ここは王都から遠く離れた、北の辺境にある小さな村――放浪の地 ノメノス。
その外れ、小高い丘の上に建つ質素な石造りの教会。
扉の隙間から入り込む冷たい風が、頬をかすめた。ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
この土地特有の鋭い寒さに、思わず肩をすくめる。
静まり返った礼拝堂の中央には、簡素な木製の祭壇。
その奥、色褪せたステンドグラスから差し込む朝の光が、床を淡い赤や青、黄色に染めていた。
古い木と、溶けた蝋燭の甘い匂いが、静かな空間に溶け込んでいる。
礼拝堂の奥、祭壇の上には、石で彫られた女神像がひっそりと佇んでいた。
祭壇やステンドグラス、木製のベンチはどれも年月を感じさせるのに、その像だけは今も丁寧に磨かれ清らかさを保られており、長い時を経てもなお、その優しく微笑む表情は変わずこの村を見守り続けていた。
私はその女神像の前で膝をつき、静かに目を閉じた。
「……慈悲深き女神ソフィリアよ。今日もこの村に平穏を。住まう人々に健やかな一日を……」
祈りの言葉が、静かな空間に小さく溶けていく。
胸の前で両手を重ね、ゆっくりと息を吐く。
ここに暮らすようになってから、毎朝欠かさず続けている日課だ。
「……そして、この平穏な日々が、ずっと続きますように」
そう願って、私はゆっくりと目を開けた。差し込む光が黒い長い髪を淡く照らす。
「ふぅ……」
祈りを終え小さく息を吐くと、ゆっくり立ち上がって軽く背筋を伸ばした。
すると、私がお祈りを終えるのを待っていたかのように、後ろから穏やかな声がかけられた。
「今日も励んでますね、ユイ」
「神父様!」
振り返ると、神父様……オルドさんがいつもの優しい笑みを浮かべて立っていた。
五年前、森の中で倒れていた私を拾い、名前以外ほとんど何も覚えていなかった私を、この教会に迎え入れてくれた恩人だ。
この村も、この教会も、私を温かく受け入れてくれた。
行く当てなどなかった私にとって、ここは今ではかけがえのない帰る場所になっている。
「はい。日課ですから!」
そう言って微笑むと、神父様は目を細めて満足そうに頷いた。
「ふふふ、毎朝欠かさず祈り捧げてくれるおかげでしょうか。この村はここ数年ずっと平穏だ」
「そ、そんな!?私は何もしてませんよ!?」
恐れ多くて私は手を振って慌てて否定する。
「それに、この村は王都からずっとず~っと離れてるんですから、厄介事とも無縁じゃないですか!」
北の果てにあるこのノメノスでは、王都のいざこざなんて無関係に等しいし、外から来る人といえば月に一度の商人くらいだ。
外の世界とはほとんど切り離されたような場所なのだから。私なんかの祈りのおかげだなんて本当に恐れ多いことだ。
神父様はそんな慌てて否定する私を見て、くすくすと笑った。
「はは、それでも何も起きないというのは、それだけでありがたいことですよ」
「それは……まぁ、そうですね」
なんだか、少しだけからかわれた気がした。
むぅ……なんとなく納得いかない。
少し釈然としないけれど、それはそれとして……。
「あの、私に何かご用でしょうか?」
先ほどから神父様の後ろでチラチラと見え隠れしているバスケットが気になっていた。すると、神父様は「ああ、そうだった」と小さく笑って、後ろに持っていたバスケットを前に差し出した。
「ユイや、お使いを頼まれてくれるかい」
「お使いですか?」
「ああ、そろそろ常備薬が切れる頃だろうから、村の家々に届けて来て欲しいんだよ」
そう言って、神父様はバスケットを私に手渡した。
中には風邪薬や湿布薬、胃薬などが丁寧に詰め込まれていて、薬の他に届け先が書かれたメモも入っていた。
この教会は、ただ祈りを捧げる場所だけではなくて、診療所の役割も兼ねていて、村で怪我人や病人が出れば魔法や薬で治療し、森で採れた薬草を煎じたお薬を配ったりもする。
教会の裏手には小さな宿舎もあり、そこでは孤児の面倒も見ている。本当にいろんなことを一手に引き受けている場所だ。
「酒場のグスタさんに農家のホルンさん、鍛冶屋のヴァンお爺ちゃんっと……」
ざっとメモに目を通す。
……これはまた、なかなかの数だ。どうやら、村中を一通り回ることになりそうだ。
目を丸くしている私の表情を見て察したのか、神父様は申し訳なさそうに笑った。
「すまないね、ユイ。今日は少し多めになってしまった」
「いえ、大丈夫です!行ってきますね」
バスケットをしっかり抱え直し、私は教会の扉に向かった。
「ああ、ユイ。ちょっと待ちなさい」
扉のドアノブに手が触れようとしたとき、神父様に呼び止められ、私は振り返る。
「はい?どうかしましたか?」
「最近、村の外でゴブリンの姿が目撃されてるそうです。あまり村外れには行かないようにするんですよ」
そう言えば、森の近くでゴブリンの足跡を見かけたって狩人のダンさんが言ってましたね……。
ゴブリン。小型のモンスターで、珍しくコミュニティを形成するタイプのモンスターだ。
単体なら大した脅威ではないけれど、群れになると厄介な存在になる。
縄張り意識が強く、普段は人里に近づくことはないはずなんだけど……。
「大丈夫です!村の外には行きませんし」
私はそう言って、むんっと胸の前で握りこぶしを作る。
「私、村で一番強いですから!」
Connect:3「予→感」
「トムさん、はい二日酔いの薬!飲み過ぎは本当に駄目ですよ!前にも言いましたよね!?」
「がははっ、すまねぇなユイちゃん。またやっちまったよ!」
トムさんは反省する様子もなく豪快に笑う。私はまたやるなと思いつつため息をつきながら次の家に向かった。
「ミナお婆ちゃん、はい湿布薬。ミナお婆ちゃんは腰が弱いんだから、あまり無茶しないでね?」
「ありがとうねえ、ユイちゃん。いつもすまないねぇ」
軽く世間話をしてからミナお婆ちゃんの家を出て、次は村の東側へ。
「ソシエさん。その後の旦那さんの体調はどうですか?」
「あら、ユイちゃん。ありがとう。おかげさまでだいぶ良くなったわ。ほら、これうちで採れた野菜。沢山あるから持っていって」
「わぁ!いつもありがとうございます!」
野菜を受け取り感謝を述べてから次の家へ。
そんな調子で私は村の中をてきぱきと回っていった。
次に訪れたのは家畜農家のホルンさんの家だった。
牛舎の前で干し草を運んでいたホルンさんが、私に気づいて笑顔で手を振ってくる。
「ユイちゃん、ありがとう!いつも助かるわ」
「いえいえ、お互い様ですよ。はい、湿布薬です!」
ホルンさんは薬を受け取ると、奥の作業小屋から小さな瓶を持ってきた。
「これ、お礼にうちのミルクよ。今朝しぼったばかりの新鮮なやつだから、ぜひ飲んでね」
「わあ!いいんですか?ありがとうございます!」
私は嬉しくて思わず笑顔がこぼれた。
ホルンさんのミルクは村でも評判で、濃厚でとても美味しい。
ふふっ……今日はこのミルクでシチューにしようかな♪
そんなことを鼻歌交じりに思いながら、私はお礼を言って次の家へと足を進めた。
北へ南へ東へ西へ、村の人達の笑顔に見守られながら村中を駆け回り、気づけば日が真上に昇っていた。
「ふぅ……だいぶ終わったかな?」
メモを見ながら一息つく。
お使いの大分済ませて、バスケットの中も随分と減り……減り…。
なんか、最初より荷物が増えてる気が……。
バスケットを持つ手に掛かる、ずっしりとした重み。
薬は減っているはずなのに、配れば配るほど、村の人達がお礼だと言って色々と持たせてくる。
バスケットの中を覗けば、いつの間にか野菜やら果物やら、包み紙にくるまれた何かやらが、どっさりと詰め込まれていた。
「……あれ?」
思わず首をかしげる。
これ、ちゃんと届けて来たはずなんだけど……。
なんだか、別の意味で荷物が増えている気がする。
この村は僻地なだけあって、金銭のやり取りより物々交換の方が多い。こういうこと自体は珍しくないんだけど……。
特に教会には、お布施として色々持ち込まれることも多いし。
……とはいえ、ちょっと多すぎる気もするけどね。
バスケットの中にある大量のお返しを見て、思わずくすりと笑う。
胸の奥が、ほんのりと温かくなるのを感じた。
村へと続く坂を下りかけたところで、ふと足を止めた。
ここからは村の全体がよく見える。
「よっと……いい時間だし、少し休憩しようかな」
道端に腰を下ろし、バスケットの中から真っ赤な果物を一つ取り出す。
煙突から上がる細い煙、畑で働く人々の姿、行き交う村人たちの笑顔。
どこもかしこも見慣れた景色が穏やかに広がっていた。
「……」
慈しむように村を眺めながら、果実をひとくちかじる。
「うん、美味しい」
口の中に広がる甘さに、自然と口元がほころんだ。
気がつけば、この村に来てもう五年になる。
あのとき、私は森の中で倒れていた。
記憶はほとんどなく、名前以外は何も思い出せなくて、行く当てもなかった。
寒くて、怖くて、ただぼんやりと途方に暮れていた私を、この村の人たちは温かく受け入れてくれた。
神父様は教会に連れて帰り、村の人たちは服をくれたり、食事を分け与えてくれたりした。
生活に余裕があるわけではないのに、誰も「面倒だ」とは言わず、誰も「出て行け」とは言わなかった。
「……本当に、優しい人たちだなぁ」
小さく呟いて、果実をもう一口かじる。
視線の先には、いつもと変わらない村の景色。
屋根の上で揺れる白い煙が、ゆっくりと空にほどけていく。
あの煙の一つ一つに、誰かの暮らしがあるのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
遠くで誰かが手を振ってくれているのが見えて、私も笑って手を振り返した。
当たり前みたいに続いている、この日常。
その中に自分がいることが、これ以上にない幸せだった。
ここが、私の居場所なんだと改めてそう思えた。
「……さてと、休憩終わり!残りはグスタさんとヴァンお爺ちゃんのところだったよね!」
果物を食べ終えると、私は立ち上がってお尻に付いた土をぱんぱんと払った。
重くなったバスケットも、果物を一つ食べたおかげで少しだけ軽くなった気がする……気がするだけだけどね!
「よし、頑張ろう!」
気合いを入れ直し、私は再び村の中を歩き始めた―――その時だ。
「……さてと、休憩終わり!残りはグスタさんとヴァンお爺ちゃんのところだったよね!」
果物を食べ終えると、私は立ち上がってお尻に付いた土をぱんぱんと払った。
重くなったバスケットも、果物を一つ食べたおかげで少しだけ軽くなった気がする……気がするだけだけどね!
「よし、頑張ろう!」
気合いを入れ直し、私は再び村の中を歩き始めた―――その時だ。
キィィィィィン………。
「っ!?」
耳鳴りに似た……けれど、それとは違う。
私の中で何かが共鳴するような……そんな不思議な響き。
突然襲ってきた奇妙な感覚に、思わず頭を押さえて足を止めた。
「……今の、なに?」
音はもう消えている。
けれど、さっきの感覚だけが、胸の奥に引っかかるように残っていた。
――知っている。
ふと、そんな確信が脳裏をよぎる…。
そう、“知っている”。
そんな筈はないのに、確かに“私はこれを知っている”と、何かが告げていた。
けれど、思い出そうとすると、するりと指の隙間から零れ落ちるみたいに、何も掴めない。
「……気のせい、かな」
小さく首を振って、私は再び歩き出そうとした。
けれど、数歩進んだところで足が止まる。
――違う。
胸の奥に残るこの感覚は、とても“気のせい”で片付けられるようなものじゃない。
「……」
無意識のうちに、森の方向へと視線が向く。
根拠はないのに、そこに何かがあると、そう確信に近い感覚があった。
「……行かなきゃ」
ぽつりと呟く。
行かなくちゃいけない。そんな気がする……。
理由なんて分からないのに、それだけはハッキリとしていた。
気づけば、その足は村の外へと向いていた。
最初はゆっくりと。けれど次第に早歩きになり、小走りになって……いつの間にか、私は駆け出していた。
風が頰を切り、バスケットが腕の中で大きく揺れる。
視界の先に、村の外れへと続く急な下り坂が見えてきた。
「よし……!」
迷うことなく地面を強く蹴る。
そのまま勢いを殺さず、ほとんど飛び降りるように坂へと踏み出した。
一歩踏み込むたびに体がふわりと浮き、傾斜に飛び込む様に一気に加速していく。
足元で小石が跳ね、土埃が舞い上がる中、私はバランスも構わず夢中で駆け降りていった。
「……ん?おお!ユイじゃないか!どうしたんだそんなに慌てて」
村の道を急いでいたら、ちょうど作業場から出てきたヴァンお爺ちゃんとばったり鉢合わせる。
丁度良かった。そう思った私は腕に掛けていたバスケットを手に持って―――。
「ごめんなさい!ヴァンお爺ちゃん!これ預かってて!」
「あん?何だって――うおっ!?重てぇ!?」
押しつけるようにバスケットをヴァンお爺ちゃんに預けると、慌てて受け止めたその瞬間、予想外の重みにぐらりと体が傾き、驚いたように声を上げた。
「ごめん! あとで取りに行くから!!」
私は振り返りもせずに謝り、そのまま全力で村の外へと駆け出した。
背後から聞こえるヴァンお爺ちゃんの「おーい!」という呼び声が遠ざかっていくのを感じながら、私は必死に足を動かし続けた。
畑で作業をしていたボブおじさんが、手を止めてこちらを振り返る。
井戸で水を汲んでいた新婚さんのトトさんが、桶を持ったまま目を丸くした。
軒先で楽しそうに談笑していたおば様たちも、驚いたように顔を上げる。
突然の全力疾走に、道を行き交う人々が次々と足を止めていく。
振り向く者、思わず身を引く者、呆気に取られて立ち尽くす者。
その間を、私は風のように駆け抜けた。
村の人たちの視線が突き刺さるけれど、それを私は気にせずにとにかく走り続けた。
「ハァ……ハァ……ッ!こっちの方角の筈なんだけど……!」
村を出て、森へと続く道を必死に駆ける。
あの時感じた奇妙な感覚――間違いなく、この先の筈だ。
視線を左右に走らせる。
けれど、広がるのは草原とまばらに生えた木々ばかりで、それらしいものは何も見当たらない。
胸騒ぎがする。焦りが足をさらに速めた。
――そのとき。
「ぎゃあああああっ!?」
はっきりと、少年の悲鳴が耳に飛び込んできた。
「っ!!」
弾かれたように顔を上げる。
声のした方へ、迷うことなく一気に方向を変えて駆け出した。
草を掻き分け、足を止めることなく突き進む。
やがて、視界の奥に人影が見えた。
……いた!
奇妙な服を着た男の子。
そして、その少年に今まさに襲い掛かろうとしているゴブリンたちの姿が見えた。
……間に合ってっ!!
私は走りながら杖を強く握りしめ、自身の内にあるマナを呼び起こす。
「――マナよ、光の矢となりて、かの敵を打ち貫け!」
詠唱を一気に唱える。
途端、私の周囲の空気が震え、純白の光が溢れ出す。
光の粒子が収束しながら形を成し、鋭く、刃のように研ぎ澄まされた三本の光の矢へと変わっていく。
「ライトアロー!」
三本の光の矢が、凄まじい速度で同時に放たれた。
シュゥゥゥゥンッ!!
光の矢は空を裂くような甲高い音と光の軌跡を残し、三匹のゴブリンに向かって一直線に飛んでいく。
「「「ギャッ!?」」」
三匹のゴブリンが同時に短い悲鳴を上げ、胸に光の矢を食らって吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられた瞬間、ドサリという重い音が響き、紫色の血が辺りに飛び散った。
「……あれ?」
縮こまっていた男の子が、おそるおそる顔を上げる。
怯えた様子のまま、ゆっくりと周囲を見回した。
「た、助かった……?」
少年は呆然とした様子で、倒れたゴブリンたちを見つめていた。
変わった服装……。
綿でも絹とも違う見たことのない生地で、日の光を反射して微かに輝いているように見えた。
……って、あれ?
よく見てみると、その少年は奇妙な服以外には何も持っていなかった。
武器も、防具も、荷物さえもない。
なっ、なななな……!?
驚いたことに、この男の子は村の外を何も装備せずに出歩いていたのだ。私はその自殺行為に等しい光景に、思わず声を荒げてしまった。
「何を考えてるんですかっ!?」
男の子はビクリと肩を震わせる。
「ろくな装備もなしに村を出るなんて!自殺行為ですよっ!?」
思わず強くなった私の声に、男の子はきょとんと目を瞬かせた。
状況が飲み込めていないのか、呆けたように私を見上げている。
と思えば、はっとしたように目を大きく見開き、今度は私の顔をまじまじと見つめてきた。
ぽーっとした顔で頬をわずかに赤くしたかと思えば、慌てたように視線をあちこちへ泳がせる。
その落ち着きのない様子から、混乱しているのが手に取るように分かった。
そして――。
「……そ、その、ごめんなさい……?」
そう言って、男の子はどこか間の抜けた調子で謝るのだった……。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。金髪のグゥレイトゥ!です。
次回でストックは最後です。もっと書き溜めたかったなぁ…。