東方逆天撃   作:阿鯛 斎京

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今日は何曜日だったか


第十八話 「憂鬱」

 

 

 

心をえぐる様な後悔の日々は過ぎ去った。

今はただ穏やかな時間が漂うに流れている。

シルクのように優しい肌触りの空気が満たされた部屋。

その奥の天蓋付きのベッドには安らかな寝息を立てるフランドールと、その前髪を優しくかき上げて、愛おしそうに妹の寝顔を見つめるレミリアの姿があった。

眠り姫の愛らしい寝顔を、飽きることなく眺め続ける姉の顔はとても幸せそうであった。

大広間での戦いが終わってから数時間が立ち、外の日は暮れかけて、薄暗い藍色の空が幻想郷を包み込もうとしていた。

あの後、傷の癒えぬままでレミリアの部屋に運ばれた二人は、治りの遅い身体をベッドの上に横たえて今まで、寄り添うようにして時間を過ごしていた。

健やかに眠る妹と、それを見守る姉。

ずっと彼女たちが待ち続けたものがそこにあった。

 

「失礼します」

 

二人きりだった部屋に来訪者が現れる。

その遠慮がちな声の主は咲夜であった。

部屋の扉をゆっくりと開き、中の様子を伺って部屋に足を踏み入れた彼女は、起きていたレミリアと目が合うと、一度軽く頷いて足音を立てることなくベッドへと近づいていった。

彼女は一度、眠っているフランドールの方を見て目を細めると、次にレミリアに視線を移して、遠慮がちな声調で彼女に語りかけた。

 

「お加減は如何ですか?」

「悪くないよ。 きっと明日には二人共、元通りになるわ」

 

その言葉に安堵して、それまで心配そうだった咲夜の表情に花が咲く。

しかし次の瞬間には苦笑を浮かべると思い出したように口を開いた。

 

「美鈴が怒っていましたよ」

「パチェが話したのか?」

「私も聞きました」

「はぁ、お喋りな子ね」

 

そう言ってレミリアはパチュリーの姿を思い浮かべる。

思い返せばきっと彼女が妹にも全てを伝えたに違いない。

友人に約束を破られて、しかしレミリアは結果的にはそれが良かったのだと納得する。

今はただ妹が無事である事が何よりも幸せだったからだ。

 

「お嬢様を想われての事ですから」

 

レミリアの言葉に困り顔を浮かべた咲夜が、頬に片手を当てながらパチュリーの事を擁護した。

その言葉を受けた彼女は、わかっているよ、と呟いて他に気になっていた事を口にした。

 

「あの二人はどうした?」

「はい。 あの後二人はパチュリー様と大図書館に赴かれて、つい先程屋敷を後にしました」

「そうか…」

 

レミリアは自分を殺そうとした男の姿を思い浮かべる。

彼は結局、自分に止めを刺さず、何も言わずに館を去ってしまったようだ。

一体彼は何者だったのか。

私の考えを見抜き、愚か者と言いながら己を殺しうる御技を持って止めを刺そうとした。

その様な事が出来る人間がこの幻想郷にいったい幾人いるのだろうか。

僅かながらでも興味をそそられた。

もし彼が未だに紅魔館に留まっていたらと考える。

何故私の考えが分かったのか。

どうして止めを刺さなかったのか。

妹の乱入があったとしても、あの時の彼は間違いなく私を殺そうとしていた。

それを止めた理由を聞きたかったのだ。

もう一度彼が紅魔館を訪れるようなことがあれば、その理由を聞きたいと思った。

もちろん、彼が嫌でなければだが。

短い間に逡巡して、私は咲夜に話しかけた。

 

「ねぇ咲夜」

「なんでしょうか?」

「私も少し眠るわ」

 

そう言って私は気持ちを切り替えた。

今はこれからの事を考えよう。

隣で眠りについている妹。

運命は変わったのだと確信する。

こんな日が来るとは思わなかった。

けれど今、それが目の前に現実として確かにある。

これからは今までの空白を埋めていこう。

まずはその手始めに。

 

「私たちが起きたら食事の用意をお願い」

「かしこまりました」

「同じ部屋で、一緒にね」

「もちろんです」

 

咲夜は一度お辞儀をして、顔を上げた。

その表情はとても嬉しそうだった。

そして部屋を後にする彼女の背中を見送って、私は隣の妹に視線を落とした。

安らかな寝顔。

妹の胸には紅い宝石が煌めいていた。

その柔らかそうな頬に触れると妹は、お姉さまと寝言で私の事を呟いてくれた。

隣に妹がいることがこんなにも嬉しい。

これは夢ではないだろうか。

一瞬そんな考えが思い浮かぶ。

しかしそれが現実だと認識した私はゆっくりと目を閉じて、この幸せを噛み締めるように、彼女の隣で眠りにつくことにした。

目が覚めたら一緒に食事をしよう。

そしてたくさんの事を語り合おう。

そして―――――――。

様々な考えを思いめぐらせるうち、私もまた眠りに就いたのだった。

 

 

 

 

 

 

昼と夜の境界が溶けていく時間、逢魔が時を迎えた森の中を二人の男女が進んでいた。

森のざわつき、どこか遠く木々の隙間から届く鳥の鳴き声、踏みしめる足から発せられる大地の音。

まるで世界に自分たちだけのような気がして、それまで無言だった正邪が隣を歩くアルベルトに話しかけた。

 

「もう半時もすれば里にたどり着く」

 

幻想郷の地理に詳しくないアルベルトを先導して、聞かれてもいない事を口にした正邪の心境はどの様なものであったか。

紅魔館を出たあと、今までずっと無言のままのアルベルトの顔を覗き込むようにして、彼女は返事を待ったが、しかし彼が口を開くことがなかったため、正邪は構わず話を続けた。

 

「それにしても、よくすんなり出られたな」

 

レミリアを殺そうとした二人はあの戦いの後、なんの報復を受けることもなく紅魔館から立ち去ることができた。

主を殺されそうになった紅魔館の住人の対応は実にあっさりしたものだった。

戦いの後、しばらく客間で待たされた二人は、パチュリーに連れられ大図書館に向かった。

 

「聖白蓮を連れて来い、か」

 

思案に耽り、独りごちる正邪が先程までの図書館の出来事を思い返していた。

 

 

 

パチュリーに連れられ、図書館の奥へと通された二人は真っ先に自分たちの要求をパチュリーに伝えた。

正邪の力を取り戻す。

その要求を聞いた彼女は頷くと、一度真っ直ぐに正邪の姿を凝視したあとで、立っている正邪に近づき、顎に手を当てながら彼女のつま先から天辺までをよくよく観察した。

どうにも居心地の悪さを隠せない正邪だったが、力を取り戻す為だとじっと我慢していると、パチュリーが差し出した手が自身の髪の毛に触れたため耐えられず、体を引き攣るように動かしてしまう。

それを気にした様子もなく彼女の手は正邪の身体を満遍なく触れていった。

その様子を用意された椅子に座って、小悪魔が用意した紅茶を飲みながらアルベルトが眺めていた。

彼の後ろでは小悪魔が、手に持ったトレイで口元を隠しながら、その背中に熱い視線を送っていた。

いつまでこの触診が続くのかと、いいかげん抗議の声を上げようとした正邪であったが、丁度その頃合でパチュリーの手が引っ込められた。

それまで正邪の太ももに触れていたため、かがみこんでいた彼女であったが、ゆっくりと立ち上がって正邪の目を見て口を開いた。

 

「魔法の類ではないわね。 あと、あなたの力は決して失われたわけではないわ」

「どういうことだよ?」

 

パチュリーの言葉を受けて、訝しげに正邪が疑問を口にする。

 

「貴方の力が外部に漏れ出しているの。 いえ、奪われていると言ったほうがいいかもしれないわね。 これはとても巧妙に組まれているけれど、 その奪われていく力を本人に察知されないように術を組んでいる。 あなたが力を失ったと錯覚したのは、その力を奪われ続けているからであって、決して力そのものが無くなったわけじゃない」

「誰かが私の力を奪っているって言うのか?」

「その可能性が大きいわね。 私も触れてみて気づいたくらいだから、相当の使い手でしょう」

 

心当たりがあるんじゃないかしら、とパチュリーに聞かれて正邪が顔をしかめた。

 

「どうやら心があたりはあるようね」

「その術をあんたは解除できるのか?」

 

その言葉にパチュリーが首を振る。

人差し指を正邪の胸に押し当てて、彼女は眉をひそめて口を開いた。

 

「この術式はあなたの心に根付いて、その力を奪っている。 それを無理やり解除するようなことをすれば、あなたの心が間違いなく死んでしまう。 一番いい方法は、この術式を仕込んだ術者自らが解くか、その術者が力を失うように、つまり再起不能にすることね」

「それは……」

 

そう言って正邪は悔しそうに唇を噛んだ。

自身に術を施したのはほぼ間違いなく、八雲紫だろう。

もしそうなら、自分の死の偽装は全くもって意味がなかったことになる。

さらに、なんの為に自分から力を奪い続けているのかは考えも及ばないが、彼女を打倒しなければ力を取り戻せないというのであれば、目的があべこべになってしまう。

彼女に復讐するために力を取り戻そうというのに、彼女を倒さなければ力は取り戻せない。

その理不尽な選択肢にジレンマを感じた正邪は、他に方法はないのかとパチュリーに尋ねた。

 

「根本的な解決策ではないけれど、あなた次第で能力自体は使えるようになれるかもしれないわ」

「どういう意味だ?」

「この術式はね、常にあなたから一定量の力を奪っているの。 きっと奪う力が過度になりすぎないようにしたのね。 奪いすぎて、あなたを殺さないようにするために」

 

よっぽど恨まれていたのね、と付け加えてパチュリーが話を続けた。

 

「それはつまり、奪われていく力以上に、あなたの妖力の容量を増やせばいいということ。 簡単に言えば強くなりなさいって事ね。 まぁ、その方法はあなた自身がよく分かっているだろうけど」

 

肩を竦めるパチュリーを見て、正邪が頭を抱える。

強くなれ。

それは妖怪である彼女にとって、非常に難しい事であった。

人間と違って妖怪というものは修行をすれば強くなれるというわけではない。

一般に妖怪というものは、この世に生まれた時から、その格、その能力が決まっている。

強い妖怪というものは一切の努力もなく強者として生まれ、その逆もまたしかりで、弱い妖怪もまた弱者として生まれてくる。

その不条理に憤りを感じている張本人である正邪自身が、妖怪が強くなることの難しさをよく知っていた。

妖怪が強くなるためには、その生まれ持っての才能の限界値を超える必要がある。

では、その限界値を超えるために必要な方法とは何か。

それは昔、レミリアが美鈴に語ったように心の強さにある。

妖怪の強さとは心の強さ。

それがそのまま己の強さとして反映される。

この時、正邪にはその心を強くするという事の本当の意味が掴めていなかった。

なぜなら、彼女はこれまで幻想郷を転覆させるという未曾有の異変を実行に移し、また幾多の危機を乗り越え、生き抜いてきた中で、自身には既に頑強な精神が宿っていると思い込んでいたからだ。

ぬるま湯のルールに縛られた幻想郷の妖怪よりは強い心を持っていると自負していたのだ。

それは決して間違いではない。

どんな状況にも諦めず、またその強い復讐心は、天邪鬼である彼女に相応の実力を育んだ。

それでも、彼女はけっして八雲紫や他の強いとされる妖怪の足元にも及んでいなかった。彼女は未だ、彼女が思い描く弱者であったのだ。

 

「どうやってこれ以上、強くなれって言うんだよ」

 

自分の強さの限界など、すでに気づいてしまっていた正邪がひとりごちる。

 

「まぁ別に、あなた自身で強くなるだけが方法でもないのだけれどね」

 

思わせぶりなパチュリーの発言に、それまで悔しそうにしていた正邪がはっとして、彼女に語りかけた。

 

「何かいい方法があるのか?」

「まぁ、ないことはないんだけど…」

 

そう言うとパチュリーはアルベルトへと視線を移した。

二人のやり取りを眺めていたはずの彼であったが、途中で飽きたのだろうか、その手にはいつの間にか本が用意されていて、視線はその本の開いたページに向けられていた。

 

「何を勝手に読んでいるの?」

「本を用意したのはこの女だが?」

 

そう言って、後ろに控える小悪魔を顎で指し示すアルベルト。

全く、あなたは誰の使い魔なのよ、と呆れてパチュリーが言えば、その使い魔本人が頭を掻いて照れ笑いを浮かべる。

 

「いやぁ、パチュリー様と正邪さんが触りっこして楽しそうだったんで。 感化された私も彼に抱きつこうとしたんですが、袖にされちゃいまして。 お詫びのしるしに本を進呈したわけです」

 

よく見れば、小悪魔の額が赤く腫れていた。

説明に力が入り気づかなかったとは言え、大事な本を勝手に進呈されてはかなわない。

パチュリーは頭痛を堪えるように、額に手を当てたあとで、アルベルトに話しかける。

 

「私の使い魔が迷惑かけるわね」

「殺す価値もないようだ」

「えぇ、その意見には私も同意するわ」

「ちょっとパチュリー様!」

 

酷くないですかと、言って小悪魔が涙を拭うようにその場に崩れ落ちる。

その姿を見てパチュリーが溜息を吐いた。

 

「気にしてもいないくせに。 まぁ、それより、その本だけど…」

「邪魔になるだけだ」

 

そう言ってアルベルトは本をたたむと、テーブルの上に本を置いた。

 

「そう、それならいいの。 話を戻すわ。 あなたには、私の要望を聞いてもらう」

「等価交換か?」

「察しがいいわね。 そうよ。 そしてそれは彼女の問題を解決する為の一助になるかもしれない」

 

パチュリーは視線を正邪に向けて話を続けた。

 

「私の要望は、聖白蓮。 彼女を説得して、その魔人経巻の研究に協力してもらうことよ」

 

彼女を紅魔館に連れてきて欲しいと付け加えて、パチュリーの話が終わった。

それを聞いた正邪が、ひどく訝しんで彼女に疑問を口にする。

 

「なんでそれが私の問題の解決になるんだ?」

「それは調べてみないと分からないわ」

「言っている事が随分と不明瞭だな」

「言ったでしょ、一助になるかもしれないって、予想と証明は違うのよ。 証明がなされていないのに、予想を言って期待させるのも悪いでしょう? 前から研究をしたかったというのもあるし、結局、あなたの問題はそのついでに過ぎないの。 どちらにしろ、今はどうしたってあなたの力を取り戻すことはできないのだから、等価交換というなら、むしろこれだけの要求しかしない事に感謝して欲しいくらいね」

 

パチュリーの言葉にますます眉間の皺を深くさせて、正邪が伺うように話しかけた。

 

「嘘じゃないだろうな?」

「嘘だとしても、メリットがないでしょ?」

「メリットならあるだろ。 嘘ならその要求を受け入れなければいい」

 

聖を説得して紅魔館に連れてくる。

その要求を飲むことが、自分たちの利益にもつながると仄めかせることで、自分たちに拒否という選択肢を選ばせないようにする事ができる。

そういった考えが出来るのも正邪自身が、よくそうやって他人を利用する機会が多かったからだ。

しかし、そんな彼女の言葉をパチュリーは簡単に切り捨てた。

 

「あなたは、等価交換の意味を理解してないようね」

 

目つきの鋭さを増したパチュリーの視線が正邪に突き刺さる。

 

「私はあなたの要求に頷いて、その原因と解決策を提示し終えているわ。 魔法使いが等価交換の原則に則った以上、そこには決して嘘はない。 そしてその契約が成り立った以上、あなたは私の要求を断ることができないわ。 もしそれでも断るというのであれば……」

「やめておけ」

 

凄みを増すパチュリーの言葉に、横槍を入れたのはアルベルトであった。

 

「要求は受け入れる。 その聖白蓮を連れてくればいいのだろう?」

「えぇ、ちゃんと説得して連れてきてもらえればいいわ」

「いいだろう」

 

そう言って椅子から立ち上がると、アルベルトはパチュリーに近寄って、彼女に向けて話しかける。

 

「結ばれた契約は絶対だ」

「分かっているじゃない」

 

その低い声と、まるで獲物を逃さぬ猛禽類のような眼差しがパチュリーの姿を捉える。

 

「わしらの要求が何だったか、よくよく思い出すことだな」

 

言い終えたアルベルトが未だ不満そうにしている正邪に、いくぞ、と話しかけ図書館を後にする。

その案内を小悪魔に押し付け、パチュリーは気が付けば自分の喉が渇いていることに気が付いた。

彼が最後に言った言葉。

それは今更ながら気づいた、自分の言動の浅はかさを思い知らせるものであった。

わしらの要求が何だったか、よくよく思い出すことだな。

彼らの要求。

それは、正邪の力を取り戻す事。

つまり、それが出来なければ契約の履行は完遂されていないことになる。

しまったとパチュリーは思った。

なぜなら彼女自身が先ほど、要求の完遂を契約の条項として提示したのだ。

原因と解決策を提示したから、代わりに聖白蓮を説得して連れてこい。

これではまだ彼女の力を取り戻すという要求が済んでいないことになる。

彼らが聖白蓮を説得し紅魔館に連れてきた時こそ、こちらの要求が完遂され、今度はこちらが正邪の力を取り戻さなければいけない事になるのだ。

そこに嘘があってはならない。

あの男はそれをよく聞いていた。

自分たちのやり取りが、実はまだ何の解決にもなっていなかったことを、本を読みながら、しかしその真実を見逃すことなく、彼はパチュリーに気づかせるために忠告したのだ。

 

「やられたわね」

 

正邪の身体を調べ、その術式が高度なものであり、無理矢理に解けないことはないにしろ、しかしそれは死の危険を孕んだものである為、それを軽々しく行うことはできない。

ならば、どうするか。

先ほど彼女に話したことは決して嘘ではない。

魔人経巻の研究がもしかしたら彼女の助けになるということは予想された。

しかし確実ではないのだ。

もし、上手くいかなければと考えて、自身の心音が早くなるのをパチュリーは感じた。

 

「はぁ、憂鬱」

 

ため息混じりに天井を見上げるパチュリー。

安易に引き受けた自分の失態によるところも大きかったが、これでは暫く、友人の幸せに喜んでいる暇はなくなるだろう。

正邪の力を取り戻す方法を調べなければいけない。

出口の見えないその方法に頭を悩ます彼女の耳に、その緊張感とは不釣合いな使い魔の能天気な声が聞こえた。

 

「見送りして来ましたよ! いやぁ、また彼に会えるかもしれないと思うと、まだチャンスが、あぁ、いえ、嬉しいなぁって。 うふふ、パチュリー様も実は狙ってたりしないんですか? あんないい男性は他にいませんからねぇ」

 

そうだった小悪魔が惚れるくらいに切れる頭を持っていたのだ。

自身の油断にさらに自己嫌悪に陥るパチュリー。

そして沸々と心の底の部分に溜まっていく怒りの感情。

とりあえず、今はこの鬱憤を晴らしてからにしよう。

今日は何曜日だったか。

しばし思案して彼女は、目の前で自分を煽ってくる目障りな存在に向かってその手を掲げたのだった。

 

 

 

先程までの事を思い返して正邪が溜息を吐いた。

自分の力が戻るのか不安だったからだ。

最悪、強くなれとパチュリーは言った。

それが無理だと思う事もまた、彼女の頭を悩ます新たな原因となっていた。

 

「待て」

 

それまで無言だったアルベルトが、ふいに前を歩く正邪に話しかけた。

 

「はん? どうかしたのか?」

 

思案に耽っていた正邪が急に話しかけられたことで、間の抜けた声を上げてしまう。

そんな彼女の声を無視して、アルベルトは立ち止まると、距離にして数歩ほど前の彼女の肩を掴むと、自分の後ろに素早く引き寄せた。

その行動に、何者かの気配を彼が感じ取った事を聞くまでもなく理解した彼女は、彼の目線を追ってその先の森の奥に自身の視線を向けた。

 

「いやぁ、気づかれたか」

 

ゆっくりと、暗い森の先から現れたのは正邪もよく知る妖怪であった。

 

「どうだい、調子は?」

 

まるで友人のように、にこやかに笑みを浮かべて、ふらりふらりとこちらに近寄ってくる妖怪の正体。

 

「伊吹萃香…」

 

それは幻想郷に存在する鬼の中でも別格の存在。

正邪が口にしたのは古豪の鬼、密と疎を操る程度の能力を持つ強者、伊吹萃香の名だった。

 

「こんなところに二人きりで、これじゃぁ攫ってくれと言ってるようなものじゃないか」

 

可笑しそうに笑ってから、萃香はその手に持つ伊吹瓢の口に自身の口をつけると、喉を鳴らして中の酒を美味そうに飲んだ。

酒を飲むという行為に満足したのか、伊吹瓢から口を離すと一度大きく息を吐いて、再び彼女は話を続けた。

 

「どうした? 逃げないのかい?」

「なんでお前がこんなところに?」

「あぁ、それは…」

 

正邪の問いかけに萃香が返事をした瞬間だった。

 

「まぁ、間違っちゃいないけどっ!」

 

そう言ってアルベルトが放った衝撃波を片手で受け止める萃香。

その顔は嬉しそうだったが、しかし同時に物足りなそうでもあった。

萃香は片手で受け止めた衝撃波をいとも容易く握りつぶすと、二人に忠告するように口を開いた。

 

「あんたらはね……」

 

その右手を大きく天に掲げて、萃香がさらに言葉を続ける。

 

「逃げるべきだったんだよ!!」

 

掲げた手に、みるみる内に見上げるほどの大岩が萃まる。

 

「ちっ、掴まれ!」

 

軽く舌打ちをして、直ぐ様アルベルトが正邪の身体を抱え上げた。

 

萃符「戸隠山投げ」

 

猛然と襲い来る巨岩。

まともに受ければ一瞬でミンチになりそうなそれを、アルベルトは目を見開き真っ向から対峙する。

正邪を抱えたままで、彼はその一瞬を狙いすます。

両手は彼女を抱えているため使えない。

それならばと、彼はその両足に衝撃波を生み出して、勢いよく巨岩が飛んでくる方向と同じ向きに後ろへと跳躍した。

しかしそれでも襲いかかる岩の速度の方が早い事に気がついて、正邪がきつく目を閉じた。

だがいつまで立っても、次に訪れるはずの衝撃を感じない。

圧迫感を感じたものの恐る恐る目を開いてみれば、自分たちは、投じられた巨岩の上に乗っている事がわかった。

感じていた圧迫感は、突き進む空気の残滓。

切り裂く風の音を聞きながら、正邪は抱えられたままでアルベルトに話しかけた。

 

「逃げられたのか?」

「不本意だがな」

 

遠ざかっていく眼下の森。

どうやら巨岩は、その角度からして微妙に上方向に投げられたようだ。

すでに視線の先に萃香の姿はなく、どうやら追ってくる気配もない。

何故、彼女が自分たちの前に現れたのか。

それは聞けずじまいだったが、しかし嫌な予感がした。

八雲紫はたぶんだが、自分が生きていることを知っている。

伊吹萃香は彼女と懇意と聞く。

もしかしたら、彼女は自分への刺客だったのかもしれない。

正邪は自分でも気づかずに掴んでいたアルベルトの服を強く握りこむ。

彼女はこれからの事を思って、もう一度、目をきつく閉じたのだった。

 

 

 

「よく飛んでったねぇ」

 

飛んでいく岩を、萃香は酒を飲みながら楽しそうに眺めていた。

 

「残念、逃がしちゃった」

 

さして残念そうでもなく、萃香は酒で濡れた口を腕で拭って呟いた。

 

「本当に残念だ。 なぁ、あんたもそう思うでしょ?」

 

既に見えなくなっていた巨岩に、しかし視線をそのまま空に向けたままで、萃香は何者かに話しかけた。

しかし、それに対して答えが返ってくる事もなく、彼女は話を続ける。

 

「あらら、行っちゃった。 相変わらずお堅いことだね。 まぁ、私もあんたの主の考えはわからないけどさ、きっと何かしらの考えがあるから動いているんだろうね。 けど私も好きにやらせてもらうよ。 だって惜しいじゃないか。 今、あの男は万全じゃない。 私は万全の状態のあの男と戦いたかったんだ。 それを横取りしようっていうのかい? そんな事はさせないよ」

 

それは自分自身に対しての言葉であった。

本人は気づかれないようにしているつもりだろうが、いや、それがあの男の自然体なのかもしれないが、吸血鬼との戦いで相当参っているはずだ。

真正面から、あの女の攻撃を受けて、その体はそれを受け止めてみせた。

そしてあの技。

この目で見たあの技は、今まで見てきたどんな人間の技よりも極悪であった。

それは技の威力だけではない。

その殺意。

その心の在り方。

どれをとっても規格外だった。

 

「たぎるねぇ」

 

そう言った萃香の視線は空の向こうを見つめていた。

あの男は私の獲物だ。

けっして誰にも渡さない。

空に三日月を移すように、伊吹萃香の口もまたつり上がって月を象っていたのだった。

 

 

 

 

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