「遅くなってしまいました」
人里の門を振り返った東風谷早苗が独りごちる。
夜も大分深くなり、月は真上に登っていた。
帰るのが随分と遅くなってしまった。
そう思って、自身の帰るべき家で待っているだろう二人の神様の顔を思い浮かべた。
きっと心配しているだろう。
はやく帰らないと。
「それにしても……」
そう呟いて、彼女は先ほどまでの出来事を今暫く、振り返ったのだった。
彼女が遅くなった理由。
人里に来る途中、氷精に絡まれた為に昼過ぎからとなってしまった布教活動の折、さっぱり布教が上手くいかなかったところで、夕暮れすぎにやっと捕まった里の若い男性陣と会った事で始まる。
自身が心から信仰する二つ柱の神の素晴らしさを語り、その信仰を集める活動。
最初体良く早苗の話を聞いていた男性達は、話も長くなるし立ち話もなんだろうと彼女を座ることの出来る飲食店の中へと誘った。
普段なら笑顔でお断りの返事を返すところだが、昼過ぎから始めて長いあいだ、やっと話を聞いてくれる人たちを見つけた事もあって、余り深く考えずにその誘いを受けた。
最近は他の派閥がものをいわせ始めている。
その事実もまた彼女が誘いを断ることを憚らせたのであった。
食事と共に出された酒をはっきりと断って、彼女は男たちに囲まれ守谷の素晴らしさを説き続けた。
しかし男たちは早苗の話に相槌を打ちながらも、その視線は早苗の胸元や首筋に注がれていた。
やれやれ。
そんな男たちの厭らしい視線に気づき、そう呆れながらも、こんなことには最早慣れっこで、それは自分の美しさが招く自業自得であると自身を納得させ、根気よく布教を続けた。
そして男たちに酒が入り、気分が高揚し始めた頃。
それまで唯々相槌を打って笑っているだけだった男の口から、質問や悩みが滴る水のようにぽつりぽつりと出始める。
それを彼女は誠心誠意受け止め、神の名の元に言葉を返していった。
そんなやり取りが長く続いて、酒も肴もなくなった頃、男たちはなにかを納得した表情で深く頷き、感謝の気持ちを告げたのだった。
「気持ちが大事ですから」
信仰を集めるのにこちらが人を選ぶことはしない。
そんな事をしていては本当の意味での信仰は得られない。
最初は軽い気持ちで話しかけてきただろう彼らに。
それでもよくよく話しを言い聞かせ、また彼らの心の内を聞くことで、それは少なからず信仰に繋がった。
「いやぁ、ありがとな。おかげですっきりしたよ」
「いえいえ、また気軽に声を掛けてくださいね」
悩みを抱えていた若い男の一人が笑顔を浮かべてお礼の言葉を告げる。
それに早苗は微笑みを浮かべて返した。
そこには確かな信仰心を感じられた。
手を振って彼らを見送った後、彼女は今日の経験に感謝を捧げる。
良い行いが出来たことに感謝します。
心で呟いて、彼女は人里の門へと今日の思いを噛み締めるように向かったのだった。
「それにしても……」
ふと思い浮かべたのは先ほどの若い男が語った悩み。
それはありきたりに言えば、彼女が出来ないというものだった。
「まぁ、まずは誰が見ても厭らしいと分かる視線を向けている間は難しいでしょうけど」
苦笑を浮かべる。
もちろん、若い男の、実に健全な悩みは理解できた。
それでも露骨な視線を恥ずかしげもなく向けるようでは難しいだろうと思う。
女は男の視線に敏感だ。
せめて紳士的に振舞いましょう。
難しいのはわかる、それでも努力する姿勢を貫けば、そこに実を結ぶものもあるだろう。
「そんな紳士はなかなかいませんけどねぇ…」
ため息をついて早苗は自分の事を想った。
彼女自身、現人神とはいえ、花も恥じらう乙女である。
恋に恋する時期は過ぎ去ったが、素敵な殿方に巡り会いたいという気持ちが全くないわけではないのだ。
しかし、若い男たちから向けられるものといえば、先程のような下心が見え見えの露骨な視線ばかり。
もちろん真面目で誠実な人もいる、しかしそういう人に限って相手は既にいるもので。
やはり言い寄ってくるのは若くお盛んなお年頃の男の人ばかり。
「我ながらちょっと悲しくなってきました」
というか、私はナイスミドルな男性が好きなんです。
よく学生の頃に体つきの事を同級生の男子にからかわれた事もあって、若い子より大人の男性というものに私の趣向は傾いていました。
私の考える理想の男性。
こう、スーツをビシッと着こなして、自信に満ち溢れた雰囲気を醸し出してですね。
その雰囲気だけで分かっちゃうんです。
彼、強い人なんだって。
そして髭が大事です。
無精髭とかじゃなく、きっちりと整えられたそれはもはやステータスですね。
声も大切かな。
渋い声で口数少なく「うむ」とかだけ言って、顎髭に触れて……えへへ。
それで決して厭らしい視線とかじゃなくて、鋭い瞳で私を見つめてくるんですよ。
あ、これは希望ですが片眼鏡とか着けてると完璧ですね。
背が高くて、渋い歴戦のナイスミドルの大人の男性。
想像しただけで、たまりませんね!
でも、
「そんな人いるか――――!!!」
両手を上げて、私は夜空に叫んだ。
なんだか笑いがこみ上げてくる。
せっかく良い布教活動が出来たあとで、こんな欲に塗れた事を考えている自分がいる。
まだまだ、修行不足ですね。
それにしても本当に遅くなりました。
はやく帰るとしましょう。
そう思って、私は空へと舞い上がりました。
「―――――――!?」
そしてその時、気が付いたのです。
この異常な妖力の爆発に。
「どこから…」
里の近くの森の奥。
確かにそこからこの異常なほどに大きい妖力を感じる。
「急がないと!」
もしこのまま放っておいたら人里に被害が出るかもしれない。
そうでなくても、これほどの妖力。
何かの異変だとしたら。
こうしてはいられない。
そして私はその力の源に全力で向かいました。
「くそっ」
走りながら悪態をつく正邪。
なんて重い体だ。
力を失う前には感じられなかった疲労感が彼女を襲う。
全速力で駆けてきたが、それでも森の中を思うようには進めず、苛立ちがこみ上げてくる。
自身の背中からは木々の吹き飛ぶような音や、岩が砕けるような爆音が襲いかかってくる。
アルベルトがルーミアと戦っているのだろう。
「せめてもう少し時間稼ぎをしてくれよ」
ルーミアは飛べるのだ。
アルベルトがすぐに殺られれば、飛ぶことのできない自分はすぐに追いつかれるだろう。
そう思って彼女は振り返らずに、出来るだけ遠くに足を運ぼうとしていた。
そして、その時。
「待ちなさい!」
頭上からの声に反応して立ち止まり、正邪がそちらに視線を向けると、そこにいたのは見覚えのある人物だった。
東風谷早苗。
妖怪の山に居を構える二柱の神の巫女である現人神。
それが目の前に降り立つと、その手に持つお払い棒を彼女に向けて言った。
「待ちなさい!どうしてこんな遅くに……」
言葉の途中である事に気がついたのか、早苗は言葉を切って目を丸くした。
「あなた、もしかして」
「ちっ」
紡ぎ出された言葉が言い終わる前に正邪は舌打ちをして、咄嗟に屈みこむと、森の土を握りこんで早苗へと放り投げた。
「なっ!」
咄嗟のことに反応が遅れる早苗。
その隙に正邪は森の茂みへと逃げ込もうとする。
「逃がしません」
すぐに伸びた早苗の手がその逃げる足を掴んだ。
足を取られ、森の茂みの上に倒れこむ正邪。
「――――――放せっ!」
「放しません」
馬乗りになり、正邪の両手を塞ぎながら、早苗はよくよく相手の顔を確認した。
「やっぱり、その顔。あなた鬼人正邪ですね」
「違う!」
「ならどうして逃げたりしたんですか?」
「それはいきなりお前が現れるから…」
「だからといって、咄嗟に目くらましに砂をぶつけて逃げられる者は多くありませんよ?」
「放せ!」
暴れる正邪を組み敷いて、早苗は質問を続けるが彼女からの返答はない。
代わりに浴びせられる罵詈雑言を早苗は意に返さず、観察を続ける。
「運がよかった。まさかこんなところでお尋ね者に会えるなんて」
「でも、あなたからあの妖力を感じません。はずれだったのでしょうか? というより、あなたから妖力を感じない?」
訝しげに語った早苗に対して、それを耳にした正邪が激怒し、より一層力を込めて暴れた。
「くっ、大人しくして」
一瞬、拘束を解かれた正邪の右手が早苗の髪に触れて、そのカエルの髪飾りを剥ぎ取る。
霊力を込め、生み出した風で再び彼女の身動きを封じた。
「畜生っ! 放せ、私は正邪じゃない!」
「はぁ、それにしても…」
生み出された風に拘束された正邪から体を離し、今一度その顔を注視する。
「間違いないとは思いますが。あなた、角はどうしたんですか?」
「……」
「まぁ、今はいいです」
無言でこちらを睨む正邪に、ため息を吐いて、早苗は風による拘束を強めた。
「ぐぅ…」
「万が一、あなたが正邪で無かった場合を考えましょう」
「だから私は…」
「色々と確信が持てない以上、まさかここで始末するわけにもいきません」
よってあなたを神社にお連れします。
そう言って、早苗はお払い棒を振るった。
正邪を拘束している風が、彼女を包み込んだままで、その体を宙に浮かせる。
「違う…私は正邪じゃない」
彼女の弱々しい声に、もしかしたら本当に違うのかもしれないという思いが脳裏をよぎる。
しかしそれが本当かは連れて帰れば分かることだろう。
さきほど感じた巨大な妖力も気になるが、それも霊夢さんや慧音さんが気づくはずだ。
それなら運良く捕まえた、この目の前の正邪かもしれない者を先にどうするかを考えよう。
あれほど逃げに逃げた妖怪なのだ。
彼女が本物で、取り逃がすようなことがあってはいけない。
後ろ髪は惹かれるが、優先順位はこちらが先。
そう思った早苗は正邪を連れて飛び立った。
きっと首を長くして待っている二人の神の元へ。
丁度その頃、アルベルトとルーミアの戦いが終わりを告げたのだった。