
でも、なんだか嫌な感じがする。
「……お願い、動いてよ…」
震える声で呟きながら、僕は必死にスイッチを押し続けた。
結局、何度も何度も起動を試みたが、ゲーム機は動くことはなかった……。
指が痺れるほどスイッチを押し続けても、画面は暗いまま。
電源ランプは一度も光らず、沈黙だけが返ってくる。
「……嘘だよ」
小さく呟いた声は、部屋の暗闇に吸い込まれて消えた。
動かなくなったゲーム機を抱えて、僕はしばらく呆然とその場に座り込んでいた。
「……な、直さないと…」
声が震える。確か駅前の電気街に、昔の電子機器のジャンクパーツを扱ったり、修理を受け付けている小さな店があったはずだ。
父さんがたまに部品を買いに連れて行ってくれた、あの古びたお店。
直せるはず。きっと、直せるはずだ……!
僕はゲーム機を胸に強く抱きしめたまま、よろよろと立ち上がった。
足元に転がっていたスクールバッグを開け、中にゲーム機を押し込んだ。頭の中はゲーム機のことだけでいっぱいだった。
明日、学校の帰りに持っていこう。
絶対に直さなきゃ…。
父さんとの思い出が詰まった、この大切なものを……失くしたくない。
バッグのファスナーを閉め、僕は小さく息を吐いた。その瞬間、ふと最悪の結末が脳裏をよぎった。
…もし、直らなかったら?
父さんの遺品が、僕の中で唯一残っていた繋がりが、本当にこの世からなくなってしまうかもしれない。
その考えが頭をよぎった途端、膝がカタカタと激しく震え始めた。
僕はその場に崩れるように座り込み、両手で自分の足を抱え込んだ。
背中を壁に預け、肩を小さく丸めて、ただ震えを抑えようとする。
父さんの笑顔。
コントローラーを握る僕の手を優しく包み込んだ温もり。
――ゲームにはな、もう一つの世界が広がっているんだぞ。
あの暖かった世界が……全部、なくなってしまうかもしれない。
「……嫌だ」
小さく、掠れた声が漏れた。
心が、沈んでいく。恐怖に、絶望に…沈んでいく…。
そのときだ――。
ピロン♪
視界の端に、突然青白い通知ウィンドウが浮かび上がった。
【新着メール:1件】
送信者:不明
件名:なし
添付ファイル:Avatar.exe
「……え?」
突然の通知に、思わず伏せていた顔を上げた。
眼前に、淡く発光する投影パネル。
そこには、見覚えのないメールが一通だけ表示されていた。
件名は空白。本文もない。
差出人すら、不明。
ただ一つ……添付されたファイルの名前だけが、やけに目についた。
「……Avatar?」
無意識に、手が伸びる。
吸い寄せられるように、指先がパネルへ近づいていく――
その寸前。
「っ……!?」
はっと我に返り、僕は反射的に手を引いた。
「……危なかった」
こんな、送信者もわからない怪しいデータを開くなんて、どうかしてる。
ブンブンと頭を振り、深呼吸する。
今度は触れずに、表示された情報をじっと見つめた。
送信者は不明。件名も本文もない。
ただ、ファイル名だけが存在感を放っている。
「Avatarって……どこかで聞いたことあるような……」
その名前に、わずかな引っかかりを覚えた。
何処だったか。記憶の中を辿っていく。
確か…ああ、そうだ。クラスメイトが話していた噂だ。
最近、連続不審死事件と同時期に出回り始めた、正体不明のフリーゲーム……。
それは、ある日突然送られてくるという。
現実と見紛うほどの映像。
完全に再現された五感。
そして、現在の技術では絶対に不可能な“何か”。
書き込んだ者たちは皆、口を揃えてこう言っていた。
――まるで、“異世界”のようだった、と。
「まさか、これが……?」
胸の奥で、好奇心がざわついた。
都市伝説のゲーム。
そんなものが、本当に存在するのか――。
僕のゲーム好きの本能が、わずかに疼く。
ゆっくりと、抗えない好奇心に引かれるように、再び手がパネルへ伸びていく……。
けれど、パネルに触れる瞬間。脳裏にあのニュースの言葉がよぎった。
――死亡した犠牲者の共通点は、いずれもフルダイブ型ゲームのプレイ痕跡があり――。
――コンピューターウイルスによるサイバーテロの可能性も――。
「……っ」
指先が、ぴたりと止まる。
開けば何が起こるか分からない。
あのゲームの噂は連続不審死事件が起き出した同じ頃に広まった。偶然とは思えない。
もしかしたら――。
ニュースで見たあの人たちみたいに、僕も……死んでしまうかもしれない。
死への恐怖が、好奇心を一瞬で押し潰した。
もしこれを開いて、自分もあのニュースの人たちみたいになったら、母さんはどう思うだろう。
たった一人だけの家族なのに、僕のために毎日働いて、毎日ご飯を用意してくれて、それなのに僕が帰ってこなかったら……。
「……僕が、いなくなったら」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
佐藤の声が、また耳の奥で響いた。
――お前の母ちゃん可哀想だな。こんなの養っててさ。お前がいなければ少しは楽なんじゃね?
「……僕さえ、“いなければ”」
母さんは、もっと自由に生きられるんじゃないか……。
視界が揺れる。
一滴のインクを垂らしたみたいに、黒い感情がじわりと広がっていく。
思考も、心も、ゆっくりと塗り潰されていく…。
「僕は―――」
居なくなった方が良いんじゃないか……?
自分の中で渦巻く闇が、耳元でそっと囁いた。
どうせ死ぬなら……大好きなゲームの中で死にたい。
現実なんて、毎日痛くて、苦しくて、誰も助けてくれない。
だったら、せめて父さんとの思い出があるゲームの中で。
全部終わりにした方が……楽なんじゃないか?
「……もう、どうでもいいや」
小さく呟いた瞬間、胸の奥にあった最後の抵抗が、ぷつりと音を立てて切れた。
僕は震える指を、再びゆっくりと投影パネルへ伸ばした。
指先がパネルに触れた瞬間、画面が切り替わる。
【―――ゲームファイルをインストールしますか?】
▶ はい
いいえ
これが最後のセーフティラインだろう。
しかし、指は迷うことなく「はい」を選択した。
【生体データをスキャン。アバターの構築を開始します――】
システムのアナウンスの声が頭に響く。
その次の瞬間――
視界が真っ黒に染まった。
意識が、底のない闇に沈んでいく。そんな感覚……。
不意に。
得体の知れない“何か”が、僕の中に触れた。
直接、意識の奥に。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
拒もうとしたはずなのに、体はもう動かない。
それは、ゆっくりと――けれど確実に、僕の意識へと入り込んでくる。
繋がる。
どこかへ。
「ぅ……ぁ……」
抗う間もなく、僕の意識は――。
その“何か”に引きずられるように、暗闇の向こうへと落ちていった。
――何かに、“繋がった”。
【リンクを確認しました。新たな世界へようこそ―――】
おはようございます。こんにちは。こんばんは。金髪のグゥレイトゥ!です。
どうも10年ぶりです。今回はリハビリとしてオリジナル作品に挑戦してみました。
10年も経つと何を書けば良いのか、どのように書けば良いのか、全然分からなくなってて困惑しております。筆も全然進まず頭が硬くなったのを実感します。老いとは恐ろしいものですね。
最初にリハビリと申しましたように、更新が止まっていたISも、オリジナルの方がキリの良いところまで書けたら完結出来たらなと思っております。書けたら良いなぁ…。