真っ暗な世界。
意識も身体も、水の中に沈んでいるかのように、ふわふわと漂っていた……。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、果てしない闇の中で、自分の存在だけが、ゆらゆらと揺れている。
どこか心地よい、静かな浮遊感。
その中で、ふと――ひと吹きの風が駆け抜けた。鼻をくすぐる草木の香り。
頬を撫でる、やわらかな風。
失われていた感覚が、少しずつ取り戻されていく。暗闇にぼんやりと光が広がっていく…。
暗闇に沈んでいた意識を、ゆっくりと、引き上げていった……。
「……う……ん……」
ゆっくりと目を開ける。
まぶしい光が視界を埋め尽くし、僕は堪らず目を細めた。
うっ…眩しい、なぁ…。
眩しさに耐えながら何度か瞬きを繰り返すと、徐々に視界がクリアになっていく。
光に目が慣れてくるにつれ、世界の輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。
最初に見たのは、吸い込まれそうな程に透き通った青空、僕を柔らかく照らす陽の光……。
「……あれ?もう朝?」
ああ、そうか。あのまま僕、寝ちゃったのか……。
寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、目元をこする。
寝たおかげか随分と頭がすっきりして、冷静になったかもしれない。自暴自棄になっちゃいけないよね……。
ゲームを起動したら気を失うなんて……。やっぱり、出所不明のゲームなんて手を出すんじゃなかった。とりあえず、命に別状がなかっただけ良かったとしよう。
……いや、待って。
ふと、感じた違和感に目をこすっていた手がピタリと止める。
気を失う直前、僕は自分の部屋の中に居たはずだ。カーテンだって閉め切ってたし、外の景色が見える事はない…。
じゃあ、なんで青空が見えてるの……?
「………」
長い沈黙……。
「………いや!ありえないでしょ!?」
ガバッ、と勢いよく起き上がる。
その瞬間、目に飛び込んできた光景に――息を呑んだ。
「う…わぁ……」
目前に広がる光景に、言葉を失う。
果てしなく続く緑の草原。
風に優しく波打つ草の海。
遠くには険しい山々が幾重にも重なり、青い空には白い雲がゆっくりと流れている。
陽の光が肌を温かく照らし、吹き抜ける風が頬をくすぐった。
「すっ…ごい……」
思わず、声が漏れる。
ゆっくりと体を起こし、足元の草に触れる。
さらりとした葉の感触。
指先に残る、かすかな湿り気と、青臭い草の香り。
風が吹くたびに、草木が擦れ合う音が耳に届く。
「これ、ほんとに……」
自分の手を握って、開く。
ちゃんと動く。それどころか呼吸の感覚も、空気の温度も、全てが驚くほどリアルだ。
僕は自分の頰を、思いっきり強く抓ってみた。
「いっ……!」
鋭い痛みが確かに走った。
痛みに頰を押さえる。けれど僕の表情は痛みに歪んではおらず、ニヤニヤと頬がだらしなく緩みきっていた。
「〜〜〜〜っ!!!」
興奮が抑えきれず、にやついた頰を必死に両手で押さえる。
でも、口元が勝手に緩んでいくのを止められない。
心臓が、どくんどくんと高鳴っている。
すごい…!すごい、すごい……!
胸の奥から抑えきれない言葉が何度も溢れ出す。
風の感触、草の匂い、陽の暖かさ、痛み、全部が、まるでリアルそのものだ。
こんなに鮮明な世界が、本当にゲームで作れるなんて信じられない。
誰がこんなすごいゲームを作ったんだとか、どうしてこんな技術がフリーゲームでとか、疑問を挙げていけばキリが無い。けれど——。
「そんなの、どうでもいい……!」
今はそんなことがどうでも良いと思えるほどに、興奮が勝っていた。
今はただ、このゲームの世界がすごい。それだけで、胸がいっぱいだった。
しばらくの間、僕はその場に立ち尽くし、目の前の景色をただ眺めていた。
風が吹くたびに草が揺れ、さらさらと心地よい音を立てる。
その全てが現実みたいで、時間を忘れてしまいそうになる。
「……あれ?」
しかし、ふと、違和感を覚えた。
広い。 どこまでも続いている広大な大地。なのに……何もない。
建物も、人影も、動くものすら見当たらない。
「……チュートリアルとか、ないの?」
いつまで経っても何も始まらないことに、疑問をこぼす。
「NPCとか、案内役とかさ…」
周囲を見回すが、それらしいものは一つも見当たらない。
「ていうか、ステータスとか、メニュー画面は?」
試しに意識して思い浮かべてみる。 けれど、何も起こらない。
視界にウィンドウが開く気配も、情報が表示される様子もない。
「開けない…?」
軽く手を動かしてみても反応はない。
「メニュー! パラメーター!」
今度は声を出して叫んでみる……やはり反応はない。
それ以外にも色々と試してみたけれど、やはりそれらしいものが表示されることはなかった。
「なんだこれ…?」
ゲームなら最初に説明やらチュートリアルやらがあるはずだ。
操作方法とか、UIとか、最低限の案内くらいはあるはずだ。でも、それが何もない。
「……なんか、変なゲームだなぁ」
普通のゲームではないのは分かっていたけれど、こんな初歩的なモノが実装されていないなんて……。
こんな凄い技術力を持っているのに、なんと言うかチグハグな気がする。
どうしたものかと頭を掻きながら、辺りを見回す。相変わらず広大な大地が広がってるだけだ。
「とりあえず、移動しようか」
ここでずっと立っていても仕方がない。僕はゆっくりと歩き出した。
草をかき分ける感触。
足元で踏みしめる音。
一歩進むごとに、この世界の“リアルさ”を改めて実感する。
「すごいな、ほんとに……」
もう何度目かも分からない呟きをこぼし、落ち着かない様子でキョロキョロと辺りを見回しながら進んで行く。
と、その時だ――。
ガサッ!
「っ!?」
すぐ近くの草むらが激しく揺れた。
心臓が跳ね上がり、思わず足を止めて身構える。次の瞬間――。
「ギシャアアアアッ!!」
甲高い獣のような叫び声と共に、緑色の小柄な影が草を勢いよく掻き分けて飛び出してきた。
「――なっ!?」
僕は思わず息を飲んだ。
尖った耳、ギョロリとした目、緑色の皮膚。 間違いない。ゴブリンだ。
RPGではスライムに並ぶ定番モンスター。それが、動きも、息遣いも、肌の質感までもが、すごくリアルに作り込まれて、いま自分の目の前にいる!
わっ、わっ、わあああああああああ!?
興奮に身を任せて、僕はゴブリンに向かって飛びついていた。
「すごい!ゴブリンだ!」
「ギ、ギィッ!?」
ゴブリンも突然詰め寄られて驚いたのか、短く甲高い声を上げて後ずさる。
僕は感情のままに、さらに一歩近づいた。
怖いというより、ただ嬉しくて嬉しくて仕方がない。
「動いてる!呼吸もしてるし、目がちゃんと僕を見てきてる!ははっ、すごいや!リアルのゴブリンだ!!」
上から下まで食い入るようにゴブリンを観察する。
ピクピクと動く尖った耳、黄色く濁った瞳の動き、緑色の皮膚の細かな質感、手に握られた粗雑に削られた歪な石のナイフ。
見れば見るほど精巧に作りこまれたオブジェクトだ。
「……ギギィッ!」
ゴブリンは一瞬、驚いたように身を引いたが、次第にその目に敵意が宿る。
牙を剥き出して低く唸り声が上げる。
興奮のあまり僕はそれが威嚇だということに全く気づけなかった。
手にしていた不格好な石の刃が、ギラリと陽光を鈍く反射した。その瞬間――。
「ギシャアアアアッ!!」
ゴブリンが突然、短い叫びを上げながら石のナイフを大きく振り回した。
ザリッ!
「――へっ?」
空を切る音に間抜けな声を零す。
ほんの一瞬遅れて左頰に、じん、とした熱が走る。
……痛い?
ひりつくような感覚が広がっていく。
その直後、ぬるりとした感触が頰を伝り何かが落ちた。ポタリと地面に赤い点が滲む。
「……え」
じりじりと熱い痛む頬に指でそっと触れる。
視界に持ってきた指先は……赤く濡れていた。
ち、ちちちちっ…血だっ!?
冷や水を浴びたかのようにサーッと血の気が引き、興奮していた熱も一瞬で冷えた。
「なっ……えぇっ!?」
僕は手についた血を見て驚いて後ずさる。
それを逃がすまいと、ゴブリンはじりじりと僕へとにじり寄ってくる。先ほど僕の頰を切りつけた、不格好な石のナイフを握ったまま……。
ま、まずい…!まずいまずいまずいっ!
頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。
「逃げろ」「危ない」「死ぬ」そんな言葉が脳内で何度も繰り返される。
ゲームなのに!ゲームなのに……!?
頭の中でそう何度も叫ぶ。
思っていることはさっきまで同じなのに、感じているものは歓喜ではなく恐怖。真逆の物だ。
「ちょっ!?ま、まままま、待って!?タイムタイム!?」
僕はパニックになりながら、両手を前に突き出しゴブリンを必死に制止しようとした。
しかし、ゴブリンはそんな僕の制止など気にも留めず、牙を剥き出しにして低く唸り、地面を蹴って勢いよく飛びかかってきた。
「ギィィィィイイッ!!!」
「う、うわああああああああああああっ!?」
雄たけびと共にナイフが迫ってくる。
まずい! これマジでまずい!!
僕はパニックのまま背を向け、転びそうになりながら必死に駆け出した。
生い茂る草や木の根に足を取られそうになりながら必死に走る。先程まで感動していたものは、今となっては逃走の邪魔をするものでしかなく、じわじわと僕の体力を削っていく。
「誰かー! 誰か助けてー!!」
僕は喉がはち切れんばかりに助けを叫ぶ。するとーー。
「ぎぃ?」
「ぎゃっ!!」
「……え?」
呼びました?と言わんばかりに、草むらがガサガサと揺れ、新たに二匹のゴブリンが飛び出してきた。
一匹のゴブリンが合計で三匹に……って。
「いや君達は呼んでないっ!?」
思わず本気でツッコんでしまう。
普通なら助けを呼んだら味方が来るでしょっ!?
なんで増えてんだよ!この仕様バグってるってば!?
そう心の中でゲーム製作者に恨み言を言いながら、死に物狂いで走る。
「「「ギィィィッ!!!」」」
「ぎゃあああああっ!?」
三匹のゴブリンが一斉に追いかけてくる。
その小さい体からは想像もできないほどの素早さで、地面を蹴りながら距離を詰めてくる。
不格好な石のナイフを振り回し、黄色い目がぎらぎらと光っている。
駄目だ! 追い付かれる……!
息が上がる。足がもつれそうになる。
後ろから聞こえる獣のような息遣いが、どんどん近づいてくる。
「や、やばい……うわっ!?」
迫る足音と恐怖に足を取られ、とうとう盛大に転んでしまう。
受け身も取れずに叩きつけられ、カエルが潰れた時のような声が漏れた。
そんなモタモタとしている間にも、ゴブリンは僕へと迫って来ている。
「待って待って待って!タイム!ポーズ!誰かー!?」
ゲームなら「待って!」って言ったら普通止まるだろ!?何でこいつ全然止まらないの……!?
ポーズは? メニューは?なんで何も反応しないの!?僕はパニックになりながら、頭の中で必死にゲームコマンドを叫んでいた。
でも何も起こらない。痛みも、血の感触も、恐怖も、すべてが止まることなく容赦なく僕へ押し寄せてくる。
「や、やめ――!」
振り下ろされる石のナイフが、もう目前にまで迫っていた。
もう駄目だ……!
そう思った瞬間。ぎゅっと目を瞑り、頭を抱えて体を小さく縮こまらせる。
ゴブリンの凶刃が僕を切り裂く。そのときーー。
「ライトアロー!」
澄んだ女性の声が響き渡った。
それと同時に、僕の頭上を光る何かが高速で通り過ぎていった。
「「「ギャッ!?」」」
ゴブリン達の短い悲鳴。
続いて、ドサリと何かが地面に倒れる重い音……。
………。
……………?
「……あれ?」
いつまで経っても、痛みが来ない。
それどころか、先程までの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っていた。
恐る恐る……目を開ける。
さっきまで自分に飛びかかってきていたはずのゴブリン達が、少し離れた場所で動かなくなっていた…。
「た、助かった……?」
倒れているそのうちの一匹に目を向けると、胸には大きな穴が穿たれていて、そこから血がじわりと広がっている。
ぴくり、と手が痙攣する。口元がわずかに動き、かすかな音が漏れて……やがて、完全に動かなくなった。
「……っ」
さっきまで生きていたものが、急にただの動かないものになる。
作りもの筈なのに、とても作りものとは思えない“死”を目にして、背筋がぞわりと寒気が走る。
「うっぷ……」
咽返るほどの生臭い血の匂いに、胃の中からこみ上げてくる酸っぱいものを必死に飲み込む。
リアル志向にしたってやり過ぎだよ……。
「何を考えてるんですかっ!?」
「うわっ!?」
突然響いた鋭い声に、僕はビクリと肩を跳ねさせた。
恐る恐る声のした方へ振り向く。
そこに立っていたのは、白い法衣を纏った黒髪の少女だった。
肩で息を切らしていて、どうやら全力で走ってきたらしい。
その女の子の姿を見て僕は思わず見惚れてしまう…。
風に揺れる肩まで伸びた黒髪。
陽の光を受けて淡く光る白い法衣。
真っ直ぐにこちらを射抜く大きな瞳。
か、かわいい…。
場違いだとはわかっているけど、女の子を見て綺麗だと思ってしまった。
しかし、こんな色ぼけている僕を他所に、この場はいまだに剣呑な雰囲気のままだ。
少女の手に持った杖の先端は、まだこちらに向けられている。
状況から察して、さっきの光……多分、あれを放ったのはこの子だろう。
「ろくな装備もなしに村を出るなんて!自殺行為ですよっ!?」
少女は眉を吊り上げ、頰を少し赤らめながら僕を睨んでいる。。
本気で怒っているのは見て分かるんだけど、ぷんぷんと音が聞こえてきそうなその様子は、どこか幼くて可愛らしかった。
「あ、えっと……」
ゴブリンに突然襲われたと思ったら、今度は見知らぬ女の子に助けられて、それで助けてくれた女の子に怒られて……。
次から次へと変わっていく状況に、思考が完全に追いつかない。
取り合えず、僕は――。
「……そ、その、ごめんなさい……?」
そう、女の子へ間抜けに謝るのだった。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。金髪のグゥレイトゥ!です。
とりあえず、書き溜めてた分は投稿していきます。と言ってもあと2話分しかないのですが…。
ストックが切れたら一週間~二週間に1話をペースに目標で頑張っていきます。